幕間 〈肉欲〉の洗礼

※少し卑猥な印象を与えるお話です。レーティングにかからないように配慮しましたが、苦手な方もいらっしゃるかもなので、幕間扱い(=読まなくても大丈夫)とします。




 大阪、京橋きょうばし駅。大阪でも有数の繫華街・歓楽街を抱える町。昼は会社へと向かう人々が行き交い、夜は酒と娯楽を求める人々であふれる。そんな場所だった。


 その日、シアは『ハハ京橋』と呼ばれる建物の際上階――5階に居た。無数に並ぶパイプ椅子。2段ほど高くなった舞台。壁も床も前面が柔らかい白色をしていて、清潔感のある場所だった。かつて劇場として使われていた場所を改装したこの場所で、明日、コウに心酔している魔力至上主義者たちを前に、シアはコウと婚姻を結ぶ予定だった。

 複雑な思いで晴れ舞台を眺めていたシアに、


「さすが俺のシアちゃん。ドレス、良く似合ってるね」


 そう言ってシアの後方から声をかけてきたのは、黒髪で紫色の目をした天人、コウだった。彼の言う通り、シアは今、青を基調としたオフショルダーのドレスを着ている。刺繡ししゅうとスパンコールで装飾されたそのドレスは、魔力至上主義者たちによって着せられたものだった。

 裾を翻しながら、振り向いたシア。そこにはタキシードを少し着崩したコウがいる。自分を見つめるアメジストのような瞳は、シアでも美しいと思えるものだった。


「あ、ありがとうございます。……それよりも、本当にもう、“魔女狩り”はしていないんですよね?」


 褒められたことに少し戸惑いながらも、シアは懸念事項を確認する。実は、第三校で会って以降、シアがコウに会うのはこれが初めてだった。ホテルで数日、外出も許されないまま過ごす。

 やっと外出できたかと思えばドレスを着せられ、今、こうしてここに居る。そんな生活でもシアが不満を漏らさなかった理由。それは、自分が動けばまた“魔女狩り”によって関係の無い人々が巻き込まれることを恐れてのことだった。


「安心して。シアちゃんが俺の目の届く場所に居る限り、もう野蛮なことはしないから」

「そう、ですか……」


 地面に目線を落としたシアは、無意識のうちに胸元で両手を握る。その手には金色に縁取りされた黒い手袋がはめられている。握りこんでできた手袋のしわは、シアの中にある“我慢”の数を示しているようだった。

 他方、未だくれないシアの態度にコウは笑顔を見せる。一方で、明日の晴れ舞台でシアにこのような表情をされては困る事も分かっていた。

 だから今日、彼女をこの場所に呼ぶように、手駒に指示していたのだった。


「シアちゃん」

「はい、どうしましたか?」


 コウが呼びかけても、シアは返事を返すだけで視線は下を向いたまま。まさに、心ここにあらずと言った様子。仕方ない、とため息をついたコウはシアのあごに手を添えて、無理やり視線を合わせる。


「俺を見てよ?」

「す、すみません……」


 コウのおねだりも、シアからすれば目を合わせなかったことへの非難に映る。申し訳なさそうに目を伏せ、やはりコウから視線を逸らしてしまう。深く美しい紺色の瞳と目が合わないことに、少しだけ焦れるコウ。

 シアのあごに手をやり、上を向かせているこの体勢。「あごクイ」とも呼ばれるそれは、男女が口づけを交わす際のもの。


 いっそこのまま無理やり……。


 と考えたところで、彼は冷静になり、本来の目的を果たす。


「シアちゃん、もう一回俺を見て?」

「なんでしょうか?」


 先ほど怒られたと思っているシアは渋々、コウと目を合わせる。


「ちょっとそのままお願いね……。それは求めること。互いが互いを欲し、生物としての使命を果たそうとする強い願い――」


 目を合わせた状態で訥々とつとつと語り始めたコウを、シアは怪訝な表情を浮かべて見る。


「――それなくば恋は生まれず、それなくば愛はない。しかし、快楽を求める心だけはそこにあり続ける。繁栄を司る、生物としての根源たる欲望の一端よ、花開け――」


 コウが語る言葉が祝詞のりと、つまり権能を最大限に使用する時のものだとシアは気付いた時には、遅かった。いつの間にかコウの紫の瞳、身体全体を妖艶なすみれ色のマナが覆っている。


