第9話 『À tout à l'heure!』
上空から降ってくる赤銅色の巨体。それを確認した瞬間、優たちは全力でその場から退避する。幸い、優は黄猿の胸に乗っていたために足が水に浸かっていない。機動力を落とすことなく岸へと逃げることが出来た。
一方、反応が遅れたのは春樹とノアだった。くるぶしの上まである水深。浅いとはいえ水を吸った靴は重く、逃げ足を遅くする。加えて、小石の多い水底は踏ん張りが効きにくい。どうしても回避行動が遅れてしまった。2人がどうにか、倒したばかりの黄猿から離れた直後。
上空から降ってきたソレは川に横たわる黄猿の死骸の上に着地し、踏みつぶした。
舞い上がる水しぶきが優たち三校生の視界を奪う。同時にいくつかの小石が四方八方に散り、飛び道具となって襲い掛かって来る。川岸に居た上級生たち3人は〈創造〉した盾で防ぐものの、反応が遅れた優たち下級生はそうもいかない。
水滴が視界を悪くする中、懸命に避けようとする。しかし、優は3つ飛んできた小石の1つを避け切れず右肩に。ノアは水が目に入って視界を塞がれ、額に1つ被弾してしまう。それでも無事に川から離れ、降ってきた魔獣と距離を取ることが出来たのだった。
『ゥグギャァァァ!』
身を反らし、
体高は約5m。一見すると、太った猿と言う印象だろう。肥大化したお腹に毛は生えておらず、ボンと出たへそが少しチャーミングにも思えるかもしれない。人の胴体以上の太さがある長い腕。巨体を支える足は、背後に植えてある木よりも太い。頭部には4つの眼球が蠢いており、目の前に居る獲物を品定めするように動いている。頭の大きさに比例して口も大きく、人1人なら丸飲みできそうな大きさだった。
『ゥギィ?』
優の身長ほどある拳を川底に突き、前傾姿勢で優たちを見下ろす猿の魔獣。お腹、手のひら、足以外の全身が赤銅色の毛で覆われていた。
「
優が思わずソレの名を呼ぶ。今回の任務を果たすうえで最大の障害になるだろう魔獣の登場に、三校生たちは息を飲むことになった。
うるさい心臓の音を聞きながら、優は現状の
「秋原クン、ノアクン、大丈夫そう?」
優の右隣に立っていたモノが、秋原とノアに尋ねる。足を軽く捻挫している秋原はともかく、ノアも怪我をしたのか。そう思って優がノアを見てみると、ノアは額から血を流し、左目を塞いでしまっていた。
「俺は、怪しいな。少なくとも激しい動きは出来ない」
「ボクは大丈夫だ。出血も、見た目ほどじゃない」
秋原、ノアの順でモノの問いかけに答える。
彼らの返答を吟味しつつ、モノは足場、戦力、体力なども大まかに確認する。丸い石と土が混じる足場、怪我人は2人で1人は機動力が無く、もう1人は恐らく距離感覚が狂う。体力は、黄猿との連戦で消耗している。そんな状況で果たしてこの大型の魔獣と戦うことが出来るだろうか。しかも、他に黄猿や魔獣が居るかもしれない。
モノの決断は早かった。
「――うん! 撤退、撤退!」
「なっ?! ふざけるな、ボスがそこに居るんだ、お前の魔力なら倒せるだろ?!」
モノの判断に異を唱えたのはノアだった。ノアが知る限り、モノの魔力は人間の10倍を優に超える。そんな化け物であれば、目の前の魔獣を倒すことぐらい余裕だろうと思っていた。
「ボク達が周囲の警戒と援護をする! だからお前が――」
「私が指揮官、リーダーだよ? 君じゃない。怪我人は黙って指示に従うように」
モノの淡い青色の目で見つめられ、
「うん、良い子だね。――じゃ、桃ちゃん! 秋原クンを連れて撤退。優クン、瀬戸クンはノアクンの補助よろしく。私が
「「「了解!」」」
