第9話

 夏の空は高く青い。五日間のアルバイト体験を経て、響介も律もその志を僅かにあの空へ近づけたようだった。

 アルバイトを終えてから数日後。二人は“律へのお駄賃”として徳野さんから譲り受けた、中古のエレキギターを持って楽器店へと向かっていた。アルバイトの最終日、徳野さんは二人が音楽活動をしているという話を聞いて、彼の祖父が愛用していたギターを響介へと譲ってくれたのだ。

 勿論二人共驚いたし、はじめは断ろうとした。彼の祖父の遺品ということは、相当な高値のつく古いギターのはずだ。その上見るからに傷一つない良い状態のもので、それは素人目に見ても、アルバイトの対価としては高すぎると思える品だった。しかし徳野さん曰く、思い出深い遺品のため売るわけにはいかず、楽器に詳しくないため使うこともできず、知人に継いでもらうのが一番良いとのことだった。

 響介は独学でアコースティックギターを弾いた経験こそあるものの、エレキギターに関しては触るのも初めてだった。しかし──彼は長考の末にギターを受け取った。本気でロックの世界へ向かうのなら、このギターは自分が受け継いで使うべきだと思ったのだ。

 徳野さん本人が言う通り、楽器の扱いを知らない家庭でこのまま壁飾りにされているくらいなら、たとえ響介のような素人だろうと、人に演奏される方がきっとギターも幸せだろう。

 初めて触った木製のエレキギターは、ずっしりと重く感じられた。アコースティックギターとは違い電気系の部品が備わるため、より重いのは当たり前なのだが──それ以上に、人の遺品を譲り受けるということが、響介の体だけでなく心へも重圧をかけるようだった。

 響介はその重さに緊張感をおぼえると共に、どこか心が昂るように思えた。ギターの赤いボディは古い品であるにも関わらず、艶やかな光を情熱的に放っている。徳野さんの祖父は一体どんな風にこのギターを弾いていたのだろう。古びたレコードジャケットが飾られている──徳野さん曰く“ビートルズ”という、響介の英雄達よりももっと昔の洋楽ロックバンドらしい──彼の仏壇に手を合わせてから、響介はふとそんなことを想像したのだった。


 楽器店では、まずギターのメンテナンスを勧められた。古いギターはいくら見た目が綺麗でも、弦の劣化やパーツの緩みがあるため、交換とクリーニングの必要があるそうだ。アンプも古い電化製品のため修理はできず、買い替えを勧められた。少々値は張るが、エレキギターに関しては響介も律も素人だ。二人共、素直に店員の勧めに従うことにした。

 メンテナンスを待つ間、二人は店の中を見て回っていた。市内で随一の老舗楽器店なだけあって店内は広く、弦楽器だけでなく管楽器や打楽器、ピアノ等の鍵盤楽器も数多く揃っている。その他に楽譜や教本などの書籍が並んでいる棚もあったので、響介はひとまず“エレキギター入門”と書かれている初心者向けの入門書を手に取った。

 入門書にはエレキギターの発音の仕組みから、演奏のために必要なもの、そして具体的な音の出し方やアレンジの仕方に至るまでが丁寧に書かれていた。写真やイラストが載っているページが多いためかこちらもやや高価だが、せっかく音楽活動のためにアルバイトでお金を稼いだのだ。こんなところで出し惜しみをするわけにもいかないだろう。響介は入門書を買おうと決めて、ページを閉じた。

 そうしてふと顔を上げると、律が少し離れた場所で鍵盤楽器のコーナーを見つめているのが見えた。その横顔がどうにも物憂げに見えるので、響介は思わず胸中がざわつくのを感じた。

 鍵盤楽器には未だ詳しくないが、律が見ているのは恐らくキーボードやエレクトーンの類だろう。中にはギターのようにネックストラップが付いた、肩掛けできそうな形状のキーボードもある。それらを眺めながら、律は一体何を考えているのだろうか。

 響介の中に疑問が浮かぶと同時に、胸のざわつきは更に増してきた。最近の自分は何かがおかしい。律のことを考えると、つい気持ちが浮ついたり、逆に胸騒ぎがしたり、どちらにせよ落ち着かなくなるのだ。

「どうしたの、響介?」

「えっ」

 不意に振り返った律に尋ねられ、響介は慌てて我に帰った。

「いや、なんでもない……あっ、これ。買おうかなって思って」

 響介はつい律のことばかり見入ってしまったことを、勝手に気まずく感じた。咄嗟に手に持っていた入門書を話題に出して誤魔化しつつ、その脳裏では彼に不審がられていないかを心配していた。

 しかしその不安はどうやら杞憂に終わったようだった。律は入門書を見ると「いいね。僕もエレキギターには詳しくないし、基礎から頑張ろう」とにっこり笑って答えた。

 響介は彼の笑みに安堵すると共に、今度は胸の内にふわふわとした熱が込み上げてくるのを感じた。思わず顔がにやけそうになるのを堪えつつ、入門書をカウンターへと持っていった。

 そうして購入した入門書を数ページほど読み耽っている間に、楽器店の店長がメンテナンスの完了を告げに来た。彼からいくつかのアンプや付属品を勧められ、それぞれの音を実際に弾いて聴かされつつ──響介も律も、結局どのアンプが“良い”のかはよくわからなかったので、ひとまずその中では一番安価な小型のコンボアンプを買うことにした。

