第11話

「成谷、この前は悪かった」

「えっ? 何が?」

 九月一日の朝。新学期の登校初日、真っ先に響介へ声をかけたのは沢根だった。いきなり頭を下げられたのでわけもわからず呆然としていると、沢根は拍子抜けした様子で顔を上げた。

「おいおい成谷、まさか覚えてないのか? 夏祭りの事だよ。俺、成谷にひでえこと言っただろ」

「あー……そんなことあったっけ」

 響介は首を傾げた。あの日、夏祭りに二人で訪れていた響介と律へ向けて、彼は確かに煽るような態度をとっていた。あの時の沢根は狡猾そうににやにやと笑みまで浮かべていたが、今は急に別人になってしまったかのように弱気な様相で眉を下げている。

「……成谷はそういうの、あんまり気にしねえタイプなんだな」

 そう呟く沢根の顔は、むしろ自分の方が悲しんでいるかのように見えた。

「けど、埋め合わせはさせてくれよ。何か奢るでも良いし……この借りは必ず返すからさ」

 言うが早いか、沢根は気まずそうにそう告げると自分の席に戻っていってしまった。

 響介が彼の背へと向けて「ああ、うん」と煮え切らない返事を投げかけると、沢根は黙って手を振り返した。やはりその背もどこか影を負っているようで、沢根のほうがよっぽど落ち込んでいる様子だった。

 響介は入学したばかりの、まだ隣の席の友人だった頃の彼を思い返した。あの頃の沢根からは、気さくな明るい人物という印象ばかりを受けていた。しかしここ最近の彼はどこか様子がおかしい。先日は響介の背筋を冷やすほどの悪意をちらつかせたかと思えば、今は気づまりした様子で顔を青くしているのだ。

 鞄の中に入れていたギターピックを取り出して、響介は再び思案した。沢根が響介の誕生日にくれた贈り物だ。響介は沢根のことを、少なくとも悪い人物ではないと考えていた。けれどあの夏の夜に垣間見えた悪意も、確かに彼の一部なのだろう。恐らく律がかつてそうだったように、沢根もどこかに不器用な問題を抱えているのではないだろうか。

 ただ一つだけはっきりとわかるのは、その問題は響介にはどうすることもできないということだった。


 午後のホームルームを終えた後、ふと前の席からため息が聞こえ、響介は顔を上げた。

「どうしたんだ、律?」

「どうしたもこうしたも……体育祭だよ。出ないと駄目かな……」

 振り返った律はあからさまに疲弊しきった顔で呟いた。先程ホームルームで議題に上がった体育祭の話だ。彼にあまり体力がないという話は以前から耳にしていたが、律がここまで露骨に厭そうな顔を見せるのは初めてだった。

「駄目っていっても、最低一種目だぜ? 一個ならなんとかなるんじゃないか?」

 共高の体育祭は一人一種目以上の出場が原則として決まっていた。体育が得意な者は複数目出場することもあり、響介もたった今どの種目に立候補するかを悩んでいた所だった。とはいえ、その悩みの方向は律と真逆のものだ。

「その最低一種目が問題なんだよ。僕は走るのも遅いし、筋力もないし、コントロールも下手だから……リレーも綱引きも玉入れも、どれを選んでも憂鬱だ」

「ううん……」

 響介はむしろ、どの種目にも出たいくらいの心持ちだった。とはいえ、体育が苦手な律の気持ちを全く理解していないわけではない。

「その中なら、一番手を抜いてもバレなさそうなのは綱引きだけど……」

 意見を述べたものの、響介には気がかりなことがあった。共高では、体育会系の人物は少数派だ。そのため綱引きは競争率の高い種目であり、抽選で選ばれなかった場合は第二希望、第三希望へと繰り下がってしまう。

 何より響介は、律が日頃から運動を嫌だ嫌だと避け続けていることも懸念していた。彼は他所の高校より少ないはずの共高の体育の授業さえ、教師の隙をついて手を抜いているほどだった。運動音痴は運動を避ければ避けるほど悪化してしまう。このままだと律の日常生活にまで支障をきたすかもしれない。それならいっそ、と響介は手を叩いてみせた。

「律、短距離リレーにしようぜ。俺が走り方とバトンタッチのコツを教えるからさ!」

「えぇーっ!?」

 リレーという単語を聞いた瞬間、律はこれまでにないほどの嫌悪感を顔に滲ませた。


 放課後、早速河川敷で練習が始まった。練習といっても軽いジョギングと、走る姿勢を少々正す程度のものだ。しかしそれでも律はものの数分もしないうちに疲れてしまい、息をきらせながら立ち止まってしまった。

