第10話

 楽しい時ほど早く過ぎるものだ、という言葉を耳にしたことがあるだろう。正しくその通りに、いつの間にか月日は経ち、響介と律の夏休みは終わりを迎えようとしていた。

 彼らは先日共に鑑賞したコンサートの後の、ボレロのセッションを経てから、不思議と自然に距離を近づけるようになっていた。響介は律の家に、幾度も訪れては共に音楽を学んだ。そして時には響介の方が自宅のアパートに律を招き、勉強会と称して“伝説のロックバンド”のライブ映像を、泊まり込みで夜通し観たりした程だった。

 成谷家がブルーレイどころかDVDですらなく、VHSのビデオデッキを使っていたことに、律は『生きた化石だ』と驚いた。寝る時もベッドではなく薄い敷布団に、それも一枚の狭さへ二人一緒に寝ることになったので、朝を迎える頃には律はすっかりくたくたになってしまった。それでも友達の家に招かれるのが初めてだった彼は、少々くたびれたものの、帰宅するのが名残惜しい程には勉強会を楽しんでいた。

 余談だが、突然の品行方正な社長令息──(律のことだ)の来訪に、響介の母は露骨に慌てふためいた。『御坊ちゃまにこんな汚い部屋を見せるなんて恥ずかしいじゃない!』などと言い、既に訪れている律を目の前で待たせてまで掃除を始めようとした際には、響介は実の息子いえど呆れかけてしまった。

 そんな彼ら二人の音楽性は、どちらかというと真逆に近い。しかしその相反する趣味は、むしろ互いの見聞を広めるのに大いに役立った。響介は律の好きなクラシックやテクノ音楽を通じて、音楽基礎の造詣を深め、律は──画質も音質もひどいビデオ映像越しではあったものの──生演奏のロックとライブパフォーマンスの迫力や臨場感に心を打たれた。ジャンルは違えど、音楽というものはいつだって人の心を揺さぶり、影響を与えるものなのだった。


 そしてある日、響介はまるでもう日常茶飯事であるように、慣れ親しんだ椀田家へと訪れていた。椀田家の愛犬フォルテもすっかり彼の存在が馴染んだのか、自ら尻尾を振って響介にじゃれついてくるようになっていた。

 その日の律は午前中に何やら用事があるらしく、午後まで不在になる予定だった。その間響介は自主的に律の音楽教材を借りて、彼の帰宅を待ちながら勉強をすることになっていた。遊ぼうとすり寄ってくるフォルテをやんわりといなしつつ、響介は目の前の教材に向き直った。

 コード進行のルールを一から学ぶのは、なかなか骨が折れた。何しろ覚える量が多すぎる。その上ドミナんとかだの、ツーなんとかだの、コード進行の世界は響介の苦手なカタカナ言葉のオンパレードだった。響介は必死に理解を深めようと集中しながら、要点をノートへ書き写し、アウトプットを重ねることで脳裏へと焼き付けようとした。

 しかし座学が苦手な響介に、そんな行動は長続きするはずもなかった。すぐに疲れを感じ、気が散ってしまう。響介は律達が不在であるのを良いことに、気分転換という大義名分をぶら下げて、椀田家を一通り散策することにした。

 豪勢な戸建ての邸宅で、律本人も、彼の家族も不在な中、現在の椀田家にはフォルテが一匹と、響介が一人しか居ないという状況だ。それは即ち、響介がそれだけ椀田一家から信頼されているという証なのだろう。

 しかし当の響介はというと──勿論悪事を働くつもりは毛頭なかったが、他人の家を誰もいないのを良いことに、勝手に詮索するという行為に、背徳めいた高揚感を湧き上がらせていた。所詮は彼も、まだ高校一年生に過ぎない青い少年なのだ。

 響介は、リビングから順に家じゅうを観て周った。最新式の家電やいかにも高価そうな家具の重厚感に圧倒されながら、自宅のアパートの倍は広いであろう風呂場の浴槽を、頭から突っ込んで覗き込むなどの奇行を取りつつ、その後は日の光の差す洒落た雰囲気の吹き抜け階段を、感嘆しながら登っていった。

 二階には確か、書斎やベランダがあると聞いていた。どちらも響介が今のアパートに越す前の、父と住んでいた頃の家には無かった部屋だ。どんなものだろうと思いながら吹き抜け階段を登りきると、目の前に早速広々としたベランダへ続くガラス扉が広がった。響介は思わず、誰も聞いていないにも関わらず「おぉ!」と声を上げて驚いた。

 続いて響介は書斎へと立ち寄った。律の部屋は驚くほど物がなく殺風景だったが、それもそのはずで、彼が使っていた音楽教材の類は殆どがこの書斎に保管されているのだという。中には律の父が仕事に使っている資料も置かれているらしいので、そういったものからは視線を逸らしつつ、響介は音楽に関係のありそうな書籍を探そうと目を凝らした。

 ふとその中で、古そうな本が多く仕舞い込まれた、いかにも古風な雰囲気を放つ木製の棚が目に入った。響介はその焦茶色をした本棚の、深みのあるオーク材の情緒的な風情に心を惹かれたのか、気づけば本棚へと手を伸ばしていた。

 棚に仕舞われている書籍は、どれも経年劣化と思われる薄茶色のシミが滲んでおり、見るからに年季の入ってそうなものばかりだった。どの本も背に触れるとカバーがざらついており、やはり古さを感じられる。しかし破れや埃はなく、大事に仕舞ってあることが伺えた。そしてその殆どは、響介の知らない作家の本が占めている。

