第8話
ジュリエッタは自分の皿のスープを平らげると自然な風に立ち上がった。
「うん? どほへいふの? おへーはん」
まだもりもり食べているマーゴットに彼女は厳しい視線を投げる。
「喋るなら口の中を空にしてからになさい、全く」
ジュリエッタに窘められたマーゴットは、超速で飲み込むと改めて問う。
「どこへ行くのお姉ちゃん?」
「水浴びよ、汗をかいたから」
何故かとてもぶっきらぼうな答えだ。
「あのねぇ、ジュリちゃん」
アイオーンが野菜スープの皿を置く。
「月桂樹の葉を口に潜ませるほどぉ口臭を気にしているならぁ、ミントの歯を噛むのがいいのよぉ。あと肉を控えるぅ」
「え!」
何故か頬を燃え上がらせたジュリエッタの目と橙夜の目が合う。
「あ、あんたの為じゃないんだからね! ただ汗が気持ち悪いのと、息の臭いが気になっだけだから!」
呆然とする橙夜だが、追い打ちを掛ける悪い子がいた。
「ああ、お姉ちゃん、女の子として目覚めたのね? だからむだ毛処理用の軽石を一昨日行商人から買ったんだ」
マーゴットは意外に黒い。
「ち、違うわ!」ジュリエッタの目はもうぐるぐる状態だ。
「勘違いしないでね! トウヤの為に綺麗になりたいんじゃないからね! ただ……ただそう! 蚤が最近痒いのよ! 脇とか股とか痒くて」
そのツンデレはいいのだろうか? 密かに橙夜は引いた。
「そうよねぇ、人間はぁ、エルフより毛深いからねぇ」
のほほんとしたアイオーンに、恥をかかれさたジュリエッタが反撃する。
「でもエルフも茂っているところは茂っているわよね、人間と同じく」
「あらぁ、私達はぁ、自然を尊ぶからぁ、特に気にしないのよぉ。産毛も生えないからぁ足とか腕とかはつるつるだしぃ」
ジュリエッタとアイオーンはしばし睨み合う。
が、本当の敵は違うのだ。
「でもお姉ちゃん、水浴びって言ってたけど、行商人から買った石鹸は魚の脂で作られたやつでしょ? トーヤにはより臭く感じるんじゃない?」
マーゴットは恐らくちょっとした復讐をしているのだろう。先程追い払われた。
「ちがっ、トウヤの為じゃないわわわ、ええとととと、そう、あたし臭くなりたいのよ! 魚みたいに生臭く……」ここまでだった。ジュリエッタはその場に崩れ落ちて泣き出す。
「ううう、違うの、違うのよ! う、うわーん!」
「ジュリエッタ!」澄香とリノット、そしてしれっとアイオーンが、顔を覆うジュリエッタに近づき肩を抱く。
マーゴットはいつの間にかベッドの天蓋の中に入っていた。侮れない娘だ。
「ちょっと、橙夜君!」
感心していた彼に、澄香の怒りが叩きつけられた。
「女の子を泣かしたのよっ! 謝りなさいよっ!」
「え!」橙夜は度肝を抜かれた。
今の流れで彼の責任はあったのだろうか? むしろツンデレのやり玉に挙がっただけのような気がする。
「そうよぉ」なのにアイオーンも続いた。
「女の子は繊細なのぉ、傷つけちゃダメよぉ」
リノットの目には軽蔑が漂う。
「トウヤさん! 見損なったリノ」
慌てて周囲を見回すが、ポロットは聞かないフリをしてスープにスプーンを入れているし、タロでさえ横になって寝ているアピールしていた。
何という孤立無援。
結局、橙夜は小屋の床に額をこすりつけジュリエッタに謝罪した。
どこの世界も連帯した女に男は勝てない。
その夜、あまりの不条理に橙夜は一人枕を濡らした。
数日後の夕食、今度は鳥肉と赤キノコのスープを皆で囲んでいると、珍しく真剣にジュリエッタが口を開く。
「……例のバロードが近くの村へ治療に来るらしいわ」
彼女はマーゴットの一件以来、澄香からこの世界で医術や化粧に使われている水銀や鉛の危険性を聞き、カルチャーショックと共にそれを高額な治療費を取って無知な人々に施す者達に、憎しみに近い感情を持ったらしい。
「マーゴットだって散々なのに」
マーゴットはまだ治っていない。ポロットによると水銀の毒は人体に蓄積するので、いつか澄香より高位のプリーストに『解毒』の奇跡を授けて貰わないとならいといけない、と説明されていた。
ジュリエッタは烈火のように怒る。
神々の大半が人間を見捨てたこのアースノアで、高位のプリーストなどそこらにはいない。
彼女にとって唯一の肉親の体が蝕まれているのは、耐え難い事実だろう。しかも元々の原因は簡単に瀉血と水銀薬を信じた己に帰する。