「はあ……やっぱり無理だよ。こんなに走るのが遅いのに……リレーなんて、クラスで恥かいちゃうよ」

 対して響介はというと、未だ元気が有り余っているのか、膝に手をついて項垂れている律の周りをうろうろと走り回っていた。持久力には心肺機能も関わるというが、響介の体力は相当のものだった。あれだけ大きな歌声を安定して出せるのだから、よほどの肺活量を持つのだろう。

「大丈夫だよ律。本番はたったの百メートルだぜ? 短距離なんだから体力がなくたって、コツさえ掴めばずっと早くなるって」

「そうかなあ……百メートルって、僕には結構長く感じるんだけど……」

 響介の体力の高さも相当だが、律の体力のなさも相当だった。これでは先が思いやられる──律は早くも挫折しかけていたが、響介は正反対だった。

 次の日も、その次の日も、響介は嫌がる律を文字通り引きずって練習へと駆り出した。とはいえ、走りに慣れない律の脚が痛まないよう、あくまでも軽い練習に留めていた。走りを上手くするコツは継続だ。急がず焦らず、律が少しでも運動嫌いを克服できるよう、響介は毎日懸命に彼に寄り添った。

 響介はあまりにもやる気に満ちており、律が少しでもその気を見せると大はしゃぎして褒めたてた。律の方も満更でもないのか、次第に興が乗ってきたらしく、日が経つにつれ練習を嫌がらなくなっていった。律の心境の変化に伴い、響介もまた満たされていくのだった。

 一学期の頃は、勉強も音楽も響介のほうが教わることばかりで、今まで彼は律から一方的に与えられるばかりだった。これで少しは律に報いられただろうか。練習時間も走行距離も少しづつ伸びていくことに、響介は充足感を感じていた。

「そうそう。上半身は力を抜いて、視線は意識して前に……だいぶ良くなってきたんじゃないか?」

「そ、そうかな? でも、確かにあんまり疲れなくなってきたかも」

 律は走りながらでも顔色を明るくさせられる程度には、運動に慣れつつあった。響介は予め目標にしていた木の横を彼が通過すると、ストップウォッチのスイッチを切った。

「おう! 記録もまた更新してるぜ。すげーよ律! どんどん出来るようになってるじゃんか!」

 やや大袈裟な褒め方だったが、律は彼の言葉に照れ臭そうに口角を上げた。そもそも酷く苦手意識を持っていた運動を、これだけ長く続けられたのは、隣にずっと響介がいたからだ。思わず顔を綻ばせて頷く律に、響介も眩しいほどの笑顔をみせた。

「じゃあ次はランニングの走り方だな! それが出来るようになったら、バトンタッチの練習だ!」

「ええっ……」

 追いついたそばから引き離されたような感覚に、律は思わずまたため息をついてしまうのだった。


「椀田くん」

 数日後の放課後のことだった。律はいつも通り練習に向かおうと、荷物を片付けて響介を待っていた。すると、不意に見覚えのある少女から声をかけられた。

「……飯野さん」

 飯野長月──確か彼女は、委員長というあだ名で呼ばれていたはずだ。特徴的なポニーテールの髪型をした少女は、律へとにこやかに笑みを向けた。

「あはは、話すの久しぶりだね。話しかけて大丈夫だったかな?」

「ううん。別にいいけど」

 彼女と会話を交わすのは、中学以来のことだった。一度だけ、三年の合唱コンクールの時期に話したことがあったはずだ。当時の律はあまりいい返事をしなかったはずだが──委員長の方は、律が彼女のことを覚えていたのを嬉しく思っている様子だった。

「成谷くんから聞いたよ。体育祭に向けて練習してるって。頑張ってるんだね!」

「あはは、まあ……」

 律は思わず苦笑した。響介の口が軽いのか、彼女の口が上手いのか。いずれにせよ、練習のことは響介以外の人物にも伝わってしまっているようだ。

 一方、愛想笑いといえど律が笑みを見せたことに、委員長はますます喜びを感じたようだ。彼女はトンと手を叩いて、花を咲かせたように笑顔をみせた。

「椀田くん、最近すごく明るくなったよね。なんだか私、勝手に嬉しくなっちゃった」

「そうかな……」

 律は彼女の言葉にわずかに戸惑った。昔の自分だったら、明るくなったと言われたら『そんなことはない』と言って突き放していただろう。そう思えば、戸惑いつつも受け止められるだけ、確かに自分は進歩しているのかもしれない。律の心の内にも、ほんのりと嬉しさが込み上げてきた。

