第8話

 真夏の日差しが、青い海面をエメラルド色に輝かせている。自然の作り出したグラデーションは、白波を立てて砂浜を彩っていく。行き交う人々は誰もが楽しげに笑い合い、各々が色とりどりの水着や装飾を身に纏っている。八月の熱海のビーチは、観光地に相応しい賑やかな世界だった。

 その煌びやかで眩しい世界の片隅の、倉庫小屋の陰で、律はひっそりと膝を抱えていた。観光地の飲食店のアルバイトが──それもただ手伝いに来ただけの身の自分が──こんなに大変だとは思っていなかったのだ。ボトルクレート(いわゆる、瓶飲料を入れるプラスチック製の箱のことだ)を抱えながら、彼は明るい観光地には似つかわしくない、物憂げなため息をついた。


 早朝にコンビニへ寄った後、律達は熱海の街をゆっくりと眺めながら、その複雑に入り組んだ道を少し冒険するような気持ちで歩みを進めて、アルバイト先の飲食店へと向かっていった。出発が早朝だったので、早く着きすぎないようにとわざわざ回り道までしたのだが、その途中で歩き疲れてしまい、結局二人は指定時間の九時より二時間も早く店に着いてしまった。

 初日は仕込みの前に色々と説明することがあるので、早い時間に来て欲しいと事前に指示を受けていたが、それにしても彼らの到着は早かった。海の家“10-9BOX(ジュークボックス)”の店長の徳野さんは、そんな彼らを叱ることなく、むしろ「すごい張り切りようだね」と笑って迎え入れてくれた。

 電話で話した時の印象と変わらず、彼は朗らかで気さくな雰囲気の青年だった。沢根の伯父の親戚と聞いていたので、彼が思いの外若い容姿をしていたことに響介は驚いたが、本人曰く伯父さんの甥っ子なのだと聞いて納得した。

 徳野さんは、これからアルバイト初日だというのに既に疲れ始めている二人を、店の裏の休憩室へ入れて休ませてくれた。素朴な木製の椅子に紐で括られた座布団は、響介にとってはどこか懐かしく、律にとっては物珍しく感じた。

 暫く座って休みながら、彼らは徳野さんからアルバイト内容の詳しい説明を受けることになった。響介は主に接客に入り、テーブル番号を覚えて注文を受ける係だった。律の方は賃金の発生しないただの手伝いという名目なので、簡単な裏作業を休みながら適当にやるだけで良い、とのことだ。

 響介はよほどやる気に溢れているのか、開店一時間前からテーブル番号とメニューの暗記を始め、律を実際の客に見立てて練習し始めた。うっかり慌てることも多いが、物覚えはよく律より体力もある彼のことだ。これだけ元気があるのなら、それなりにやっていけるだろう。律は真剣にメモを取る響介を眺めながら安堵した。

 しかし、実際に店が開くと状況は一転した。開店の十一時、まだ昼食には早い時間だというのに、客足は次々と伸びていき、テーブルはあっという間に全て埋まってしまった。客席と厨房の間を忙しなく行き交う響介と、厨房で調理に没頭する徳野さんとその奥さん達に、律は話しかける暇もなく、彼はただ店の裏をあたふたとうろつくばかりだった。

 時々徳野さんの方から声がかかり、律は彼の指示に従って外にゴミを出しに行ったり、洗い物の手伝いをした。しかし非力な上に、慣れない仕事の手伝いは上手くいかなかった。洗い場に律がいるとむしろ皿洗いが遅れてしまうため、結局彼はゴミ出し担当ということになり、ゴミが溜まるまでは何もしなくて良い、ということになった。

 店の裏からのれん越しに店内を覗くと、やはり響介達は忙しそうに駆け回っており、そうして懸命に働く彼らを見ていると、律は仕事のできない自分の無力さを痛感してしまうのだった。

 いつだったか、小学校でクラスメイトとひどい口論になった後、父に叱られたことを思い出す。『お前は賢いし能もある。常に正しいことを判断し主張できる。けれどそれだけで人生が上手くいくと思ってはだめだ』──父の言う通りだった。何が正しいのかわかっていても、それが上手くいかなければまるで意味はない。正論は、所詮は論でしかないのである。

 律は倉庫小屋の裏にゴミ袋やボトルクレートを運び、積んでいくだけの作業を繰り返した。それもすぐに終わって暇になってしまうので、そのたびに店の裏でひっそりと待つことになった。何もできることがないまま、ただぼんやりと待つのはひどく苦痛だ。空いたボトルクレートを一つ運んで、律は人気のない倉庫小屋の裏で一人座り込んだ。

 店内では響介の他に、徳野さんとその奥さん、そして徳野さんの知人だというアルバイトの男性がもう一人、計四人が店を回している。かなりの少数精鋭だが、響介以外の三人はこの忙しさに慣れているらしく、彼をフォローしながら臨機応変に仕事をこなしていた。しかし、それに懸命についていく響介の根気もなかなかのものだった。

 反面、自分の方はどうだろう。ただの手伝いといえど──むしろ手伝いのはずなのに、こんな風にゴミを運ぶ程度のことしかできず、果てに暗がりでうずくまって、時間が経つのを待ってばかりいる。これでは手伝いどころか足手纏いだ。自分から手伝うなどと意気込んでおいて、このざまだなんて。律の頭の中では、まるでもう一人自分がいて、彼自身を責め立ててくるようだった。

