第4話
「うーん」橙夜は眉を潜めてタロの背中を撫でた。
ジュリエッタの持ち物だと言う森の中の小屋は二階建てで、さらに豚や鶏を囲う家畜小屋も扉一つ先に併設しており、豚や鳥たちの臭いと喧噪は兎も角置いておいて、タロを室内で飼う事は許して貰えた。
だがタロはまだ回復していない。治癒の奇跡で怪我が治ってから二日経つが殆ど食べなかった。立ち上がりもしない。
致命的な傷を受けてからしばらく放っとかれたのだ、仕方ない。
「しかし……」橙夜は思い悩む。
彼を懊悩させる問題はそれだけではなかった。
彼等が来た日本とこの世界のあまりに大きな違いが、橙夜を酷く疲労させていた。
まず食事。目の前には豚やら鶏やらがぶーぶーぎゃーぎゃーひしめき合っているが、出てくる食べ物は大抵硬いパンとオートミールと呼ばれる薄味スープだ。
パンはそれだけで食べようとすると歯が抜けそうになるので、スープに浸してびたびたにして食べる。
味に関しては述べる必要を感じない。
しかも食器はスープを入れる皿と木のスプーンだけで、後は手づかみ。訊ねるとナイフは肉を切り分ける時に使うが、フォークは知らないそうだ。
「きっと」澄香は囁いた。
「この世界はまだ食事は楽しむ物ではなくて生きるための物なのよ」
だとしても日本の美食に慣れた彼等は日に日に憔悴している。
次にトイレ。これは本当に厄介だ。
この小屋にトイレなる施設はない。ではどこで? 外だ。
しかもそこらの藪の中で適当に、と美少女のジュリエッタが麗しい微笑を向けた。
どうやら我慢していた澄香は慌てた。何せ詳しく聞くと、トイレットペーパーも無いらしい。
「ああ、拭くものね」美少女のジュリエッタは事も無げに答える。
「豚小屋の隅に干し草があるからそれを使って」
すーと澄香の顔色が抜けた。何せ折悪く夜だった、真っ暗の中で用を足し、干し草で拭く。年頃の少女にとって破滅的な現実だろう。
「あ、夜が怖いなら木の桶があるからここでしてもいいのよ」
「外でします! 暗いけど」
だから橙夜は提案した。
「僕が松明もって近くにいようか?」
誓うが決して変な気持ちだった訳ではない。澄香が可哀相だから手助けしたかっただけだ。何しろここら一体は当然街灯なんてないから日が落ちると本当にただの闇に塗りつぶされる。
しかし彼に向いた彼女の目は熾烈だった。
「女の子のトイレに着いてくるの? このヘンタイ!」
「ち、違うよ! 目をつぶるよ」
「臭いは? 音は?」
激昂した澄香が女の子らしくない尾籠な問いをぶつけるから、橙夜は胸の前で手を振る。「ちょっと離れているから」
ぎりりと澄香の奥歯が鳴る。
「わかったわかった、あたしが着いていってあげるから」とジュリエッタが中に入ってくれなかったら、澄香の罵倒は続いたろう。
二人が出て行った後、哀れに思ったのかアイオーンに頭を撫で撫でされた。
「クゥーン」とタロが手を舐める。
「苦しいのか? タロ」橙夜は我に返り、タロの耳の後ろ辺りを撫でる。
このままでは衰弱死するだけだ。
橙夜は考える。
……犬が弱っている時には葛湯とかが有効だったはずだ。しかし異世界に葛があるだろうか? あったとしても季節が違うから手に入らないかも知れない。
なら鶏肉で作るスープ。
橙夜の目は家畜小屋で騒ぐ鶏を追っていた。
「ダメ」ジュリエッタに一刀両断された。
「でも、タロが……」
「あのねえトウヤ、分かっているでしょ? 私達だって肉なんて殆ど食べられないのよ。小屋にいるのは死の冬への蓄えなの。犬にやる余裕はないわ」
「死の冬」橙夜の疑問に答えたのは、ほわっと聞いていたアイオーンだ。
彼女は鼻にかけている眼鏡のズレを直す。
「死の冬とはぁ、神様がこの世界に与えた罰なのぉ。かつてこのアースノアにはぁ古代魔法帝国というぅ星まで飛んで行けた凄い文明があったんだけどぉ、その傲慢が神々の逆鱗に触れ一夜で滅んでしまったのぉ。それ以来ぃ、この世界の冬は厳しくなりぃ、その間人間もエルフもドワーフも外にさえ出られなくなり、毎年沢山の凍死者とぉ餓死者を出すのぉ、何とそれがぁ、もう三〇〇〇年近く続いているのよぉ」
その時人間とエルフ達は袂を分かち、交流も途絶えたのだ、とアイオーンは補足した。
「ちなみにぃ、私がジュリちゃんとぉ一緒にいるのはぁ、私がぁ変わり者だからなのぉ」
アイオーンはにこにこしているが、橙夜はそれどころではない。
