第7話

「電車って、結構高いところも通るんだなあ」

 響介は車窓にへばりつくようにして外の光景を眺めていた。電車は切り立った崖の上を悠々と走り進んでいく。少し顔を上げれば、見慣れたはずの富士山がいつもよりも大きく見えていた。遠方の富士山はどっしりと構えたまま、崖近くの住宅街の屋根は颯爽と通過していく。初めて観る光景に響介は心を躍らせていた。

 その向かい合わせの席で、律はスマートフォンの乗り換え案内を確認しながら呟いた。

「もうすぐ次の駅だよ、響介。その後は五分もしないうちに終点だ。降りる準備をした方が良いんじゃないかな」

「うん、わかってる」

 口ではわかってると言いつつ、響介は窓縁の狭いスペースに置いたスナック菓子を、もう一つつまみ始めた。本当にわかっているのだろうか。律は小さくため息をついた。

 八月初旬。夏休みはまだ始まったばかりだ。響介と律の二人は、ワンマン電車のセミクロスシートの窓際で、向かい合うようにして座っていた。二人の目的地は、響介の短期アルバイト先の観光地、熱海市だ。

 本来なら響介は、一人で熱海へと赴き、泊まり込みでアルバイトをする予定だった。しかし観光地へ行くことはおろか、電車に乗ることにも慣れていない彼は、急遽同行者として律を誘ったのだった。

 響介はあのテスト勉強での成功を皮切りに、自ら律のことを積極的に頼るようになっていた。律も人からこんな風に頼られるのは初めてで、至って満更でもなかった。

 むしろ彼は、響介から同行の話を聞いた途端、響介のアルバイト先へと連絡をとり──もちろん律は学校へのアルバイト許可の申請をしていないため、ただの手伝いという名目だが──店舗までの同行と、彼の宿泊先の変更の提案を申し出た。

 泊まり込みの部屋のスペースに限りがあるため、通常は響介一人で働かなければならないところだったのだが、宿泊先を律が二人分提供するのなら、ということで特別に許可が降りたのだ。

 響介は律が旅館の予約まで済ませてしまったことに驚いたが、彼が『熱海に行くのは久しぶりなんだ』と観光地に目を輝かせているのを見たら、何も言い返せなくなってしまった。

 宿泊費も食事代も、律が二人分を負担するらしい。響介は金額について尋ねようか迷ったが、律の方はお金のことなどこれっぽっちも気にかけていない様子だった。彼もまた、テスト勉強を共にしたことをきっかけに、響介に対して積極的に接するようになっていたのである。

 なるほど、確かに律は自分で言った通り、パトロンとしての役割を成そうとしているらしい。響介は期末テストの後、こっそりパトロンという言葉の意味を調べていた。

 パトロンは、後援者、支援者、賛助者、奨励者……といった意味を持つ言葉だ。特に十八世紀のクラシック作家の多くは、貴族や権力者の支援に支えられながら、数々の名作を生み出してきた。律がパトロンという言葉を使ったのは、彼のクラシック好きが高じてのことだろう。

 つまり、それだけ彼は響介の音楽に期待をかけてくれているのである。それから響介は、遠慮や後ろめたさよりも、律の期待に応えたいという気持ちを強く抱くようになっていた。あの日『君には才能がある』と命を賭すように言ってくれた律の気持ちを思えば、それにはもう、音楽で応える以外の選択肢はないのだ。

 しかし観光地でのアルバイトに関しては、もちろん自分の資金が欲しいという理由もあるが、何より沢根との事前の約束があるため、音楽よりも優先順位が上となった。だが、律はその事も『インプットも必要だよ』と前向きに捉えている様子だった。

 アルバイトであれ観光地であれ、感じたことのない経験を得ることは、必ず音楽の表現のどこかで役に立つ。芸術はそういうものだ、というのが律の考えらしい。


 それにしても、だ。律は目の前の、まだ芽吹いてもいない音楽家の種のような同級生が、まるで遠足に行く幼い子供のようにはしゃぐのを見て苦笑した。確かにインプットも必要だと言ったのは自分の方だが、これから自分達はアルバイトの遠征に向かうというのに、響介はまるで旅行気分で車窓を眺めながら、オヤツまでつまんでいるのである。

「なんだ律、これ食べたいのか?」

 律の視線に気づいた響介は、呑気にもつまんだスナック菓子を一つ、彼の方へと向けてきた。パッケージに“えだまめ味”と書かれているうぐいす色のそれを、律は「そうじゃないんだけど」と言いつつも受け取った。

 たかが高校生の、たかが短期間の非正規雇用といえど、一応は賃金が発生する立派な仕事のはずだ。ただ遊びに行くわけではないのだが。スナック菓子をサクサクと口の中で砕きながら、律は早くも響介のアルバイトの行く末が心配になり始めていた。