「文化祭も頑張ってね。楽しみにしてるよ。椀田くんの演奏、すっごいもん!」

「えっ、文化祭?」

 晴れやかにそう語られた彼女の言葉に、律は急に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。

「あれっ、舞台に出てくれるんじゃなかったの? 成谷くんがすごく乗り気だったから、てっきり……」

 きょとんと目を瞬かせる委員長の姿に、律は思わず頭を抱えた。どうやら、“響介の口が軽い”が正解だったようだ。


「ごめん、律……やっぱり舞台に立つのは無理そうか?」

 律が文化祭のことを問うと、響介はあっさりと自分の非を認めた。委員長と文化祭の舞台の参加枠について話をしているうちに、つい盛り上がってしまい、勝手に『舞台に出たい』と話してしまったのだそうだ。

 共高の文化祭の舞台演目には、部活動やクラス活動以外にも、いわゆる個人枠が存在する。実行委員会による選考を通過すれば、誰でも舞台に上がることができるのだ。

 響介としては、あくまでも希望として口にしたに過ぎなかったらしいが、そこに自然と自分が含まれていたことに律は二重の意味で顔をしかめた。響介は少々勝手なところがある。しかし自分が音楽を共にする者として、当たり前のように一緒に数えられているのは、やはり満更でもないことだった。

 手を顎に当て、深く考え込む。響介の隣で音楽がしたい──先日、律は自分でそう宣言したばかりだった。“舞台に立つのは無理そうか?”──自分の心に、再度問いかけてみる。考えた末に、律はかぶりを振った。

「一緒に出よう、響介。僕……頑張ってみる」

 過去の失態が怖くはないかというと、それは嘘になる。しかし律は、今の自分なら、そして響介と一緒なら、舞台にだって立てそうな気がしていた。苦手な運動を克服しつつあることで、多少は自信をつけているのだろう。

「律‼︎」

「うわっ」

 顔を上げると、響介が急に腕を広げて飛びかかってきた。気づけば律は響介の腕の中にすっぽりと収まっており、嬉しさが有り余っているのか、彼は律に抱きついたままとび跳ねて喜びはじめた。

「俺もすっげー頑張るから! 律も頑張ろうな! 体育祭も文化祭も、絶対成功させるぜ!」

 ゆさゆさとなす術もなく体を揺すられるがまま、律は苦笑した。しかしその後に響介の口から飛び出た発言によって、律の笑みはますます苦々しくなるのだった。

「俺、実はもうバンド名も考えてあんだ! 早速実行委員に申請してこねーと!」

「えっ、バンド名?」

 嫌な予感がする。そして律の予感は見事に的中してしまった。

「ワンダ&ナリヤ! シンプルで逆にカッコいいだろ⁉︎」

「だっっっさ‼︎」

 脱力のあまり崩れ落ちかける律を、響介は慌てて抱き上げた。


 しかし、自分達の名前をバンド名に組み込むという発想は悪くない。試行錯誤の末、ワンダの部分はそのままもじり、後半は響介の名前の響くという字をとって、レゾナンスと付けることにした。

 ワンダーレゾナンス──直訳するなら、不思議な共鳴といったところだろうか。二人だけでロックを奏でようとするのは、確かに不思議なことだ。昨今は打ち込み音声の技術発展に伴い、ロックをデジタルで表現すること自体は難しくなくなった。しかしそれでもロックバンドの主流は四、五人以上のグループだ。それも舞台で演奏するとなると、響介のギターと打ち込み音声の音響だけでは迫力に欠けるだろう。

 帰宅後、律は早速響介に通販サイトの写真を添えたメールを送った。夏休みに楽器店で見ていた、あのショルダーキーボードだ。ギターのように肩掛け出来る形状のキーボードなら、表現の幅も広がりそうだと考えたのだ。

 とはいえ、若かりし頃の“先生”のように、ショルダーキーボードを舞台に叩きつけてぶっ壊す──というレベルの派手なパフォーマンスは、律には到底不可能だ。しかしショルダーキーボードを上手く使いこなせば、響介と一緒に立ち位置を変えたり、少しステップを踏んでみるくらいは出来るだろう。

 何より律は、響介の隣に立ちたくて仕方がなかった。明るく快活な彼を真似て、自分も少しくらいは弾けてみたかったのだ。響介と一緒に、壇上でどんなパフォーマンスをしてみせようか──いやいや、先に実行委員の選考を通らなければ。はやる気持ちのまま、まるで律の心も跳ねるようだった。

