第8話 歪められた聖夜

 クリスマスの、午後。昼食を終えた優と春野の姿は大阪港にあった。ここからは優が春野を楽しませる番だ。


「もう大丈夫そうか、春野?」

「うん、お昼ご飯も食べたし、いける!」


 今日も今日とて曇天の下。多少は血色が良くなったように見える春野の笑顔に頷きを返して、先導を開始する優。そうして目の前で揺れる彼のカーキ色のモッズコートを眺めながら、春野は小さくため息を吐いた。その理由は、自らの醜態を優にさらしてしまったからだった。


 結局、リアル脱出ゲームは成功に終わった。天が認める天才であるところの春野。制限時間1時間のところを、30分という驚異のスピードで最後の部屋にたどり着いてみせた。


 しかし、これではまずいと焦ったのが運営側だ。これでは参加費4000円相当の楽しみを与えることが出来ていない。そんなサービス精神のもと、春野が謎を解いた瞬間に血まみれサンタを投入した。


 苦手なスプラッターを連想させる血まみれサンタへの断続的な恐怖に耐え続け。それでも、どうにかクリアして、もう大丈夫だと春野が油断したその瞬間に、サンタは現れた。結果は、言うまでもない。


 ――神代くんに抱き着いて腰抜かすとか、恥ずかしすぎる……!


 恐怖のあまりとってしまった行動と、その後、優に肩を貸してもらって昼食のお店まで移動する間の密着ぶりを思い出して、赤面する春野。ワイワイと感想を言い合えるように選んだファミレスで昼食を食べている間、ずっと腰が抜けている姿を、想い人にさらしてしまったのだった。


 ――でも、ちょっとだけ、嬉しかったな……。


 崩れ落ちた自分を本気で心配し、介抱してくれた優。無表情を装いつつ、やや赤面した顔で肩を貸してくれた彼の姿に、春野はそっと頬を染める。手をつなぐよりも先に、身体を密着させるという一足飛びの距離の詰め方が出来たことを、春野は嬉しく思う。


 それゆえに、今。前方で揺れる優のコートがもどかしい。自分を支えてくれた優の、ポケットに入っているたくましい手が愛おしい。


『手、繋ぎませんか?』


 そう臆面もなく言えたなら自分は陰キャをしていないだろう。神代天なら、言えるのだろうか。あるいは、陰キャの雰囲気を漂わせながら実はコミュ力強者のシアならどうか。


 益体もないことをぐるぐる考えていた春野だったが、


「わぷっ!?」


 突然立ち止まった優の背中にぶつかって、思考停止を余儀なくされた。


「悪い、春野。着いた」

「あ、ううん、大丈夫。着いたって言うと……わ~!」


 目の前にある有名な建物に、春野は思わず声を上げた。


 青と赤。そして壁面に張り付けられている銀色の魚たちが印象的な大きな建物。海を背景にして堂々とそびえたつその建物は、大阪府民なら、誰もが知る有名な水族館だ。


「ここ、知ってる! 海遊園かいゆうえん!」

「ああ、正解だ」


 目を輝かせた春野の言葉に頷いて、優は入り口へと歩を進める。


 本当は、難波なんば心斎橋しんさいばし道頓堀どうとんぼりあたりで散策でもしようと思っていた優。しかし、脱出ゲームのおかげで春野が予想以上に疲れているように見えた。そのため、天気を気にせずゆったりと見て回ることができるデートスポットとして押さえていた海遊園に、予定を変更したのだった。


「海遊園。小学校の遠足で来た以来かも……」

「俺もだ。いま見たら印象も違うのかなって」


 入り口付近の売店で値の張るチケットを2人分買い、薄暗い館内へと足を踏み入れる。と、すぐに飛び込んでくるのは海遊園最大の押しポイントでもある巨大水槽だ。建物の中央を支える、巨大な円柱型の水槽。そこには、海の生き物たちが気持ち良さそうに泳いでいる。


 多種多様な海洋生物が舞い踊る中、何より目を引くのは、圧倒的な存在感を放つジンベエザメだろう。


 日本で初めてジンベエザメを展示したことでも知られる海遊園は、この独特な展示方法とジンベエザメを売りにしていたのだった。


「やっぱり、感動します。こうやって生きた魚を見れるの」

「そうだな。今では危なすぎて、海に行く機会なんてほとんどないし」


 巨大な水を眺めながら、静かに話す2人。上方からこぼれる光を浴びて水槽を眺めていれば、まるで自分が海の中に入ったような気分になる。


 圧倒的な没入感に優たちが時を忘れること、しばし。


「……とりあえず、ゆっくり見て回ろうか」

「うん!」


 円柱型の巨大水槽に沿って螺旋らせんを描く通路を、優たちはゆっくりと回遊し始めるのだった。




 完全に日が落ちた、午後6時。優は春野を伴って、難波へと移動していた。これから周辺を軽く散策したのち、手ごろな店で夕食。あるいは食べ歩きをしようと思っていた。


 ――本当は、オシャレなレストランとかが良かったんだけど……。


 調べれば出てくるお店は見事に予約が埋まっており、そもそも未成年だけでは入れない店も多かった。ここは思考を切り替えて、優が高校生らしいと思っている食べ歩きにしようと思い直すことにしたのだった。