「なぁ、律」

 苦笑いを浮かべていた律に、ふと響介は、視線を車窓の向こうへと向けたまま話しかけた。

「俺、友達とこんな風に出かけるの、初めてなんだ」

 流れていく景色に無邪気に笑みを向けている響介は、やはり遠足気分の子供のようだった。律は思わず苦笑を綻ばせた。

「友達って……僕たち、友達だったの?」

「えっ⁉︎ 友達じゃなかったのか⁉︎」

 不意に口をついて出た言葉だったが、響介は本当に驚いた様子で振り向いた。二人の視線は、彼ら以外に乗客のいない真昼の車内で、ぴたりと交差した。

「俺、てっきり律とはもう、とっくに友達だと思ってたんだけど……違うのか?」

 そう言う響介の瞳が、思いの外真剣な光をたたえていたので、律は背筋が強ばるのを感じた。

 友達。それは今までの律の人生には、恐らくずっと存在していなかったものだ。響介は自分のことを、友達だと思ってくれていたのだろうか──そう実感すると、何故か律は心が締め付けられるような気持ちになった。

 友達? 彼は友達なのだろうか。律は改めて疑問に思う。律には友達という言葉の定義がわからなかった。わからないが、目の前の同級生に『違うのか?』と悲しげに問われれば、その疑問は否定したい、という気持ちが湧いてきた。

「違わない。と、思う……多分」

「っはは。なんで“多分”なんだよ。そこは自信持って、友達だって言ってくれよ」

 律のおぼつかない言い方に、響介は冗談めかすように笑いながら答えた。

 しかしながら、それでも律には彼のことを『友達だ』と断言できる自信は未だなく、ただ照れ臭そうに頷き返すことしかできなかった。


 律の言った通り、電車は次駅を発ってからものの数分で終点へと到着した。着くのが思いの外早かったので、響介はスナック菓子の残りを慌てて口の中へと放り込み、咀嚼しながら路線を乗り換えることになった。想定通りの彼のそそっかしさに、律は笑いながらホームの階段を駆け上がった。

 焦った響介が後ろから小走りで追ってくる気配を感じつつ、律は熱海方面のホームへ真っ直ぐに向かった。東海道線のホームは夏休み期間のためか、平日の昼間にしては人が多く、混雑していた。人混みがあまり得意ではない律は、緊張感に思わず荷物の肩紐をぐっと握りしめた。

「ちょっ、早えーよ律! うおお、混んでるな⁉︎」

 先程までの閑散さとは打って変わって、急に人が増えたことに響介も驚いたようだった。振り向くと、彼が落ち着かない様子でそわそわと周囲を見回していたので、律はむしろ肩の荷が下りたような気持ちになった。

「響介、向こうのほうが少し空いてるよ。あっちに並ぼう」

「おう! あっちってどっちだ? うわーっ律! 待ってくれ!」

 大声を出して慌てる響介が、周囲の注目を集めるのを尻目に、律は笑いを堪えながら歩みを進めた。

 彼らが列に並ぶと同時に、ちょうど良くアナウンスがホームに響き、熱海方面行きの列車がやってきた。ぞろぞろと動く列に着いていきながら、二人は荷物を抱えて車両へと入っていった。

 車内はロングシートのため、座席が幅をとるセミクロスシートよりもスペースは広いのだが、混雑しているぶん先程よりむしろ狭くなったように感じられた。

 他の乗客も旅行者や出張中の社員など、遠出の人物が多いのだろう。周囲の皆が大きな荷物を持ち、それぞれ網棚に置いたり、座席に座っている者は場所を空けるよう抱えたまま座ったりしている。

 響介と律は、二人揃って荷物を抱えながら車両の隅へと移動した。座席が空いている箇所はあったものの、二人揃って座れる場所はなかったため、二人共立ったまま移動することにしたのだ。

 そうして彼らは暫くの間、手すりを掴んで並んで立っていたのだが、数駅ほどを過ぎてから後悔し始めた。熱海駅は思いの外遠かったのだ。各駅停車のためか、距離以上に時間が長く掛かっているように感じる。響介が思わず「あと何分くらいで着くんだろう」と尋ねると、律はスマートフォンを眺めながら「あと三十分くらいかな」と答えた。

 揺れる電車の中であと三十分。それも少し重めのリュックサックを、背負ったまま立ち続けることになってしまった。まだ十代中頃の響介は、体力には自信があると自負していたが、ひたすら立って待つだけというのは流石の彼にさえ苦痛だった。

 結局熱海駅に着く頃には、二人共へとへとに疲れてしまい、半ば猫背になりながらホームの階段を降りることになった。

 しかし改札口を出ると、響介は疲れに曇りきっていた表情を途端に明るくした。伊達に県内有数の観光地を名乗っているだけはある。ホームでは錆びついた屋根や古めかしいベンチが、少々田舎めいた雰囲気を醸し出していたが、駅構内は都会的な電光掲示板や多数の土産屋が並び、多くの観光客で賑わっていた。響介の地元の無人駅の、寂れた空気とは大違いだ。

「ようやく着いたね、響介」

 隣の律も久しぶりの観光地に笑みを浮かべていた。響介は大きく頷いた。

 二人は予約していた旅館まで、駅から送迎バスで移動することになっていた。熱海は坂や狭い道が多い。路上にも多くの露店が並んでいる。バスの座席から観る景色も地元のものとは大きく違い、響介はまるで違う世界にでも訪れたかのように心を弾ませていた。