 律はすっかり浮かれ気分でいた。あまりにも調子が良すぎたのだ。最近は何をしても上手くいっている。隣に響介がいるおかげだ──引っ込み思案だった彼は、やっと前を向くことができるようになった。

 だからだろうか。律は前ばかりを気にするあまり、自分の体調の変化に気がつかなかった。


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 体育祭本番を控え、予定通り代表に選ばれた律のリレー練習は、佳境を迎えていた。ラップの芯をバトンの代わりに使い、律から響介へ、そしてまた律へと、二人は交互にバトンタッチの練習を繰り返す。体力こそなかったものの、律は手先が器用で要領も良い。コツを掴んだ途端タイムはぐんと縮んでいき、その度に二人は声を上げて喜んだ。

「後は本番だな! あっ、緊張しないためのおまじないの練習もしとくべきかな?」

 呑気にそう言う響介に、律は何気なく頷いて返事をしようとした。しかし、声を出そうとした途端むせてしまい、返事の代わりに乾いた咳の音を出してしまった。

「おわ、律? 大丈夫か?」

「っん……ちょっとむせたみたい。大丈夫だよ。あはは、緊張してるのかも」

「ううん……なら良いんだけど。熱が出たら無理せず休めよ?」

 笑顔を見せた律に向けて、響介も笑顔で返す。律が響介を信用するのと同じくらい、響介も律の『大丈夫』という言葉を信じていた。その時、無邪気そうに笑っている律の顔からは、不思議と少しの不安さも感じられなかったのだ。




 体育祭本番当日。一応響介は心配になって、朝早くから律に携帯で連絡をとった。どうやら律も似たようなことを考えていたらしい。念のため体温を測っていたが、平熱だったそうだ。その報告を聞いて響介はほっと安堵した。

 選手宣誓、校歌斉唱と続き、共立高等学校の体育祭が始まった。律が出場する短距離リレーは後半のプログラムのため、午前中は丸々暇な時間だった。律は騎手に選ばれた響介が、敵の鉢巻を奪いに手を伸ばすのを緊張しながら見守ったり、障害物を軽々と交わして進むのを、感嘆しながら眺めていた。

 時折後ろの方から沢根が響介を応援する声が聞こえてくる。記憶が正しければ、彼もあまり運動は得意じゃない方だ。何の種目に出るのかは知らないが、少なくとも短距離リレー以外だろう。嫌な思い出に尾を引かれそうになり、律は首を横に振った。

 午後に備えて昼食は軽めに済ませると、律は短距離リレーの待機場所へと向かった。今度は響介が彼を応援する番だ。まだ入場前なのに「がんばれ律!」と自慢の大声を張り上げられてしまい、律は恥ずかしさで熱が出てしまいそうだった。

 律は緊張こそしていたものの、不思議と人前で走ることへの恐怖は感じなくなっていた。響介とは何度も練習をしたし、その後のクラス合同でのリハーサルも上手くいっていた。練習通り走れば大丈夫だ。

「へえ。椀田のやつ、リレーなんか出るのか」

 応援席の沢根が意外そうにぽつりと呟いたので、横にいた響介は思わず「ああ、うん」と相槌をついた。

「律、運動苦手らしいから一緒に練習してたんだ。結構走るの早くなったんだぜ……って、沢根にこういう話、しない方が良かった?」

「いいや、別に。……あいつ、頑張ってんだな」

 パイプ椅子に足を組んで座ると、沢根は何か思案しているのか、物憂げに俯いて首をかいた。響介は彼の言葉に何か含みがあるのを感じたが、それ以上は詮索しないことにした。

 一方律の方はというと、緊張した様子で表情を堅くしているものの、響介が教えた通りに準備運動をして、体を動かしているのが見えた。彼ならきっと大丈夫だろう。すっかり慣れた手つきで体の筋を伸ばす律の姿を眺めて、響介は人知れず拳を握った。

 放送部のアナウンスが流れ、選手達がグラウンドへと入場してくる。彼らは南北それぞれの待機列に並び、第一走者はコースへと揃っていった。

 空砲──といってもこの時代では当然の如く録音音声だが──がダンと鳴り響き、短距離リレーが幕を開けた。響介のクラスは比較的前の位置を維持しながら走行していく。第二走者、第三走者へとバトンが渡り、次は律の番だった。

 第三走者が向かってくるのを見て、律は少し早めにテイクオーバーゾーンへと抜け出した。これはクラス内で決めた、律の走行距離を短くするための作戦だった。テイクオーバーゾーンのギリギリでバトンを受けて、律の次の走者へは早めにバトンタッチを済ませる。リハーサル通りにバトンを受け取って、律は走り始めた。