 しかし、こうして一人でひっそりと落ち込んでいたところで現状はどうにもならない。わかってはいるのだが、無闇に律を責め立てるもう一人の自分は、なかなか頭の中から離れてくれそうになかった。

 その上少し顔を上げれば、そこは賑やかな観光地だ。律はまるで自分が影になってしまったかのような心持ちだった。観光客をより楽しげに、輝かしく照らすあの太陽が、ますます律の影を色濃く暗くしていくのだ。

 自分なんかが、ここまでついてくるべきではなかった。明日からは、旅館で一日中じっとして過ごそう。思わずそう考え始めた時だった。

「あぁ、律。やっぱりここにいたんだな」

 顔を上げると、陽の光を遮るように響介が立っていた。逆光を背に浴びながら、彼は微塵も疲れを感じさせないほど眩しい笑みをたたえていた。

「響介……仕事は?」

「今休憩入ったとこ。本当に死ぬほど忙しくてびっくりしたぜ。つーか暑っちーなあ」

 言うや否や、響介はポロシャツの首元を開け始めた。ほとんど暗がりにいた律でさえ暑さを感じるほどだ。真夏のビーチであくせく働いていた響介は、もっと暑かったに違いない。しかし彼の表情は暑さに曇るどころか、却って晴れ晴れとしていた。

「お疲れ様、響介。暑いのにすごく頑張ってたよね」

 律が笑みを作って労ると、響介はにっこりと笑ってみせた。

「おう! 結構間違ったり慌てたりもしちまったけど、徳野さん的には大丈夫だってさ。瓶ジュース一本割っちまったときはヒヤッとしたぜ」

 律は思わず苦笑した。先ほどから何度か、店の中から響介の大きな声が聞こえてきたとは思っていたが、どうやら彼の方も順風満帆とは言い難い状況のようだった。

 それでもこんな陰でうじうじと落ち込んでいる自分とは違い、響介は笑顔を見せてさらに頑張ろうと意気込んでいる。律は響介の逞しさが羨ましくなった。

 すると彼は、苦い笑みを浮かべる律の肩を、茶化すように軽く叩いた。

「人の失敗を笑うなよぉ。というか、笑えるくらいには大丈夫なんだな。もしかして体調でも悪いのかって、徳野さん達が心配してたぜ」

「えっ?」

 響介の話を聞くに、どうやら律は炎天下の海岸の暑さのせいで、調子を崩していると思われていたらしい。律は彼らに心配をかけてしまったことが、尚のこと申し訳なくなってしまった。

「ううん。体の調子は大丈夫。ただちょっと……考え事してて」

「考え事?」

 律の返事に、響介も心配そうに眉を下げた。このままここで一人悩み続けていても、悩んでいることでさらに迷惑をかけてしまうのだろう。

 律は響介に気持ちを打ち明けることにした。何故か彼には遠慮することなく、悩みを打ち明けても良いと思えたのだ。

「僕……手伝いに来たはずなのに、足を引っ張ってばかりだから。これなら来ない方がマシだと思うし、明日からは手伝いを断って、一人で過ごすべきかなって……」

「ちょ、ちょっと待てよ律」

 物憂げに打ち明けられた律の悩みを、響介は慌てて遮った。

「足引っ張ってるなんて、徳野さんそんなこと全然言ってなかったぜ? 俺なんか律よりもっと失敗してると思うけど、だんだん慣れてきてるって褒められたくらいだし。そんなに気にすることないんじゃないか?」

 やや矢継ぎ早に言い終えてから、響介は「まあ、律が疲れて辛くなってるなら、無理はしないでほしいけど……」と付け加えた。

 律は彼の素直さゆえに右往左往する言葉に対し、優しさを噛み締めながら立ち上がった。

 それは正しい論による判断というよりは、目の前の友人に心配をかけたくない一心の行動だった。

「そうだね。ちょっと悪い方向に考えすぎてたよ。疲れてるわけでも、辛くなってるわけでもないから、もう少し頑張ってみるね」

 響介だって、何度も間違えたり、失敗をしながらも頑張り続けているのだ。自分だけが逃げるわけにはいかない。休憩の終わりに店へと戻る響介と共に、律も足を踏み出した。


「初日なんて、ミスしたり上手くできないのが当たり前だよ。あれだけ忙しいのに、辞めずについて来てくれただけでも儲けもんさ」

 夕方、店じまいを終えた徳野さんは、二人へ向けて快活に笑ってみせた。日が傾く頃には、響介も律も旅館に帰ることすら億劫になるほどくたびれてしまっていた。

 響介はあまりの客の多さに何度か注文を間違えたり、慌てて料理をこぼしたりしてしまったし、律は相変わらず何をすればいいかわからなくて、店の裏の人気のない場所をひたすら雑巾で拭いて周ったりなどしていた。

 そんな彼らの仕事ぶりはとても良いとは言い難いものだったが、それでも今日の仕事を最後まで終えたことを徳野さんは笑顔で褒め称えてくれた。響介も律も、ほとんど同時に安堵のため息をついた。

