第2話
橙夜はふと考える。それだと辻褄が合う気がするからだ。
何せ移動しようと足を動かしても、進んでいるのか止まっているのか、もしかして後退しているのかとさえ感じられてしまう。
異常だった。全てが異常な状態で、異常な場所だった。
そこにどれだけいたのか、何分? 何時間? あるいは何秒。不意に世界が開けた。
何も感じなかった鼻に植物の青臭さを感じ、肌にはゆったりとした生暖かい風を感じ、足の裏には土の軟らかい感触があった。
「え!」橙夜は立ちつくすだけだった。
確か彼は日高高校の敷地内で体育用具倉庫の陰にいたはずなのに、今は草原の真ん中だった。
膝まである深緑の草に、なだらかな丘。遠くには大きな広葉樹が集まる鬱蒼とした森らしき物が見えた。
「え……」橙夜はもう一度言葉を漏らすと、空を仰いだ。
太陽が彼の真上にある。
……いや、おかしい。
すぐに否定する。何せ川中亮平と蒲生澄香を待ち伏せていたのは放課後なのだ。
確かに空は同じ青空だが、太陽の位置が明らかに変わっていた。
「ここは?」
橙夜は何度も辺りを見回した。少しでも馴染みのある何かを目にとめたかった。
だがタロを殺した車も、アスファルトの道も、ビル群も何も見いだせなかった。まるでどこか田舎、それも雰囲気から日本以外の場所のようだ。
「バルミシャ、ナルケス」
突然背後から声が上がり、橙夜は腰を抜かしかけながら振り向いた。
美しい異国の女性が立っていた。
燃える炎のように赤々とした髪と黄金の瞳を持つ絶世の美女だ。
「テルミカ、ノベラス」
やはり外国なのか、彼女は全く聞いたことのない言葉で、何か喋っていた。
「ええと……わかりません」
橙夜が慌てながらも答えると、赤い髪の女性は冷ややかな目を細め、彼に何かを渡そうと手を挙げた。
白い掌の上に赤い宝石の嵌った指輪がある。
「ええっと、くれるんですか?」
だが女性は苛立ったように橙夜の左手を掴むと指に無理矢理はめた。
「これで言葉は分かるな異世界人」
橙夜は仰天した。突然目の前の外国人が日本語を話し出したのだ。
「ああ、違う」赤髪の女性は心底面倒そうに手を振った。
「その指輪の魔力でこの世界の言葉が分かるようになっただけだ」
「この世界?」
「言っておくが貴重な指輪だぞ。それだけでほぼアースノア全域の言語、エルフやオーガーどもと話せるようになるのだからな」
「あーすのあ? エルフ……」
橙夜は混乱した。彼も二〇一〇年代の日本の少年だ。当然RPG等でファンタジー系のゲームをプレイしたこともある。だからアースノアはともかくエルフやオーガーとかの固有名詞は知っていた。
あくまでも作り物の物語と単語として、だ。
今更橙夜ははっとした。
目の前の女性の赤い髪から槍先のように長い耳が突き出していた。
……エルフ? まさか……。
女性は、つまらない物でも見るような視線を向けつつ話しを続けた。
「私はエルフのエレクトラ……お前を……まあいい。お前を召喚した者だ」
橙夜は雷に打たれたような衝撃を受けた。
目の前の美女がやはりエルフだったからだけではない、はっきりと『召喚』したと認めたからだ。
「ええと」
橙夜は痺れる舌で何とか疑問を解消しようとしたが、その前にエレクトラの掌が突き出される。
「余計な事はいい。今回のは失敗だ。私は集団を召喚したのだがどうやら座標が逸れてしまったらしい」
何となくエレクトラと名乗ったエルフが不機嫌でぞんざいな理由が分かった。
つまり足利橙夜は間違ってこの世界……アースノアとやらに来たらしい。
思い返すと、確かに野球部の集団が近くにいた。エレクトラは彼等こそ招きたかったのだろう。
……だったら元の世界へ……。
橙夜は至極当然の欲求を持った。彼の世界では父と母と妹が待っているのだ。
「はあ」とエレクトラはこめかみを押さえ、橙夜が要求する隙を与えなかった。
「この異世界転移の儀式は何十年もかかり、膨大な魔力を消費する。くだらない間違えだった、では済まない……」
「へ? 何十年?」
「無駄だとは思うが、お前が使えるか試させて貰うぞ」
何か言おうと口を開け閉めする橙夜に構わず、彼女はぱちんと指を鳴らした。
どすん、と突然空中に現れた巨大な影が二つエレクトラの両脇に着地する。
足利橙夜は数秒呼吸を忘れた。
何もないはずの中空から降り立ったのは巨大で醜い怪物だった。
