第5話
翌日の昼休み。響介は音楽室へ向かって階段を駆け上がっていた。昼食を急いでかき込んでいる間に少し出遅れたので、恐らく律は既に音楽室で待っていることだろう。はやる気持ちを胸に抱きつつ、ふと“廊下を走るな”という張り紙が目に入ったので、響介は慌てて歩調を緩めた。
響介の手には──今朝、いわゆる恋文的なものかと勘違いし、慌てて握りしめてしまい、少しだけシワになってしまった──律からの手紙が握られていた。『僕もピアノを弾くので、君の歌をもう一度聞かせてください』という文章は、昨日の『お前と一緒に音楽がしたい』という自分の言葉へ対する返事と受け取っても良いのだろうか。響介はわずかに緊迫した心持ちで、音楽室のドアを開いた。
「律、いるか?」
「いるよ」
間髪いれずに返事が聞こえた。律は当たり前のように既にピアノ椅子に腰をかけており、今すぐにでもピアノを弾こうという構えでいた。どれくらい響介のことを待っていたのだろう。
「ごめん、待たせた」
「ううん。来てくれて良かったよ。もしかしたら来ないかもって思ってたから」
寂しいことを言っているわりに、律の表情は愉快そうに笑みを浮かべていた。
「そんなわけないじゃないか。こんな手紙を貰って、来ないわけにいかないだろ」
響介が持っていた手紙がシワでよれているのを見て、律はまた笑みをこぼした。
「ずいぶんシワシワになってるね」
「あぁ、ごめん。ちょっと色々あって……というか、この“犬でした”って何だよ?」
響介はシワからは話を逸らして、手紙の最後に書かれていた、PSの部分について尋ねた。律はそのまま簡潔に「夢の中に、響介が犬になって出てきたんだよ」と答えたので、尚更意味がわからなくなってしまった。人の夢の中に、自分が犬になって出てきたなんて、十五年生きていても流石に初めてのことだ。
どう反応すればいいかわからない……というより、“犬でした”という報告をしてきた律の意図がよくわからず、響介は困惑していた。そんな彼のことはさておき、律の方はどこか楽しげだった。
「響介。来てくれたってことは、歌ってくれるの?」
響介は背筋を正した。
「まぁ、うん。そのつもりで来たしな」
そう言いつつ内心では、彼の心臓は鼓動をさらに早めていた。先日の放課後は、周りに誰もいないと思い込んで、半ば無意識に歌っていたにすぎなかったのだ。いくら一対一とはいえ──むしろ一対一で、人に向かってきちんと歌を歌うのは初めてだ。響介は緊張に肩を強張らせた。
「よかった。けど、そんなに緊張しなくていいよ。これはただの音域テストだから」
「音域テスト?」
微笑みながらもテストという単語を出した律に、響介は首を傾げた。すると律は片手で鍵盤を一音ずつ叩いていった。
ト、ト、ト、ト、トン。規則的な波のような、簡素な音だ。
「ドミソミド。音楽の授業でやらなかったかな。低音から順番に音階を上げていくから、響介の声がどこまで出るのか聞かせてほしいんだ」
確かに小学校の頃、音楽の授業で、同じメロディを聴いたことがある。音の通りに『ア、ア、ア、ア、アー』と歌い、合わせて音階を上げていく、というものだ。
しかしながら、テストという言葉を使われてしまうと、響介は尚更心が張り詰めてしまいそうだった。律は彼の反応を察したのか、笑みを作って「テストというより、練習だと思って」と言い直した。ほんの一週間で、律はずいぶんと笑顔を作るのが上手くなったようだ。
ト、ト、ト、ト、トン。規則的な音の波が少しづつ階を上げていく。響介ははじめこそ緊張していたものの、声を上げるうちに慣れてきたのか、徐々に発声に張りや深みが増してきていた。彼が歌声をあげるたびに、むしろ律の方こそ、心が張り詰めていくのを感じるほどだった。
響介の地声は特段高いわけでも低いわけでもない。声変わりを終えてまだ間もなさそうな少年としては、あまり特徴のない声質だ。そのため律は、ひとまず平均的な男性の音域として、MID1 C、“ド”の音から音階を上げていった。
ところが驚くことに、彼の声は音階を上げれば上げるほど、力強さを失うことなく、響きの美しさを増していくのだ。高音域が得意らしい彼も、流石に1.5オクターブを越えたあたりで裏声に切り替えたようだが、その裏声こそが、十代の少年とは思えないほど精強に、真っ直ぐに響いていく。
