第3話
母がいつも通りシステムキッチンで食器を洗っていた。
橙夜はその背中を見ながら、変な夢を見たな、と首を傾げる。
わんわん、とタロがリードを口にくわえ散歩を要求していた。
……そうだな。
橙夜は頷く。
……それがないとお前は車に……車に……。
「キャン」タロが一声鳴くと倒れた。
「母さん!」
橙夜は血まみれの愛犬を抱いて母の背中に叫ぶ。
「タロが、タロが!」
「ええ、そうね……大変ね」
母がゆっくりと振り向いた。その顔は豚のような猪のような、オークのそれだった。
「わあっ!」
足利橙夜が目覚めて最初に見たのは、木で組まれた天井だった。ただ酷く暗い、目だけはいい彼でさえ見通すのが困難なほどの陰に覆われていた。
ずきりと右手が痛んだ。
どうやらベッドに寝かされていると理解した彼が、薄い掛け布団からそれを持ち上げると、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
忘れていた悪心が蘇る。
痛みで痺れていて確認できないが、包帯の下は幾つか指のないずたずたの手があるはずだ。
はあはあ、と息がまだ乱れ何度かえずいた。
橙夜は何とか心を誤魔化そうと半身を起こした。それにしても酷く寝づらいベッドだ、背中にスプリングの感触はない。
「あ、起きた」
一声上がり、金髪を背中で一本で編んでいる少女が駆け寄る。
「大丈夫?」
「は、はい」と橙夜は答えたが、改めて少女の美しさを目の当たりにして内心どぎまぎする。
アジア系ではない高く細い鼻と処女雪のような肌、少し厚めの赤い唇がチャーミングで、それでなくとも女子免疫のない橙夜をさらに内気にさせる。
「ダメよ、シャドードッグに手を出しちゃ。どんなに弱っていてもあいつ等は凶暴なんだから。もう少しでオーク共々犬のエサだったのよ」
金髪の少女は指を暗い天井に向け、橙夜の無茶を咎める。
「ジュリちゃん、そちらのぉ異世界の男の子ぉ、起きたぁ?」
橙夜はさらに圧倒された。
金髪の少女よりさらに美しい……本当に生きている人間なのか疑わしい程の美貌の少女が近づいて来た。
彼女はタレ目気味の目の下にある泣きぼくろが印象に残る、長身でロングヘアで鼻に眼鏡をかけた……エルフだ。
橙夜は改めて髪からのぞく長い耳を見つめた。
「あらぁ、この子ぉ私を見つめているぅ……好きなのねぇ?」
エルフは勘違いをして頬を染めた。
「どうしましょうぉ、私恋なんて初めてだわぁ。それが異世界の男の人なんてぇ……一八〇〇年生きてきてよかったぁ」
「アイオーン! 勝手に決めないでよ」
金髪少女が非難する。どうやら緑がかった黒髪エルフはアイオーンという名前らしい。「あ、ごめーん」と金髪少女が気配を察した。
「私はジュリエッタ、冒険者よ」
金髪少女・ジュリエッタは『冒険者』と名乗る所で、それだけは残念な薄い胸を張った。
「こっちはアイオーン、見ての通り……て、あんた、異世界から来たんだってね、エルフと言う妖精の一族よ」
うふふふ、とアイオーンは少女のような容姿で宛然と笑う。
橙夜はようやく辺りを見回す余裕が出来た。
どうやら木の小屋のようだが、壁にはびっしりと煉瓦が積まれている。
「それにしても」ジュリエッタがまじまじと彼を見つめてきた。
「異世界人なんて凄いわね」
「そうねぇ、でも季節が夏でよかったわぁ。これが死の冬だったらぁ……」
アイオーンはぶるぶると身震いする。
「あ、あの」橙夜は二人の美少女を交互に見やりながら、ようやく質問する。
「どうして僕が異世界から来たと?」
「ああ、それ、それはほらもう一人女の子がいたじゃない」
橙夜ははっとした。どこかぼやけていた思考がクリアになる。
「蒲生さん……蒲生さんはどこですか? 無事なんですか」
ジュリエッタとアイオーンが答えるまでもなく、小屋の扉が開き眩しい陽光を背にした蒲生澄香が現れた。
「あ!」澄香の目に見る見る涙が溜まっていく。
「足利君!」
彼女は飛びつく勢いで橙夜の側に走った。
「心配したんだよ……私もうダメかと」