顔は豚か猪に似た獣の形で、腕や体は筋肉でぱんぱんに張っている。衣服らしい物は辛うじて腰に巻かれているだけだが、手には一目で本物の鉄と分かる刃こぼれしてギザギサになった剣があった。
怪物の身長は二メートル以上か。
「お前が使えるなら、オーク二匹くらい何とかするだろう。使えないならこいつらに始末させる」
エレクトラは冷酷に宣言した。
「やれ」
橙夜は赤い髪のエルフの声で我に返り、踵を返して逃げ出した。
なんとかするだろう、とかの次元ではない。こんな化け物と戦えば瞬殺だろう。
大体元の世界でだって喧嘩もしたことがなかった。
「ブモー!」
二匹のオークはどすどすと草を踏みつけながら橙夜を追って来た。
「冗談じゃない!」
橙夜は目に涙が溜まるのを感じたが、乱暴に拭った。泣いている場合ではない。
……オークってのは……ゲームではザコだったけど、本物はハンパないな……とても高校一年が勝てる相手じゃない。
少し強がりながらも、橙夜は懸命に草原を駆けた。
草を蹴り丘を登り、足利橙夜は森の中に入った。
はあはあ、肺が悲鳴を訴え顎が上がる。
だが彼は止まれなかった。背後からは「グモー」だとか「グルー」だとかオークの声が聞こえている。
橙夜は全身を不快な汗に浸していたが、額だけは拭った。
とこんな時に妙だと思った。
彼がいた世界は東北の都市で既に秋を迎えていた。だがここはまだ夏の盛りのようで、空気に熱気が満ちている。
「季節も違うのかよ!」
橙夜は喚いて、彼を召喚したと言う赤い髪のエルフに悪態をついた。
「ブゴー!」一瞬で余裕が消し飛ぶ。
オークは着実に彼の背に迫っていた。
「きゃあああ!」
悲鳴を聞きつけたのはそんな時だった。
走りながら見回す。光もあまり射さない暗い森だ。誰が声を発したかも分からない。
橙夜は迷った。びくびく痙攣する呼吸器官と相談した。
結局、悲鳴の方向へと足を向けた。
こんな状態の自分が行ってもどうしようもないが、誰かが助けを求めているのなら何かできると信じたいのだ。
地に露出した太い木の根を跳び越え、所々の藪を突き抜けて橙夜は悲鳴の発生場所に到着した。
「あ!」と逃げていた足が止まる。
座り込んでいたのが蒲生澄香なのだ。彼女は何かから遠ざかるように腰を落としたまま後ずさりしている。
「蒲生さん!」
橙夜は駆け寄った。駆け寄って知った。彼女も自分と同じ状態だった。
一匹のオークが槍を持って立ち塞がっている。
「足利君!」
澄香は泣きながらしがみついてきたが、当然喜べる状況ではない。
がさりと草をかき分ける音がし、彼をしつこく追っていた二匹の怪物も姿を現す。
「……はは」もう笑うしかない。どうしようもない敵が一匹増えたのだ。
絶体絶命の時、どうしてか笑いがこみ上げる物だと、橙夜は知った。
「ううう……」澄香は彼の胸で泣きじゃくっていた。
着ているセーラー服が所々破れている。彼女も森の中でかなり逃げたのだろう。
橙夜は蒲生澄香の重さを腕に感じながら決心した。
彼女だけは逃がそう。
あるいは昨今の女性には怒られるかも知れないが、こういう場合、男は女の子を助けなければならないとの古くさい考えを彼は手放していない。
「いいかい、聞いてくれ」
橙夜は三匹のオークの接近。獲物をもう捕らえた気でいるのか、ゆっくりにじり寄る彼等を素早く確かめながら澄香に囁く。
「ここは僕が何とか奴らの気を引くから、蒲生さんは逃げて」
彼女は胸の中で首を振る。
「ダメ、そんなこと出来ない。足利君を置いていけない」
「蒲生さん!」
橙夜は焦った。蒲生澄香が物静かのようでいて実は頑固だと知っていたつもりだが、ここまでとは予想外だった。
「このままでは二人とも殺されるんだ!」
橙夜は無理にでも澄香を逃がそうと、辺りを見回した。
突き飛ばせば滑り落ちていくような坂を探したのだ。
そんな物無かった。
あるのは茂った木と草だけだ。
「ブフフ」オーク達は勝利を確信しているのか、不気味に笑う。醜い顔を更に歪ませて。 ゆっくりと彼等の包囲が狭くなった。
橙夜は奥歯を噛みしめると、背後の大木に澄香を隠すようにして前に出た。
嘲るような表情のオークの武器が光った。
鉄製のがたがたの剣と、錆びた槍は痛いのだろうか? もはや橙夜が考えられるのは自分の最後の瞬間だけだ。
その時、幾つもの黒い影が突如オーク達に襲いかかった。
「グルグルグル」
うなり声があちこちから上がる。
「な……」
見回して確認する必要はない。もう黒い影は姿を現していた。
犬だ。