一体この高音はどこまで広がっていくのだろうか──律が目を丸くしながら鍵盤を叩き上げていくと、そのうち響介はようやく限界を迎えたのか、声を上ずらせながら「……ごめん、無理!」と歌うのをやめた。
律は今弾いた鍵を確認した。響介はちょうど3オクターブを越えそうなあたりで歌うのをやめてしまったが、聴いていた律は『間違いなく彼は天才だ』と実感していた。響介が無理だと言ってやめたHihi Cの“ド”は、超高音域のさらに上にあたる高音である。ソプラノを歌うプロの女性歌手でも、安定して出すのは難しいほどの高い音だ。
実際彼のHihi Cはしっかり発声できているかというと怪しく、歌へと取り入れるには無理がある程度のものだった。しかし歌手ですらない、それも未成年の素人としては、驚異的なほどの音域の広さだ。響介の低音の限界はわからないが、男性がこれほど高い声を出せるのなら、おおよそ2オクターブの音域は軽やかに歌いこなせることだろう。
その上──律は以前、彼が『楽譜は殆ど読めないが、独学でギターを弾いている』と言っていたことを覚えていた。彼のギター技術の巧妙さは未だ計り知れない所だが、楽譜を読まずに“弾いている”と述べた響介の自信は、即ちそれだけ音感の正確さを表していると言っても過言ではないだろう。
実際、発声練習中の彼の歌声は(無論、律の聴き取った範囲での話だが)、律のピアノの音階とピッタリと一致しており、超高音域に入るまで寸分たりとも乱れることがなかったのだ。
「……決めたよ」
「えっ、何が?」
目の前の少年の唐突な発言に困惑する響介をよそに、律は鋭い眼差しで響介の瞳を見た。交差する視線に、響介は思わずまぶたを瞬かせた。
「響介。僕は君の音楽を、全面的に支援する」
「へ? し、支援?」
「いわゆるパトロンみたいなものだよ」
パトロンと言われても、横文字に疎い響介には何のことなのかさっぱりわからなかった。全面的に支援するという彼の言葉が、一体どういう考えから発せられたのかがわからず、当惑した響介はただまばたきを続けるばかりだった。
明らかに戸惑っている様子の響介に、律は話を続けた。
「どうやら君は自覚がないみたいだけど……響介。君の歌声は、君自身が思うよりずっと価値があるんだ。僕は君の歌に全てを賭けたい」
律は自らの胸に手を当てた。文字通り命賭けを誓うような彼の仕草を見て、響介はますます焦った。
「いや、待ってくれ」
全てを賭けるだなんて大袈裟な言い回しを、彼はとても冗談とは思えない、正しく真摯な顔つきで言っているのだ。響介は彼の行動に却って畏怖を感じ、慌てて手を振った。
「賭けたいって、急に言われてもなんつーか……嫌じゃないけど、でも、ええと……」
響介は口ごもった。自分の歌に価値があると言われたことは、純粋に嬉しかった。しかし、いくらなんでも真面目な顔で、命まで賭けられてしまうのは純粋に怖い。
すると律は響介の怯えた様子を察したのか、わずかに表情を和らげた。やはりほんの一週間で、彼はずいぶんと人と話すのが上手くなったようだった。
「ごめん。ちょっと重すぎる言い方だったかな。なら、もっと簡潔に言うね」
律が改めた言葉は、それまで困惑していた響介を、真っ逆さまにひっくり返すものだった。
「響介には、確実に音楽の才能があるよ。僕はそんな君を、全力で応援したい」
才能。──才能! 響介の心の中では、才能という文字が飛び跳ねているようだった。“俺は夜空を駆ける流れ星! 重力すら無視する虎なのさ!”──昼休みの終わり、響介は思わず廊下で鼻歌を歌いながらスキップしていた。律の方はどうやらこの後も寄りたい場所があるらしく、響介は先に教室へと戻る最中だった。
それにしても、あの文音両道の律が、自分の歌に才能があると言ってくれたのだ。これほど希望に溢れたことがあるだろうか! 響介はもう、文字通り調子に乗っていた。“誰も俺を止めるな!”──英雄の名曲が、彼の足取りをさらにテンポ良く、軽いものにしていた。
「ドント、ストップミー、ナーウ……フンフフフフンフーン……うわっ⁉︎」