「何とかしないと」ミントの香りのする息を吐き、ジュリエッタは煮て柔らかくなった鳥肉を食べる。
「あっ、このキノコ美味しい!……ええと、私は元気だけどなあ」
口辺を鳥の脂でべとべとにしながらマーゴットが首を傾げるが、誰も笑顔にはならなかった。
その何とかが難しい。何せ親しくなったジュリエッタでさえ、偽医療を信じ、止めるのに命を賭ける必要があった。
「そうですね、私もこの世界の今の医術は危険だし酷いと思います」
澄香は服の一部を切り取った布をハンカチにして、唇に当てる。
「でもぉ、みんなぁそのバロードを信じてぇいるんでしょう? 厳しいかもよぉ、ほうっとけばぁ」
一人違うメニューを食べているアイオーンが容易く突き放した。彼女はジュリエッタと違う。かつてこの周辺を治める一族だった彼女は、人々を大切な領民と見ているが、エルフのアイオーンには他人事だ。
人間の過ちなど、二万年の寿命のエルフには些細なのかもしれない。
「そんな訳行かない!」
どん、とジュリエッタは木のテーブルを叩く。
「力のない人々をこれ以上苦しませない。それがボーダー家よ」
橙夜は素直にジュリエッタの決意に感動した。
「そうだね。だけどいきなりは無謀だ。明日から調べてみよう」
彼の意見に、ジュリエッタと澄香、二人の少女は優しく微笑んでくれた。
「リリルの村?」
有益な情報を得たのは二日後だった。
聞いたことのない単語に放心する橙夜に、ジュリエッタは小屋の壁の一方を指さす。
「あっちの、セルナルの街の反対方向にある村なんだけど、バロードが治療のために来るって大騒ぎよ」
「へぇ」橙夜はジュリエッタの素早さに感心した。
剣の修行の後、姿を消すから何かと思っていたが情報収集に走り回っていたようだ。
「何感心しているのよ! 何とかしないとまた死人が増えるでしょ?」
「でもさぁ、リリルの村にぃ、行くのにはぁ、コルギットを通るわよねぇ」
アイオーンが唇に人差し指を添える。
「ええ」とジュリエッタの表情が曇る。
「危険よぉ、あそこはぁエルフのぉ土地だからぁ、一歩でもぉ人が入ると矢の的よぉ」
「大丈夫、コルギットには入らずに森の小道を行くの。ボーダー家の領地だったからこの辺りにはあたし詳しいわ。任せて」
どん、とジュリエッタは薄い胸を叩いて、「けほっ」と咳き込んでいる。
「タロも連れて行こう、もしもの時に戦力になる」
橙夜の言葉を理解したのか、寝ていたタロがむくっと頭を上げる。
「でもエルフとのいざこざは避けてね、一人でも傷つけたら大問題になるから……お父様も昔、色々悩んでいらしたわ」
「ジュリちゃんのお父さんはぁ、上手くやってたけどぉ、今の領主はぁダメダメだからねぇ」
アイオーンも珍しく笑みを消している。
「ちょっと!」ここで聞いていたマーゴットがカーペットから立ち上がる。
「私も行く」
「ダメ」
ジュリエッタの即答にマーゴットは分かりやすく「うぐぐ」となった。
「どうして? お姉ちゃんばかりずるい! 私も行きたい!」
「遊びに行くんじゃないのよ! あんたはリノットと散歩でもしていて」
「え! 私もいけないリノ?」流れ弾命中のリノット愕然。
「ずるいずるいずるいずるい」マーゴットは足を踏み鳴らして抗議したが、ジュリエッタに本気で怒られ、天蓋付きのベッドに飛び込みふて寝した。
かくしてリリルの村へと赴くのは、橙夜、澄香、ジュリエッタ、アイオーン、ポロット、タロの五人と一匹になる。
道中は過酷だった。
ジュリエッタが使っている小道は、獣道と呼称するのが正しく、身軽にすいすいと進むジュリエッタ、アイオーン、ポロットに橙夜と澄香は遅れ気味になる。タロが常に側にいてくれるのが慰めだ。
「少し急ぎましょう」
非情なジュリエッタは異世界人二人を急かしてくるが、森やら山やらに慣れていない二人は返事も出来ない。
と、タロの耳がぴんと立ち、「ぐるる」と唸り出す。
「止まって」
ジュリエッタが手で皆を制し、その隙に橙夜達も追いつける。
「コルギットよ」
「ええ?」速い呼吸を抑えながら、橙夜は聞き返す。
「エルフのぉ、土地ぃ」
アイオーンに説明されても訳が分からなかった。
ただ同じように森が続いているだけだからだ。
「ぐるるる」とタロの声が大きくなる。
「どうした? タロ?」
「感じない?」ジュリエッタは唇を歪めて笑う。
「結構な数のエルフが隠れているわ……みんな矢を向けて」
橙夜は絶句し、見直す。木の枝と葉、草や花しかない。