 安価とは言ったものの、家庭用とライブ用を兼ねられる性能のコンボアンプだ。響介が泊まり込みで稼いだアルバイト代の、おおよそ半分程度の値段がついていた。家にあるあのプラスチック製のギターが五本分……という貧しい考えをつい頭に浮かべつつ、響介はメンテナンス後のギターと、購入したアンプと付属のケーブルと、クリップチューナーを受け取った。

 メンテナンス代と先程の入門書の金額も合わせて、この買い物でアルバイト代のほとんどがなくなってしまった。たった五日間とはいえ、あんなに汗水流してくたびれながら得た成果が、わずか一瞬で消費されてしまったのだ。十代半ばの少年は、労働と経済の儚さをいっぺんに感じることとなった。

 それからメンテナンスを受けてますます輝きを取り戻したギターを、黒く光るギターケースに納めた後、響介達は店の外で椀田家の迎えを待つことになった。

 その日彼らは朝早くに出発し、午後は受け取ったギターを早速試し弾きしてみよう、という話になっていた。律曰く、彼の実家には防音室があるらしい。律はいつもそこでピアノを弾いているのだと言う。

 律が自宅にスマートフォンで連絡するのを横目に見ながら、響介は高鳴る胸を押さえるように、抱えているギターケースをぎゅっと抱きしめた。律の自宅に呼ばれるのは初めてだ。その上、横で話している彼の口調を察するに、通話相手は恐らく律の母親だろう。

 これから迎えに来るという律の母は、どんな人なのだろうか。律の部屋はどんな内装なのだろうか。そんなことを想像すると、思わず期待と緊張がない混ぜになって、響介の鼓動はますます早まるのだった。

「響介、あと数分で着くって。……大丈夫?」

 通話を終えた律に不意に話しかけられ、響介は早まっていた鼓動が急ブレーキをかけたかのように驚いた。

「えっ!? いや、なんでもない……大丈夫!」

 響介の露骨な反応に、流石の律も疑問を感じたようだった。彼は心配そうに眉を下げて首を傾げたので、響介は気まずくなって目を逸らした。

「大丈夫なら良いんだけど。もし体調が良くないなら、無理はしないでよね」

「うん、ありがとう……」

 響介はギターケースに顔を埋めるようにして縮こまった。やはり最近の自分はどうも変らしい。動悸がするなら呼吸器内科か、循環器内科に診てもらうべきだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、彼は空返事をしたのだった。


 暫く待つと、いかにも高級そうな銀色のセダンが、駐車場へと緩やかに徐行してきた。律は車が停車線内に停まるのを確認すると、フロントドアの方へと駆け寄った。

「ありがとう、母さん」

 律の母は「いいえ。お帰りなさい」とドアウィンドウを開きながら答えた。落ち着いた、品のある印象を受ける声だ。響介も恐る恐る彼女の元へと近寄って、頭を下げた。

「こんにちは……」

 律の母は響介の姿に気づくと、はっとした様子で声を上げた。

「あぁ、こんにちは。初めまして。あなたが律のお友達ね。こんな所からごめんなさいね、今降りますから」

 おっとりとした様相は保ったまま、慌ててドアを開けて車を降りる母の姿に、律は苦笑した。彼女は律にとって自慢の立派な優しい母なのだが、時折こうして悠長なのかそそっかしいのかわからない行動をとるのだった。

「息子がお世話になっています。改めて、よろしくお願いしますね」

「あっ、はい。こちらこそ……」

 車を降りた律の母は、響介に負けじと頭を下げた。息子によく似た、品行方正な雰囲気の女性だった。緊張した面持ちでまごついている響介を見て、律は困った様子で笑ってみせた。

「母さん。僕、別に響介に世話なんかされてないよ」

 律の母は息子の冗談にむっと顔をしかめた。

「何言ってるんですか。つい昨日だって、『一緒に出かけるような友達ができたなんて、生まれて初めてだ』って、あんなにはしゃいでいたじゃない」

「ちょっと母さん!」

 狼狽える律の顔が、羞恥でみるみる赤く染まっていく。そんな様子を見て、響介は却って安堵したのだった。


 車で送られている間に、響介は律の母へ軽い自己紹介と挨拶を済ませた。響介が改めて名乗ると、彼女の口から「いつも律から聞いていますよ」という言葉が出てきたので、響介は思わず笑いを溢してしまった。隣の席に座っている律は、気恥ずかしそうに目を逸らしている。

「いつもって。俺、律からどんな風に言われてるんですか?」

 響介は好奇心から思わず尋ねた。素直な母が「ええと……」と話し始めるのを、律は慌てて止めに入った。

「母さん!」

「……だそうです。ごめんなさいね、成谷くん」

 運転席からふふふと可笑しそうな笑い声が聞こえて、響介もつられてにやついた。ふと視線を感じて横を向くと、律は不機嫌そうに頬を膨らませて、響介のことを睨みつけていた。

 その顔がやたら紅潮しきっているので、今度は響介の方が急に恥ずかしくなってしまい、彼は慌てて逆側のドアウィンドウへ顔を逸らした。

「……浮かれてたのは事実だよ。友達……いなかったから」

 後方から律が小さく呟くのが聞こえて、響介は「そっか」と頷いた。車窓の外へとわざとらしく目をやって、気にしていないふりをしていたが、その内心では律が浮かれていたことを嬉しいと感じる自分がいた。ふと見ると、人のことを言えないほど浮かれた自分のにやけ顔が、窓に映って視界に入ったので、居た堪れなくなった響介は目を閉じることにした。