 彼はバスの窓から何かを見つけるたびに「あれって何の店だろう」だの「あそこ行ってみたいな」などと呟くので、律はまたも苦笑いをしながら「僕たち一応、働きに来てるんだよ」と指摘した。

「うん、わかってるって」

 本日二度目の空返事に、律は呆れながらスマートフォンの時間を確認した。旅館のチェックインには予定通り間に合いそうだ。今日はこのまま一晩を旅館で過ごし、仕事に行くのは明日の朝からの予定だった。

 きっと旅館に着いた後の響介は、これ以上に羽目を外すに違いない。今後の彼が騒ぐ姿を想像して、律は思わずくすくすと笑みを漏らした。窓の外の景色に夢中になっている響介は、律が笑ったことに気づいていないようだった。


「うわーっ! すげー! でけー!」

 想像以上の語彙力のない反応に、律はもう笑いを堪えられなかった。噴き出した彼の反応を見て、響介は恥ずかしそうに口をつぐんだ。

 律が予約していた旅館は、敷地も建物も大きく部屋の数が多い、いわゆる大型旅館だった。老舗の旅館や伝統ある民宿とは違い、あまり趣のある雰囲気ではないが、五泊以上の長期宿泊ができる施設はそれだけ限られていた。

 建物の周辺や庭の方まで見に行こうとする響介を引きずって、律は真っ直ぐフロントへと向かった。外観や建造の雰囲気は和風の旅館らしい作りだったが、設備の新しさやスタッフの多さは、旅館というよりはホテルのような様相だ。

 チェックインの手続きもほとんどスタッフの指示によって滞りなく済んだので、律はひとまず安堵した。今まで両親と一緒に旅行をした経験なら何度かあったが、自分と同年代の未成年者だけでの宿泊は初めてだった。

 エレベーターで二階へと上がり、二人はルームキーに書かれている番号の部屋へとやってきた。廊下やドアの雰囲気はやはりどこか和洋折衷といった様子だが、引き戸を開けるとそこはやはり旅館らしく、畳に障子に襖にちゃぶ台と、おおよそ想像した通りの和室が広がっていた。

「おおーっ! 俺たちここで泊まんのか!」

「響介、うるさいよ。静かにして」

 またしても響介が大きな声をあげたので、律は仕方なく口元に指を当てて、水を差すことになった。響介は「おっと、悪い」と慌てて口を塞いだが、本当は律の方も感嘆をあげたい気分だった。

 先程は働きに来ているのだと自分で言っておきながら、実際に宿泊する部屋を見ると、律の心中にさえ期待が込み上げてきた。何より隣にいる同級生があまりにも楽しそうに浮かれているので、自分の方もつられて旅行に訪れた気分になってしまうのだ。

 響介は早速フロントで借りた雪駄を玄関へ脱ぎ、畳の上を駆け抜けて窓側の障子を開いた。律が響介の脱ぎ捨てた雪駄を揃えていると、広縁の方から「うわーっ」という響介の声が聞こえてきた。あまりの落ち着きのなさにやはり苦い笑みをこぼしつつ、律も彼の元へと向かった。

「もう、何があったの?」

「見ろよ律! 街がぜーんぶ見えるぜ!」

 広縁の窓はガラス張りの掃き出し戸になっており、昼下がりの熱海の景観を一望することができた。流石に海が見える位置の部屋は人気が高く、予約をとることができなかったが、こうして傾斜のある独特な街並みを眺められる景色もなかなか趣があった。

「わあ、綺麗だ」

 流石の律も、この光景には心を動かされた。小さな露店から大きな宿泊施設まで、様々な建物が山沿いの森に囲まれて集っており、中には先程通った商店街のような、賑わった場所も見えた。

「へへっ。俺、旅館に泊まるのも初めてだ。今日すっげー楽しみだったんだよ」

 隣の響介が、満面の笑みを浮かべてそう言った。

「初めてって。修学旅行とか、もっと大きなところに泊まらなかった?」

「ううん。俺、修学旅行は行ってないんだ」

 さらりとそう答えられてしまったので、律は何と返していいかわからなくなってしまった。律の絶句した様子に気づいた響介は、慌てて話を続けた。

「いや、確かに金がなくて行けなかったんだんだけどさ。ぶっちゃけ学校で行く修学旅行なんか、あんまり楽しそうじゃねーだろ? 別に行けなかったの、後悔とかしてないぜ」

「……確かに、修学旅行はあんまり楽しくなかったな」

 律も中学の頃の自分を思い返して、眉をひそめた。京都には幾度か旅行で訪れていたが、修学旅行は中でも最もつまらない旅行だった。教師が勝手に組んだ班の中で、律は誰とも会話すら上手くできず、ひたすら気まずい空気の中で寺や神社を巡るばかりだったのだ。あれなら確かに、行かないほうがマシだった。

「けどさ。俺、今はすっげー楽しい。きっと一緒に来たのが律だからなんだろうな」

 響介の言葉に、律は心臓がどきりと脈打つのを感じた。彼は本当に何の理屈もなさそうにそう言ったのだ。しかし律には、響介がどうして自信満々に楽しいと断言できるのかが理解できなかった。

