第2話 裁きあれ――

 赤猿の右拳を真正面から受けて、吹き飛ばされた優。受け身も取れずに地面を転がった彼は、赤猿から5mほど離れた柔らかな芝の上でようやく止まった。戦線を離脱した優の代わりに、秋原が赤猿との戦いに加わる。片桐が周囲の警戒、そして、モノが赤猿の追撃を警戒しながら、倒れた優に駆け寄った。


「ぐっ……がはぁっ」

「大丈夫、では無さそうだね」


 四肢をついてどうにか立ち上がろうとした優が吐血する。その様を見ながら、モノはおとがいに手を当てて考える。まず、撤退は無い。させてくれないだろうというのがモノの見立てだ。足止めをした者は間違いなく食べられ、赤猿は力をつける。全員が生きるか、死ぬか。そう作戦を立てた以上、犠牲が確実になる撤退は考えられない。何よりも自分モノ天人モノである以上、その選択肢は取れなかった。


「だとすると、考えられるのは2つか」


 1つは、優を残して退避することだ。そうして残されたえさを食べた魔獣が変態するの瞬間を狙って、自分たちもろとも魔獣を処理する。


「うん、悪くない。でも、まだ誰も死んだわけじゃあ無いし……」


 2つ目は、優を庇いながら戦闘を続けること。しかし、全員が消耗した今、ほぼ万全な赤猿と戦ったとしても勝機は薄い。となると、やっぱり可能性がある1つ目を選ぶべきか。


「でもやっぱり、2つとも違うなぁ。……どうせ死ぬなら、もっと面白い方にってね」


 言ったモノは、改めて瀕死の優を見下ろす。息は粗く、顔面蒼白になっている。後10分もすれば内臓からの出血で死んでしまうだろう。自分たちの末の妹であるシアが選んだ神代優という少年は、所詮、ただの人間でしかないのだから。それでも、


「世界を変えるのは、じゃないもんね」


 子供を見守る親の顔で、モノは優を見る。仮免許取得試験からここまでずっと見て来た神代優という人物は、多少頭は回る程度のどこにでもいる少年だ。彼に光る物があるとすれば、“しぶとさ”くらいだとモノは思っている。今も、痛みと失血で気を失っていないのは、簡単に意識を手放そうとしない少年の意地だろう。


「ほんと、可愛いなぁ」


 何も持っていない。自分が弱いと知っているからこそ、絶対に諦めずに足掻く。その姿勢は、魔人相手にも見せただろう。モノはそう、過去に読んだ任務の報告書から考えていた。天人相手を相手にしても臆せず食らいつく姿に関しては、モノはとして現地に赴き、直接見ている。

 どんな時でも絶望せずに、自分は出来るのだと信じている。いや、信じることしかできない。しかし、だからこそ、誰よりも自分を疑い、研鑽けんさんを積んできた優の刃はどんな魔獣にも傷をつけることが出来る。


「……いつか賭けるなら、私は今、賭けてみようかな」


 モノがそう思えたのは、まさに神様の気まぐれなのかもしれない。


「ノア、退け! 片桐と交代だ!」


 赤猿の拳を剣の腹で受け止めた秋原の声が響く。ノアはもしもの時に逃げることを公言し、この場にいる全員がそれを了承している。ノアへの撤退の指示は、自分たちの敗色を感じ取ってのものだった。しかし、ノアは首を振る。


「いや、ボクならまだ大丈夫だ! むしろここで退いて攻め手を欠く方が、色々と面倒だろ!」


 一撃貰えばほぼ死亡という戦闘を、春樹、秋原、ノアの3人が支えているのが現状だ。今ノアを欠けば戦線は崩壊し、撤退できるかどうかも怪しい。義理や人情ではなく、事実として、ノアは撤退を拒否した。

 押されつつある戦闘に加われずやきもきする片桐が、モノの指示を乞う。


「モノ! どうする?! うちも加勢していい?!」

「ダメだよ、桃ちゃん! 今は待機!」


 2mあるとはいえ人とそう変わらない体格の赤猿を4人で囲むと、やはり手狭になる。加えて、ノアが撤退するにはやはり、1人でも多くの人員を残す方が良い。が、モノが悩む間にも戦況は悪くなっていく一方だ。