「うわーっ! 家でけー! すげー!」

 椀田宅に到着して、開口一番に響介がそう叫んだので、親子揃って噴き出すのを堪えることになった。特に律はどこかで聞いたような、響介の語彙力のないリアクションが面白く感じてならなかった。

 二人の様子に気づいた響介は、振り向くとはっと口を塞いで気まずそうに俯いた。律の母はそんな彼を和かな笑みで家の中へと案内した。響介は自宅のアパートと同じくらいの大きさがある戸建てに、少々緊迫した気持ちを抱きつつ、彼女の後へついて行った。

 アール・ヌーヴォー風の流線型の装飾が施された、いかにも高価そうな玄関扉が開かれる。黒く艶めいている玄関床は、大理石か何かでできているのだろうか。その向こうの白い廊下は寸分の汚れも見当たらず、まるで貴族の邸宅のような様相だ。

 こんな豪邸に自分が足を踏み入れてもいいものだろうか。思わず響介が躊躇っていると──どこかから、カタカタと小さな足音が迫ってくるのが聞こえてきた。

「フォルテ!」

 律がそう言うと、廊下の曲がり角の向こうから、金色の毛並みの大型犬が「ワン!」と一声鳴いて飛び出してきた。フォルテと呼ばれた犬は、ふさふさの大きな尻尾を嬉しそうに振りながら、律へと飛びついた。

「ワフッ! ワンッワンッ!」

「ただいま。こらこら、わかったからはしゃがないで。今日はお客さんがいるんだよ」

 律から“お客さん”という言い回しをされたことに、響介は気恥ずかしいような、むずかゆいような気持ちになった。フォルテは律の言うことを聞いたのか、相変わらず尻尾は元気そうに振り回しつつも、大人しくその場に座ってみせた。相当賢い犬なのだろう。律がよしよしと頭を撫でると、フォルテは嬉しそうに舌を出した。

「はじめまして、フォルテ。俺は響介だ」

 響介は自分もフォルテを撫でようと思って、手を下から差し出した。すると驚くことにフォルテは小さくワンと吠えながら、響介の手に自分の手を乗せてみせた。挨拶のつもりの“お手”なのだろうか。響介は目を丸くして驚いた。

「偉いなぁ、お前。えっと、なんちゃらレトリバー?」

「ゴールデンレトリバーだよ。響介よりも賢いかもね」

 まさか犬と比較されるとは。隣の律が悪戯っぽく笑ってそんな冗談を言ったので、響介は顔に熱が昇ってくるのを感じた。


 廊下を少し進むと右手側にリビングがあり、その反対側に律の部屋と、隣に防音室があるらしい。トイレやシャワールームは廊下のさらに奥、寝室は家の中心に堂々と佇む吹き抜けの階段を上がって、二階にあるそうだ。二階には広いベランダや書斎、さらにはフォルテ専用の部屋もあると聞き、響介は椀田家のあまりの広大さに目眩がしそうだった。犬専用の部屋がある家庭なんて、初めてだ。

 律の母は一通り家の案内を終えると、「お茶を用意しますね」と反対側のリビングの方へ向かっていった。一方律は目的の防音室の前に、一旦荷物を置くため自分の部屋へと入っていった。響介はこっそり後ろから彼の部屋を覗き込み、その想像以上の簡素さに改めて驚いた。

 律の部屋はよく言えば整理整頓されており、綺麗だった。しかし自分と同級生の少年の部屋としては、やや殺風景に感じられる。床にはカーペットが一枚敷かれ、その上に何も置かれていないローテーブルが一つと、壁際にシンプルな木製のベッドが一つ、そして窓辺にノートパソコンが一台置かれたラック付きのデスクが一つ、計三つの家具がぽつんと置かれているのみだ。よく見ると壁に収納スペースの扉らしきものがあるので、着替えは恐らくそこに入っているのだろう。

 それにしても、真っ白な壁紙にはポスターの一枚も貼られていないし、デスクにはペン立てとパソコンとマウス、ラックには恐らく勉強に使われているであろう教科書と参考書くらいしか見当たらない。いくら眺めても、おおよそ趣味や嗜好といったものを感じられない部屋だった。

 響介はあまりに質素な彼の部屋に、どこか切なさを感じてしまい、ひっそりと眉を下げた。来る前はどんな部屋なのか、律は何が好きなのだろうか、と色々勝手な想像を巡らせていたのだが、実際はあまりにも何もなかったのだ。そう思ってから、自分は彼と数ヶ月も行動を共にしていたのに、律のことを──彼が好きなものすら、何も知らなかったのだと思い至った。