 響介は拳を固く握ったまま、固唾を飲んで律の姿を見守った。バトンの受け渡しも、走行姿勢も、練習通りに上手くいっている。大丈夫だ──そう思っていた矢先に、不意に律が失速し始めた。

 周囲の生徒がにわかにざわつき始める。律の姿勢は明らかに乱れ始めていた。何があったのだろうか? あまりに唐突な異変に響介が呆然としていると、律はコーナー半ばでついにバトンを落とし、その場へ崩れるように倒れ込んでしまった。

 響介は、声すら出ないほど愕然としていた。倒れた律は蹲ったまま、立ち上がる気配がない。教師が一人、何事かと彼の元へ駆けつける。

 するとそれまで黙りこくっていた応援席の沢根が、何かに気づいたのか苛立った様子で、急に舌打ちをしながら立ち上がった。彼は救護テントへと向かって駆けながら叫んだ。

「救護班! 気管支拡張薬は!?」

 律はもう、自力で立ち上がることすらできないらしい。視界の隅で、沢根が何かを持って彼の元へ向かうのが見えた。そのうちもう一人教師が担架を持ってきて、律は保健室へと運ばれていく。その間もやはり響介は何もできず、ただ急激に暗転していくような景色を、ぼんやりと眺めることしかできなかった。


 苦しい。咳き込めば咳き込むほど、気道はますます狭まり律の首を絞めていく。混乱と酸欠で頭の中が白く霞んでいき、周りがどうなっているのかさえわからなかった。

 うっすらと、誰かが自分を呼ぶのが聞こえる。響介だろうか。ぼやけた思考の中では判別がつかない。すると、その誰かに顎をぐいと掴まれた。口を開けて息を吐け──言われた通りに息をする。スーと聞き慣れた吸入剤の音が聞こえ、ようやく呼吸が落ち着き始める。次第に意識も鮮明になっていった。

 涙で滲む視界に真っ先に映ったのは、青白い顔をしてこちらを見下ろす沢根と、その後ろの方で呆然と立ち尽くしている響介の姿だった。


「あの、先生……律は……」

 響介が保健室へと入ると、養護教諭の女性が振り向いた。彼女は響介のひどい顔色を見て、一瞬だけ悲しげな表情を見せたが、すぐに優しい笑みを作って答えた。

「椀田くんのクラスの子ね。大丈夫よ、発作はもうおさまったみたいだから。今は寝ているわ。きっと疲れていたのね」

 疲れていたという言葉を聞き、響介の顔はますます青ざめていく。きっと自分のせいだ。律の身体がどうなっているのかも知らず、頼られる嬉しさから彼に無理をさせてしまったのだ。そう思うと響介はあまりにも律に申し訳なくて、居た堪れなさを隠すこともできずに項垂れてしまった。

 養護教諭は苦々しい面持ちをしている響介を、慰めるように肩を叩いて声をかけた。

「念のため医師の診察を勧めているけれど、幸い大事には至っていないから……そんなに心配しなくても平気よ。安心して。親御さんも迎えに来てくれるし、あとはお医者さんがなんとかしてくれるわ」

 医者と聞いて、事態の深刻さに響介の心配はむしろ増してしまうようだった。しかし今の自分には、出来ることなど何もないのも事実だ。響介は苦い思いを噛み潰すように頷いた。

「……はい。よろしくお願いします」

 軽く頭を下げてから保健室を去ると、廊下の壁に寄り掛かるようにして沢根が立っていた。彼は一体何を考えているのか、案外平然とした顔つきで口を開いた。

「成谷、落ち着いたか?」

 響介は頷いた。だがその様相は、とてもじゃないが落ち着いた状態とは言い難かった。

「今は寝てるって。……俺、知らなかった。病気だったなんて……」

 沢根は頭をかきながら首を傾げた。何をどう説明するべきか、彼なりに言葉を選んでいる様子だった。

「気管支喘息の発作だな。俺が椀田の発作を最後に見たのは小学校の頃だ。いわゆる小児喘息だろうし、てっきり俺もとっくに寛解かんかいしてると思ってたよ」

 響介はもう、やり場のない気持ちに耐えられなくなって、思わず頭を抱えて俯いた。沢根は慌てて響介の肩を抱きしめ、引き寄せた。響介がひどい罪悪感に震えているのが、手から伝わってくる。その思いは沢根の心まで一緒に握りつぶしてしまうかのようだった。