セルの全員が了承したことを確認して、モノは広域に〈探査〉を行なう。強烈なマナの波が優たちと、魔獣を襲う。同時に「何かをされた」と言う敵対行動に対して、赤猿が動き始める。その時には、優たちもすでに身を翻して土手を上がり、拠点に向けて走っていた。
「くそっ! 神代、瀬戸、ボクは良い! アイツらの護衛をしろ!」
ノアがそう言って示したのは、後方を駆ける片桐と秋原。足に負担がかからないよう、片桐が秋原に肩を貸していた。
「「分かった!」」
優と春樹はノアの指示を受けて転身し、秋原達のもとへ向かう。
「俺が後ろを警戒する。春樹は秋原さんを背負え!」
「おう!」
すぐに役割を分担し、春樹が片桐から秋原を奪って背負う。すぐに片桐も意図を察し、
「ありがと、瀬戸君! じゃあ、神代君とうちで後衛を!」
自分と優とで、春樹と秋原を守ることに決める。最前列を駆けるノア、後方に優と片桐。間に足を負傷している秋原を背負う春樹と言う陣形で、拠点を目指す。
そして、最後方。赤猿と対峙するのはモノだ。目の前で膨らんだ腹を揺らした赤猿が狙うのは、もちろん手負いに見えた餌、つまりは秋原とノアだった。2人に向かって駆け出そうとするが、目の前には美味しそうな匂いがする餌がある。赤猿は、美味しそうな匂いを放つ存在こそ、気をつけなければならないことを
「どうする、お山の大将さん?」
目の前で余裕そうに笑う極上の餌。しかし、まともに相手をすれば時間がかかってしまうだろう。よって赤猿は最も簡単な方法を選ぶ。
手近にあった2mはあろうかという巨大な石を拾い、投げつける。圧倒的な質量と速度を持つ巨石には、さしものモノも正面から迎え撃つわけにはいかない。
「本当に、君たち魔獣はずるいよね!」
〈身体強化〉して巨石を避けるも、着弾した巨石がまた小さな小石を飛ばしてくる。小石に気を配っていれば、赤猿の逆の手からまた巨大な石が飛んでくる。波状攻撃に対して、モノは権能を使うことも視野に入れながら回避を続ける。
――どうする? 倒しちゃう?
倒す方が確実か、と悩んだその一瞬が隙になる。巨石ではなく一握の小石を握りこんだ赤猿が、小石を投げつけてくる。威力ではなく、数で押そうとしている。そう判断したモノはむしろ、笑う。それなら全身を覆う盾を創りだす〈防壁〉の魔法で防ぐことが出来る質量で――。
「違うっ!」
自身の考えを即座に否定し、〈防壁〉に加えて赤猿の目の前に高さ10mはあろうかという透明の壁を作る。赤猿の狙いは最初から後方、優たちだったことを思い出したのだ。しかし、即席の
土手で赤猿と対峙するモノからは優たちの様子が見えない。
「最悪っ!」
赤猿が倒れて来た見えない壁に押される姿を確認したモノはすぐ、土手を駆けあがる。そこには小石によって穴が空いたソーラーパネル群と――
「ナイス、桃ちゃん! と、優クン!」
〈創造〉が解除され、現れた2人の姿にモノは歓喜の声を上げる。そうして全員が十分な距離が確保できたことを確認したモノは、
「それじゃあ、確か……『
逃げ去った方角を確認されないよう赤猿への置き土産を残しつつ、自身もその場を離脱する。
高密度に圧縮したマナを爆発させ、広範囲に衝撃を届ける魔法〈爆砕〉。マナによる爆風が使用者であるモノと赤猿を襲う。
『ゥグギィァァァ!!!』
爆風を利用して加速するモノは瞬く間に赤猿との距離を離す。その背後では〈爆砕〉を耐えしのぐ赤猿の雄叫びが遠く、むなしく響いていた。
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