響介は教室の扉を開くと、そのまま勢いよく何かにぶつかった。肝を冷やしながら前を見ると、見覚えのある少女が尻もちをついていた。響介は慌てて彼女へ駆け寄った。
「ごめん! 大丈夫⁉︎」
「大丈夫! そっちこそ……って、成谷くん?」
少女の髪型を見て、響介は思い出した。確か登校二日目の夕方に、罰掃除の手伝いをしようと提案してくれた、ポニーテールの少女だ。
「なーにやってんだ成谷。委員長、大丈夫か?」
不意に横からやってきた沢根が、彼女のことを委員長と呼んだ。彼女はクラス委員か何かなのだろうか。委員長と呼ばれた少女は、スカートの裾を直しながら立ち上がった。
「心配しないで、今のは私のうっかりだから。よく前見てなかったし」
「ええと、俺もよく前見てなかったや。ごめん」
委員長は微笑みながらそう言ったが、響介は気まずくなって頭をかいた。女の子に怪我なんかさせてしまったら大変だ。沢根はそんな二人に向けて笑みを見せた。
「どっちも怪我とかしてなくて良かったぜ。ていうか成谷、やけにご機嫌じゃねえか。何か良いことでもあったのか?」
「えっ? まあ、うん」
響介は咄嗟に言葉を濁した。すると委員長が、何か思い出した様子で手を叩いた。
「そういえば成谷くん、今なにか歌ってたよね。もしかして歌うのが好きなの?」
「えっ、聞かれてたのか⁉︎」
響介はまたも無自覚な鼻歌を人に聴かれてしまい、恥ずかしさで顔をこわばらせた。反面、委員長のほうはむしろ興味津々な様子で彼に近づいた。
「さっきも音楽室から聞こえてきてたの、もしかして成谷くん? 凄い歌声だったよ!」
どうやら委員長は、響介の音楽室での音域テストの方も耳にしていたらしい。凄い歌声とまで褒めそやされて、響介は満更でもなくなって「いやあ、うん」と照れ笑いを浮かべた。
横の沢根は「ふうん」と興味あり気な様子で口角を上げてみせた。
「成谷。もしかして本格的に音楽を始めるつもりなのか?」
「まあ……多分。そんな感じだと思う」
照れくさそうに煮え切らない返事をした響介を、沢根はにやりと笑いながら肘でこづいた。
「良いじゃねえか。だったらもっと胸張れよ。ここだけの話、お前ちょっとだけ噂になってるんだぜ」
「えっ⁉︎」
響介は目を丸くした。一体どんな噂が流れているのだろう。登校初日から遅刻、罰掃除の規則を忘れて帰宅──と思い当たる節はどれも悪いものばかりで、響介はつい不穏な想像をし始めた。
「私も聞いてるよ。うちのクラスにすっごく歌が上手い子がいるらしいって。三日前だったかな? 隣のクラスの子が、放課後にうちのクラスから声を聞いたって噂してて……」
「ま、待ってくれ。三日前って……火曜日の話だったりする?」
うきうきと話す委員長に、響介は慌てて確認した。火曜の放課後なら、間違いなく自分のことだ。あの日、教室には律しかいなかったと思っていたが、まさか隣のクラスに人が残っていたなんて。
委員長は嬉しそうに頷いた。焦る響介を横目に、彼女も沢根も楽しげだった。どうやら二人は既知の仲らしい。
「すげえじゃねえか、マジでカナリヤくんだな。噂になるくらい上手いんなら、今度俺にも聴かせてくれよ」
「うんうん……あっ、成谷くん。急かもしれないけど、放課後か、休みが空いてる日とかあったりする? 私も聴きたいな、成谷くんの歌」
目を輝かせてそう言う委員長に、響介は嬉しいような恥ずかしいような、奇妙な気持ちでいっぱいになってしまった。顔を真っ赤にしながら、響介は首を縦に振った。まるで急に、いわゆるモテ期とやらが来てしまったようだ。
「そうだな……休日ならいつでも空いてると思うけど」
「なら、早速明日カラオケとかどう? 沢根くんも一緒にどうかな」
微笑む委員長に、沢根は笑みを見せつつもかぶりを振った。
「悪い。土曜はもう先約入ってんだ。折角だし、二人きりで行ってこいよ」
「折角って、そんなんじゃないわよ?」
頬を膨らませる委員長を「へいへい」と揶揄いながら、沢根は席へと戻っていってしまった。どうやら響介は、彼女と二人きりでカラオケに行くことになってしまったらしい。
「うーん……私と二人きりになっちゃうけど、成谷くんは大丈夫?」