 ――水族館……。デートでも結構難易度高いって聞いてたんだが……。


 海遊園に入ったのが午後2時過ぎ。そこから5時過ぎまでの3時間、優たちはどっぷりと、海遊園が作り出す幻想的な海に浸っていた。中の売店などで時間を潰したことを考えても、十分すぎるくらいに楽しんだと言えるだろう。


「ふふっ、見て、神代くん! ハコフグ、可愛く撮れたからホーム画面にしてみました!」


 移動中の電車内と、今と。嬉しそうに撮った写真を眺めている春野の笑顔を見れば、連れて行った優の心も救われるというものだ。


 鮮やかな黄色と青い斑点。特徴的なおちょぼ口をこちらに向けてカメラ目線をしているハコフグが映る、春野のホーム画面を見ていた優。しかし、ふと、春野の携帯の上部に数えきれないほどの通知が来ていることに気が付いた。


「春野、その通知、大丈夫なのか?」


 特警という、緊急時は駆り出されることもある仕事をしている春野。休日とはいえ、仕事関連の連絡を見落としていれば、責任を問われることもあるのではないか。心配して尋ねた優に、春野は苦笑しながら答える。


「大丈夫。大抵は防犯用の事務連絡だから。それに、本当に火急の案件だと、メッセージじゃなくて電話が来ます」


 優を安心させるために、各種、連絡に目を通す春野。彼女の予想通り、その多くが「○○で○○があったから注意されたし」や「○○の案件について」などの公的に公表されているものばかり。


「機密保持もあるし、そもそも私用の携帯に重要な連絡なんて滅多に来ません」

「言われてみれば、そうか」

「そうそう! だから、神代くんは気にしないで下さい。折角のクリスマスなんだから!」


 とは、口で言いつつも。春野は内心で、今日はやけに通知が多いなと思っていた。通常、多くても10件程度の通知が、今日はもう既に倍の件数報告されている。それでも、今日は休暇オフだ。さらに言えば、年末で忙しいはずなのに、上司――畦入あぜいり警視が何やら気を利かせて与えてくれた、貴重な休暇でもある。


 ――今日のために、準備だってしたんだから!


 実は、休暇が決まったその日から、春野は入念に“今日”という日に向けて準備を進めていた。つまり、優から誘われずとも、春野は優を誘おうと思っていたのだ。だからこそ、いま着ている勝負服を事前に買っていたわけで、クリスマスの予定も空いていたのではなく空けていた。


 言ってしまえば、春野もまた、優同様に今日クリスマスという日に懸けていたのだった。もちろん、特別な思いを込めて。……しかし。




 神の願いを前に、人間の些細な意思や覚悟など関係ない。




 予定通り道頓堀で食べ歩きを終えた優たちは、すぐ隣を走る大阪の大動脈――御堂筋みどうすじに出る。対岸まで40m以上ある巨大な道路と、その両端を彩るのは、クリスマスイルミネーションが施された銀杏いちょう並木。どこまでも続く光の列は、圧巻の一言だろう。


 もうこの後は、帰るだけ。いや、正確には、優にも春野にも、自身の想いを伝えると言う儀式がある。あとはそれを、どこで行なうのか。どうやって切り出すのかでしかない。


 御堂筋を難波方面へ行き、最後の交差点。頭上を高速道路が走る、ひときわ巨大な交差点を渡れば、もうそこは私鉄の「なんば駅」前にある広大な広場――なんば広場。今日のデートの終着点だ。


 緊張のあまり、2人して無言のまま待っていた信号が、青に変わる。つい先ほどまで弾んでいた会話が途切れ、優と春野の間に緊張感が走る。


「あの、さ。春野……」


 少し震える声で優が重い口を開いたその瞬間に、春野は瞬時に全てを察する。後は優の言葉を聞き届け。そして、自分もまた、同じ気持ちなのだと答える。それだけだ。


「……なんですか?」


 優の横に並んで、潤んだ瞳で見上げてくる春野。そんな彼女に、大きく息を吸って吐いた優が、想いを伝えようとした時だ。


「俺と――なんだ?」

「はい、みんなの様子が変です」


 周囲にいた人々が、困惑の声を漏らす。ここですぐに職務モードへと移行してしまうのが、優と春野だった。


 何が起きたのか。現状の把握をしようと周囲を見回した優は、人々の視線がある方向に集中していることに気付く。それは、交差点の中央。ちょうど高架の下で深く影が差す部分。そこに、金色のまなこが揺れている。


 やがて、影からぬるりと這い出すように現れたのは、体高5mもあろうかという、巨大な黒い猫だ。偶然か、必然か。優たちが居る方を見て、尻尾を揺らした黒猫の姿を見た瞬間、


「くっ……」

「きゃっ!?」


 優は隣にいた春野を押し倒す。


 次の瞬間。


『ナァオ♪』


 闇夜に響く、猫の声。続いて響いた風船が割れるような音に微かに混じるのは、硬い何かが砕ける音だ。


 その日、その夜。聖夜に、のんびりと巨大な猫を眺めていた人々100人を超える人々が、一瞬して、肉塊と化した。

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