 律は無意識に、昼の電車で彼と話したことを思い返した。『とっくに友達だと思ってた』──友達だから、彼は自分と観光地に訪れたことを楽しんでいるのだろうか。

 僅かに脈拍を上げる胸に手を当てて、律は自身の気持ちを感じ取った。自分も今、この時間を楽しいと思っている。これが友達なのだろうか。彼は、今まで自分の中でずっと抜けていた空白に、探していたパズルのピースが嵌まったような感覚をおぼえた。

 自分はあくまでも支援者パトロンで、響介とは仕事への同行という名目でついてきたはずだ。だが、今やそんな建前上の考えは、掃き出し戸の向こうで広がっている空の青のように散っていった。

 残るのはただ、初めて出来た友達との宿泊を楽しみに思う、純粋な好奇心だけだった。


 その晩、個室での宿泊に豪勢な夕食が出てきたことに、響介は先ず驚いた。宿泊といっても、食事はてっきり安価なバイキングか、外食の持ち込みのどちらかだと思っていたのだ。

 律はまるで当然のように個室の電話をとり、旅館のスタッフもまた当然のように夕食を個室へ運んできた。ちゃぶ台の上に様々な料理を乗せた和皿が色とりどりに並び始めるのを眺めながら、響介は座布団の上で思わず縮こまっていた。

 宿泊は五泊六日の長期の予定だった。律本人曰く、五泊の間に夕食だけがこうして毎晩用意されるプランらしい。朝食と昼食はついていないため、それほど高価なわけではないと彼は言うが──高級そうに波打つ四角い陶器皿の上で、きらりと輝く刺身の群に、様々な文様の描かれた小鉢のおかずが複数、さらに汁物の椀にさえ金色の模様が施されており、その光景は響介の感覚ではとても“高価なわけではない”とは思えなかった。

 一方律は、硬直する響介を不思議そうに眺めていた。昼間に旅館を訪れた時はあんなに大騒ぎしていた彼が、今は借りてきた猫のように大人しいのだ。律は不意に尋ねた。

「響介、もしかして魚料理苦手だった?」

 響介は律の困惑した表情に、狼狽えながらかぶりを振った。

「いいや! 俺魚好き! 大好き!」

 慌てて箸を掴み、刺身へと伸ばそうとして──挨拶をしていなかったことに気付いて、また慌てて手を戻し──箸を持ったまま「いただきます」を言い、響介は狼狽を隠せないまま夕食へと口をつけた。律の好意を無碍にしたくない一心だった。

 が、一口食べた瞬間、彼の強張った心は旬の魚の旨みに絆された。

「うんまっっ!」

 やっと響介の表情に笑みが戻ったのを見て、律も安堵しながら食事へ手をつけた。地魚の鯵や鯛はもちろん、小鉢の煮物や出汁の香るお吸い物も美味しかった。しかし律にとってもっとも喜ばしかったのは、それらの料理を「うまい!」と声を上げて食べる響介の姿だった。


 夕食後、二人は旅館浴衣に着替えて浴場へと向かった。旅館には室内風呂と露天風呂の二種があり、日によって男女を入れ替えて利用することになっているのだという。あいにく今日の露天風呂は女性用となっていたが、彼らはそれも明日の楽しみだと思うことにした。

 当たり前のことだが、脱衣所には響介と律以外の利用者も訪れていた。赤の他人の前で裸になることに響介は僅かに抵抗を感じたが、律の方は意外にも堂々と浴衣を脱いでしまい、それを慣れた手つきで籠へと畳み入れ、さっさと浴室へと向かってしまった。

「響介、もしかして照れてる?」

 浴室の入り口で振り向いた律が、急に悪戯っぽい笑みを見せたので、響介は耳まで赤くなりそうなのを堪えながら浴衣を脱いだ。

「別に、ちょっと慣れてねーだけだし!」

 言葉とは裏腹に、籠へと雑に突っ込まれてしまった浴衣は、響介の動揺を表すようにぐちゃぐちゃになっていた。それを見て律がまた笑うので、響介はもう頬を膨らませながら律を追い越して、先に浴室へと入ることにした。

 浴室には響介が三十人──いや五十人ほどは入れそうなほどの大浴槽が広がっていた。横には同時に十人ほどが使えそうな広さの洗い場が設けてあり、律は「浴槽に入る前にシャワーを浴びるんだよ」と先に洗い場の方へと向かった。響介も慌てて彼の隣へついて行った。

「かけ湯でも良いんだけど、僕は先に洗ってからゆっくり浸かる方が好きなんだよね」

「ふうん……」

 シャワーを浴び始める律を横目に、響介も真似するようにハンドルを捻った。が、下の蛇口の方からお湯が出てしまい、慌てて逆のハンドルを捻ると、今度は冷たい水が出てきてしまった。声を上げて狼狽えていると、見かねた律が水を止め、切替弁の使い方を教えてくれた。二つのハンドルの真ん中に、シャワーと蛇口を切り替えるボタンがついていたのだ。

 何もかも知らないことだらけで、響介は湯船に浸かる頃にはすっかりくたびれてしまっていた。ついには浴槽の縁に頭をもたげて、ウトウトと船を漕ぎ始めたので、律は響介が溺れないようそっと隣へと寄り添った。