 中学時代は図書館に通い詰めて勉強をしていた響介は、本のことなら多少は自信があるつもりでいた。しかし、やはり上には上がいるものだ。この見知らぬ作家の本達は、律の趣味なのか、彼の父親の趣味のどちらなのだろうか。いずれにせよ、椀田一家は家族ぐるみで博識らしい。ぼんやりそう考えつつ、本の背表紙をなぞりながら眺めていると、その中にふと見覚えのある名前を見かけ、響介は手を止めた。

 宮沢賢治。確か、律と初めて放課後に挨拶を交わしたとき、彼が読んでいた“銀河鉄道の夜”の作者の名前だ。あの春の夕方のことなら、今でも鮮明に思い出せるほど印象強く残っている。響介はなんとなく惹きつけられたように感じ、不意にその本を手に取った。

 表紙には“心象スケッチ 春と修羅”と書かれていた。表紙を開いてみると、ページがやや傷んでいたので、響介は一枚一枚慎重にめくっていった。心象スケッチと題されているが、その内容は詩集らしい。

 宮沢賢治といえば、響介にとっては“雨ニモ負ケズ”や、“やまなし”や、“オツベルと象”のような、教科書によく載っているお馴染みの文豪という印象が強かった。しかし春と修羅に関しては、ページをめくれどもめくれども、初めて見る詩ばかりだった。賢治という人物は早死にだったと聞いていたが、彼は亡くなるまでに相当な数の作品を世に送り出したようだ。

 ぱらぱらとページをめくり続け、響介の目にようやく既視感のある題名が目に入った。“永訣の朝”だ。この詩は教科書に載っていたから知っている。読み進めると、やはり見覚えのある、独特な表現の言葉遣いが続いていく。“(Ora Orade Shitori egumo)”だなんて、方言をわざわざローマ字に変えて、これは一体どんな意図だっただろうか。

 中学の頃の授業に想いを馳せながら詞を読み進めていくと、唐突に見慣れない単語が目に入った。“兜率の天の食”と書かれている。確か授業でこの詩を習ったときは、ここは“天上のアイスクリーム”という表現だったはずだ。これも独特の言葉遣いだったので、よく覚えていた。

 響介は改めて詞を読み返した。兜率の天の食──読めないはずのその言葉が、何故か響介の頭の中で、ある一つの記憶を掘り起こそうと働きかけてくるように感じた。響介は以前どこかで、この言葉を聞いた記憶があるのだ。頭の中をめぐる雑音を、手探りするように遡っていくと、やがて近未来めいた電子の声が浮かんできた。

『私がいつか“トソツノテンノジキ”となり……』

 いつだったか、聴いたことのある旋律が響介の記憶を呼び覚ました。目の前の詩の題名を今一度見て、彼は確信した。永訣。永訣の朝だ。ずっと響介の心に刺さっていた、あの小さな魚の骨だ。

 あの日電子の世界で、中学生の作曲家が残した病魔のピアノは、数年の時を渡って響介の元へと届き──その後夕陽の差す放課後に、大海の革命となって、再び響介の元へと辿り着いていたのだ。律だ。あのピアノはやはり律だったのだ。朧げに考えていたことが、確信になって繋がった。

 響介は、書斎の侘びた空気が胸の底まで染み入るほど、深く息を吸い込んだ。そうして彼の脳裏を真っ先によぎったのは、『律のことをもっと知りたい』という想いだった。


「驚いたよ、まさか人の家を勝手に“探検”するなんて。フォルテもどうして止めなかったのかなあ」

 スーツ姿で帰宅した律は、呆れた顔で一人と一匹を見下ろした。響介もフォルテも、いかにも申し訳なさそうに首を垂れて、律の部屋のカーペットに並んで座っていた。

 律は自分が帰ってくるなり、二階から響介が慌てて階段を降りてきたのを見て、まずは唖然とした。そして彼の手に“春と修羅”があるのを見つけると、さらにため息をついた。良くも悪くも正直者の響介は、彼が問い詰めるとすぐに経緯を説明して頭を下げたのだった。

 響介を見つけたのが自分だったから良かったものの、これが父だったら彼はどうなっていただろうか。響介には、現代社会においてプライバシーがいかに重いものであるか、改めて説明する必要がありそうだ。

 律が思わず再びため息をつくと、しょぼくれている響介の隣でおすわりをしているフォルテが、「くぅん」と鳴いた。二人揃ってあんまり悲しげな顔をしているので、律はようやく頬を緩めてみせた。

「ふふ。もういいよ、響介、フォルテ。とりあえず本は元の場所に戻してこよう」

「ごめん、律。ありがとう」

 響介が安堵して顔を上げると、フォルテも揃って顔を上げた。二人は立ち上がるタイミングまで綺麗に一緒だったので、律は一転して笑いを堪えることになってしまった。

「それで、どうして春と修羅だったの?」

 本を書斎に戻してから、律は改めて響介に尋ねた。響介は何から説明しようか迷って暫く考え込んだが、やはり単刀直入に聞こうと思い切った。

「詩を読んでたんだよ。その中に一個、気になる表現があってさ」

 律の方も何かを察したらしい。はっと見開かれた暗灰色の瞳を見つめ、響介は真摯に尋ねた。

「なぁ律。もしかして──」


 防音室が置かれている部屋のパソコンとシンセサイザーは、暫く使われていなかったため少々埃が被ってしまっていた。律と響介は二人で拭き掃除をすると、パソコンの電源を入れた。