「大げさねぇ、この子はぁ自分のぉ血を見てぇ失神したのよぉ」
澄香が無事で心配していてくれた事は嬉しかったが、アイオーンの正確な診断に橙夜は赤面した。
「どうして君がこの世界に?」
羞恥を誤魔化すために、橙夜は頬を引き締め真剣に、真面目な質問をする。
「それは……」
聞く必要もなかった。橙夜と全く同じだったのだ。
闇の中にいて、明るくなったら赤い髪のエルフと出会い、放り出される。
エレクトラと名乗っていたが、あのエルフは何だったのだろう。
「赤い髪のぉエルフぅ……」
アイオーンは悩んでいるようだ。
「エレクトラ、と名乗っていました……目は金色でした」
黒髪のエルフは補足情報にさらに困惑したようだ。
「へんねぇ、そんなぁ特徴のエルフなんてぇ聞いたこともないわぁ」
「この二人のように異世界から来たんじゃないの?」
ジュリエッタが答える。
「そうか、蒲生さんに事情を聞いたんですね? 異世界のこと」
「ええ、そうよ」
ジュリエッタは頷き、頭をかく。
「いや、本当は最初その子の言葉を信じられなかったんだけど、アレを見せられちゃ、ね」「アレ?」
「これ」と澄香が着替えたのかあまり飾り気のない服のポケットからスマートフォンを出す。
「びっくりしたわ、画面の中に風景があるんだもん。しかも中で小さな人達が動いているし」
どうやら澄香はスマホに録画されている動画を見せたらしい。
「でもねぇ、異世界ってのもぉ、あながちぃ遠い話じゃないのよぉ」
アイオーンがにこやかに説明する。
「この世界にいるぅ、デビルとかはぁ、異世界から来たぁ、と言う人達もいるのよぉ」
「ふーん」ジュリエッタは感心している。
「それでぇ、どう?」
アイオーンが澄香に何か訊ね、彼女は真剣な表情になり「出来るみたいです」と答えた。「え! 本当? やったあ」
訳が分からない橙夜を置いて、ジュリエッタが小さく飛び上がる。
「外で試しましたが、使えました」
「やっぱりねぇ」
アイオーンは満足気に頷く。
「ええっと……何の話し?」
我慢できない橙夜に、澄香はいつの間にか首から下げていた銀のメダリオンを見せる。
「足利君は出会わなかった? この世界に来る時、美人の女の人に」
「いや、出会わなかったけど」
「この子はねぇ、この世界に来るときぃ、地母神エルジェナの加護を得たのよぉ」
「ちぼ……える……?」
「足利君、手を出して」
混乱する橙夜に構わず、澄香は包帯ぐるぐるの彼の手を取った。
「ち、ちょっと!」
慌てる。感覚からまだ治っていないと橙夜にも分かる。それに指が無くなった無惨な自分の手を目の当たりにするには心の準備が必要だった。
「大丈夫」と澄香は橙夜に抵抗される前に包帯を解いた。
「う」と橙夜は目を逸らした。
シャドードッグとやらに噛まれた手は思っていた以上に酷い状態だ。
指は一歩だけになり、掌は縦に裂け無くなった肉から骨が見えている。
橙夜はまた目眩を感じる。
しかしそんな酷い手に澄香は手をかざす。
「地母神の名に置いてこの者に慈悲を」
ぼんやりと澄香の掌が光る。
「え!」橙夜は愕然とした。傷が治っていくのだ。まるでビデオの早戻しみたいに千切られた肉は骨を覆い、指も全て元通りになった。
「治癒の奇跡ぃ、この子ぉ……スミカちゃんはぁプリーストなのぉ」
アイオーンが理由を口にしたが、橙夜にはちんぷんかんぷんだ。
「つまりっ、この子はこの世界に来る時に地母神の加護を得て、治癒の奇跡が使えるようになったの! わかった?」
ジュリエッタがずいっと橙夜に顔を近づける。その迫力に彼としては「はい」と答えるしかない。
「これは凄いことなの! 治癒の奇跡なんて今使える人は、ほんの僅かよっ」
どうやらジュリエッタは興奮しているらしい。
「これで私達の冒険の幅が広がったわ、スミカに会えて本当によかった」
澄香は褒められて嬉しそうに俯く。
橙夜はぼんやりと傷一つ無い右手を開いて握ってを繰り返した。そっと口にする。
「あの、僕が倒れてどれくらい経ちました」