 ほっと心を弛ませた律に向けて、徳野さんは話を続けた。

「それより、椀田くんだっけ? 厨房の裏、綺麗にしてくれてありがとうね。忙しくて掃除なんか全然してなかったから、助かったよ」

「えっ」

 律は思わず驚きの声をあげた。自分なんか、店の後ろの方でうろうろするか、隅の方で掃除をするくらいしか出来ることがなくて、まさか褒められるとは微塵も思ってもいなかった。

「うち、お爺ちゃんから継いだ店だから、色んなところが古かったり汚いんだよね。客席の方はあれでもマシになったけど、店の裏なんて飲食店のくせにひどい有様だよ。だから掃除をしてくれるのは本当に有り難いんだ」

 徳野さんからの感謝の言葉に、律は胸の内がぽかぽかと温まってくるのを感じた。夏の夕方は昼から残った暑さがひどく、肌に生ぬるい気だるさを浴びせているが、この胸中に湧いた暖かさは、そんな暑さと違う心地よい熱だった。

 律は拳をぎゅっと握った。「良かったです、お役に立てて」──相変わらず簡素な言葉しか返せなかったが、徳野さんはそんな彼ににこにこと喜色を浮かべながら、テーブルの下から紙袋を取り出した。

「君はお手伝いさんだから、給料は出しちゃ駄目なんだろう? けれどせっかくだから、これをお駄賃だと思って持って行ってくれよ。日持ちもするし、お土産にもいいと思うんだ」

 差し出された紙袋に、律は戸惑った。昼食にタダでまかないも食べさせてもらえたのに、お礼まで貰えるとは思っていなかった。すると横にいた響介が、彼に小声で耳打ちした。

「律。こういうのは素直に貰った方が、あげる方も嬉しいんだぜ」

 律は狼狽えながらも紙袋を受け取って、少し間を空けてから、慌てて「ありがとうございます」と頭を下げた。

「いいよいいよ、頭なんて下げなくて。無賃で清掃なんかしてもらえるだけで、むしろこっちの方がずっと助かってるんだ。欲しいものがあったら他にもあげられるから、遠慮なく言ってくれよ」

 徳野さんの爽やかな笑みに、律の心の曇りはすうっと晴れていくようだった。律にはお土産をもらえたことよりも、彼に『助かった』と言ってもらえたことのほうが、よほど嬉しく感じていた。

 紙袋の中身は、スルメや骨せんべいといった地元の魚介の乾物と、紙封筒に入れられた深蒸し茶のセットだった。乾物はお茶のお供というよりは、どちらかというと酒の肴のような面子だ。徳野さんは律がまだ未成年であることを考慮して、土産にお茶を選んだのだろう。

 旅館に戻った後の二人は、早速一口サイズの鯵の骨せんべいを一つづつ口に入れてみた。パッケージに自家製と書かれているそれは、魚の旨みとほどよい苦味が詰まった海の風味がした。

「こういうのをつまみに、日本酒とかをグイッといくのが大人なのかなぁ」

 骨せんべいをポリポリと噛み締めながら何気なくそんなことを言った響介に、律は「それは大人というよりオジサンっぽいよ」とくすくす笑いながら述べた。


 二日目のアルバイトは、初日と比べると幾分か上手くいっていた。接客に慣れてきた響介は、注文をとるだけでなく厨房の作業にも加わるようになっていた。響介は思いの外調理器具の扱いや食器洗いの手捌きがよく、徳野さんもその奥さん達も驚いていた。彼は普段から単身の母の手伝いをすることが多く、家事には慣れているのだという。

 一方律は、相変わらず清掃に専念していた。掃除はすればするほど終わりが見えず、却って小さな汚れも目についてくるものだ。スマートフォンで調べた効率の良い掃除の情報を頼りに、律は床や壁にこびり付いたシミをとり、見逃しやすい家具の隙間や窓のサッシの汚れもとり、一日中掃除に耽っていた。

 そうして二人共に仕事に専念していると、客の入りが緩くなったところを見計らって、徳野さんから二人一緒に休憩に入るように声が掛かった。響介と律は、まかないの海鮮焼きそばを受け取って、二人でビーチの方へと赴いた。

「汗水流して食うメシって、なんかいつもよりウマいよなぁ」

 隣で麺をかき込んでいる響介がそう言ったので、律は笑みをこぼしながら「そうだね」と頷いた。初日とは打って変わって、今日の律は自信に満ちていた。昨日は鬱陶しいとすら感じていた眩しい太陽が、今は輝かしく見えている。

 きらめく海面をぼんやり眺めていると、隣の響介は早くも焼きそばを食べ終えてしまい、手持ち無沙汰になったようだった。自分も麺が冷めてしまう前に、早く昼食を終えてしまおう。ほのかにオイスターソースが香る焼きそばは、浜辺に似合う海鮮の芳醇な味わいがした。

 そうして気分良く昼食をとっていた、その時だった。

「おーい、成谷!」

 響介にとっては聞き慣れた──律にとっては忌々しくも忘れがたい声が、遠方から響介のことを呼ぶのが聞こえた。律は聞こえていないフリをしようと決め込んで、そのまま焼きそばを口に詰め込み続けた。

「沢根! お前来てたのか!?」

 隣の響介は律の心境を知ってか知らでか、久々に顔を合わせた友人に手を振り返した。ちらりと横目に見やると、どうやら沢根の方も律が隣に居ることに気づいたらしく、彼のことは黙って一瞥してから響介の方へ向き直した。