「響介、どうしたの?」

 目の前を律の白い手がひらひらと横切って、響介は我に帰った。

「ああ、ごめん! ちょっとボーッとしてた」

「なら良いけど……僕の部屋、変だった?」

 律が苦笑いを浮かべながらそう言うので、響介は慌てて首を横に振った。

「いや、変じゃない! むしろすげー綺麗だよ。俺んちぶっちゃけ散らかってて汚いから、律ってすげーなって思ってさ」

「そうかな。だと良いんだけど。家族以外の誰かに部屋を見せるのは初めてだから、ちょっと緊張してたんだよね」

 律は困ったようにはにかんだ。彼が無邪気に苦笑してみせるので、響介はまた胸が締め付けられるような気持ちになったのだった。

 そうして律の部屋を後にして、二人は隣の防音室へと入ることにした。響介は部屋へ入るとまた驚いた。部屋の中に、さらに小さな部屋が鎮座しているのだ。箱の中に箱が入っているかのような奇妙な光景だった。律曰く、元々使わずに空いていた部屋に、後から防音室を設置したのだという。

 フォルテが健気について来ようとするのをやんわりと交わし、くうんと寂しげに鳴く彼(彼女かもしれないが)へ「ごめんね、後で遊ぼうね」と一声かけてから、律は部屋の扉を閉めた。

 部屋の中には、防音室の他に一台のデスクトップパソコンと、そして何やらボタンやツマミのようなものが沢山ついた、いかにも近代的な様相の鍵盤が置かれていた。響介が物珍しげにそれらを眺めていると、律が「それがシンセサイザーだよ」と述べた。シンセサイザーからはケーブルが伸びており、パソコンに繋げられているようだ。

「あぁ、あれが前言ってたシンなんちゃら……これ、弾けるのか?」

「どうだろう。最後に使ったのは中学の頃だし、それからずっと触っていないから、もしかしたらどこか悪くなってるかも……」

 律は言葉を濁しながら、「それより今は響介のギターだよ」と防音室の扉を開けてみせた。

 防音室の中は思っていたよりも広さがあり、響介と律の二人が入ってもまだ多少の余裕がありそうだった。そしてその壁際にはまたしても鍵盤楽器が置いてあったので、響介は中へ足を踏み入れつつも首を傾げた。

「あれ、律って鍵盤二つ持ってんの?」

「そっちはピアノだよ。前にも言ったけど、それがアップライトピアノってやつ」

 律はコンボアンプのケーブルを繋ぎながら答えた。以前『ピアノが好きなんだ』と言っていたわりには、少々余所余所しい素振りの返答だ。響介が彼の様子に僅かに気まずさを感じている間にも、律は防音室の扉を閉め、響介のギターケースを開いてしまうと、チューニングの準備をし始めた。

「さっきの楽器店で調整してもらったから、音は大丈夫だと思うけど……一応クリップの使い方も確認しておこう」

 クリップチューナーをヘッドに挟むと、律はギターを響介に手渡した。試しに六弦を軽く弾いてみると、『ブン』と鈍い音が響き渡った。

 コンボアンプから思っていたよりも大きな音が鳴ったので、二人は一斉に驚いた。思わず同時に跳ねるような反応をしたので、面白くなってしまい、二人共くすりと笑った。

「響介、チューニングの時は弾く弦以外をミュートするんだって」

 律はいつの間にか響介が買った入門書を持っており、チューニングのページを覗いていた。彼は響介にも見えるようにページをこちらへと開いてみせたので、響介は入門書の教えに従って六本の弦を順に弾いていった。

 響介のあまりにも慣れない手つきに、今度は律の方が却って驚いてしまった。

「響介。アコースティックとはいえ、ギターは弾いてたんじゃなかったの?」

「だから言ったじゃん、俺は独学だって。チューニングってやつも知らなかったんだよ」

 響介は顔を顰めつつ、一弦をポンと弾きながら答えた。

「弦の数は同じだけど……これとか、うちのギターと音程が違うんだ。こっちの方が正しいんだろ? うちのは確か半音くらい高かったから、俺の弾き方のほうを見直さないと……」

「何だって?」

 律は思わず目を丸くした。今の発言が聞き間違いでなければ、響介は自宅のギターの音程を覚えており、今弾いた音と比較しているのだ。

「まあ、つまり……ほぼゼロからの初心者なのは認めるぜ。今まではそれっぽい音を真似して、適当に鳴らしてただけだし……むしろ独学って、変な癖付いてるわけだしなぁ」

 響介は困った顔で俯いた。気まずさからか、彼は妙に口数が増えはじめていた。

「け、けど、これからはちゃんと勉強して基礎から頑張るから! 入門書だって買ったしさ!」

「ちょっと待って」

 焦りながら張り切ってみせる響介を横目に、律は口に手を当てて何やら考えている様子だった。律の様相に響介が困惑し始めると、彼は途端に踵を返して防音室を出てしまった。

「待ってて、ノート取ってくる」

「えっ? ノート?」

 響介は防音室に一人残された。そして律の唐突な行動の意味を、呆然と考えているうちに──彼は切迫詰まった様子で部屋に戻ってきた。

「こら、フォルテ。ごめんね、もう少し待ってて」

 部屋のドアの傍で再度愛犬とのじゃれあいを終えた律は、片手にノートとペンケースを持って防音室へ入ってきた。

「響介、楽譜の読み方と書き方は前に教えたよね?」

 律は珍しく興奮しているのか、白い頬を上気させて尋ねた。律の動機は読めないが、彼の様子が真剣であることは響介にも伝わっていた。

 再び防音室の扉が閉められ、小さな空間は緊迫した空気に満たされる。

「う、うん。音符記号の種類はまだ覚えきれてないけど……」

「“音程さえ”わかればいいよ。響介、予定を勝手に変えて悪いんだけど──」


 響介は律から渡された五線譜ノートを、防音室内の小さなテーブルに開き、ピアノ椅子に座って背を丸めていた。

 律が言うには、『今から鳴らすピアノのフレーズを、響介は五線譜へ書き込んでいき、聴き取った音程がどれだけ正確か確かめたい』のだという。

 聴音という基礎練習の一つらしいが、響介が実際に行うのはもちろん初めてだった。緊張しなくていいと言われたが、ようするにこれは聴き取りテストなのだと思うと、響介の肩はどうしても強張ってしまうのだった。