『死の冬』そんな物が来る前に何とか現代日本に帰らないとならない。文化も習慣も違う異世界で長く生き抜けると考える程橙夜は自惚れていなかった。
エレクトラ。
脳裏に浮かぶのは赤い髪の不思議なエルフだ。
早く彼女を捜さないといけない。
だがその前にタロだ。このままでは数日と持たないだろう。
「はあ」そう訴えると、ジュリエッタはため息を吐いた。
「あたしの鶏はあげられないけれども……外で狩る分にはいいんじゃない?」
橙夜は意味が分からず目を瞬かせる。
「だから、鳥がほしいなら自分で狩りをしなさい」
「あ」と橙夜はようやく飲み込んだ。確かにこの小屋の周辺は森だ、大自然だ。鳥などうろつけば見つけられるだろう。しかし……。
「狩る自信がないって顔ね、あーもう、分かったあたしも行ったげる」
ジュリエッタは己の金髪をわしゃわしゃとかいた。
「ありがとう、ジュリエッタ。恩に着るよ」
橙夜が涙を溜めて頭を下げると、
「あ、あんたの為じゃないんだからね! あんたがこの小屋にいられるのはスミカの力が貴重だから、あんたはおまけだから、それにタロも折角助けたんだし……勘違いしないでよね!」
と、ありがたいツンデレワードが振って来た。
「でも、一つ行っておくけど」
タロの滋養の為に狩りに出た橙夜に、ジュリエッタが釘を刺す。
「鳥やらウサギやらはいいけど、猪とか鹿はダメだからね、後木を傷つけるのも無し」
「え」橙夜は周囲を見回す。
木々に覆われた大自然だ。密かに鹿やらがいたら久しぶりの肉を……と考えていた彼だったから、彼女の言葉に首を捻る。
「うふふふ、それはねぇ」
弓を持ち矢筒を肩にかけるアイオーンが疑問に答える。
「この森は領主の御料林なのぉ、つまりは貴族達の所有物ぅ。鹿や猪はぁ狩りのぉ獲物だからぁ庶民は手を出してはダメぇ」
「本当なら森に入るのだって税金がかかるんだからね」
ジュリエッタは不機嫌そうにつけ加える。
「それにぃ関してはねぇ」アイオーンが引き継いだ。
「人間とぉエルフの懸案でもあるのぉ……私達エルフはぁ、動物の肉は食べないんだけどぉ、森が住処でありぃ、森が信仰の対象でもあるのぉ。だから人間の領主がぁ勝手に決めた法律に反発してぇ、人間がぁ森に入るのを邪魔をするぅエルフもいるのよぉ」
ふと橙夜は心づく。
「……どうしてジュリエッタはいいの? そう言えば君は森の中に住んでいるけど、村とか町はないの?」
その質問はどうやら地雷だったようで、ジュリエッタは眉間に皺を刻んで黙り、アイオーンは作り笑顔で口をつぐんだ。
突然場が静まり橙夜は慌てるが、陽キャでなかった彼には再び盛り上げる術がない。
しばらく草を踏み分ける音と、どこからか聞こえる鳥の声、藪にいる何やらがごごそごそと移動する気配しかなくなった。
橙夜は沈黙に耐えられなくなり、一応帯びてきたショートソードの柄を握る。
「ねえ、足利君」有り難いことに澄香がそっと声をかけてくれた。
「私なんだかこの世界の事少し分かったわ」
澄香は唇を橙夜の耳に近づけながら、体を少し離す妙な体勢になっている。理由があった。ジュリエッタの小屋には風呂がない。街には浴場はあるらしいが、ここにはない。ジュリエッタとアイオーンによると近くの川で水浴びするのは五日に一回らしい。
当然、清潔がモットーの現代日本女子はそれでは納得しない。だから毎日水浴びしているのだが、石鹸もシャンプーも無いから本当に水で体を流すだけだ。
トイレもなくトイレットペーパー代わりが干し草での状況では、男子である橙夜に近づく度胸がないのだろう。
彼としては気にしなくてもいいのだけれど。
「何が?」橙夜が聞き返すと、澄香は語り出した。
「この世界はどうやら地球の中世ヨーロッパくらいの文明みたいだけれど、中世ヨーロッパって暗黒時代と言われていたの。それは文明があまり発達しなかったからなんだけど、その主な原因は気候の変動にあったらしいの」
「ふーん」としか知識のない橙夜には答えられない。
「中世ヨーロッパは古代ローマ時代より寒かったんですって……ほら、死の冬……この世界はそれがあるせいできっと文明が進むのを阻まれているんだと思う」
橙夜は考える。
古代魔法帝国とやらにより神様が怒り、文明の進歩を阻止される。確かに厳しい罰だ。 死の冬とやらがある限り、この世界の人々はその季節に備えるために一年の殆どを費やさなければならず、他を考える余裕はない。
橙夜は暗澹とした。