「え?」はしゃいでいたジュリエッタが首を捻る。
「丸一日だけど」
「……じゃあ、じゃあ、僕を噛んだあの犬はまだ生きているんじゃ」
「はあ?」
ジュリエッタが眉をしかめる。
「そりゃあ生きているかも知れないけど……だとしてどうするの?」
「蒲生さん……その治癒の奇跡であの犬を治してくれないか?」
「え!」と澄香が目を見開いた。
「ば、馬鹿じゃないのあんた!」
ジュリエッタが二つの拳を天に向ける。
「スミカの治癒がなかったら右手は無くなっていたのよ、それにシャドードッグは魔物、助けたって他の人を襲うだけよ」
「だけど……」
思い出すのは目だ。傷ついた者の怯えた目。タロが最後にその目をしていた。
「助けたいんだ……考えたら、あの犬達のお陰で僕等はオークから助かったような物だから」
「足利君」
澄香は真剣な面差しで真っ直ぐ見つめる。
「治したらまた噛まれるかもしれないよ、それでも?」
「助けたい! お願いだ力を貸してくれ」
しばらく小屋の中がシンとする。橙夜は歯を食いしばった。自分がとんでもない頼みをしていると自身分かっていた。
「そうねぇ、シャドードッグは魔物だけどぉ、消えたりするだけのぉ犬って言えばぁ犬かなぁ」
アイオーンはほんわかとした口調だ。
「助けてもぉそんなに害はないかもぉ」
「アイオーン!」
「まってぇ、ジュリちゃん……ねえ君……トウヤ君? 君はぁあの魔物を助けたぁ後どうするのぉ? それに責任持てるぅ?」
「う」と橙夜の喉が詰まる。
確かに凶暴な獣を助けるのはリスクがある。自分はよくてもこの先他人を傷つけてしまうかも知れない。
「……責任は……」橙夜は決心した。
「あの犬がもし襲って来たら、僕がまず犠牲になります! 僕の責任ならば仕方ない」
「足利君! ダメよ!」澄香の非難は悲鳴のようだ。
アイオーンは鼻にかけている小さな眼鏡をとって橙夜をしばらく見つめる。
「うん」と頷いた。
「ならぁ、わたしもぉ、協力するぅ。でもぉ、案内するだけだけどぉ」
「ちょ、ちよっと」ジュリエッタは不満なようだ。
「正気なの? 魔物を助けるなんて」
橙夜はまた論争が始まる気配を感じ、ベッドから出た。そこで知ったが今まで寝ていたベッドは木の枠に藁を敷いてその上に布をかぶせた、あまりに古い作りの物だった。
「僕は行きます……」
だが足がもつれて木の床に倒れかける。
抱きかかえてくれたのはジュリエッタだった。
「はあ……仕方ないわね、でもそのままじゃダメ」
と彼女は橙夜を立たせると、小屋の上階へ向かう階段の近くの扉を開き入っていった。
ややあって彼女は剣と木の盾と革製の鎧を手にしている。
「これ、あんたに貸してあげる……ショートソードと盾と硬革の鎧、またシャドードッグに襲われたら自分でケリをつけなさい」
橙夜は勿論剣なんて使えないが、鋼の輝きは彼の精神を落ち着かせてくれた。防具の存在も有り難い。
「ありがとうございます、ジュリエッタさん」
「ジュリエッタでいいわ」と彼女の頬が赤くなる。
「言っておくけど、あんたの為じゃないからね! シャドードッグが心配なのよ」
ああ、と橙夜は感動した。本物のツンデレを初めて見たからだ。
「こっちよぉ」
アイオーンはエルフの身体機能か、するすると森を進み振り返って橙夜達に呼びかける。 だが橙夜はごわごわとした革鎧の感覚と、腰に吊したショートソードの重さであまり急げない。
ゲームでは勿論気にしたことはなかったが、剣と防具ははっきり言って不便だ。
「まあね」よろよろとした彼の動きをジュリエッタが弁護してくれる。
「本来、鎧や剣は着けて歩き回る物じゃないのよ。戦うときだけ着用するって感じだから……冒険者はそうも言ってられないけど」
そうなのか、とは橙夜は頷けない。何しろ、やはり武装しているジュリエッタには苦にしている様子はない。
ちなみに木の盾は置いてきた。盾は重いしかさばるし邪魔以外の何物でもない。
無知な橙夜は最初「金属の盾はないんですか?」と馬鹿な質問をしてしまった。
ジュリエッタ大笑い。