「いい? これが五線の一番下の線、“ミ”の音だよ」

 律は立ったままピアノをトンと鳴らした。響介は黙って五線譜へ“ミ”を書き込んで、頷いた。

 続けて幾つかの音が次々に鳴らされていく。響介は上下する音の流れを、一つ一つ掴み取っていくように五線譜へと書き込んでいった。

 果たして自分が掴んだこの音達は、正しい音程なのだろうか。律は演奏を終え、響介も聴音を終えた。緊張のあまり硬くなった手を、膝にぎゅっと乗せたまま座り込んでいる響介を、律は後ろから覗き込んだ。

 五線譜に書き込まれた印の位置を見て、後ろの律がはっと息を呑むのが聴こえてきた。その驚きはどちらの意味なのだろうか。響介が思わず視線を律へと向けると、彼はこれまでにないほど高揚した様子で目を見開いているのが見えた。

「凄いよ、響介! 初めてなのに完璧だ。趣味で耳コピしてるって聞いてたから、まさかと思ったけど……素人でこんなに音感が良い人、初めて見たよ」

 律は気持ちが高ぶるあまり、矢継ぎ早に響介を褒めそやした。瞳を輝かせてうきうきと語る律を見ていると、響介の気持ちは不思議なことに、却って張り詰めていくようだった。

 そんな響介の気持ちはつゆ知らずか、律は話を続けた。

「響介なら音大だって夢じゃないよ! 楽器科は流石に高校からじゃ間に合わないだろうけど……これだけ才能があるんだから、声楽志望ならきっと! もっと磨けば、プロのボーカリストだって!」

 響介はいつの日だったか、彼に『音楽の才能がある』と同じように褒められた時のことを思い出した。しかし、今日は何故かあの時のような、調子に乗る感覚が湧いてこない。それどころか、褒められているはずなのに、心の中に靄のようなものがかかってくるのだ。

「そうだ。響介にもっと良いプロの講師をつけて貰えないか、父さんに頼んでみようかな……響介ほどの才能なら、僕が教えるよりももっと伸び代があると思うんだ」

 律の話がだんだんと飛躍していく。楽しそうに語る律に反して、響介は胸の内に名状しがたい陰りが差し込むのを感じた。それでも返す言葉が思いつかない響介に対し、律の想いはさらに馳せ回っていく。

「父さんだって、響介のあの歌声を聴いたら、きっと投資を考えてくれるはずだよ。どうかな響介、一度父さんに……相談を……」

 律は話しながら響介の方を向いた。そしてやっと気が付いた。響介の表情は、他人の機微に疎い自分にすら見て取れるほど、すっかり曇りきっていた。それでも彼の口元だけは、律を困らせまいと笑っていた。

 思わず言葉を詰まらせる。そんな律を見て、響介はようやく口を開いた。

「……なぁ、律。俺って、“お前と”上手くやっていけそうかな?」

 響介なりに、選んだ言い回しだった。褒めたてられるあまり、響介はまるで自分が律から突き放されているように感じていた。律に離されたくない一心で、響介は笑顔を作った。

「俺は……頑張りたいって思ってるよ」

 響介の切なげな笑みに、律は凍りついたように固まってしまった。「僕は……」口を開きかけたものの、律はその後を何と続けていいかわからず、そのまま黙りこくってしまった。

 空気が気まずさに澱んでいくのが感じられる。払い除けるようにかぶりを振ると、響介は殊更に満面の笑みをみせた。

「な! 一緒に頑張ろうぜ、律。 俺もエレキギターはゼロからだけど、頑張るからさ!」

 律は“一緒に”という彼の言葉を、苦々しそうな顔で噛み締め、黙って頷いた。


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 帰宅して、夕食を終えシャワーを浴びた後、響介は広げた敷布団の上に寝転がって、今日のことを思い返していた。

 あの後は居心地の悪そうな律を励ましつつ、エレキギターを軽く弾き、律の母が淹れてくれた紅茶を飲んでから帰宅した。余談だが、彼女はわざわざ紅茶のお供にと洋菓子店へ赴き、ケーキを買ってきてくれていた。友人の家に行ってケーキを馳走になったのは初めての経験だった。

 紅茶もケーキも美味しかった。しかし律とは少々気まずい雰囲気になってしまった。今の響介は、ただ律のことばかりが気がかりだった。

 思えばあの時、律の提案を受けるという選択もできたはずだ。自分はもともとミュージシャンを目指しているのだし、プロの音楽講師から指導を受けられる可能性があるなら、むしろ絶好のチャンスだったはずだ。それなのに、自分は律の提案を拒否した。

 胸に手を当てて、もう一度考えた。あの提案を断ったのは正しかったのだろうか。本気でプロの世界を目指すのなら、受けるべきだったのではないだろうか。頭ではそう考えたものの、やっぱり心はその選択を拒絶した。