「お風呂で寝たら危ないよ、響介」

「うん……わかってる……」

 火照った顔でぼんやりと呟かれた本日三度目の空返事に、流石の律も学習した。響介の言う『わかってる』は、ずばり話を聞いていない、という意味なのだ。律は仕方なく響介の頬を軽くはたいて起こしてやり、その後も気だるそうに目を細めている彼を引きずるようにして部屋へと戻った。

 布団を敷いて床につく頃には、むしろ律の方が疲れ果ててしまっていた。律は既に隣ですやすやと眠りについている響介を眺めながら、これではパトロンというよりは、彼の親にでもなったような気分だと感じていた。

 だが、気持ちよさそうに寝息をたてている響介の顔を見ていると、こうして親のような気分になるのもたまには悪くない、という心持ちも湧いてくるのだった。




 しかし、翌日の早朝「今何時!?」というけたたましい声に叩き起こされた際には、流石の律も彼に同行したことを後悔しかけた。隣で慌てふためいている響介を尻目に、律は冷静に枕元のスマートフォンを見て、その時刻に大きくため息をついた。

「……朝の四時だよ」

「え、朝なの? なーんだ」

 あれだけ大騒ぎをしておきながら、響介は時刻を知るや否や呑気そうに安堵した。外がまだ暗いので、てっきり夜まで寝てしまったのだと勘違いしたようだ。

「いくら疲れているからって、夜まで寝過ごすなんてあり得ないよ。僕たち昨日は早寝だったじゃないか」

 律は不機嫌なのを隠す余裕すらなく、顔も声もすっかり曇りがかっていた。彼の憂鬱そうな様子に対し、良くも悪くも素直な響介は急に反省したらしい。布団の上に小さく座り込んで「……ごめん」と謝罪を述べた。

 律には思わず彼のその格好が、実家で飼っている大型犬が叱られているときの姿と重なって見えてしまった。しょんぼりと首を垂れている響介に向けて、律はほんのりと口角を上げてみせた。

「いいよ。もう、忙しないんだから」

 仕方なさそうに微笑む律の顔を見て、響介の表情はぱっと明るさを取り戻した。律には彼のそんな慌ただしい反応もまた、実家の大型犬が尻尾を振って喜ぶときの姿と重なって見えてしまうのだった。律はうっかり笑いを漏らしてしまいそうになり、なんとか堪えたが、幸い響介には気づかれていないようだった。

「ありがとう、律。ええと、早すぎたならもう一回寝るか?」

「ううん。今ので眠気なんか覚めちゃったよ。出発まであと三時間くらいだし、このまま起きてよう」

 律は言うが早いか、何やらスマートフォンを覗き込み始めた。アルバイト初日でまだ行き先までの道のりもよくわかっていないので、今朝は早めに出発しようと決めていたのだ。朝食も移動中に手短に済ませたい。

 律は地図アプリで、道中のコンビニエンスストアの位置を確認した。少し行儀が悪いが、おにぎりでも買って食べながら歩いていこうと考えていたのだ。

「三時間かぁ、微妙に暇だなあ。俺もぐっすり寝たからもうじゅうぶんだし」

 響介は布団を畳み始めた。布団やシーツの扱いは彼の方が手慣れているらしく、カバーまで外そうとし始めたので、律は慌てて彼を止めた。

「待って響介。旅館の布団は畳まなくていいんだよ」

「えっ、そうなのか?」

「うん。毎回スタッフが部屋ごと掃除をするから、布団はそのままにしておいた方がいいんだって」

 律は小声で「まあ、今の話は父さんの受け売りなんだけど」と付け加えた。響介は畳みかけた布団を元に戻して、その上へごろんと寝転がった。

「なるほど。ならあと三時間、本当に何もすることがないなぁ」

「うん。それもだいぶ早く見積もってるから……暇になっちゃったね」

 確認も終えて手持ち無沙汰になった律は、なんだか気まずいような気がして、自分も布団に寝転がった。よく考えたら、響介とこれ程の長時間を、何の予定もなく過ごすのは初めてだったのだ。

 やはりもう一度寝るべきだろうか。横になり、珪藻土の壁を眺めながらそう思っていると、ふと響介の方が唐突に話を始めた。

「そういやさ、律の親父さんってどんな人なんだ?」

「えっ?」

 困惑した律に、響介は「いや、さっき父さんの受け売りとか言ってたから。世間話でもって思ったんだけど」と、何気なさそうにそう述べた。

「ううんと……どんなって、普通の人……ではないかな。一応、立派な会社の代表取締役だし」

「えっ、社長なのか⁉︎」

 早朝から大声で反応した響介に、律は口に指を当てて「しーっ」をした。響介ははっと口をつぐんだ。

「でも、すげえな。社長って。どうりで律も御坊ちゃまな雰囲気あると思ったぜ」

「なに、御坊ちゃまって。嫌味?」

 苦笑いする律に、響介は慌ててかぶりを振った。

「そうじゃなくて。なんかこう、初めて会ったときから気品がある感じがしたんだよ。社長令息なら納得いくなあって」

 響介はにこやかにそう言って、あくまでも純粋に褒めているつもりのようだった。しかし自分に自信のない律にとっては、父が立派な社長であるということは、どちらかというと後ろめたい事実であった。