「俺のせいだ……俺が律に無茶なんかさせたから」

 響介が上擦った声で小さく呟いたのを、沢根は遮るように捲し立てる。

「成谷のせいじゃねえよ! 何も言わなかったってことは、本人すらもう治ったと思ってたんだろ。そんなのを他人に判断できるわけがねえ」

 響介はそれでも納得しきれないのか、何も答えられず、ただ顔を手で隠して俯き続けていた。沢根は縮こまっている響介の背を叩き、「行こうぜ」と一声かけると、そのまま引きずるように彼を連れてグラウンドへ戻っていった。

 ドア越しに響介達の会話を聞いていた養護教諭は、自分も一緒に締め付けられたような気持ちになって眉を下げた。体育祭のリレーの本番中に生徒が倒れ、その原因が小児喘息の再発だったらしいという話は聞いていた。彼らの気持ちは、察するに有り余るほどだった。

 しかし教諭としては、心配ばかりしてもいられない状況だ。悲しい思いは一旦置いて、報告書に手をつけようと気持ちを切り替えた時だった。

 パイプベッドの方から、引き攣るような息遣いが耳に入った。発作を起こしている様子ではない。しかし、啜り泣く声はあまりにも切なげだった。

 てっきり寝入っているのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。彼の方はどこまで話を聞いていたのだろうか──思いを馳せながらも、養護教諭はペンを手に取った。


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「お前は堂々とサボれて良いよな」

 目立つつり目を覆うように、黒髪を長く伸ばした少年が、嫌みたらしく口角を上げてこちらを煽り立てる。律が無視を決め込んでいると、彼は尚も焚き付けてきた。

「病気だかなんだか知んねえけど、いつまでも苦手なもんから逃げてんじゃねえよ貧弱野郎。悔しかったら少しくらい動いてみろよ」

 毎日毎日、ずっとこの調子だった。クラスメイトも教師も、皆見て見ぬふりだ。沢根はいつもこうして嫌味を言ったり煽ったりするだけで、決して律に直接暴力を振るったりはしない。だからこそ、彼はいつまでも見過ごされているのだ。この程度なら誰も文句を言うまいという線引きを、この狡猾な少年は小学四年生という若さで弁えている。

 沢根はヒュウと口笛を吹いた。相変わらず耳障りな音だ。律が思わず表情を歪めると、彼はさも可笑しそうににやにやと笑った。

「あんだお前。耳は聞こえるんじゃねえか。認めたくねえから何も言い返せねえってか?」

 違う。お前なんかを相手にしたくないだけだ。言い返したいのを堪えるため、律は腹部を押さえるようにして拳を握った。

「まあいいや、俺はもう行くぜ。“サボれる口実のあるお前なんか”と違って、俺は嫌いな体育も真面目にやんねえといけないんだ」

 律は歯を食いしばった。“これ”が運動をサボる口実なわけがあってたまるか。自分だって、好きでこんな体質で生まれてきたわけではないのだ。可哀想な奴が何だ。家庭環境に理由があるから何だ。それが他人の病を貶してもいい口実になるとでも?──気づけば律は口を開いていた。

「お前、親に捨てられたんだってな」

 自分でも驚くほど、憎しみの籠った低い声が出た。去ろうとしていた沢根が、顔色を変えてこちらへ振り向いた。彼はにやつくのをやめ、眉間に皺を寄せ、律の言葉が刺さったように険しい顔をしている。

 彼がショックを受けたところを見せたのは初めてのことだった。律はすっと胸がすくのを感じ、思わず畳み掛けた。

「性格が悪いのも遺伝するんだな。親が親ならお前もお前だよ」

「お前っ! ふざけるなよ!」

 沢根は声を張り上げて激昂した。彼があまりにも急に取り乱したので、周囲のクラスメイトの視線が二人へと集まった。それでも尚、律は煽り返すのをやめなかった。むしろ追い討ちをかけるように捲し立て続けた。ここで彼の心を折って、二度と自分に憎まれ口なんか叩けないようにしてやりたかったのだ。

「僕だって好きでこんな弱い身体に生まれたわけじゃない。お前だって親を選べなかった。それと同じなんだ」

「黙れよ! 俺のこと知らねえくせに! なんも知らねえくせに!」

 沢根はついにパニックに陥ってしまったのか、律の言葉にろくに言い返すこともできず、ついには泣きながら喚き始めてしまった。全く、律はいい気分だった。ようやくこの性悪に一泡吹かせてやったのだ。