「〈肉欲〉」


 囁くようなコウの声で、権能が発動する。人間が使う「魔法」では不可能な他者のマナへの介入。世界をも変える力がシアへと襲い掛かった。


 シアが感じた最初にして最大の違和感は、うずきだった。シアの全身を、シア自身も知らない熱さが駆け巡る。そして胸の奥、下腹部へと熱が集まっていく。生理とは違った、得も言われぬ感覚。確実に、何かが足りない。そんな猛烈な飢餓感が襲う。


「な、にを……? んっ……あっ……」

「うん? そうだね。早い話、シアちゃんの性欲を刺激したんだ」


 コウの返答も、シアには半分ほども届いていない。どうすればこの足りない感覚を埋められるのか。自分が何を欲しているのか。人間と同じ身体構造を持つシアの身体が知っている。目の前の“男”が足りないものを埋めてくれるのだと、シアに訴えかけてくる。

 徐々にシアの思考が鈍り、表情は蕩け、瞳からは理性が消え去っていく。強烈な性の渇きの前に、目の前に居る男以外を考えられない。


「コウ、さん……、あ……っ」

「あはっ……! どうしたの、シアちゃん? 顔、真っ赤だけど」


 吐息を込めた呼びかけと共に、コウへとしな垂れかかったシア。楚々とした雰囲気のシアが見せる卑猥ひわいな顔に、コウの中の嗜虐心が煽られる。

 〈肉欲〉は生物の子孫を残そうとする本能を強化するもの。他の天人が持つ〈性欲〉を、より“行為”に寄せた啓示だった。人間に使ってみたところ、理性のかけらもないケダモノに成り果てるほどの催淫効果があった。


 天人に使うとどうなるのだろう?


 かねてよりそんな疑問があったコウ。生物として受肉した以上、天人にもわずかながら子孫を残そうという本能があるのではないか。そう思って、コウはシアで実験したのだった。

 身をよじり、熱を帯びた息を吐くシアを見詰めながらコウは思う。


 恋愛感情のきっかけになれば、と思ったけど。これは予想外の効き目だなー……。


「でも。まずは体からっていうのも悪くないよね……おっと」


 腰が砕け、崩れ落ちようとするシアの身体を、コウが支える。


「大丈夫。今日、この階には誰も来ないように言ってあるから」


 その優しい声に、支えてくれている頼れる腕に、抱き着いた薄くともたくましい胸に。身をゆだねて、処女神としての在り方を捨てよう。そう思うのだが、なぜだか、


 違う。


 そんなシア自身の声が、最後の理性を捨てさせてくれない。目の前に居る存在おとこがこのうずきをなぐさめてくれることを知っているのに。早く飢えから逃れたいのに。


 彼ではない。


 その声が逃げようとするシアを許してくれない。女神としての勘なのか、それとは違う“何か”なのか。それはシアにも分からない。それでもシアの身体に走るこの“熱”が、シアがずっと憧れてきたものでは無いことは、確かだった。


「コウ、さん……んっ。お願い、です……」

「ん? どうしたの? シアちゃんは俺に、どうして欲しい?」


 息を吐きながらコウを見上げるシア。その顔は、コウが見慣れた欲に溺れ、ケダモノとなったメスの顔――ではなかった。


「私、には、効きま、せん。だから……、権能を解除、してくださいっ」


 気丈に、理性的に、コウを睨みつける紺色の瞳。額に、肩に胸元に、玉の汗をかきながら。それでも懸命に生物としての欲望に抗っていた。


「あは……あはははっ! マジか?! 人間なら確実に堕ちるのに?! 天人だから?! きっと違う! どこまでも純粋な君だからだよ、シアちゃん!」


 全身を震わせ、嬉しそうに笑うコウ。同時に権能を解除する。シアの全身を襲っていたうずきがこの時ようやく、消え去った。


「ああ……。そんな気高い君が俺のものになって、欲望にまみれる日が待ち遠しいよ!」


 天井を仰いで洋々と語るコウ。


「やっぱり君こそが、俺の運命の相手なんだ……。そう思わないかい、シアちゃん?」


 同意を促すようにシアを見遣るコウ。しかし、シアが答えることはない。うなだれたまま、ただ黙って、口を引き結ぶだけだった。

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