 律は、話を変えようと思った。

「ええと……そうなら良いんだけど。響介の方はどうなの? お父さん、どんな人?」

「あっ……」

 聞き返した瞬間、律にもはっきりわかるほど、響介は表情を強張らせた。律は直感で、まずいことを訊いてしまったと感じ取った。

「ごめん、響介。答えづらいなら答えなくて……」

「いや、いいんだ。律の親父さんの話を聞いたの、俺の方だし」

 二人同時に場を取り繕おうとしたせいか、却って空気はますます冷え切ってしまったようだった。そのまま二人共いっせいに黙りこくってしまい、途端に何を話せば良いのかわからなくなった。

 十畳ほどの客室の中を、短いようで長い沈黙が満たしていく。律はもう、響介から顔を背けるようにして俯いた。自分は今、彼に酷いことを訊いてしまったのかもしれない。そう思うと、自分からは何も言い出せないし、響介の顔を見るのも怖くなってしまうのだ。

 スマートフォンを見ると、時刻は五時に差し掛かろうとしていた。まだ二時間以上は暇な時間が続く。この重い空気を変える術がないまま、こんなに長い時間をどう過ごせば良いのだろうか。

 逃げ出したい。いっそ便所にでも行くふりをして、一旦部屋を抜け出そうか。そう思ったときだった。

「なあ律。暗い話だし、こんなの聞いたら嫌な気分になると思うけど……聞いてくれるか?」

 響介が僅かに震える声でそう言ったので、律は振り向いた。彼もまた律からは目を逸らしており、その瞳はどこか違う世界でも見ているかのように仄暗く彷徨っていた。

「この話、ホントはあんまりしたくないんだ。家族の嫌な話なんて、聞いても絶対面白くないし、引かれるかもしれないだろ。けど、律には……律は俺の仲間だから、やっぱりちゃんと説明しとくべきだって思ってさ」

 響介は不安そうな顔をしながらも、拳をしっかりと握りしめた。律も彼の緊迫した面持ちにつられるように、思わず背筋を伸ばして頷いた。仲間だから──響介が覚悟を決めた理由が、律にとっては喜ばしくもあり、恐ろしくもあった。

「うちの親、中学の頃に離婚したんだ。親父が不倫した」

 響介の口から出た事実に、律は何も反応することができなかった。恐らくそういった事情だろうと予想はしていたが、実際に彼の言葉で聞くと、その重みは増すように感じられた。

「小学校の高学年までは、多分……普通の家族だったんだ。二人とも仲が良かったし、“あいつ”は俺ともよく遊んでくれた。追いかけっこしたり、キャッチボールとかもした」

 楽しかった頃の思い出を話しているはずなのに、響介の表情は強張ったまま、少しも緩むことがなかった。律には彼の過去は、想像もつかない世界のように思えた。律の家族は今でも仲睦まじく、彼は家族のことにおいては、苦い記憶や辛い過去は持っていないのだ。

 律はただ黙ったまま頷いて、響介の話を受け止め続けた。響介も話を続けた。

「中学の夏休みのときだ。俺、今でもあの日のことはよく覚えてる。俺の誕生日だったから。あいつ、俺の誕生日だから早く帰ってくるって言ってたくせに、結局夜遅くまで帰ってこなかったんだ。母さんが不思議に思って、あいつの勤務先に連絡したら、もうとっくに帰宅したはずだって返ってきた。その後二人で色々話したみたいだけど……ええと……ごめん、よく思い出せなくなってきた」

「いいよ、響介。無理しないで」

 目眩を抑えるように額に手をやった響介を見て、律は思わず彼の肩を抱えた。響介は震えているようだった。それが不安なのか、悲しみなのか、怒りなのか、律には彼の気持ちがわからない。けれども、わからないなりに彼に何かをしてやりたい、という想いだけはあった。

 律は、響介の誕生日が八月初旬だということを知っていた。四月の半ば、まだ彼の隣の席がザネリだった頃に、あいつが響介の誕生日を聞き出していたのを盗み聞いていたのだ。

 もちろん律は、彼の誕生日を祝うつもりで覚えていた。しかし、誕生日にそんな苦い思い出があったなんて。律も不意に眉根を寄せた。

「ありがとう、律。……そうだ、あいつの方から母さんに言い出したんだ。『お前より好きな人ができたから、別れて欲しい』って。その後のことは俺もよく知らない。それから俺は、母さんと二人で暮らしてるんだ」

 口早にそう言い終えてから、響介はふうと深く息を吐いた。今まで彼は、あれだけ明朗快活なふりをして、その内側にこれだけの重い記憶をしまい込んでいたのだ。僅かに瞳を潤ませている響介の肩を、律はしっかり握ってやった。

 なんと返事をすれば良いか、相変わらず何もわからなかったが、律の想いは言葉にせずとも響介に届いたようだった。響介は肩を握る律の手にそっと触れて、微笑んだ。

「な、返事に困るだろ、こんな話。だからこの話をしたの、律が初めてだ。聞いてくれてありがとな」

 にっこりと、わざとらしく歯を見せてまで笑う響介が、律には何故か切なく感じてたまらなかった。むしろ律の方こそ泣き出しそうに目頭が熱くなったので、彼は顔を背けながら答えた。