「知らねえくせに……知らねえくせに……!」

 泣き叫んで暴れ始めた沢根を、体育教師がようやく止めに入った。教師に背中から抱えられた途端、彼は脱力してすすり泣き始めた。ざまあみろ。そう思った律が顔を上げると、クラスメイト達の困惑している顔が目に入った。

 彼らは皆、まるで揃っておかしなものでも見たかのように、冷ややかな視線を自分達へと向けていた。どうして自分までそんな目で見られないといけないんだ。腹の底が熱くなる感覚に、律は俯いた。

 体育教師に抱えられて何処かへ連れて行かれる沢根の背に向けて、律は呟いた。

「……お前だって、僕のことを知らないくせに」

 小さな律の台詞は、誰の耳にも届いていなかった。

 後から風の噂で知った話だったが、沢根の母親は彼のことを捨てたのではなく、むしろ過剰なほどに束縛し、暴力まで振るっていたそうだ。そのため彼女の姉──沢根の伯母は甥の命を危惧して彼を保護することにした。市の児童福祉課や警察も動くかと思われたが、その前に沢根の母は息子を姉に奪われたと思い込み、錯乱のあまりマンションのベランダから身を投げてしまったのだそうだ。

 終始傍観していた父親は妻の自殺に怯えて失踪し、沢根は一人取り残されてしまった。その件に責任を感じた伯母夫婦は彼を養子縁組し、家族として迎え入れた、というのが事の真相だった。

 無知は罪なり、とでも言うべきか。あの口論以来、確かに沢根は二度と律のことを揶揄ったり、馬鹿にしてくることは無くなった。しかし、それどころか中学に上がるまで、彼は学校にすら来なくなった。

 その後中学生になってからの沢根は、急に人が変わったように明るく気さくに振る舞いはじめた。クラスメイトはそんな彼の方を憐れんだらしい。次第に律とは関わるのを避け始めた。

 それからは、律も自ら他者との関わりを避けるようになった。思えば、あれからだった。『他者から失望されることが怖くなったのは』──乱にも満たない失態の舞台は、あの冷たい視線を浴びた口論から、わずか数日後のことだった。


 やがて青白い霧が散っていくように、ぼやけていた思考が過去から現在へと引き戻されていく。嫌な夢を見ていた──トラバーチン模様の保健室の天井が視界に入り、今は小学校ではなく、高等学校に居るのだと思い出した。自分は体育祭の途中で倒れたのだ。連想するように記憶が蘇り、律はパイプベッドの白いシーツを握りしめた。

 ふと、外の方から「成谷のせいじゃねえよ!」と沢根が叫ぶのが聞こえてくる。どうやら響介もそこにいるらしい。全く、今度ばかりは彼の言う通りだった。うまく聞き取れないが、声色から察するに恐らく響介は後悔し、沢根は憤慨しているのだろう。シーツを握る手が、汗で冷え始めるのを感じる。

 律は革命に失敗したあの日、母に手を引かれながら舞台を下りたときの気持ちを思い出した。あのときとよく似ているが、今度はもっと酷かった。自分は家族や周囲の人だけでなく、大事な友人まで裏切ってしまったのだ。こんな奴が、どうしてあの憧れの青い歌声の、隣に立てると思ってしまったのだろうか。

 冷えきっていく思考の中で、律は決意した。自分はやはり舞台に立つことはできない。もし本番で失敗したら……それどころか倒れてしまったら。考えれば考えるほど、ひどい情景しか浮かんでこないのだ。これ以上、誰にも恥や迷惑をかけるわけにはいかない。頭の中では、冷静にそう判断を下しているつもりだった。

 しかし、律の小さな心は潰れてしまいそうなほど苦しんでいた。どうして自分は、もっと強い人間に産まれてこられなかったのだろう。どうしてこんなに弱いのだろう。もう少し、あと少しだけ丈夫に産まれられていたなら、今も彼の隣に立てていたのだろうか。

 もう少し。あと少しだけで良いのに。狭い気道を震わせながら息をする。喉元からヒュウと音がして、律はあの口笛を思い出して歯を食いしばった。

 本当に、好きでこんな弱い身体に生まれたわけじゃない。どうして選べなかったんだ──




 次の登校日に、律が定刻通り教室に訪れたのを見て、響介はひとまず安心した。身体の調子は思っていたよりも深刻ではないらしく、無理な運動や空気の悪い場所さえ避ければ、発作も起きないという話だった。

 律が元気そうで良かった。響介はそう口にしようとしたが、彼の顔色が悪いのを察して尋ねた。

「大丈夫……じゃ、なさそうか?」

 律は首を縦にも横にも振らず、ただ目を伏せながら「放課後に話すよ」とだけ口にして、席へとついてしまった。響介もそれ以上追求することはせず、普段通り席につき、そのまま授業を受けた。