だがかつて橙夜が可愛がっていたタロ、柴犬とは違う。より大きく、頑丈そうな顎と長い牙を持った野獣だ。
「クフォ!」
犬の群れはオーク達に飛びかかった。橙夜達の存在にも気付いているようだが、無力な女の子を背にした無力な男の子よりも、武器を持ったオークを倒すことを優先したようだ。「ガーグルグルっ!」
犬達とオーク三匹の戦いは凄まじかった。
オークは武器を振り回すが、犬はそれを身軽にかわし、牙で一撃を与え離れる。
見る見るオークに傷が出来ていく。人間と同じ色の血が辺りに散った。
「グフォウ!」
と、俄にオークの一匹が剣を構えて動けない橙夜達に突進して来た。
犬の数に押され、とにかく任務を達成して逃げようとでも考えたのか。
剣を振り上げたオークの接近を橙夜は見ているだけしか出来なかった。
全てがゆっくりとなる。
傷だらけのオークが刃こぼれだらけの剣を振り上げる。ゆっくりとそれが橙夜に落ちてくる。
「キャン!」
甲高い犬の悲鳴が上がった。
オークの剣と橙夜の間に犬が入り込んでいた。
他に比べればまだ体が小さめな犬が、腹を切られて横に倒れた。
「タロ!」
橙夜は叫んでいた。
似ていた。勿論犬の姿ではない。
タロが車にはねられた時に上げた声と、その後の倒れた姿が何の偶然か彼等を救った犬と重なる。
見直すと、その犬の背中にはタロと同じく一つの丸い斑があった。
橙夜は何も考えず、思わず手を出していた。助けられなかったタロを思ってしまった。「ガウウウっ」
倒れた犬は差し出された橙夜の右手に激しく噛みついた。
「わあ!」橙夜は苦痛の声を上げる。傷ついた獣に触れようとしてはならない。
「足利君!」澄香が高い声で叫んだ。
橙夜の右手は散々なことになっていた。
掌は裂かれ骨が露出し、指は何本か無くなっていた。血が噴き出し、彼の学生服の袖を濡らしていく。
「動かないで!」
澄香がどこから出したのかハンカチで素早く彼の手を包む。
「うぐっ、うー」激痛は遅れて襲ってきた。
橙夜は真っ赤になるハンカチに包まれた手を胸に押しつけて身を折った。強く押さえたら痛みが消えると期待したが、そんなことはなかった。
「ブフー」
そんな彼の前に改めてオークが立つ。
見上げる橙夜に歪んだ笑みを見せていた。
剣が天を向いた。後はそれを振り下ろすだけだ。
「ファイヤーアロー!」
声は決して高くなく、しかし低くなかった。
「ブウァ?」
橙夜に止めを刺そうとしていたオークのどてっ腹に炎の矢が突き刺さる。
「ウゴウ?」
目で確認したオークだが、声を上げられなかった。不意に飛び出した何者かが左胸を細い剣が貫いたからだ。
橙夜は後頭部で編み込まれた金色の髪が跳ねるのを見た。
「オークどもめ! また性懲りもなく人を襲っているのね! 大丈夫?」
金髪の人物が振り向いた。
意外なことにそれは自分達と大して年齢が変わらないだろう少女だった。
ただ顔立ちは非常に整っていて、かなりの美少女だった。
「ジュリちゃん、またぁ魔法使うから下がってぇ」
もう一人誰かが喋る。炎の矢を飛ばした者だった。
首を捻って橙夜は凍えた。
一瞬赤い髪の冷酷なエルフを思い出したのだ。
実際、その女性はエレクトラに似ていた。
人間離れした美貌とやはり長く尖った耳。だが髪の色は緑がかった黒で、表情はタレ目気味で眼鏡をかけていることもあり穏和だった。年齢もまだ少女と言った感じだ。
「アイオーン! やっちゃって!」
「はぁい」と呑気に答えるエルフは、風で揺れる真白いローブを押さえながら、木の杖を構える。
「サンダーウェーヴ!」
杖から放出された稲妻がまだ犬と戦っているオークの一匹に命中し、「ブモ?」とばったり倒れた。
橙夜はだが、どうやら助けてくれている二人の姿をこれ以上見ていられなかった。
タロと間違えた犬に噛み砕かれた手がじんじんと痛み、呼吸も乱れてきた。
はあはあはあ、目が霞んでいき、胃の中の物がせり上がるのを感じた。
真っ赤に濡れていくハンカチのインパクトが巨大すぎた。
窄まる視界の中で、一つの光景だけは見届けた。
一匹の蜘蛛が金髪の美少女の前にするすると降りてきた。
少女の血色のいい顔が一転青くなり、
「きゃわー!! クモっクモっ!」
と絶叫して持っている細身の剣をブンブンと振った。
こんな場なのにふふ、と笑い足利橙夜の意識はぷつりと切れた。
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