「話してくれて、ありがとう。……聞けて良かったよ」

 今の律には、これが精一杯の答えだった。それでも良かったのだろう。律に触れていた響介の手に、力がこもるのを感じた。

「湿っぽい話ばっかじゃ何だしさ、気分転換しようぜ。まだ朝早いけど、外に散歩でもどうだ?」

 顔を上げると、響介は先程とは違い、自然と楽しげな笑みを浮かべ始めていた。声色もずいぶんと明るくなったようだ。彼が顔色を良くしたのを見て、律も頷いて笑った。

「うん。フロントはまだ開いてないから、裏口から出入りすることになると思うけど。外の空気を吸ってきた方がいいかも」


 早朝の熱海の空気は程よく冷えており、夏場には爽快に感じる涼しさだった。まだほとんどの店が開いておらず、静けさに包まれている商店街の坂道を下りながら、響介は息を大きく吸った。

 ついさっきまでばくばくと脈を上げていた心臓が、徐々に落ち着きを取り戻していくのを感じる。先程は、今まで誰にも言ってこなかったあの話を、勢いで律に打ち明け──もとい、ぶち撒けてしまった。

 しかし、律は引くどころか、ただ頷いて自分の話を聞いてくれた。響介は安堵から、深く息を吐いた。

「どうしたの、そんなに大きなため息ついて。これからバイトなのに幸せが逃げちゃうよ」

 前方を歩いていた律が振り向いた。昨晩の浴場で見たような、いたずらっぽい不敵な笑みだ。どうやら冗談で揶揄われているらしい。律の機微はわかりづらかったが、響介は最近、彼が思いの外ひょうきんな一面を持っていることに慣れつつあった。

「ため息なんかじゃねーよ。ただ、人が少ない観光地の空気って、珍しいなって思ってさ。せっかくだからいっぱい吸っておこうと思ったんだ」

 響介なりに、冗談には冗談で返したつもりだった。しかし律は間に受けてしまったらしい。彼はさも可笑しそうに「空気に珍しさなんかないし、吸ったところで何もないよ」と笑い始めてしまった。

 けらけらと顔を綻ばせながら歩みを進める律を眺めていると、響介は涼しい空気で満たされたはずの胸の内が、ほのかに暖まるように思えた。本当なら、誰だって他人の不幸話なんか聞かされたくはないはずだ。

 中学の頃、夏休み明けから友人と話せなくなってしまったことを思い出す。『父さんに裏切られた』──ひどい悲哀と鬱憤は、誰にも明かさずとも響介の身に纏わりついていた。中学の友人たちは皆、口を揃えて響介の心身を案じてくれた。

 しかし、そうして案じられれば案じられるほど、響介は友人達に負担をかけているようで、却って苦心が増してしまうのだった。悪いのはあの親父だ。それなのに自分の苦しみで、友人まで苦しめてしまう。それが辛くてたまらなかったのだ。

 今思えば、そんな周りくどいことを考えていたあの頃の自分は、ただ幼かったのだろうと思う。たった今目の前で、明けていく空に夢中になって歩く友人は、響介の不幸を負担に感じるどころか、ありのまま受け入れてくれている。響介も彼を追って、脚を踏み出した。

 二人が向かっているのは、この商店街を通り抜けた先にある、有名チェーンのコンビニエンスストアだった。何しろまだ朝の五時だ。早めの朝食をとるにしても、コンビニくらいしか空いている店はないだろう。

 律の方はどうやら、コンビニの場所は知っていても、品揃えには詳しくないらしい。これまでは律に教わることだらけだったが、コンビニに着いたら美味しいホットスナックを勧めよう。響介は揚げたての骨なしフライドチキンが大好きだった。

 ここだけの話、ホットスナックは保温庫に在庫があっても、店員に頼めば揚げてもらうこともできるのだ。数分は待つことになるが、そのぶん揚げたての美味しさは格別だ。中学の頃、まだ仲の良かったクラスメイトから教わった話だった。

 最近はフライドチキンなんかめっきり食べなくなってしまったが、今はせっかく律と遠出をしているのだ。これからアルバイトで収入も得られることだし、たまには贅沢をしよう。響介の足取りは、前の律を追い越す勢いで軽くなっていった。


 コンビニに着く頃には、時刻は六時に差し掛かろうとしていた。出勤したばかりの朝勤なのだろう、品出し途中の気だるそうな店員にホットスナックの注文をするのは少し気が引けたが、フライドチキンが揚がるまでの間、二人は店内を見て回っていた。

 最近のコンビニの品揃えは豊富すぎるほど多種多様だ。食品だけでなく化粧品や下着、筆記用具に携帯周辺機器に至るまで、大抵の必要なものは揃っている。そうして通路をうろついていると、雑誌棚のコーナーが目に入ったので、響介は慌てて目を背けた。