 自分はどうしても、律と一緒に音楽がしたいのだ。四月の夕方に律が弾いた、響介の心境までもを改革した、大海のごとき革命。誕生日の夜の、ケーキのろうそくの暖かい灯りと、律の不器用な優しい笑み。今までのことを思えば、どうしたって彼を手放すという選択肢は、自分の中に存在しなかった。

 それでも胸騒ぎが止まらないのは何故だろう。響介は胸に当てた手を、ぎゅっと握りしめた。自分は一体、このままで何を目指しているのだろう。本当は、何がしたいのだろう。憧れの音楽の世界、母さんのこと、そして律のこと──様々な葛藤が、響介の心の中を掻き乱していた。

 響介はうつ伏せになって枕へ顔を埋め、無理やり眠ることにした。今はただ、がむしゃらでも出来ることをするしかない。響介は固く目を閉じた。

 英雄のバラードが脳裏に語りかける。“どのみち風は吹くんだ。俺にはどうでもいいことなんだ”──ガリレオ、ガリレオ、ガリレオフィガロ──


 次の日の朝、相変わらずけたたましい電子音を鳴らす時計に叩き起こされた後、響介は携帯電話を覗いて驚いた。昨晩、律の方からメールが送られていたのだ。今まで響介の方から連絡を取ることはあっても、律の方から連絡が来るのは初めてだった。

 一体どんな内容だったのだろう。少々の不安を抱きながらメールを開くと、その内容の呆気なさに安堵した。それは一緒にクラシックオーケストラのコンサートを観に行かないか、という誘いの連絡だった。

 もちろん響介はその誘いを受けた。返事に日を跨いでしまったが、律からはすぐに待ち合わせのメールが返ってきた。響介はメールに返信してから早速着替えと支度を始め、早めの昼食を済ませてから家を出た。


 律が待ち合わせ場所に選んだ駅の前に着くと、昨日乗ったばかりの銀色のセダンが既に待ち構えていた。響介は運転席の律の母に頭を下げてから、後部座席へと乗り込んだ。

「昨日ぶりだね、響介」

 隣の席に乗っていた律は、少々ぎこちなさそうに響介へと微笑みかけた。彼の様子に、響介もつい肩が強張るのを感じた。

「う、うん。おはよう、律」

「おはよう。急に呼んだのに、来てくれてありがとう。本当は父さんが来る予定だったんだけど、急に仕事が入ったからチケットが余っちゃって。響介はクラシックにあんまり興味ないかもしれないけど、せっかくだからって思って……」

 言葉尻を濁しながら笑う律に、響介はかぶりを振った。

「興味ないなんてことないぜ。あんまり詳しくはないけどさ。それより誘ってくれて嬉しかった。やっぱり律って、クラシックが好きなのか?」

「うん。まあ、嗜む程度だけど」

 響介が笑って返すと、律は照れ臭そうに顔を綻ばせた。緊張の糸が緩んでいく感覚に、響介はほっと安堵した。クラシックといい、よく読んでいる本のジャンルといい、やはり律は少々古風で厳かな作品を好むようだ。律のことをまた少し知れたということが、響介の胸中にほんのりと熱を生んだ。

 ぽかぽかと暖まった気持ちを抱きながら、響介は律に尋ねた。

「なあ、コンサートってどんな曲をやるんだ? 詳しくはないけど、クラシックなら多分有名な曲だよな」

「うん。待ってて、今プログラムを出すから」

 律は鞄からプラスチックのファイルを取り出し、その中から一枚のチラシを抜き取った。プログラムと書かれた一覧には様々な曲名が並んでいるが、クラシックに造詣のない響介には、題名だけでメロディを思い出せる曲は無さそうだった。作家名のベートーヴェンやバッハはかろうじて授業で習ったのを覚えているが──果たしてどんな曲だっただろうか。

 ついチラシと睨めっこするように顔を顰めていると、隣の律がくすりと笑いだした。

「そんなに堅苦しくならなくて大丈夫だよ。聴けばきっとわかる曲ばかりだから」

「うぅん……」

 今度は恥ずかしさで顔に熱が込み上げてきた。こんなことなら、音楽の授業をもう少し真面目に受けておけば良かった。響介はクラシックといういかにも堅苦しそうな世界に対し、小さく不安を抱き始めた。


 会場に着いた後、響介が僅かに抱いていた不安はますます大きくなってしまうように感じられた。何しろ会場の建物自体が大きく、これまた立派なのだ。その中でも最も広い大ホールへと入ると、響介の心の糸はまたも張り詰めるのだった。

 大ホールの客席は、響介が千人は座れそうな数の座席が並んでいた。後で聞いた話だが、実際の客席数は二階席も含めて千五百を越えるのだという。シューボックス型構造のホールは天井が高く、白く波打った形状の壁面が益々の荘厳さを放っていた。

 二人は律が予約をとっていたやや前方の席に並んで座った。周囲の客足はあまり多くはないが、決して少なくもないといった様相だ。客層はやや親子連れが多く、中には響介や律よりも幼い子供も訪れているようだった。

 慣れないコンサートホールの空気に響介がそわそわと身じろいでいると、やがて開演を告げるアナウンスが響き渡った。照明が暗くなっていき、辺りは静寂に包まれる。先ずは楽団の紹介と代表者の挨拶が始まり、響介はその様子を眺めつつも、思わず縮こまりながら横を見た。