 その一瞬の視線がひどく冷ややかだったことに、響介の方は気づいていないのだろうか。律は音を立てないように咀嚼している麺が、途端に味をなくしていくように感じた。

「言ったろ、親戚の店だからさ。ちょっとだけ買い足しの手伝いに来たんだよ。あと、ついでに部長達とバカンスだ」

 沢根は響介にわざとらしくウインクして、後方の海岸を指さした。部長や神絵師達も遊びに来ているようだ。響介は彼らの方にも顔を見せに行きたいと思ったが、休憩時間が残り少ないことを考えて思い直した。

「良いなぁ、ちゃっかり遊びに来てんじゃねーか。こっちは仕事でてんてこまいだぜ?」

「それも前に言ったじゃねえか、死ぬほど忙しいってよ。けど、その調子なら上手く行ってそうだな」

 安堵の笑みを浮かべる沢根に、響介は首を傾げた。

「うーん。上手くいってんのかな、俺? ああでも、厨房の手伝いの方は褒められたぜ。こう見えて元々料理には結構自信あったんだよ」

「ほう、幸先良いじゃねえか。それなら後で俺にも食わしてくれよ」

 沢根は感心そうに笑ってみせた。響介は「流石に店のメニューまでは作れないぜ!?」と真面目に答えたが、すぐに「冗談だよ」とかわされてしまった。

「けど、いつかプライベートで食わせてくれよ。勿論タダとは言わないぜ。……ああそうだ、成谷。俺、お前に渡したいもんがあったんだよ」

 響介の休憩時間の終わりを察したのか、沢根は早々に話を切り上げ始めた。

「渡したいもん?」

「ああ。買い足しついでに店の方に行ってるから、休憩終わる前に来てくれよ」

「おっ、なんかくれるのか?」

 響介が尋ねる間に、沢根はそそくさとその場を後にして、「店の方で見せっから! 店だけにな!」などと夏場には冷ややかなジョークを残していった。

 一体何を渡されるのだろうか。思い当たる節を考えるよりも先に──響介は、足元で空になった紙皿を抱えて、静かに蹲っている友人の存在に気がついた。律はやはり、気配を消す技術を持っているようだ。

「……えっと、律……」

 気まずそうに名前を呼ぶと、律は小さくかぶりを振った。

「わかってるよ。僕は友達の交友関係に口を挟むほど、子供じゃないから」

 明らかに表情を曇らせて、彼は何かに耐え忍んでいるような様子だった。そんな律の返しを、響介は『どこかで聞いたことのある台詞だ』と思った。




 沢根──ザネリの言う『渡したいもん』に、律は心当たりがあった。八月十日、今日は響介の誕生日だった。アルバイトの忙しさのせいか、当の本人は自分の誕生日を忘れてしまっているようだったが、律はしっかりと覚えていた。今日は仕事が終わって旅館に戻った後に、サプライズとして彼を祝うつもりでいたのだ。

 しかし、そこへ先にザネリの奴がやって来てしまった。律は内心焦っていた。よく考えれば、あいつの方が自分から響介の誕生日を尋ねていたのだから、あいつが彼の誕生日を祝うこと自体は当然なのだが──まさかザネリが、熱海にまで直接訪れるとは思っていなかったのだ。

 彼の言う『渡したいもん』が響介へのプレゼントなら、自分よりも先を越されてしまうことになる。

 そして律の嫌な予感は、そっくりそのまま当たってしまうこととなった。律は店の裏から掃除を続けているフリをしながら、こっそり彼らのことを覗き見ていた。すると来店したザネリはやはり、響介にプレゼントが入っていると思われる紙袋を渡していた。

 店の賑わいの中で、ザネリの方はなんと言っているのか聞き取れなかったが、それを受け取った響介の「うわぁ! 覚えてたのか!」という大きな声は否が応でも律の耳に届いていた。紙袋を受け取った響介が嬉しそうに笑うのを見て──そこで律は目頭が熱くなるのを感じて、覗くのをやめた。

 悔しい。律は苛立ちを握っている雑巾に込めて、床に黒くこびり付いたシミをひたすら擦り続けた。しかし油でも染み付いてしまったらしいその汚れは、なかなか取れてくれそうになかった。そのうち右腕のほうが痛くなってきてしまったので、律はようやく諦めて手を止めた。しつこい油汚れには、確か重曹が効くはずだ。

 清掃に集中しているうちに、律の気持ちはだんだんと落ち着いてきた。その代わりに今度は、自分でも馬鹿馬鹿しいと感じるほどの不毛さが押し寄せて来た。一体自分は何に対して、こんなに苛立ってしまったのだろう。たかが嫌いな奴が、友人の誕生日を祝いにきただけじゃないか。

 そう思う一方で、律はやはり心の底の遺憾さを拭いきれずにいた。一緒にバカンスに来たなどと謳っている“連れ”達のもとへ戻っていくザネリは、それこそ響介のことは彼らと同じ、友達の一人として接しているに過ぎないのだ。