「これだよ」

 パソコンの起動を終えると、律は作曲ソフトと楽曲のデータを開いてみせた。いくつかの横棒が画面に並んでおり、その一つ一つが音の高さや長さを表しているらしい。初めて見るDTMソフトウェアを響介が物珍しそうに眺めていると、隣の律は「本当はね」と俯き加減に呟いた。

「このデータも、投稿したアカウントも、消してしまおうかと思ってたんだ。けど、できなかった」

 二年前、遺作として永訣を書き上げた後の自分の心境を思い出し、律は目を伏せた。遺作だなんて銘打っておいて、結局自分は音楽の世界への未練を諦めきれなかったのだ。悲しげにそう言う彼に、響介は思わず食い気味に答えた。

「消さなくて良かったよ」

 律が顔を上げると、響介は切迫した様子で話を続けた。金色の瞳は爛々と光をたたえていた。

「律。前に俺に『“君には”才能がある』って言ってくれたじゃないか。この前だって、『僕なんか』とか言って謙遜してたけど……けど、そんなの違うだろ」

 響介は自身の胸に手を当てた。熱い想いが心臓に込み上げるのを、押さえつけるようにシャツをぎゅっと握った。

「俺だって、律の音楽に惹かれたんだ! 律の音楽は、律自身が思うよりずっと価値があるんだ。俺も律の音楽に、全部を賭けたいくらいなんだよ!」

 晴れやかに笑顔を見せてそう宣言する響介に、律は却って心が張り詰めていくのを感じた。

 喉元まで込み上げる切なさを飲み込んで、無意識に潤む目を袖で拭いながら、律はただ小さく頷くのだった。


 午後はそれぞれ楽器の練習をしながら、二人は今後の展望について語り合った。今まで響介は既存の楽曲のコピーやアレンジ程度しかしたことがなかったが、律にあれ程の作曲の才能があるなら話は別だ。“自分たちの”オリジナルの楽曲も作りたい。響介が瞳を輝かせながらそう言うと、律は少しだけ照れ臭そうに頷いた。

 とはいえ、響介は作曲に関してはど素人だし、律だって二年のブランク持ちだ。すぐに曲が浮かんでくるはずはなく、二人は揃って首を傾げながら鼻歌を歌ってみたり、唸りながら楽器を弾き鳴らしたりしていた。が、やはり出てくるメロディはどこかで聴いたことのあるようなものばかりで、どれもしっくりとこないのだった。

「なあ律。一旦気分転換しないか? このままこんな狭い部屋に居続けても、いいメロディは浮かんでこないと思うんだ」

 日が暮れはじめた頃に、不意に響介がそう言い出した。窮屈な防音室での作業に、流石の律も疲れを感じていたので、彼の提案に乗ることにした。

「いいけど、何をするの?」

 ほんのりと律の表情が明るくなったのを見て、響介はうきうきと前のめりに立ち上がった。思わずのけぞった律へと向けて、彼は幼い子供のようにはしゃいでみせるのだった。

「花火しようぜ! 夏なんだからさ!」

 律は響介の突拍子もないアイデアに、一瞬呆然としかけた。しかし夏休みの夜に友達と花火という、いかにも青春めいたシチュエーションに、憧れる気持ちがないかというと──やはりそこは彼も年頃の少年だ。無意識に口角を上げ、律は頷いた。


「水バケツよし、ゴミ袋よし、周囲の安全よし、見晴らしもよし。ええっと後は……」

「響介。点火用のろうそく、倒れちゃってるよ」

 響介は、砂利の上に転がったろうそくを慌てて立て直した。しかしそれでも少々不安定な立ち方をしていたので、彼は河原の石を少し拾ってきて、ろうそくの周りを囲むことにした。そうしてようやく立ったろうそくは斜めになってしまい、なんだか格好がつかないのだった。

 二人は椀田家近くのコンビニを経由して、人気のない河川敷に訪れていた。コンビニで点火棒とろうそく、手持ち花火のセットを買い、響介は花火が意外と高価なことに驚きつつ、河川敷へ着くまで大事に抱えて歩いたのだった。

 二人は点けたそばから風で消えてしまうろうそくの火を、自分たちで囲んで風除けになりながら、悪戦苦闘しつつなんとか点火をし終えた。ふと見ると、花火を手に持った響介が浮かない顔をしているのが目に入る。

「あれ。響介、一本づつ点けるの?」

 律は尋ねた。花火セットを買う前は、手持ち花火を一気にたくさん点けたいと豪語していた響介だったが、彼はいざ実物を前にして何を思ったのか、一本の花火を持って顔をしかめていたのだ。

「いや……これ、一本30円くらいするんだよなって思ったら、やっぱり勿体ない気がして……」

 響介は数学が苦手なはずなのに、お金が絡むと途端に計算が早くなるのだった。値段をいちいち覚えていたことにも驚きつつ、律はため息混じりに笑ってみせた。

「お金なんか気にしないでいいよ。困ってるなら僕が奢るから」

 それでも響介はうんうんと悩んでいるので、律は花火を数本纏めてえいと掴むと、勝手に火を点けはじめてしまった。響介はさっきまで『危ないからやめなよ』と自分を止めようとしていたはずの律が、急に思いきった行動に出たことに驚いた。

