第3話 幼き日の誓い
モノの権能によって全快した優が赤猿との戦線に復帰した時、ちょうど春樹、ノア、秋原の3人が交代したところだった。
「優?! 大丈夫か?!」
間違いなく致命傷を負ったはずの優が戦線復帰したことに喜び半分、驚き半分といった様子で春樹が言葉をかける。
「ああ。モノ先輩が権能を使ってくれた。代わりに……」
優が視線で示した先、後方10mほどの場所では倒れるモノと、彼女に手当てをする片桐の姿があった。優以外の全員がモノの戦線離脱を確認して、赤猿に再度目を向ける。
「状況は?」
「良くない、いや、悪いな。まず〈身体強化〉を使い始めた」
春樹が言うように、赤猿の全身を黒いマナが覆っている。〈身体強化〉を使用した際の、典型的な現象の1つだった。もとより高い魔獣の身体能力は、魔法によってさらに向上していた。さらに、赤猿の大きな手には太い棒が握られている。長さは1.5mほど。真っ黒なマナの塊は、
「〈創造〉か……」
呟いた優は、目つき鋭く赤猿を眺める。2m近くある腕のおかげで、もとから
「すまない、神代。お前が来たんだったら、俺は一度退く」
優に言ったのは秋原だ。その左手はだらんと垂れ下がり、長い髪は脂汗で顔に張り付いている。優がモノの手当てを受けている間、ノアを撤退させようと赤猿へと深く踏み込んだ秋原。その際、赤猿は今まで見せていなかった〈創造〉を初めて使用し、秋原に奇襲をかけたのだった。
秋原が赤猿の不意打ちを察せたのは、特派員としての勘に近いものだ。瞬時に身を引いたが間に合わず、左前腕を骨折していた。
「了解です。モノ先輩の手当てにガーゼが必要みたいなので、片桐先輩と合流してあげてください」
優の言葉に頷いて、秋原はモノと片桐の所へ後退する。赤猿の前には優、春樹、ノアの3人が残された。赤猿はこれといって油断も警戒も無く、優たちを見ている。どんな感情も見せない姿は、どこまでも不気味だった。
「ノア。撤退しなくて良いのか?」
優が、顎に伝う汗を払うノアを横に見ながら尋ねる。赤猿が動きを止めている今を逃せば、いよいよ引き際が無くなる。そう判断してのことだった。が、ノアには少し違って聞こえたらしく、
「なんだ、神代。挑発か?」
深い青色の瞳で優を睨む。この場で他者をからかう人物など居ない。皮肉屋が過ぎるだろ、と思わないでもない優だが、それこそがノアらしいと苦笑する。
「違う。純粋な疑問だ。クレアさんのためだろ、今お前が退いたとしても、誰も文句は言わない」
「優の言う通りだ。ここまで戦ってくれて、サンキュー……メルシーな!」
なるべく後腐れが無いように言った優と春樹の見送りの言葉に、ノアは赤猿を注意深く見ながらも戦闘の構えを解いた。
ノアが魔獣と戦うのは、ひとえにクレアのためだ。ノアが2歳の頃、魔獣によって両親を殺され、フランスとドイツが共同で運営する孤児院に入れられた。そこにいた1つ上の少女こそ、クレアだった。ノアと同じく魔獣のせいで両親を失いながらも、明るく気さくにノアに話しかけてくる。どれだけ突き放しても、どれだけ逃げても、落ち込んだノアを見つけて、構って来る。そんなクレアは孤児院の子供たちにとって太陽のような存在だった。
数年かけて、ノアがクレアの絡みを心地よいと思えるようになった頃。孤児院を存続させるための意義と資金を捻出するために、孤児院は魔獣と戦う兵士を育成する機関を兼ねることになった。ノアもクレアもそれには大層喜んだ。
――これで、両親を殺した魔獣を1体でも多く殺すことが出来る。
復讐心という強い想いは、魔獣によって両親を奪われた子供たちにとって強力な武器になった。教育係の兵士が引率する中、初めて魔獣を殺したあの感触をノアは鮮明に覚えている。肉を裂き、骨を貫いて、柔らかな心臓に達したサックスブルーの剣。自分はこのために生きているんだと、そう思わずにはいられなかった。
『ノア! 2人で魔獣をたくさんたくさん殺そうね!』