「……うん、決めた。桃ちゃん、こっちに来て!」


 そんなモノの指示に、あからさまに不満そうな顔をした片桐。それでも指示通り、モノのもとへと駆ける。切迫する状況で、モノはやはり賭けをしてみることにしたのだった。


「言ったように、特別な力も無い、ただの人間でしかない君が世界を変えるんだよ、神代優クン?」

「モノ、ぜんぱい……? な、にを……っ?」


 優の耳元でささやいたモノは、立ち上がる。そして、残されたマナを顧みず権能を使用することにした。それは、致命傷を負った長嶋一夜ながしまひとよを助けた時にも使った〈不正〉の魔法だ。優の傷は無かったのだという不正な事実を、魔法で現実のものとする。


 ――ま、もちろん代償もあるけどね。


 心の中で舌を出し、モノはイメージを固めるための祝詞のりとを唱え始めた。


あざむき、だまし、今ある事実を否定する。そこには正しさも、正義も無い。ただ私だけの意思がある――」


 そのタイミングで、片桐が優とモノが居る場所に到着する。モノを問い詰めようとした片桐だったが、目を閉じて銀色の髪を揺らすモノの神聖な姿に黙らされてしまう。


「私はかの者の傷を否定する。私はかの者の傷無き姿をこいねがう。今、私の力を持って願いを聞き届けよ。そして、不実な行ないに裁きあれ――〈不正〉」


 モノが権能の名前を口にした瞬間、祝詞のりととともにあふれ出していた透明なマナが、優の口内から体内へと侵入する。そのマナはモノの願い通りに優の傷を癒し、あるべき状態へと修復していく。他方、不正には必ず報復が待っているのが世の常だ。それを表すように、セーラー服で隠されたモノの腹や背中に次々と切り傷が刻まれていく。


 ――外傷だったら、この場で治療できるもんね。


 全身を貫く痛みを、モノは懸命にこらえる。が、不意に意識が遠のき始めた。


「桃ちゃん、私、魔力切れ。あと、よろしく……」

「えっ、ちょっと、モノ?! あんたが戦えばよかったじゃん!」

「あは、は。それじゃあ、ダメ、なの……」


 明らかに無理をした笑顔をたたえてふらついたモノを片桐が支える。片桐としてはモノが直接戦えばいいのにと心の底から思いつつも、なぜか、そうはいかないらしい。青い顔で寝息を立て始めたモノの美しい寝顔を眺めながら、ため息をついた。


「まったく、ほんとに、意味わかんないんだから……ん? え、嘘、血?!」


 が、すぐに手足を濡らすモノの血に気付く。慌てて服をめくり傷の具合を確認する。モノの白い肌には、いつ怪我をしたのかというほど無数の傷がひらいている。それ以外にも、数えるのが億劫になるほどの傷痕が白い肌には刻まれていた。


 ――一体いつ……? 自傷? ううん、考えるのは後!


 腰の応急手当セットを取り出して治療を始めるが、ガーゼも包帯も足りない。


「あ、れ……?」

「神代君! ごめん、ちょっと包帯借りる!」


 起き上がった優の腰からポーチを奪い取った片桐は、中にあった物を使って更なる手当をしていく。

 他方、身体から痛みが引いた優が手足の状態を確認する。全身、問題なく動きそうだ。突然のことに戸惑いつつも、優はこの感覚、というより現象を知っていた。外地演習の際、シアに助けてもらった時と似ているのだ。致命傷を瞬時に治してしまう技術が、この世界にはあってしまう。つまり――。


「モノ先輩の権能か……?」

「ぼうっとしない! 怪我治ったんだったら、早く戦線に加わってあげて。モノ以上の働きをしないと容赦しないから!」

「は、はい!」


 鬼のような剣幕で言った片桐の勢いに背を押され、優は再び赤猿目がけて走り出す。そこではちょうど、


「うわっ!」「くっ!」「がっ?!」


 春樹、ノア、秋原が赤猿の腕の一振りを受けて、後退したところだった。

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