「わわわっ! 何してんだ律!」

「あははっ、煙がすごいよこれ!」

 両手で二本づつ花火を構え、それらが思いの外激しく火花を上げ始めることに驚いたのか、律は響介から距離を取りながら笑ってみせた。最近の律はずいぶんと大胆になったものだ。響介も負けじと花火を掴んだ。

 すすき花火はジュワジュワと音を鳴らし、火花を色とりどりに変えながら、華やかに光を散らしていく。二人はきらめく光景に心を踊らせて、ときどき煙にむせたりしつつも一時を楽しんだ。響介は昂るあまり調子に乗ったのか、花火を振り回してはしゃごうとしたので、結局律は慌てて『危ないからやめなよ』と彼を止めることになった。

 その後は火花が危なくないようにと、花火は川の方へ向けるようにして遊ぶことになった。水面に光を映しながら激しく飛び散る火は、川の水へ落ちるとたちまち消えていく。そんな情景を『綺麗だ』と何気なく交わしながら眺めるのも、また一興だった。

 やがてすっかり暗くなった河川敷で、二人は花火セットの締め括りに、線香花火の小さな火が膨れていくのを薄々と見つめていた。二人とも向かい合って砂利の上で屈み、震えながら弾ける火が落ちないよう、黙って花火に見入っている。静かな時間だった。

 夏休みの夜に友達と花火。いかにもなシチュエーションの最中、律は不思議と薄寂しい気持ちが湧いてくるのを感じていた。今まで夏季休暇の終わりを淋しく思うことなんてなかったはずだが──そう思いながらも視線を逸らすと、響介が火を落とさないように、一生懸命じっとしているのが目に入った。

 唯一の違いは、彼の存在だろう。この胸に込み上げる淋しさの正体は、楽しい時間への名残惜しさだ。来年からは受験勉強が始まってしまう。これは恐らく最初で最後の夏休みなのだ。

 そう考えを巡らせながら、視線を花火へと戻す。線香花火の火は、今にも落ちてしまいそうなほど切なげに震えていた。

「そういえば」

 花火を見て、不意に律は思い出した。口を開くと、驚いた響介が「うわっ」と姿勢を崩してしまった。律もつられて動いてしまい、二人の火は砂利の影の中へと消えてしまった。

「ああっ、急に話しかけるから落としちゃったじゃんか」

「話しかけただけなのに驚きすぎだよ。真っ暗になっちゃったね」

 律は言いながら平然と懐中電灯を取り出した。夜の闇の中を急にライトの強い光に照らされて、響介は反射的に身構えた。

「うおっ、眩し……てか、『そういえば』って何だ?」

「うん。花火を見て思い出したんだけど、そろそろ夏祭りの時期だと思って」

 響介はああと納得して頷いた。中学からは行かなくなって久しいが、毎年八月末になると近くの神社が祭りを催しているのだ。夏祭りでは今律が連想した通り、花火も打ち上げられる。観光地や都会の花火大会なんかと比べると規模は小さいものの、地元では評判の行事だった。

 懐中電灯を持つ律は、あの楽しげな祭りのことを口にしながらも、その視線は低く伏せていた。憂うような表情をして、何を思っているのだろう。響介は思わず尋ねた。

「行ってみるか? 夏祭り」

 彼の問いに、律は黙ったまま顔を上げた。暫く瞳を瞬かせたり、首を傾げたりした後に、彼はようやく頷いた。


---


 あれは確か、中学に上がる少し前のことだった。律は夏休みが終わる前になると、よく父から誘われて、ベランダで打ち上げ花火を眺めていたものだった。幼い頃は病気がちで体が弱かった律は、人の多い場所に行く機会が殆どなく、代わりにこうして家族と過ごすことが多かった。

 鳴り響く破裂音に驚いて思わずフォルテにしがみつくと、背後から笑い声が上がった。当時のフォルテはまだ仔犬だったにも関わらず、大きな音にも動じることなく、悠々と尾を振って夜空に咲く大輪の光を見つめていた。

 ベランダの柵の隙間から辺りを覗き込むと、夏祭りへと向かう人々が道へ列を成しているのが目に入った。その光景はなんだか花火よりも眩しく見えて、小さな胸がぎゅっと締め付けられるように感じたのを、今でもよく覚えている。フォルテを抱きしめる腕に力を込めると、彼女は律の様子を伺うように頬をクンクンと嗅いだ。

 後ろの父から「一緒に行ってみるか?」と聞かれたが、律は首を横に振って嫌がった。彼は幼いながらも、既にああいった輝かしい世界は、まるで自分には身の丈に合わないものだと考えていたのだ。こうして遠く離れたベランダから、空に打ち上がった花火を眺めているだけでじゅうぶんだった。


 夏祭り当日。一足先に準備を終えた響介は、自転車を漕いで椀田家へと訪れていた。律は予定より早い時間にインターホンが鳴ったことに、驚きつつも出迎えた。

 すると響介の、あまりにも分かりやすく期待に満ちた顔が視界に飛び込んだ。口元の緩みを隠しきれていない彼に対し、律は笑いを堪えながら支度を終える。二人が家から出る頃には、響介は顔どころか身振りにも期待が漏れはじめたのか、はやる気持ちを抑えられず、律より一歩前をソワソワと走り始めるのだった。