 反面、自分の方はどうだろう。響介一人のことでこんなに一喜一憂して、響介との仲ではあんな奴に負けたくない、などと器の小さい考えに囚われ続けている──

「……田くん、椀田くん」

 ふと自分を呼ぶ声が聞こえて、律は顔を上げた。徳野さんが心配そうに眉を下げて、床に這いつくばっている律のことを屈んで見下ろしていた。

 律が返事をするのも忘れてぼんやりしていると、徳野さんは憂うように苦笑しながら話を続けた。

「そろそろ休憩したらどうかな? 椀田くんは“お手伝い”なんだから、そんなに一生懸命頑張らなくても大丈夫だよ」

 律は彼に心配をかけてしまっていたことに気づき、急いで背筋を正した。

「いえ、僕は大丈夫です。それより、お店の方は良いんですか?」

「そろそろピークが過ぎて客足も落ち着いてきたし、こっちは大丈夫だよ。椀田くんの方こそ、あんまり頑張られすぎたら俺の方が困っちゃうよ? これじゃ無賃でこき使ってるみたいになっちゃうじゃないか」

 へらへらと笑ってみせる徳野さんに、律は強張った肩の力がすっと抜けていくのを感じた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」

「うんうん。好きな飲み物はあるかい? ついでにオヤツも食べていくといいよ。今日のぶんのお駄賃だと思って、遠慮なく頼んでくれ」

「……じゃあ、あのミックスフルーツアイス、っていうのを頂いていいですか?」

 律はちょうど頭を冷やしたい気分だったので、冷たいデザートを頼むことにした。徳野さんは彼に向けて、親指を立ててウインクしてみせた。


 律は休憩室で一人、ぽつんと座って冷たいアイスクリームを口に運んでいた。甘酸っぱいアイスクリームは滑らかな舌触りで、律の昂った気持ちを冷やしてくれるように感じられた。

 閉店間近の客席の方にはほとんど人はおらず、響介も徳野さんの奥さんも、片付けの方に注力している様子だった。響介達は客席を拭いて周り、奥さんはレジの精算作業に取り掛かっている。よく見ると、その中に徳野さんの姿が見当たらないことに気がついた。律が不思議に思っていると、ふと背中に何かが触れる感触がした。

「うわっ!?」

 驚いて振り向くと、そこには手をひらつかせて無邪気に笑う徳野さんの姿があった。

「あはは、ごめんごめん。びっくりした?」

「……なんですか、急に」

 驚きのあまり呆然とする律をよそに、徳野さんは隣の席に腰掛けた。

「なんだか浮かない顔をしているみたいに見えたから、気分転換にって思ったんだけど。逆効果だったかな?」

 先程のことを未だに引きずっているのが、顔にまで出てしまっていたらしい。気まずくなって頭を下げた律に、徳野さんは落ち着いた調子のまま話を続けた。

「ああ、責めてるわけじゃないんだよ。もしかしたら、成谷くんのことを気にかけてるのかなと思ってさ」

「響介を?」

 律は思わず顔を上げた。店内はあんなに混雑していたのに、彼が仕事をしながら律の様子を細かく見ていたことに、率直に驚いた。

「うん。日中も彼のことを見ていただろう? 心配なのかなとか、何かあったのかなって思ったんだけど……お節介だったかな?」

「……いえ。ちょっと、友人関係のことで悩んでて。ごめんなさい。僕、手伝いにきたのにこんな風に悩んでばかりで……」

 口をついて謝罪が出ると、さらに申し訳ない気持ちが増してくるので、律は流れるような早口で謝り倒してしまった。一方徳野さんは、相変わらず優しげな笑みをたたえたままだった。

「いやいや。謝らなくていいさ、むしろ助かってるんだから。俺で良ければ話を聞くよ? これもお駄賃みたいなもんだと思ってさ」

 そう頷きながらも、「もちろん話しにくかったら無理に話さなくても大丈夫だ」と徳野さんは付け加えた。

 律は暫く悩んだ。徳野さんは律にとってはあくまでも赤の他人で、その上手伝いとはいえ雇い主と言える関係だ。更に悩みの種は彼の親戚の子との人間関係であり、それを徳野さんに話してしまうのは酷だと思われた。

 しかし、律は長考の末に、やはり彼に悩みを話そうと決めた。昨日の響介との会話と、その後の仕事の進み方の経験から、律は抱え込むよりも打ち明ける方が上手くいくだろうという考えに至ったのだ。

「あの……もしもの話なんですけど。徳野さんにとって一番嫌な相手が、徳野さんにとって一番大事な人と仲良くしていたら、僕みたいに……こんな風に辛くなったりしますか」

 話しながら、律はやはり自分は会話が下手だと痛感した。今の自分が抱えているものを、これ以上上手く打ち明ける表現が思いつかなかった。これでは自分が何に困っているのか、徳野さんには伝わらないだろう。

 やはり申し訳ないと思い、眉を下げて肩を縮める律に対し、徳野さんは途端に真摯な顔つきをし始めた。

「ええと……単刀直入で悪いけど、それはもしかして英くん……英里くんのことかな」

「……っ」

 律は驚きのあまり目を見開いた。徳野さんの洞察力には驚かされてばかりいたが、誰のことを考えているかまで言い当てられるとは思っていなかった。気まずさに硬直する律を、彼は慌てて宥めた。