「かなりの殺気ポロ。本気ポロ。一歩でも踏み越えれば矢だるまポロ」
ポロットが身震いする。
「うーん」アイオーンが憂う。
「確かにぃ、エルフと人間はぁ、あまり仲良くないけどぉ、ここのぉ雰囲気はぁおかしいわぁ」
そっと後退するジュリエッタは吐き捨てる。
「きっと今の領主が何かエルフ達を怒らせたのよ。お父様の時代は少しくらいなら入っても大目に見てくれたのに」
彼女は皆を見回した。
「少し道を変えましょう、ここを進むのは無謀よ……昨日、あたしは通れたのに」
アイオーンとポロットは頷き。訳が分からない橙夜と澄香はポカンとするだけだ。
苦難は増す。
更に険しい道となったからだ。
相変わらずジュリエッタ達には何ともないようだが、二人の現代高校一年生には辛すぎる。
橙夜は用心のために着用してきた硬革の鎧とショートソードの重さに苛立った。
確かに武器と防具は着用して動き回る物ではない。
「鉄の防具は戦う前に着用するの」とジュリエッタがいつか教えてくれたが、意味がようやく分かって来た。
冒険や旅の最初からこれらをずっと装備しているなど、体力がいくらあっても足りない。「トウヤ」
ジュリエッタはリーダーらしくみんなに目を配っているらしく、彼の内心を看破した。
「邪魔だからとか言って剣を置いていかないでね」
彼女は人差し指を立てて、目をつぶり講釈する。
「剣とは神聖な物なの。だから簡単に捨てたり抜いたりしてはいけないの。意味もなく振り回すなんてもってのほかよ」
しゅんと枝が鳴り、ジュリエッタの肩に細長い何かが落ちた。
「ん?」彼女は首を巡らせ、肩の上の小さな生き物を見た。
「きゃわー! へびっへび!」
いきなりジュリエッタはレイピアを抜き、やたらめったら振り回す。
「危ないポロ!」「ジュリちゃん!」近くにいた二人は慌てて避け、彼女のレイピアは木の枝やらを落とした。
「ダメです!」
なだめようとしていた橙夜の動きが止まる。
どこからか声が上がったからだ。
振り返ると、茶色の髪をした美しい少女が駆け寄るところだった。
「この辺の木を傷つけないで!」
アイオーンが一瞬の隙をついて蛇を払ったお陰か、少女の叫びが届いたのか、ジュリエッタの動きが止まった。
「この木には美味しい果物がなるんです、傷つけないで下さい」
少女は一行を厳しく見回しながら非難する。
「ええと……ごめんなさい」
レイピアを鞘にしまいながら、ジュリエッタは恥じたように頭を下げた。
……彼女に剣が一番ヤバいんじゃ?
橙夜の内心を知らず、ジュリエッタはしゅんとなる。
「木を傷つけるつもりはなかったの……ちょっと、その、失敗しただけ」
その姿があまりにも哀れだったのか、少女は胸の前で両手を振った。
「わ、分かりました。傷つけないならもういいですので」
「ええと君は?」
ジュリエッタがしばらく落ち込みそうなので、橙夜が少女に訊ねる。
「私はエヴリン、リリルの村から来ました」
「食べ物探しポロ?」
目ざといポロットは彼女が手に提げている籠を覗く。
「……あまりいい物はないポロね」
少女・エヴリンの整った顔が曇った。
「ええ……季節がまだ早いので……」
「ごほん」と咳払いした橙夜は横目でポロットを睨みながら、肝心な質問をした。
……リリルの村……。
彼は聞き逃してはいない。
「バロードって人が来るって話しなんだけど、本当?」
エヴリンの白雪色の頬が染まる。
「はい! そうなんです! バロード様がいらっしゃって、村の病人を診て下さるんです」「そいつはね! 嘘つきなの!」
バロードの名にジュリエッタが激しく反応するが、エヴリンの大きな瞳に不審の色を見取り、橙夜はジュリエッタを抑える。
「ああ、いや、気にしないで……僕等も治療を受けたいんだ……ちょっとこの子がアレだから。残念で可哀相でしょ?」
「そうですか、そうですよね!」
エヴリンは口を押さえられ「むぐぐ」になっているジュリエッタを可哀相な人を見る目で見て、納得する。
「村に案内して欲しいな、僕は橙夜」
「分かりました」
エヴリンは「着いてきて下さい」と踵を返す。
万事上手くいった。彼の立ち回りに誤りはないはずだ。
だが森を抜けるまで「トウヤー」と地獄から響くような呼び声が背後から彼を呼んだ。
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