 神社に近づくにつれ、道を歩く人の数が増えていき、律は胸の内がざわつき始めるのを感じた。幼い頃、身体も心も小さかったあの頃の自分が、畏れを感じていた喧騒が近くなっていく。かすめるように遠かった祭囃子の音は、だんだんと賑やかさを増して耳へと響いてきた。楽しげに拍子を打つ太鼓の音に、律の心臓もつられて拍を打つようだった。

「律! 早く行こうぜ!」

 前方から聞き慣れた声が律を呼ぶ。響介は提灯の暖かな明かりの下で手を振って、その金の瞳も明々と輝いていた。

「待って、響介!」

 律は緊迫した胸の内から、熱い空気を吐きながら走り出した。周囲の人々が派手にはしゃぐ響介を微笑ましそうに眺めていたが、そんなことには目も暮れず律は響介の元へと駆け寄った。

 ようやく彼へと追いつくと、律は思わず響介の腕を掴んでいた。

「わっ、何だ急に?」

 響介は驚いたが、律の心境は知ってか知らでか、突然のボディタッチに満更でもない様相で頬を赤らめた。呑気に紅潮している響介に対し、律は青ざめた顔で答える。

「置いていかれるかと思った」

「置いていくわけないだろ?」

 響介はさも当然そうに、平然と笑ってみせた。律はそんな彼の笑顔を見て、冷えかけていた胸の奥がじんわりと暖まるように感じたのだった。

 屋台の列へと入っていくと、人の数もどっと増えたので、二人ははぐれないよう並んで歩き始めた。隣の律と周りの屋台をいっぺんに気にしているのか、響介は落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと伺っている。

 律は小型の扇風機のように首を振っている響介の隣で、ぼんやりと過去の記憶を思い返していた。あの頃、まだ自分と同じくらいの大きさだった愛犬に、必死にしがみついて怯えていた自分。彼に今の自分の状況を話したら、信じるだろうか。そんな空想を脳裏に浮かべていると、ふと律の視界にきらりと艶めく赤い光が映り込んだ。

「ねえ響介、あれって美味しいのかな」

 思わず屋台を指さして尋ねると、隣の響介も興味深そうに首を傾げた。

「りんご飴か。どうだろう。俺も食べたことないなあ」

「半分こしようよ」

 律は言うや否やりんご飴の屋台へと向かった。ベランダの上から眺めているだけだった幼い自分が、密かに憧れていた人々の行列。そのうちの何人かが、棒に刺さった綺麗な赤い珠を持っていたことを覚えていたのだ。

 会計を終えて実物を手にすると、律は思わず感嘆のため息をついた。遠くから見ているだけだった景色が、今は目の前に広がっている。それどころか、その真っ只中に自分がいるのだ。りんご飴を手にしたまま呆けていると、響介が浮かれた様子で尋ねた。

「なあ、それどんな味なんだ?」

 律は頷いて、試しに一口齧り付いた。薄く包まれた飴がぱりんと割れると、続いてりんごのしゃくりという感触がした。

「……甘い」

 律は目を見開きながら呟いた。味はとにかく甘いとしか言いようがなく、正直美味かと問われると微妙な所だった。しかし律は落胆するどころか、不思議と愉快な気持ちで満たされていた。物欲しそうに視線を向けていた響介にりんご飴を渡すと、彼は律の齧った方の反対側へと豪快にかぶりついた。

「ほんとだ。これ甘いなあ」

 もごもごと咀嚼している響介の頬に、赤い飴の片が付いているのを見て律は笑みをこぼした。「飴、くっついてるよ」と指摘すると、慌てて顔を拭い始めた響介に「律もついてるぞ」と言い返されたので、むしろ律の方が焦る羽目になってしまった。

 ハンカチで顔を拭いている間にも、響介は「今度は塩っぱいものが良いなあ」と次の屋台を探し始めた。残りの飴を、再び顔に付いたりしないように慎重に齧りながら、律も後に続く。

 食べ進めていくとそのうち飴はぐらつきはじめ、いまにも棒から取れそうになってしまった。飴を落とさないように悪戦苦闘しているうちに、響介は前へと進んでいく。彼の背中と、こぼれ落ちそうな飴。両方に意識を向けていると、律はその他の景色を眺める余裕がなくなってしまった。

 急いで食べ終えてしまおう。落ちそうな飴を、ハンカチを赤く汚しながら支えて噛みしめる。律の意識はすっかり手元に向いていた。前を歩く響介が、誰かを見つけたらしく、人の名前を呼んだことにも気づかなかった。

「よお成谷! お前も来てたんだな!」

 忌々しいほど聞き慣れた声が耳に入り、律の意識は一瞬で前方へと向いた。響介の背中越しに伺うと、やはりその声の主はザネリ──沢根英里だった。沢根は相変わらず数人の友人達を連れて、軽薄な笑みを浮かべながら愉快そうに響介へと話しかけている。

「成谷も来るなら誘えば良かったぜ。それとも……ああ。そっちに先約が居たんだな」

 どうやら沢根の方も響介の後ろの存在に気がついたらしい。彼の表情が露骨に険しくなったことに、流石の響介も気まずい空気を察したようだった。

「ああ、ええと……」

 響介は眉を下げて、上手い返事が思いつかず、狼狽えるばかりだった。律は残った飴を一気に噛み砕き飲み込んでしまうと、顔を拭きながら彼の前へと乗り出した。律の様子が以前と違い、やけに威勢がいいことに、沢根は怪訝そうに顔をしかめた。