ほぼ初対面の少女と、急に二人きりでカラオケ──つまり、個室に二人きりだ。響介の脳裏に、緊張のあまり妙な想像が浮かび始めた。
「も、もちろん。良いけど……でも俺、君みたいな生真面目そうな子、あんまりタイプじゃないぜ⁉︎」
口をついてそう発言した直後に、響介は“しまった”と思った。訂正するよりも前に、委員長は嫌なくらいの満面の笑顔で言いきった。
「成谷くん。自惚れって言葉、知ってる?」
恥の上塗りとは、まさにこの事である。響介は赤くなっていた顔が、白く引いていくのを感じた。
視線の脇の方では、話を横聞きしていたらしい沢根が、『あちゃあ』と言いたげに苦笑いを浮かべていた。
土曜の朝。響介は委員長との待ち合わせに選んでいた、最寄り駅の前へと向かっていた。最寄りといっても徒歩では何十分とかかってしまう場所なので、響介は急いで自転車のペダルを漕いでいた。
実を言うと、カラオケに行くのは生まれて初めてのことだった。中学時代は特に同世代との付き合いがなかった上に、金銭的にも余裕がなかった響介は、カラオケやらゲーセンやらカフェといった、いわゆる“小洒落た若者が行きそうな場所”の、殆どに訪れたことがなかったのだ。
昨日こっそり委員長にそう打ち明けると、彼女は格安のカラオケ店の場所や、カラオケに必要な予算などを細かく教えてくれた。その上待ち合わせの場所や時間の予定も決めてくれたので、響介は彼女に頭が上がらない思いになった。正しく優等生らしい手際の良さだった。
自転車は駅へと近づいていく。遠方から、無人駅の入り口に人影が立っているのが見えた。委員長は既に待っているようだ。響介は急いで駅の駐輪場へと自転車を止めて、彼女の元へと向かった。自転車の鍵は一つしかかけていないが、錆びついた中古の自転車をわざわざ盗んでいく物好きはいないだろう。
「委員長! お待た……せっ⁉︎」
響介は一瞬人違いをしたのかと思い、黒いレザーのジャケットを着ている少女に向けて「すみません!」と謝った。しかし振り向いた彼女は──少々化粧が濃いものの──間違いなく委員長だった。
「成谷くん! 大丈夫だよ、私の方が少し早く着いてただけだから」
委員長はどうやら、響介が後から来たことを謝ったのだと思ったらしい。響介は平然と笑みを向けている彼女の服装を、改めて眺めた。
ジャケットにはところどころにギラついたトゲが生えており(後で調べて知ったが、スタッズというものらしい)、着ているシャツにも恐ろしげな骸骨が描かれている。おまけに学校で見知っていたあの清楚な印象のポニーテールには、カラフルなエクステが混ざっており、いかにも派手な様相だった。
委員長というあだ名が似合う、文字通りの優等生風だった彼女が、プライベートで急に不良のような姿になってしまったので、響介は混乱していた。自分の着てきた私服といえば、いつも着ているようなありきたりなパーカーにジーンズとスニーカー、という平凡な服装だ。この格好で彼女の隣に立っていて大丈夫だろうか。
響介が目を丸くしていると、委員長はにっこりと笑って、ギラギラ光るジャケットを見せびらかすように手で広げてみせた。
「ふふっ、驚いた? これ、私の勝負服なの」
「勝負服?」
「うん。歌を歌うときは、絶対こういう服を着るって決めてるの」
自信ありげにそう笑ってみせる彼女は、まるでどこかのアーティストのような存在感を放っていた。
しかし、響介は彼女のその格好よりも、歌声の方に殊更驚かされることとなった。
格安というだけあって、コンテナの個室は壁のところどころが剥げていたり、床やソファは少し汚れていたりと少々粗末な雰囲気だった。しかし響介には、綺麗な部屋よりそういった素朴な空気の方が、却って身の丈に合って落ち着くように感じられた。
向かいの席へと腰をかけると、委員長は改めて自己紹介をした。委員長というのは中学からのあだ名で、本名は
カラオケは機械のタッチパネルを使って曲を選ぶものらしく、使い方のわからない響介のために委員長が丁寧に教えてくれた。彼女は早速お手本と言わんばかりに、英題の曲を選んでみせた。
委員長も洋楽が好きなのだろうか──そう思った矢先に、スピーカーから打ち込み音声のエレキギターが、低く歪んだエフェクトで轟々と唸り始めた。まさか真面目そうな委員長が、ハードロックを歌うとは。しかし彼女の歌声は、響介のそんな考えすらも凌駕するものだった。