「ああ、思い詰めないで。大丈夫だよ。むしろちょっとわかるなって思ったからさ」

 意外な言葉が返ってきたので、律は思わずきょとんと目を瞬かせた。

「あの子、たまにちょっとピリピリしてるっていうか、仲良くなれなくても仕方ないっていうか……あ、これじゃあ俺、英くんのことすごく悪く言ってるな?」

 徳野さんは首を傾げながら、「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」と唸り始めた。

 もしかして困らせてしまっただろうか。やはり話すべきではなかっただろうか。律がまた口をついて謝ろうとしたその時、先に口を切ったのは徳野さんの方だった。

「例えば、俺はピーマンが食べられないんだ」

「えっ?」

 話が思わぬ方向に逸れたので、律は素っ頓狂な声をあげてしまった。徳野さんはそれでも大真面目な顔をして、ピーマンの例え話とやらを続け始めた。

「けれど、俺がピーマンが食べられないからって、誰かに責められる謂れはないだろう? しかし、世の中にはピーマンが好きな人や、ピーマンを大切に育てている農家や、ピーマンの存在ありきの青椒肉絲なんて料理もあるよね」

 律には彼が、最早何のことを語っているのかがわからなくなってしまった。しかし話を続ける徳野さんの様子は真剣そのものだ。むしろここからが大事だと言わんばかりに、彼は顔をしかめ、人差し指を立てて訴え始めた。

「でも、どれだけピーマンが誰かに大事にされようが、愛されようが、俺がピーマンを食べられるようにはならない。それは俺がピーマンを嫌いだからだ。仕方のないことなんだ」

 眉間にしわを寄せていた徳野さんの表情が、ふと緩んだ。「だからね」、彼の顔つきは元のにこやかな笑みへと戻った。

「嫌いなものは、嫌いで仕方ないんだよ。俺や成谷くんはたまたまあの子と仲良くなれただけで、椀田くんはたまたまダメだっただけだ。そのことで椀田くんが悩む必要なんてないさ」

 徳野さんは慣れた顔つきでウインクをした。彼の例え話は律にはあまりしっくり来なかったが、その振舞いを見ていると不思議と心が安らぐように感じた。それはきっと、接客業をこなす大人のなせる技なのだろう。

「聞いたよ。今日、成谷くんの誕生日なんだろう? 旅館に戻ったら思いっきり祝ってあげなよ。彼、きっとすごく喜ぶよ。仕方のないことは一旦置いといて、もっと楽しいことを考えよう」


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 その日の晩、響介は旅館への帰り道を一人のろのろと歩いていた。仕事はあと三日間あるというのに、響介はぐったりと疲れてしまい、今日は徳野さんに勧められるがまま、彼の店で暫く休んでから帰ることになったのだ。丁重にもてなしてくれた徳野さん曰く、律は先に旅館へ戻って待っているらしい。

 早く律の元へ帰りたいと思う気持ちとは裏腹に、疲れた足は重くなかなか歩みは進まなかった。沢根のくれた誕生日プレゼントは、タオルやティッシュなどの軽い消耗品の詰め合わせだったが、それすらも今は重たく感じられる。響介は紙袋をぎゅっと抱えて、坂道をゆっくりと上っていった。

 休憩時間の終わり側に、沢根が『成谷が欲しいもんがわからなかったから、大したもんじゃないけどさ』と言いながら、この紙袋を渡してくれたことを思い出す。中に衛生用品ばかりが入っていたことに最初は笑ったが、響介はたとえタオルでもティッシュでも、誕生日にプレゼントを貰えたこと自体が嬉しかった。

 なにしろ彼の誕生日は夏休み真っ盛りなので、今までは母以外の人物から祝われたことがあまりなかったのだ。その上──ふと苦い記憶が蘇りそうになり、響介はかぶりを振った。

 そんなことよりも、だ。響介は紙袋の底にひっそりと入れられていた、小さな封筒のことを思い出した。中には誕生日祝いのメッセージカードと、数枚のギターピックが入っていた。

 響介はギターを弾き鳴らす趣味を沢根には話していなかったはずだが、そこは色々と聡い彼のことだ。ロックが好きだという響介の自己紹介を覚えていて、プレゼントにギターピックを忍ばせてくれていたのだろう。

 プレゼントに隠されていたギターピックに気づいたのは、沢根がとっくに店を後にして、響介が閉店後に休憩をしている最中のことだった。お礼を言う暇がなかったが、沢根なりに響介のことを想っていてくれていたのが、響介はいっとう幸せだった。

 そうだ。今日は仕事で体こそくたびれたものの、心はこんなに幸せな一日だ。響介はそう思って浮かれるあまり、重い足を無理やり引きずって駆け出した。ふくらはぎが少々痛むが、そんなことは気にせず坂を駆け上がる。お陰で旅館へたどり着く頃には、彼の足は筋肉痛でかちかちになり始めてしまった。

 紙袋を抱えたままフロントへ赴くと、ロビーに旅館のスタッフが数人集まっているのが見えた。何かあったのだろうかと不思議に思い目を凝らすと、その集まりの中に律が混ざっているのが目に入った。まさか、律が何かしでかしたのだろうか? いやいや、あの品行方正な社長令息が、問題なんか起こすはずがない。

 響介はあまりに気になって、受付を早々に済ませて集まりの方へと向かった。見れば律は、どうやらスタッフと何かを相談しているようだった。その表情は何かをしでかしたどころか、むしろ楽しげだったので、響介はひとまず安心した。