「そう。今日は先約が居るの」

「ほう」

 凛と言い放つ律の澄ました顔を見て、沢根も意外に思ったのか口角を上げた。彼とまともに言葉を交わしたのは、果たして何年ぶりのことだろうか。律も沢根も、互いにそう考えていた。

「そういうことだから。もう行こう、響介」

 律はわざとらしく微笑むと、冷えた空気を振り払うように翻して、響介へ手を差し伸べた。一連の光景に動揺しきっていた響介は、思わず彼の手を握りしめた。するとそれを見た沢根は、まるで囃し立てるようにヒュウと軽快な口笛を吹いてみせた。

「へえ。ずいぶん“仲良し”になったんだな、お前ら」

 響介は沢根の煽るような発言に、血の気がすっと引くのを感じた。にやにやと狡猾そうに浮かべられた笑みから、初めて彼の悪意を感じられた。沢根の隣の友人達も流石にどよめきはじめ、部長に肘で小突かれた彼は「ああ、悪い」といかにも悪びれない謝罪を述べた。

 対して律は、臆することなく堂々と、響介の手を堅く握り返した。

「そうだよ。僕らもう友達になったんだから。じゃあね」

 律に腕を引かれ、響介も小さく別れの挨拶をこぼしながらその場を去った。心臓がばくばくと鼓動する音が、耳の中で反響しているようだった。背後からは「頑張れよ」という野次と、挑発するような口笛が再びヒュウと飛んでくる。気づけば響介は顔を真っ赤にして、泣き出しそうなほど瞳を潤ませていた。

「どうしたの響介? 大丈夫?」

 人気を逸れて木陰に入った律は、響介の顔を覗いて驚いた。

「ああ、うん。大丈夫。ごめん……律、手……」

 律は響介の手を離した。握っているうちに汗ばんでいたのか、夜風が熱を奪って冷えていくのを感じた。響介も律も、ようやく緊張が解けて、深くため息をついた。

「響介は悪くないよ。僕の方こそごめん」

 律の言葉に響介は首を傾げた。

「どうして律が謝るんだよ? さっきのは……」

「さっきのは」

 遮るように言い放った律の顔は、何かを思い返しているのか、遠くを見るように目を伏せ、俯いていた。

「……元を正せば、僕が悪いんだ」

 響介は返す言葉が出て来なかった。彼が何かを言う代わりに、律は「今度ちゃんと話すから」と話題を逸らし、顔を上げた。

「だから、今日は一旦忘れてくれないかな。夏祭り、最初で最後かもしれないから」

 律の切なげな笑みを見て、響介も同じように微笑み返して頷いた。


 ヒュウ。あの耳障りな口笛の音は、数年以上の時が経った今でさえ、頭から離れそうになかった。律がまだ小学生だった頃──同じく幼かった彼は、よく律を揶揄うときにあの口笛を吹いていた。

 律が良い成績をとって教師に褒められたとき。持病のせいで授業に出られなかったとき。事あるごとに何処からかあの甲高い音が飛んできて、律はその度に苛立ちを覚えたものだった。あまりに不快だったので、律は教師に沢根を叱るように頼んだこともあったが、事態が良い方へ向くことはなかった。

 当時周囲の人々は、大人だけでなく同級生も含め、どこか皆が沢根のことを避けている様子だった。彼が何かをしでかしてもまともに叱る者はおらず、その矛先は殆どが自分へと向かってくる。『あの子は可哀想な子だから仕方ない』という理由で、律は幾度も我慢を強いられた。

 幼かった律には、あの頃の大人達が何故沢根を庇うのかが理解できなかった。しかし数年が経った今は、あの頃の大人達が何を考えてあんな対応をとっていたのか、少しは予想がつくようになっていた。

 大方、大人達からすれば、あの頃の彼は“面倒な人物”だったのだろう。噂に聞いた程度で詳細は知らなかったが、当時の沢根は家庭に深刻な問題を抱えていたらしい。裕福で円満な家で育った律には想像もつかない状況だ。クラスでさほど交友関係を持たなかった律にすら、噂話が耳に入ったほどなのだから、彼の置かれた環境は相当酷かったのだろう。

 大人達は優しさから彼を庇っていたわけではなかった。ただ問題を抱えている人物への対応が面倒で、より恵まれた環境にいる律の方が、少し我慢をすれば良いだけの問題だと考えていたのだ。

 しかし当時の律にはそんなことは理解ができなかった。むしろ、理解している今でこそ納得がいかなかった。あの頃の自分が大人達の考えを知っていたとしても、その後とった行動は変わらなかっただろうし、彼との関係も今とちっとも変わらなかっただろう。

 小学四年生の頃──あの失態の舞台の少し前のことだ──いつものように口笛と野次を飛ばしてきた沢根に対し、律はついに我慢ならなくなって言い返した。当時の律が正論だと信じて放ったその言葉が、沢根には相当“効いた”らしい。急に泣きじゃくって取り乱した彼は、その後学校に来なくなってしまった。

 たった一言、言い返しただけなのに。これでは自分の方が悪者みたいじゃないか。『お前は賢いし能もある。常に正しいことを判断し主張できる。けれどそれだけで人生が上手くいくと思ってはだめだ』──父の言葉を思い返す。一体、自分は何を間違えたのだろうか?