どうやら金属製の盾など小さなおまけしかないようだ。今は合点が着く。RPGでは平気で鉄の盾とかが出るが、考えたら鉄の板を持ち歩くなんてどんなマッチョでも不可能だ。 ジュリエッタによると、そもそも盾とは盾持ちと呼ばれる者が持っていて、戦の時に戦況に応じて主に渡すそうだ。
だから冒険者で戦士のジュリエッタも、盾を持たない。
……知らないことばかりだな。
肩で息をしながら、橙夜は改めて思い知った。
「ねえ」とその橙夜に控えめな声がかかる。
澄香だ。
「どうしたの? 疲れた?」
と聞き返す彼に、彼女は目を伏せた。
「考えていたんだけど……私達がこの世界に飛ばされたのなら、川中君も飛ばされているんじゃないかな」
今更ながらはっとした。
あり得るのだ。赤い髪のエルフは間違えて橙夜と澄香をこのアースノアに飛ばした。ならば近場にいた亮平も同じ目に遭った可能性は高い。
しかし……胸の奥がチクリとした。
澄香は亮平を気にしている。遠くてあの時の告白の正否は分からなかったが、彼女はやはり亮平との付き合いにOKを出したのだろうか。
橙夜は自分の心が萎縮するのを感じた。同時に今更はっきり自覚した。
……そっか、僕は蒲生さんと亮平の告白を阻止したかったんだ。
その後は皆無言で足を動かした。
と、先行しているアイオーンが手を振っている。
出来る限り急いで彼女の傍らに向かうと、倒れているシャドードッグがいた。
背中に一つの斑。間違いなく昨日の橙夜の代わりにオークに斬りつけられたシャドードッグだ。周囲を警戒するが仲間はいない、群れから見捨てられたのだろう。
怖々観察すると、まだ生きているようだった。
ただ横に寝て、口から長い舌を出している。危険な兆候だ。
橙夜の心は冷える。その光景は二度目だった。
タロが車に轢かれた時、と今。
そもそもタロの死には橙夜の責任が重かった。どうしてかリードをつけずに散歩をしてしまった。
その為にタロは車道に飛び出して……。
橙夜は無言でシャドードッグの傍らにしゃがむ。
「気を付けなさい!」ジュリエッタが警告するが、今の橙夜には聞こえなかった。
「ごめんな、僕のために」
それは誰に語りかけたのか、死にかけたシャドードッグか、一ヶ月前に失った愛犬か。「グ、ルル」弱々しくシャドードッグは威嚇する。何とか生きようとしているように橙夜には思えた。
「僕にはお前を助けた後が分からない……人を襲うのかい?」
「足利君!」
澄香に構わず、彼は再び手をシャドードッグの、それも口元に近づけた。
鋭い痛みが走る。
当然噛まれた。
「ちょっとあんた!」
ジュリエッタはレイピアを抜くが、橙夜は微動だにしなかった。
「……君はこうして人を襲うのかい?」
橙夜は痛みに耐えた。一つにはシャドードッグが弱っていた事が幸いした。
しばらくして、橙夜の手はシャドードッグの顎から解放され、血の染み出す部分をシャドードッグは弱々しく舐めた。
「僕は君を信じる……蒲生さん」
「はい」と怯えた様子の澄香が進み出て、シャドードッグのぱっくり割れた腹部に手をかざす。
傷は時を経ず消えた。
だがシャドードッグは横になったままで立ち上がらない。
「あー、治癒のぉ奇跡はぁ、あくまでも治すだけだからぁ、体力の回復はぁ、出来ないのよー」
一連を無言で見つめていたアイオーンが口を開く。
「体力の回復は?」橙夜が訊ねると、澄香は首を振る。
「それはぁ違う魔法でぇ、今はぁ出来ないらしいのぉ、いつか出来るようにぃなるらしいけどぉ」
橙夜はアイオーンの説明を聞き、シャドードックを抱いて持ち上げた。
「あ!」と誰かが驚いたが、構わない、
「きっと助けてやるからな……タロ」
シャドードッグに名前がついた瞬間だ。それを理解したのか、タロは橙夜の頬をぺろりと舐める。
足利橙夜は確信した。もうこのシャドードッグは人を襲わないだろう。
彼はタロと命名したシャドードッグを小屋へと運んだ
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