「はい。急な話だったのに本当にありがとうございます。よろしくお願いします」

 律は笑顔でスタッフに頭を下げ、スタッフも「とんでもないです」とまた頭を下げた。彼らは一体、何の相談をしていたのだろう。

「なあ律、何の話をしてたんだ?」

 響介は無邪気に尋ねながら駆け寄った。

 すると、先程まで柔らかな笑みをうかべていた律の表情が、響介の姿に気づいた途端、凍てつくように固まった。

「あっ……響、介……」

「え……えっ? どうしたんだ律? ……俺、今なんかした?」

 響介は、自分が“うっかりや”だということをすっかり忘れていた。たった今、プレゼントを抱えて帰路を走っていたのに、今日は自分の誕生日だという意識が頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。


 そんなこんなで、律のサプライズ作戦は失敗に終わってしまった。客室で普段よりもさらに豪華になった夕食を囲みながら、彼は気まずい気持ちで俯いていた。

 せっかく徳野さんに響介を引き止めてもらい、その間に旅館のスタッフへサプライズを更に華やかにできないかと相談していたのに、まさかその最中に本人がやってきてしまうとは。

 せめて目立つロビーなんかではなく、隠れて相談するか、気づいていない響介にあのまましらを切り通せば良かったものを。律は狼狽のあまり──事前に誕生日祝いのコース付き予約をしていたことも含めて──全てを洗いざらい彼に話すことになってしまった。

 自分なりに必死に立てていた計画が、何もかもうまくいかなかった。律は落ち込むあまり、思わず本来の目的である“響介を祝って喜ばせたい”という気持ちを忘れかけていた。

「な、なぁ律。これってカニだよな? 何ガニなんだ?」

 そんな律の杞憂はつゆ知らずか、ちゃぶ台の向こうの響介は無邪気に目の前の馳走へと視線を釘付けにしていた。卓上七輪で焼かれているカニがそんなに珍しいのか、彼は期待と緊張で瞼をぱちくりと瞬かせている。

「えっと……そっちの細身の方がズワイガニで、表面がでこぼこしてるのはタラバガニだと思う」

 話しながら、律は不思議と落ち込んだ気持ちが上向いてくるのを感じた。「ズワイガニ……タラバガニ……」とまるで七輪へ呪文をかけるように復唱している響介からは、初めて見る料理へ心を弾ませているのが聞かずとも見てとれた。

 今日は誕生日祝いコースのため、旬ではない冷凍ガニをわざわざ取り寄せて貰ったが、響介が嬉しそうな様子で何よりだ。律はほっと安堵した。

 その後も二人は焼きガニを剥くため、火傷をしかけたり、指を痛めたり、手を汚したりと悪戦苦闘した。しかしそれすらも顔を見合わせて「難しいね」などと笑い合えば、たちまち五畳ほどの和室は楽しげな空気で満たされた。予定通りには行かなかったものの、響介の喜ぶ顔を見ているうちに、律の気持ちは少しづつ晴れやかに変わっていった。

 夕食の後、食器を片付けているスタッフからデザートに付くドリンクを選ぶよう言われたので、二人は揃って紅茶を頼んだ。すると響介は目を輝かせながら律に尋ねた。

「もしかして、ケーキとか出んの?」

 律はほんの少し気まずそうに、顔を赤くして頷いた。

「うん。本当はカットケーキが二つ出る予定だったんだけど、さっきホールケーキにしてもらえないか相談してたんだ。その方が誕生日っぽいと思って……」

 響介もぶんぶんと首を縦に振った。

「ホールって、丸ごとのやつだよな!? すげーな、そんなの食うの久しぶりだ!」

 ホールケーキといっても、実際は二人でも食べられる四号ほどの小さなケーキだ。それでも名前の書かれたプレートが乗ったケーキが、色とりどりのろうそくと一緒に出されると、響介は手を叩いて喜んだ。律は照れ臭くなって「そんなに騒がないでよ」と水を差したが、響介の活気は留まる所を知らないようだった。

 ろうそくは好きな数だけ差して火をつけていいとのことだったので、響介は何を思ったのか、直径十二センチしかないケーキにろうそくを歳の数だけ刺してしまった。小さなケーキに対してろうそくを十六本も刺してしまったので、なんだか見た目は不恰好になってしまったが、本人は至って楽しそうだった。

 律は彼の様子を見て、ふとろうそくの火をつけながら部屋の灯りを消すよう思いついた。これもまた“父さんの受け売り”というやつだが、海外ではろうそくの火を消すときに、願いごとを唱える文化があるのを思い出したのだ。部屋を暗くしてろうそくの灯りのみの景色にすれば、より雰囲気が出るのではと考えた。

 ろうそくに点火棒で火をつけながら、律は響介に願いごとを考えさせた。リモコンで部屋の灯りを消すと、暗くなった和室の中でケーキとちゃぶ台と、そして二人の顔だけがぼんやりと赤く照らされる。その小さな灯りは、響介の緩みきった気持ちを引き締めてくれるようだった。

「願いごと……うーん……」

 響介は真剣に考えているようだった。ろうそくが溶けだしてしまったので、律は「なんでもいいんだよ、抱負みたいなものだから」と後押しした。

 抱負という言葉を聞いて決心したのか、やがて薄明かりの向こうの響介は「俺、いつか律と一緒にでっかい舞台に立ちたいな」と願いを唱えた。暗がりの中赤く照らされた彼の顔が、あまりに真っ直ぐだったので、律は我知らず息をのんだ。

 “律と一緒に大舞台に立ちたい”──響介の願いを聞いた途端、律の脳裏に二人が並んで壇上へと上がる空想が過ぎっていった。響介一人の前でピアノを弾くことすら、あんなに苦心した自分が、いつか彼と共に舞台に立つ──そんなことが可能なのだろうか?