「律!」

 隣にいた響介に名前を呼ばれ、律は我に帰った。顔を上げると、ちょうど花火が打ち上がったところだった。真っ黒い空の宙で、輝く灯が盛大な音を鳴らしながら弾け飛んでいく。綺麗だ──次々と上がってくる花火たちは、さっきまで律の頭の中を覆っていた靄のような考えを、全て吹き飛ばしてしまうかのようだった。

 するとどこからか、誰かがわあっと歓声を上げるのが耳に入ってきた。提灯の薄明かりに、花火の鮮彩が明滅しながら入り混じる。辺りはすっかり賑やかさを増していた。

「やっぱ花火って、でっけえ方が綺麗だな」

 ふと響介が呟いた。先日の手持ち花火のことを思い出したのだろう。横目に見やると、彼の金色の瞳は、まるで現れては消えていく光の一粒一粒を、全て収めようと瞬いているようだった。自分も今にも過ぎ去っていくこの楽しいひと時を、しっかりとその目に焼き付けよう。律は響介へと一歩近づいた。

「うん。打ち上げ花火をこんなに近くで見たのは初めてだ」

 自宅から遠く眺めていたときよりも、よほど大きく見える花火の下で、律は輝く空を仰ぎ見た。次々と色を変えていく光が、律の暗灰色の視界を彩っていく。

「本当に綺麗だ。……けど僕は、やっぱり響介とやった河原の花火も楽しかったと思うよ」

 響介は律の言葉に驚き、思わず隣の彼の顔を覗き見た。律にとっては、響介と遊んだあの河原の手持ち花火も、今しがた眺めているこの大輪の打ち上げ花火も、どちらも比べようがないほど美しく見えているのだろう。ブルーグレーの瞳に花火の色彩が反射して、いつもは伏せがちな律の表情はきらきらと明るく灯っていた。

 夏の夜の暑さでほんのりと赤く染まった頬を少し上げ、律は楽しそうに微笑んでいる。彼の笑顔を見ていると、やはり響介は心が昂り、どこか気持ちが落ち着かなくなるのだった。先程沢根に煽られたときとは違う意味で、またも心臓がばくばくと高鳴り始めた。

『ずいぶん“仲良し”になったんだな』──今は空いている右手から、さっきまで繋がっていた律の温もりを思い出す。この胸騒ぎは、やはり恋心なのだろうか? ああしかし、彼は自分と同じ男性じゃないか! 男の子に恋なんかしてしまったら、母さんにどう説明したら良いのだろうか。

 “ママ、貴女を泣かせるつもりじゃなかったんだ”──不意に放浪者の狂詩曲が脳裏を過ぎる。“どのみち風は吹くんだ”──揺れる響介の背中を押したのは、やはり英雄その人だった。

「なぁ、律」

 無意識に上ずる声で尋ねると、律は無邪気そうに笑って振り返った。

「どうしたの?」

「あ、あのさ……俺、言いたいことが……」

 緊張で張り裂けそうな胸を押さえて、響介は必死で言葉を選ぼうとした。何から伝えるべきだろうか。そもそも、この気持ちは彼に伝えてもいいのだろうか? まごつく響介を見て何を思ったのか、律は微笑みつつ首を傾げた。

「大丈夫? なんだか顔が赤いみたいだけど。夏風邪でもひいちゃった?」

 響介は勢いよく首を横に振った。紅潮しているのが律にバレているとわかってしまうと、彼の焦りは余計に積もるばかりだった。このままでは更に気まずい空気になってしまうだろう。勢いに任せて響介は口を開いた。

「律! 好き……」

 瞬間、律が目を見開いたように見えて、彼は慌てて言葉を紡ぐのだった。

「……な、人とか、いる?」

 言ってしまってから、響介は頭の中でがっくりと項垂れた。好きだとはっきり告白する度胸もなければ、言わずに留めておく理性もない。どちらにも転べず、中途半端なことを言ってしまった。やっぱり今のは聞かなかったことにしてほしい。そう言おうとする前に、律は突然けらけらと笑い始めてしまった。

「っふふふ……」

「な、なんで笑うんだよ?」

 狼狽えている響介はさておき、律はかぶりを振った。

「ううん、ごめんね。馬鹿にしているわけじゃないよ。急に話が逸れたから笑っちゃった。あいにくだけど、僕は恋のアドバイスとかはできないよ」

 どうやら律は、響介が恋愛関係の助言を求めているものだと勘違いしたようだ。彼はおかしそうに笑いながらも、その表情には少しづつ陰りが差していく。

「……律?」

 響介が心配そうに眉を下げると、律は深く頷いた。

「僕、今まで人を好きになったことがないんだ。好きな人なんていたことがないし、参考になる話はできないよ」

 何かを思い返しているのか、やがて律の表情が憂いを帯びていく。今の響介には彼のそんな顔さえも、どこか儚げで、愛しく感じてしまうのだった。

「昔……中学の頃だったかな。付き合っていた女の子がいたんだけど、すぐに別れちゃって。あれからもう、誰とも付き合わないって決めてるんだ」

 どこかで聞いたような話だった。響介が思わず「どうして」と小さく尋ねると、律は神妙な面持ちのまま話を続けた。

「向こうから告白されて……最初は断ったんだ。僕は人付き合いが下手な方だし、うまく付き合える自信なんてなかったから。けれどその子はあんまり必死だったから……つい、可哀想かな、なんて思っちゃって。好きでもない子と同情心で付き合うなんて、僕の方が間違っていたんだ」