 授業中の律は至って落ち着いている様子だった。けれど放課後に話すこととは何だろうか。医者から何か言われたのだろうか。響介の脳裏を嫌な想像が過ぎっていく。

 そして放課後、律から「一緒に舞台には上がれない」という話を聞いたとき、響介はむしろ腑に落ちるような気持ちになったのだった。

「まあ、そうだよな……体の調子が悪いなら、仕方ないよな」

 律は何も答えない。ただ気まずそうに俯いて、悲しげに視線を落とすばかりだった。きっと律だって、舞台には出たかったに違いない。響介は律を励ましたい一心で言葉を紡いだ。

「けど、今年はダメでも、文化祭は来年もあるからさ。また頑張ろうぜ。ああ、ええと……頑張るって言っても、身体に悪くない程度に……」

「響介」

 早くも来年の展望を語る響介を、律は遮った。響介は未だに自分へ期待し続けている。その思いを裏切らなければいけないのが、律は辛かった。けれどもし舞台の本番で裏切ってしまったら、きっと響介はもっと辛い思いをするだろう。

「悪いけど、僕はもう舞台には上がれないよ。来年も、その来年だって無理だ」

 響介は何も言えず、凍りついたように固まってしまった。律はそんな彼を宥めるように、無理矢理笑みを作って話を続ける。

「大丈夫だよ、僕は音源なら作れるから。本番で隣には立てなくても、裏方からならいくらでも響介をサポートできるよ」

 笑って話す律とは打って変わって、響介は悲痛そうな面持ちで首を横に振った。

「違うだろ。それじゃあ一緒に音楽やってる意味がなくなっちゃうじゃないか。病気なら、無理に身体を動かしたりしなければいいんだろ? だったら……」

「前にも言ったじゃないか、僕は人前で演奏ができないんだよ!」

 諦めの悪い響介に、律はついに怒りを露わにした。響介も思わず頭に血が上り始める。

「何でだよ、もうバンド名だって決めたのに。パフォーマンスだって一緒に考えたじゃないか! 人前でできないって、俺とはずっと一緒に演奏してただろ!」

 どうして響介はここまで頑ななのだろうか。律は苛立ちながら答えた。

「響介の前で弾けたのは……あれは響介が特別なだけなんだ。本番の舞台に立ったら、僕は手が震えて、まともに指すら動かせなくなるんだよ」

「辛いのはわかるよ……けどそんなのおかしいだろ。まるで今後もずっと、絶対に失敗するって前提みたいじゃないか」

 必死に食い下がる響介に、律はついに突き放すように叫んだ。

「舞台で失敗したことのない響介にはわからないよ! この前の体育祭だってそうだった! せっかく響介と一緒に頑張ったのに、本番になって……急に僕が台無しにしたじゃないか。僕は、ダメなんだよ。僕が人前に立ったら、響介が恥をかくんだよ!」

 律らしくない、あまりに感情的な、大きな声だった。響介は圧倒されるがまま、ただ悲しげに眉を下げて答えた。

「……隣で音楽やってくれるんじゃ、なかったのかよ。嘘だったのか、あれ」

 響介の目から、光がこぼれ落ちていくように、頬に涙が伝っていく。律は心臓を引き裂かれたかのような衝撃を受けた。

『嘘だったのか』──ついに、本当に響介を裏切ってしまった。律は狼狽えながら後退る。響介は俯いたまま、それ以上は何も言わなかった。あまりの後ろ暗さに耐えられず、律は荷物を引っ掴むようにして教室を後にした。

 医師から激しい運動は控えろと忠告されていたのに、律は狼狽のあまり廊下を駆け抜けた。そして校舎を後にして、通学路へと出る頃には、発作を起こして咳き込みながら地べたに蹲った。

 酸欠と混乱で目眩に襲われながらも、律は鞄の中から吸入剤を出し、慣れた手つきで薬を吸った。

『丈夫な子に産んであげられなくて、ごめんね』……いつか、母が悲しそうに自分へそう言ったのを思い出す。律はかぶりを振った。違う、悪いのは母さんじゃない。

 弱いのは身体だけではなかった。自分が弱いのは、全て自分のせいだった。響介を裏切ってしまったことだって、決して病のせいではなかったのだ。

 発作がおさまり、次第に冷静さを取り戻していく一方で、律は心の底から思った。

 生まれてきて、ごめんなさい──空は晴れているのに、コンクリートに雫が落ちた。

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