早く元の世界に帰りたい。澄香もそう思っているようだが、このアースノアと呼ばれる世界は生きるのに辛すぎる。
死の冬、怪物達、発達しない文明。
……タロを救ったら早くあのエレクトラを探さないと。
「ストップ」珍しくアイオーンが鋭く指示をする。
「静かに」
いつもは穏和なイメージしかないアイオーンのタレ目が、どうしてか少しつり上がっていた。
「どうしたんですか?」
「頭下げて」
不安になった橙夜の頭を、アイオーンが押さえる。
「あれ……」
橙夜はそっと草むらから覗いた。口調の変わったアイオーンから緊急事態だと察する。
変な生き物がいた。
体長は中学生くらいの人型で、殆ど衣服を纏っていない体の肌は緑色。耳も鼻も尖って突き出ていて、所々抜けた歯や不潔な髪から美的感覚からはかなり遠い。
「ゴブリンね」とのジュリエッタに橙夜は「あれが」と感心してしまった。
ゴブリン……橙夜のやっていたゲームではザコ中のザコだ。
「全く、ここら一帯は私の家にも近いから見回っていたんだけど、あいつ等はすぐ巣を作る」
ジュリエッタはうんざりしたように天を仰いだ。
「危険じゃないかな?」橙夜はゴブリンが大抵悪役であることと、自分の手にある粗末な武器が気になった。
「大丈夫よ、ゴブリン本体は弱いから。まあ喧嘩の強い子供でも勝てるでしょ」
うふふふ、アイオーンはいつもの彼女に戻り笑う。
「まるでぇ、ジュリちゃんが大人みたいな言い方ねぇ」
橙夜は思い出す。ジュリエッタはまだ彼等と同い年、つまり高校一年生くらいの子供なのだ。ついでにアイオーンも二〇〇〇〇年生きるエルフに対して一八〇〇歳と若い。
橙夜は不意に心配になった。
「逃げようか? 今日は防具も着けてこなかったし」
「馬鹿にしないで!」ジュリエッタの目が尖る。
「ゴブリンなんてあたしの敵じゃないわ。アイオーンの魔法もあるし、スミカの治癒もある……問題は防具じゃなくてあんたよ」
「うっ」痛い指摘だ。確かに彼には何もない。
異世界に来るときに神様とも出会ってもいないし、腕っ節も絶望的だ。
「五匹……だけどその奥に洞窟みたいなのがあるから、総数だと倍位かしら」
ジュリエッタはレイピアを抜くと、作戦を述べた。
「まずアイオーンが矢を撃ち込み、ゴブリンが怯んだらあたしが突入する。スミカは怪我人が出るまで待機……トウヤはそこら辺にいて、勝手に逃げて迷子にならないように」
「それよりアイオーンの魔法で一気にやっちゃえば?」
橙夜はまだオークを一撃で屠ったウィザードの魔法を鮮烈に覚えていた。
炎に雷……だがアイオーンはかぶりを振る。
「あのねぇ、魔法は万能ではないのぉ、使うには精神集中とぉ呪文の詠唱が必要ぉ。で精神集中はぁ魔法を使うたびに困難になっていくのぉ、疲労するのねぇ。だから何回か使ったらぁ休まないとぉ……スミカちゃんの奇跡もぉきっとそうよぉ」
「そう、だから魔法は最後の手段として取っておく。まずは攪乱と突撃」
ジュリエッタは皆を見回す。
「一人で突入するの?」澄香が問い、ジュリエッタはにっと白い歯を見せる。
「あんた達に私の冒険者としての実力を見せてあげる。……大丈夫よ、ゴブリンは本来夜行性だから今は眠くて仕方ない筈だから。眠ければ動きが鈍る」
不安な二人を残して音もなく二人はそれぞれの配置についた。
エルフのアイオーンは身軽で、飛ぶように木の枝に乗る。
ジュリエッタは剣を抜いたまま、藪の中に潜む。
……確かに二人とも手慣れている。
橙夜は感心して、早くも肺の中の空気を出した。
甘すぎた。
藪の中に身を隠したジュリエッタが発見したのだ。アレを……。
「きゃわー! へびっ、へびっ」
突如ジュリエッタが滅茶苦茶に剣を振るい悲鳴を上げ、作戦は破綻した。
「グオウ?」ゴブリン達は槍やら剣やらを手に持ち、蛇に驚いて冒険者としての実力を見せてくれたジュリエッタへと殺到する。
びゅん、と風を切る音がした。
「グボ!」ゴブリンの一匹がアイオーンの矢を首に受けて倒れる。
だが次をつがえる前に、パニック状態のジュリエッタにゴブリンが近づいて来る。
橙夜の体は自然に動いていた。
何かあったときのために持ってきていたショートソードを抜くと、ゴブリンとジュリエッタの間に入る。
「ガウォ!」威嚇なのか一声鳴いたゴブリンは、四匹で橙夜を囲んだ。
橙夜の背骨が冷えた。ゴブリンの濁った目に殺意を見い出したのだ。
……殺されるのかな?