 律は凛とした顔立ちで、真剣に壇上へ目を向けていた。見慣れたはずの彼の横顔に、どこか高貴さ、あるいは気高さのようなものさえ感じ、響介の心持ちはさらに強ばるのだった。

 が、いざ演奏が始まると、緊張しきっていた響介の心境はたちまち落ち着いていった。深みのあるオーケストラの音響は、胸の奥まで暖めるように染み渡っていく。ゆったりとなだらかなメロディが続いたと思えば、沸き立つように聴き覚えのあるフレーズが高らかに響き渡る。これは何の曲だろうか。そう思い、響介は先程律から渡されていたコンサートのチラシに目をやった。

 交響曲第七番第一楽章。その題だけ見たところで、やはり曲名と旋律が頭の中で結びつきそうにはなかったが、作曲者のベートーヴェンという名前には見覚えがあった。響介はベートーヴェンといえば『デデデデーン』の“運命”くらいしか知らなかったが、これを機に少しはクラシックに興味を持とうと思い至った。

 何より隣の席で聴いている律が、食い入るように楽団の演奏を真剣に見つめているのだ。律が好きなジャンルなら──というと少し人聞きの悪い動機かもしれないが、響介は今、少しでも彼の居る世界に近づいてみたいという気持ちでいっぱいだったのだ。

 ベートーヴェンの次は、バッハの曲が流れ始めた。これもまた、どこかで聴いたことのある優雅な雰囲気の楽曲だ。テレビ番組か何かのBGMにでも使われていたのだろうか。ヴァイオリンの奏でる緩やかな主旋律が、響介の気持ちを解きほぐしていく。落ち着くあまりつい瞼が重くなっていくのを慌てて耐えながら、響介はチラシのプログラムを覗き見た。曲名にはG線上のアリアと書かれている。

 G線上のアリアというタイトルは、どういう意味なのだろうか。ギターの三弦はG線とも呼ばれることがあるが、関係はあるのだろうか? 後で律に尋ねてみようか──そう考えているうちに、気づけば響介は睡魔に襲われて、うつらうつらと船を漕ぎ始めていた。


 そのまま数曲ほど、寝過ごしてしまったようだ。響介はコンサートホールと夢の世界を、ぼんやりとした思考のまま行ったり来たり繰り返していた。やがて舞台はぐにゃぐにゃと揺らぎはじめ、ついには一体どちらが夢の中なのか、壇上と客席が一緒くたに混ざりあってしまった。

 舞台では、『トン、トトトトン、トン、トン』と一定のリズムが平坦に刻まれ続けている。壇上の様々な楽器達は、順繰りになって同じメロディを繰り返し演奏し始めていた。

 そのうち一人の管楽器がふわりと浮いて、何やら楽しげにバレエを踊り始めた。やがて興が乗ってきたのか、その振りはだんだん大きくなっていく。他の楽器達もつられるように立ち上がって踊り出したので、響介は自分も仲間に入ろうと席を立った。

 バレエなんて踊ったことはないはずだが、楽器達に囲まれた途端、体が勝手に動き出した。響介の踊りに楽器達も益々楽しくなってきたのか、演奏は激しさを増していく。

「──っ」

 白熱した旋律に目を覚まし、響介は思わず息を呑んだ。現実の舞台はクライマックスに向け、ますます盛況を呈していた。リズムもメロディも同じものを繰り返しているにも関わらず、演奏は驚くほど華やいでいた。

 スネアドラムは激しくリズムを刻み、オーボエ、クラリネット、ホルンなど……とにかく大勢の楽器達が、一斉に重厚なメロディを奏でだす。シンバルが盛大に拍を打ち鳴らし、ボレロは次々と花開く打ち上げ花火のごとく最高潮を迎えた。そして──やがて落ちていく火花の一つ一つのように、一斉に収束していった。