 響介がふうと息を吹きかけ、ろうそくの火が消えていく。一度の息では全部の火を消しきれなかったので、彼は必死にケーキへ息を吹きかけ続けた。一方律は部屋の灯りがなくなり暗闇に包まれていく中、呆然としていた。

「おーい律、灯りつけてくれよ。真っ暗になっちまったぞ」

「ああ、うん。そうだね」

 律は慌てて部屋の灯りをつけた。響介はへらへらと笑いながら「へへ、抱負って言われたから勝手に願っちまった。ダメだったかな?」と照れ臭そうに身をよじった。

「ううん。凄く……いい願いだと思う。僕が叶えてあげられるかはわからないけど……」

 そう答える律の表情は、肯定しているはずなのにどこか切なげだった。響介は彼のそんな顔を見て、思い出したようにあっと声を上げた。

「なぁ、律。俺、お前にちゃんとお礼を言うの忘れてた」

 お礼なんて、と律が遮ろうとする前に、響介は背筋を伸ばして言い立てた。

「ありがとう。俺と一緒に音楽始めてくれて。バイトも一緒に来てくれて、こんなに祝ってくれて……」

 真剣に、緊迫していた響介の表情が、徐々に緩やかな笑みに変わっていく。四月のあの夕方から約四ヶ月、今までのことを噛み締めるように思い返しながら、響介は感謝を述べた。

「本当に、ありがとう。俺、たぶん今日が今までで一番幸せだ」

 響介はにっこりと歯を見せて、満面の笑みを浮かべた。彼の笑顔を見て、律はふと自分の中で何かがすとんと──文字通り、腑に落ちる感覚がした。

「そうだ……僕、ずっと響介のそんな顔が見たかったんだ」

「え、俺?」

 律は頭の中で、西陽の差す春の教室を思い返していた。四月の放課後、初めてお互い名乗り合い、震える自分の手をかたく握った響介の手。太陽みたいに金色に瞬いていた瞳。自分がこんなにも躍起になって、彼に報いたいと思った理由を納得し、頷いた。

「うん。僕も多分、響介のそういう顔が見たくて……こんなに必死だったんだ」

 律は「必死すぎて、色々失敗しちゃったけど……」と気まずそうに笑いをこぼした。あの日、自分はわけもわからず楽しくて思わず笑ってしまい、響介からは『多分お前のそういう顔が見たくて、お前に話しかけたんだ』と言われていた。

 律はあれからずっと、自分も響介のことを笑わせたいと思っていた。やり方の巧拙はさておき、響介は今日の誕生日を心から楽しんでくれたようだ。それで充分だった。

 響介の方は、律が恥ずかしそうにはにかむのをぼんやりと眺めながら、彼がたった今口にしたことを心の中で反芻していた。自分のことを笑わせたい一心で、不器用ながら頑張っていた彼のことを思うと、不思議と胸が高鳴るのを感じた。

 何よりあの春の日、自分が何気なく言ったことが、律をこんなに懸命にさせていたのだ。彼がその時のことを大事に覚え続けてくれていたという事実が、響介には嬉しくて仕方がなかった。

 響介は自分でも感じとれるほど、全身に暖かな多幸感が巡ってくるのをおぼえた。思わず正座したまま膝を握っていると、律は微笑みながらナイフをとった。

「響介、ケーキ食べよう。半分にするから、プレートが乗ってる方が響介のぶんだよ」

 響介が頷くと、照れ隠しをしているのか、律は早々にホールケーキのろうそくを取ってしまい、半分に切りはじめた。その間も彼は嬉しそうに口角を上げている。響介は自分の誕生日に、家族以外の誰かがこんなに嬉しそうな顔をするのを初めて見た。

 プレートが乗っている方の半分を器用に取り皿に乗せると、律はケーキを響介へ手渡した。やはりその笑みはどこか気恥ずかしそうだったが、今は彼のそんなぎこちない様子でさえ、響介の高揚した心をますます昂らせるように感じられた。

「改めて、誕生日おめでとう。響介」

 律の照れ笑いがゆっくりと、穏やかな微笑に変わっていく。ああ──本当に、今日が今までで一番幸せだ。響介はまるで脳裏に銃声が轟くような衝撃を受けていた。

 “俺はお前を愛するために生まれてきた”──英雄の愛の歌が、彼の胸中に響き渡る。響介は返事をすることも忘れて、思わず律のブルーグレーの瞳に見入っていた。

 響介の身体中が熱で満たされていく一方で、律の瞳は美しい清涼感を放っている。響介には、見慣れていたはずの友人が、突然世界ごと姿を変えてしまったかのように思えた。

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