『そうだね、クレア! ま、ボクの方がクレアよりたくさん魔獣を殺すけど』
『いいわ、じゃあ、どっちがたくさん魔獣を殺すか、勝負ね! ワタシ達で魔獣を皆殺しにするの。約束よ?』
幼い日に交わした約束を胸に、孤児院の子供たちと肩を並べ、ノアは魔獣を殺して、殺して、殺し続けた。そうして孤児院の周囲から魔獣が居なくなり、“
フランス・ドイツが組織した対魔獣軍と孤児院との共同戦線。100を超える犠牲を払いながら、たまたま最後に槍を“銀狼”に突き立てることになったのがクレアだった。弱冠10歳の少女が、人々を苦しめた魔獣を討つ姿はメディアに取り上げられ、人々はいつしかクレアを聖女と呼ぶようになった。その裏では軍に実験が行なわれていたのだが、ノアもクレアも知る由も無い。この頃から、2人の関係が少しずつ変わって行く。
少しして、クレアの魔力が爆発的に高まり始めた。クレアは日本で言う魔力持ちだったのだ。高い魔力を持った者は、国のために戦わなければならない。そんな風潮も相まって、フランス・ドイツが組織した対魔獣軍にクレアだけが駆り出されるようになる。幸いだったのは、クレア自身が魔獣との戦いを強く望んでいたことだろう。
「行ってきます!」
「「「いってらっしゃーい!」」」
毎回、笑顔で孤児院を出て行っては、
「ただいま……」
全身傷だらけの状態で帰って来る。傷が治るか治らないかという時にまた出撃して、ボロボロになって帰って来る。孤児院の太陽であるクレアが弱って行く姿を、孤児院に居る誰もが案じていた。このままでは大切な家族が居なくなってしまう。そう感じたノアは、ある日の夜、クレアの部屋を訪ねて声をかけた。
「クレア、無理してないか? ボクは心配だ。いや、ボクだけじゃない。孤児院の皆も――」
「ノア。ワタシは大丈夫」
明らかに
「それに、たとえ無理をしてでもワタシは行くよ? だって、この世から魔獣を1体残らず
宝石のような緑色の瞳を輝かせて、傷だらけの顔で嬉しそうに笑うのだ。両親を失った際、2歳だったノアにとって、魔獣への復讐心は他の子供たちよりもはるかに薄い。うっすらとしか顔を思い出せない両親よりも、物心ついた時からそばにいてくれた姉のようなクレアが目の前からいなくなる方が、ノアにとっては苦痛になっていた。
居なくならないで欲しい。そんな衝動に突き動かされて、思わず声を上げてしまうノア。
「そんな約束、どうだっていい! ボクはクレアがこれ以上傷つく姿を見たくない!」
その言葉にクレアは大きく目を見開く。しかし、やがてどこか悲しそうな顔を浮かべたかと思うと、
「分かり
どこか他人行儀に、ノアに言った。これまでクレアの言葉にあった信頼も、温かみも感じられない。自分はクレアに見捨てられたのだと、ノアは瞬時に悟った。これまで自分を励まし、支えてくれた大切な家族に見限られたくない。弱冠10歳の少年でしかないノアがそう思うのは仕方なかっただろう。
「わ、悪い、クレア。ボクがどうかしてた。だ、だから……」
取り繕うにクレアの手を取る。行かないで欲しい、そばに居させて欲しい。迷子の子犬のように自身に縋りついてくるノアを、クレアはそっと抱きしめる。
「うふふ、いいの。私たち2人で、1匹でも多く魔獣を殺す。そうしてみんなで、魔獣を
「……そうだな。改めて、約束だ」
「ええ、約束」
口ではそう言いつつも、ノアはこの時に誓った。自分は、クレアを守るのだと。自分は兵士でも無ければ、器用でもない。であれば、名前も顔も知らない誰かではなく、たった1人を守るために戦おう。そうしてノア・ホワイトは自ら大人になることを選んだ。
そんな約束の夜から約1年後。聖女クレアの身を案じた熱狂的な信者によって、1つの国が出来上がる。その名も『クーリア』。
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