 曲が終わったことに気づかないほど、響介は圧倒されていた。思わず呆然と座りつくしていると、周囲の観客が拍手をし始めたので、響介は慌てて自分も手を叩いた。

 続けて会場内に終演を告げるアナウンスが流れ始める。どうやら今の楽曲がコンサートのフィナーレを飾っていたようだ。

「目、覚めた?」

 拍手が止むと同時に横から小さく声がかかった。振り向くと、隣の律がいたずらっぽく笑っているので、響介は照れ臭くなりながらも頷いた。

「うん。最後の曲、凄かった。途中寝ちゃったけど……」

「ふふ。あんまり気持ち良さそうに寝てるから、起こしたら悪いかなって思ったんだ。クラシックはリラックス効果のある曲が多いから、眠くなるのは不思議じゃないよ」

 アナウンスが終わり、周囲の観客も続々と客席を立ち始める。二人も続けて立ち上がった。帰り支度をしていると、ふと律が響介の名を呼んだ。

「ねえ響介、この後またうちに来ない? その……コンサートの感想とか、色々話せたらと思って」

 響介は「もちろん」と即答した。それはもう、自分でもちょっと恥ずかしく思うほど、食い気味に答えてしまった。


---


 リビング横のキッチンでは、淹れたばかりの紅茶がティーポットの隙間から芳しい香りを溢れさせていた。ふと部屋のドアが開く音が聞こえ、彼女は振り向いた。

「母さん、今日もありがとう」

 律ははにかみながらキッチンへやってくると、トレーを手に取った。

「いいえ。それより律、成谷くんとは仲直りできた?」

 律の母はふと思い出して尋ねた。唐突に響介の名前を出されて、しどろもどろになりつつも律は頷いた。

「えっ? えっと、うん。たぶん……」

「ふふ。その調子なら大丈夫そうね。けど何も“父さんの都合”なんて、嘘までつかなくても良かったんじゃないかしら?」

「それはそうかもしれないけど……一応、誘う建前が欲しかったんだよ。勝手に建前扱いして、父さんには悪いことしたけど」

 律は気まずそうに笑った。今朝は『父さんが来る予定だったチケットが余った』という体で響介を誘ったが、あれは口実作りのための嘘だった。

 昨晩律は彼を家の近くまで送った後、『響介に嫌われてしまったかもしれない』と不安でいっぱいになってしまっていた。彼の様子を見かねた母は『それなら仲直りしましょう』と息子へ友人を遊びに誘う提案をしたのだ。

 友人と遊んだ経験のない律は大いに悩んだ。映画やアミューズメント施設は別に好きではないし、欲しいものもないのにショッピングなんかは論外だ。悩んだ末に、結局自分と響介の共通点になるものは音楽しかないと思い至り、ジャンルとしてはやや自分の好みに偏るものの──ちょうど前日予約の空いていた、オーケストラコンサートのチケットをとったのだった。

「それに“夏休みファミリーコンサート”なんて、小さな子供向けのプログラムだよ。高校生が二人きりで行くなんて、恥ずかしくて断られちゃうよ」

 律が苦笑いすると、母は首を傾げた。

「そうかしら。律が素直に『一緒に行きたい』って言えば、成谷くんなら来てくれたと思うけど」

「……母さん」

 律はティーセットをトレーに並べながら俯いた。

「僕にそれが言えたら、最初から苦労してないよ」

 本心からの言葉だった。たった一人の友達の、顔色を伺うことすらままならないのだ。律はどうすれば響介のためになるのか、響介を喜ばせられるのか、そればかりを考えていた。けれど昨日は結局、そんな考えすら空回りしてしまった。

「そうね。だったらあともうひと頑張りよ」

 律の母は息子の肩を優しく叩くと、トレーに焼き菓子の乗った小皿を乗せた。

「ほら、一緒にオヤツでも食べて。昨日のケーキほど豪奢じゃないけれど、成谷くんはきっと喜んでくれると思うわ」

 そう言いつつ彼女は別の焼き菓子の入った小皿をもう一つトレーに乗せた。トレーはたちまちお茶とお菓子でいっぱいになってしまった。

「ありがとう。……あはは、この量はちょっと多いよ。後で母さんも一緒に食べよう」

「ええ。お母さんのぶんもとっておいてね」

 心配されなくても余る量だ、と律はずっしり重くなったトレーを持ったまま部屋を出ようとした。

 ふと思い出して、彼はドアの前で一旦止まると、振り返った。

「母さん。本当にありがとう」

「どうしたの? 改まって」

 律はこれまた気恥ずかしそうに笑みを浮かべるのだった。

「昨日、背中を押してくれて。あのままだったら僕、何もできなかったよ」

「そんなことないわよ。成谷くんと仲直りしたいって、コンサートの予約をとったのは自分でしょう」

 確かに彼女の言う通り、響介とコンサートへ行くことを選んだのは自分だ。それも、クラシックにはあまり詳しくないであろう響介のことを考えて、あえて子供向けの有名曲ばかりのコンピレーションを選んだのも、自分の意志だった。

 それでも『万が一断られちゃったら、代わりに一緒に行くから』と言ってまで背を押してくれた母の存在は、一人では友人付き合いすら上手くできない律にとって、大事なものだったのだ。


 ティーセットを部屋へ運んでいると、ふと防音室の方からギターの音が聞こえてきた。恐らくさっき、扉をきちんと閉め忘れたのだろう。聴き慣れたそのメロディに、律は無意識に口角が上がった。

 響介はクラシックには詳しくないと言っていたが、先程のコンサートのことはよほど気に入っているらしい。早くもボレロの繰り返しのメロディを聴き覚えてしまったようだった。エレキギターの切れのいい音で、ロック風にアレンジされたボレロを聴きながら、律は部屋へと入った。

 昨日の今日でギターの演奏自体は未だ少々拙いものだが、その旋律を聴いていると何故か不思議と心が弾み、興が乗ってくるのを感じる。思わず防音室のドアを、『トン、トトトトン』とスネアドラムのリズムでノックしてから入ると、響介と目が合った。

「響介、お茶持ってきたよ」

「おう! ありがとう!」

 お互い自然と笑みがこぼれるのを感じる。そして二人は、開口一番に互いの名前を呼んだ。

「ねえ響介」

「なあ律」

 二人は同時に話し始めてしまい、慌てて一緒に譲り合うことになってしまった。そしてそれすら面白くなってしまって、いっぺんに笑い始めた。

 結局響介が譲ってきかないので、律のほうから話すことにした。不思議なことに、律は今まで言いたくても言い出せなかったはずの言葉が、考えるよりも先に飛び出してしまうようだった。

「響介。一緒に演奏してもいいかな」

 そして響介もまた、その言葉を待っていた、とばかりに笑顔をみせた。

「俺も今、そう言おうと思ってたんだ」

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