 周囲が打ち上がる花火に沸き立つ中、二人の間の空気だけが静まり返ったようだった。響介は黙って律の話に聞き入った。彼の心境は痛いほどわかる。真面目で心優しく、不器用で臆病な彼のことだ。頼まれたらつい受け入れてしまうのだろう。それがたとえ律の本心ではなかったとしても。

「それに、もしかしたら付き合ううちに、本当に彼女のことを好きになれるかもしれないって思ったんだ。けれど間違ってた。僕は付き合うどころか、手を握るのも怖かったし、会話をするのさえ苦しかった。彼女も僕が嫌々付き合ってるってことに、すぐ気がついたんだと思う」

 律は脳裏に浮かんだ過去の記憶を、入れ替えるように深く呼吸した。屋台の食べ物と、火薬の匂いが入り混じる、少し湿った暑い空気が胸の内を満たす。律の顔色が再び明るくなった。

「『ちゃんと私のこと好き?』って聞かれて、その度に僕は心にもない『好きだよ』って言葉を言って。そんなことをしてたから、最後には『あなたを好きにならなければ良かった』なんて言われちゃった。そりゃそうだよね、僕なんか良い人のフリをしたくて、ずっと嘘をついていたんだから」

 わざとらしくおどけて笑いながら、律は吐き出すように言いきった。彼の切なげな笑みに、響介は胸が締め付けられるような気持ちになった。

「ね、ひどいやつでしょ。ごめんね響介、せっかく聞いてくれたのに役に立てなくて」

 まるで仮面を被って造った笑顔に、小さなひびが入っていくようだった。響介が何も答えられずにいると、律は取り繕うように空を仰ぎ、話をすり替えた。

「あぁ、そうだ。響介の言いたいことって何だったの? もしかして、また好きな人ができたの?」

 期末テストの頃のことでも思い出したのだろう。律は今度は作り物ではない、純粋な笑みをして尋ねた。響介は俯きながらかぶりを振る。

「ううん。やっぱりいい。言う必要、なくなったから」

 一体何のことだったのだろうか。律が呆気にとられていると、響介も振り払うように空を仰ぎ見た。律も今一度空を見上げる。頭上で花開く光の輪は、二人のぼんやりとした陰りを照らし、小さな窮愁なんかはかき消してしまうのだった。

 ふと、いつの日か沢根が言っていた、『恋と愛は違うものだ』という言葉を思い出す。

 響介は、律に言いたくて仕方がなかった『好きだ』という気持ちを、心の奥へとしまい込んだ。こんな欲求じみた恋心は、ほんとうに律のことを想うなら、隠しておくべきだ。優しい彼のことだから、もしもこの気持ちを打ち明けてしまったとしても、きっと拒まないだろう。そうしたら、彼には代わりにもっと辛い思いを強いてしまうのだ。

 すると不思議なことに、響介の頭の中はすっきりと晴れて、心の中は暖かく満たされていった。これが恋ではなく、愛だというのだろうか。その暖かさがあまりにも胸の中をいっぱいに満たしているので、響介は少しだけ苦しいと感じていた。

「そうだ。僕も響介に言いたいことがあったんだ」

 たった今思いついたように、隣の律が呟いた。

「響介、僕……やっぱり響介と一緒に音楽がしたいよ」

 唐突な律の言葉に、響介は狐につままれたような気分になった。

「なんだよ改まって。もう、既に一緒じゃないか」

 律は首を横に振る。響介と同じ夜空を見上げて、同じ光をその目に宿すうちに、律の中である決意が溢れてくるのだった。

「ううん。僕の方は違ったんだ。僕は今までずっと、響介の音楽への熱意に、ただ便乗してついて行ってるだけだった。けど、本当は憧れていたんだ。響介みたいになりたかった」

 律の口から自分に対し、憧れという単語が向けられたことを、響介は意外に感じていた。しかし言葉を紡ぐうちに律の声は強張っていき、さらに熱意が籠っていく。

「響介は、君自身はそんな風に思っていないかもしれないけれど……初めて君の歌を聴いたときから、ずっと凄いって思っていたんだ。響介のことは、自分なんかよりずっと上の人だって思ってた。だから今までは、響介の後ろからついていくだけで満足してたんだ」

 そんな。そう声に出しかけて、響介は口をつぐんだ。律は響介が思うより、ずっと立派なはずだ。けれど彼は、ずっと勇気が足りなかったのだ。そんな律が、今は懸命に前に進もうとしている。

「今は、一緒にいきたいって思ってる。響介の、隣で音楽がしたい」

 響介は思わず律の手をとった。堅く握り返す律の手は、前よりずっと熱くなったようだった。

「一緒にやろう、律。俺、やっぱりお前のことが好きだ」

「ありがとう、響介。一緒に頑張ろう」

 響介の言葉に、律は嬉しそうに応えた。勢いで口から飛び出していった、響介の『好きだ』という言葉は、律に恋愛感情として受け取られなかったようだ。それでも良い。むしろそうであって欲しい。響介は喉元いっぱいにまで込み上げる暖かさが、目蓋から溢れ出てしまわないように、視線をひたすら花火の光へと注いだ。

 光の花びらが、音を立てて散っていく。夏が、終わっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る