彼はこの世界に来ていきなりオークに襲われたが、あの時より冷静な分恐怖は大きかった。
「足利君!」澄香が耐えられなくなって姿を現したから、余計退けなくなる。
彼女はジュリエッタに貰った麻の服しか着ていない。武器も持っていない。ゴブリンが目をつけたら終わりだ。
橙夜はショートソードを構え直した。
ショートソードの刃渡りは七〇から八〇センチはある。名称から短剣に毛が生えた程度と考えていた橙夜だが、ロングソードが一メートル以上あるために便宜的にショートと名づけられているだけらしい。
ちょっとした日本刀ほどの長さ、故に十分に武器にはなった。
ゴブリンが槍を突き出した。橙夜は素早く避けるとともかく剣を横薙ぎに振った。
「ギャ!」ゴブリンは怯えたように遠ざかる。
と、また一匹の敵が頭に矢をはやして倒れた。
アイオーンの援護は的確だ。
ここでゴブリンは決心したのか二匹同時に襲いかかる。橙夜はほとんど勘で一匹の剣を避けると、もう一匹の胸をカウンターで貫いた。
「グギャア!!」ゴブリンは絶叫して動かなくなり、ショートソードを伝って黒っぽい液体が橙夜の手を濡らす。
「橙夜君!」澄香の呼称が「足利君」から「橙夜君」に変わっていたがそれに反応できない。どうしてか体が固まっていた。
ゴブリンの胸を刃物で刺した感触が彼を彫像のようにさせていた。
「グオオ!」復讐に燃えるもう一匹が体制を立て直し、剣を振り上げても橙夜の体は動かない。
……ダメだ!
橙夜は観念し、目をつぶった。
だがゴブリンの剣の痛みはいつになって振ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、最後のゴブリンは倒れ、その横に頬を真っ赤にしたジュリエッタが微妙な顔で立っていた。
「ち、違うの」彼女は誰かが何かを口にする前に弁解した。
「こ、これは作戦……そう! 作戦なの!」彼女の目がまだゴブリンを剣にぶら下げている橙夜に向く。
「か、勘違いしないでね、これは失敗したんじゃなくてトウヤを戦力として成長させるためなの、あんたのためなんだから!」
これはツンデレか? と判別できない橙夜だが、問題が残っている。
殺したゴブリンだ。
そう殺した。足利橙夜は人形をしたそれなりに大きな生物を殺したのだ。
はあはあふー、とどうしてか息が切れた。
「橙夜君」と澄香がそっと手を彼のそれに置く。
まだ橙夜はショートソードの柄を全力で握っていた。
どうしたか酷く胸が冷える。大きな罪を犯してしまった気がした。
「ぎゅー」と突然アイオーンが彼を抱きしめた。
「わっ」と狼狽するが、構わず彼女は橙夜の頭を胸に包む。
「おりこうおりこう」アイオーンは彼の頭と凍りついた心を温かい手で撫でてくれた。
「あなたがいなかったらジュリちゃん大変だった。トウヤ君は勇敢ね、私の友達を助けてくれてありがとう」
「だ、だからこれは助けられた訳じゃ……」
がアイオーンと澄香のジト目を受けたジュリエッタはもにょもによと呟き、やおら頭を下げた。
「ありがとうトウヤ、助かったわ」
頬を染め、涙目になりながらジュリエッタは礼を言う。
その姿を見ていると、橙夜の魂を冷えさせる何かが消え、彼の手からぽろりとショートソードが落ちた。
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