「どうしたの、響介?」

 無邪気に尋ねてくる律に、響介は咄嗟に背けた視線の先にあった、アニメグッズを指差してみせた。

「いや、えーとあれ。何だっけあのキャラ……」

「ああ、アニメだね。流行ってるらしいけど、僕はああいうのには詳しくないな」

 勘のいい律は、響介が明らかに不自然な行動をとっていることに気がついていた。響介が指差した方とは逆の方向へ目を向けて、敏い彼は納得した。

「ねえ響介。あんなの露骨に意識してる方が“そう見える”よ?」

 振り向いた響介は、律が呆れ顔で雑誌棚のグラビア誌を凝視していることに驚いた。扇情的なポーズをとる水着の女性の写真に対し、律は驚くほど冷ややかな目を向けていた。

「や、でも……あれって、子供が見ちゃダメなやつじゃ……」

 狼狽する響介に、律は苦笑いしながら答えた。

「あれはただの水着写真集だよ。成人誌なんか、コンビニではもうとっくに取り扱ってないよ」

「せーじんし……」

 響介は呆気にとられていた。律はてっきりそういった──いわゆる性的な物事には疎い方だろうと勝手に想像していたが、どうやら思い違いだったらしい。またも律に先を行かれてしまい、響介は耳の先まで赤くなってしまいそうだった。

 そうこうしているうちに、店員から「フライドチキンのお客様」と声がかかったので、二人はカウンターへと向かった。その言われ方だと、まるで俺たちがフライドチキンになってしまったみたいだ。そんなどうでもいいことを考えながら会計を済ませ、二人は揚げたてのチキンと店内で選んだ飲み物を手に、店の外へと向かった。

「フライドチキンのお客様、だって。僕たち揚げられちゃったみたい」

 車が一台もないのをいいことに、二人並んで駐車場の車止めに腰をかけたときだった。律が不意にそう言ったので、響介は口に含んだコーラを吹き出しかけた。

「っはは。それ、さっき俺も思ったよ」

 他愛のない会話をしながら、響介は買ったばかりのチキンが冷めないうちにかぶりついた。チキンは思いの外熱かったので、響介ははくはくと口を開けながら噛むことになってしまった。

「行儀が悪いよ、響介」

「ハフハフ……駐車場に座っといて、今更だろ?」

 あくまでも品行方正な社長令息に、響介はいかにも悪どい笑みを作ってみせた。律は微笑しながら「僕たち凄く悪いことしてるみたいだ」とお茶のペットボトルに口をつけた。

「こんなの全然ワルのうちに入んないって。不良ってあれだろ。ドアの前でウンコ座りとかするやつだろ?」

「やめてよ、今僕ら食事中なのに」

 苦笑いをしながら、律もチキンを食べ始めた。少し齧って、やはり熱かったらしく、彼はチキンへふうふうと息をかけ始めた。

「これ、熱いけど美味しいね。僕初めて食べたよ」

 美味しそうに笑みをこぼす律の表情に、響介は心も胃袋も充足感で満たされていくのを感じた。友達と食べる食事はやはり格別だ。

 昨晩の豪勢な夕食も食べたことがないほどの美味しさだったが、慣れ親しんだ味もこうして会話を挟むとますます美味しくなるのだ。

「だろ? 揚げたては特に衣が全然違うんだ。サクサクだし、すっげー美味え」

 隣の律も頷きながらチキンを噛み締めた。手のひらサイズのチキンはあっという間になくなってしまったので、響介は残ったコーラを飲み干しながら朝日を眺めた。

 なんだか今日は、始まったばかりの一日がとても長く感じる。起きたのが早かったのだから、それは当然のことなのだが。空いたペットボトルとチキンの包み紙を持て余しながら、響介は律の方を見た。どうやら彼は、まだ熱いチキンに悪戦苦闘し続けているようだ。

 律の方も響介の視線に気づき、ふと目が合った。響介の目線がチキンに向いていることに気づき、律はまた笑いが込み上げてきてしまった。

「ふふ、ふ……」

「っちょ、おい! なんで笑うんだよ!」

「ううん。もしかしてチキン、まだ食べたかったのかなって。食べかけでも良かったらあげようか? 僕あんまり食べられない方だから、大丈夫だよ」

 どうやらチキンを欲しがっていると思われたらしい。心外だ。そう思う一方で、響介の胃袋はちゃっかり律のぶんのチキンも欲していた。頭はいらないと言うべきだと思っているのに、心は欲しいと言いたい。

 響介が答えられずにいると、律は何がおかしいのか、こと更に笑い始めてしまった。

「あはは、ごめん。笑っちゃって食べられないや。あげるよ、食べて」

「……じゃあ、貰う」

 一体何がそんなにおかしいのだろうか。響介は不服に感じつつも、差し出されたチキンを受け取った。人のぶんのチキンも、やはり美味しいことに変わりはなかった。

 響介が食べている間も、律はしばらく笑い続けていた。「何がおかしいんだよ?」と尋ねても、彼は「ごめん、ごめんって」と適当に謝るばかりで、その理由は説明してくれなかった。

 それもそのはずだ。まさか響介のことが“実家の犬が人間の食べ物をねだる姿に重なって見えた”、なんて理由で笑っていただなんて、本人に言えるわけがなかった。

 律にとって響介は、幼少期からずっと心を通わせてきた、あの愛らしい家族にそっくりにだったのだ。

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