もはや文字には起こし難い、文字通り絶叫としか言いようのないシャウトが個室じゅうに暴れ始め、響介は震えあがった。それはロックというよりは、いわゆるメタルというジャンルの曲だろう。委員長の声は同学年とは思えないほど血気に溢れ、女性とは思えない威迫を放っていた。
委員長は派手なエクステ混じりのポニーテールを振り乱し、聴覚と視覚の両方で響介を圧倒した。響介は自分の考えていた音楽の世界が、まだまだ狭いものだったということを、彼女に身をもって思い知らされた。
何よりも学校で見知っていた、気品があって大人しそうな彼女の印象と、全く正反対の音楽性が恐ろしかった。それは幼い頃に一度だけ乗ったことのある、ジェットコースターのような衝撃だった。あの乗り物は、側から見ると賑やかで楽しげな見た目をしておいて、いざ乗るとひどい速度で乗客を振り回し、恐怖を煽る。その落差がますます恐ろしいのである。
「さあ、次は成谷くんの番だよ」
歌い終えた委員長は、息を切らせながら響介へタッチパネルを手渡した。響介はぽかんと口を開けて慄きながらも、彼女の音楽への熱意が“本物”であることを感じ取った。
彼女はこれだけ人を圧倒させる歌声を、響介よりも先に披露したのだ。響介は委員長からカラオケに誘われた理由をようやく理解した。響介の歌が上手いという噂を聞いて、彼女は闘争心に駆られたのだろう。勝負服というだけあって、素晴らしい戦いぶりだった。
ならば負けてなるものか。響介は英雄の名曲から、最も情熱的な愛の歌を選んだ。“俺はお前を愛するために生まれてきた”──初対面の少女の前で歌うには、少し恥ずかしい歌詞の曲だが、響介は恥をかき捨てて情熱的に歌い出した。
「アイ……ワズボーン……トゥラヴュー──」
ビブラートを効かせた烈々たる歌声が、二人きりの小さな個室を熱く燃え上がらせた。響介はまだ一曲目であるにも関わらず、歌い終わる頃には汗だくになっていた。ふうと熱い息をつくと、横からぱちぱちと小さな拍手が景気良く飛んできた。
「良かったよ、成谷くん! すっごく上手かった!」
「そ、そうかな?」
響介はせっかく吐いた熱が、また身体の内から込み上げてくるように感じた。ソファに腰をかけつつも、照れくさそうに身体をよじらせている響介を、委員長は瞳を輝かせて明るく褒め称えた。
「うん。本当に。感情の乗せ方が歌声にしっかりついていて、ただ音程が合っていて声量が大きいだけじゃなくて、抑えるところはしっかり抑えてて……とにかく凄かった!」
あまりにも率直に褒められたので、響介は照れるあまり「えへへ……」などというふやけた笑いを浮かべることしかできなかった。本来なら『どういたしまして』とか『それ程でも』といった何らかの反応をするべき場面なのだろうが、あいにく響介は褒められるということにあまり慣れていない。
響介はつい先日、律からも歌声を褒められたばかりだったが、そのときも結局ふにゃふにゃと笑うばかりで、彼にも未だにちゃんとした返事を返せていなかったのだ。
「ふふ。成谷くん、大丈夫?」
委員長は響介が褒められ慣れていないのを、彼の反応だけで察したようだ。響介が後ろめたそうに「ごめん、慣れてなくて」と正直に述べると、彼女は笑みを絶やさないまま話題を変えた。
「私は大丈夫だよ。それより成谷くん、本格的に音楽を始めるんだっけ? あれってどんな感じだったりするの?」
どうやら昨日カラオケの約束をする前に、沢根の言っていた話を彼女も覚えていたようだ。響介はまだはっきりとしていない律との関係を、どう答えようか一瞬迷った。しかし、この誠実そうで温厚そうな委員長になら、ありのままを話してもいいだろうと思い至った。
「その……うちのクラスにピアノがすっげー上手いやつがいてさ。そいつが俺の歌を認めてくれて、どうやら一緒に音楽をやってくれるみたいなんだ」
話しながらも、響介はやはり照れくさくなってきた。実を言うと律とはまだどんな音楽をするのか、これからどんな活動をしていくのかすら決まっていなかった。前述の通り響介がふにゃふにゃとした反応で濁してしまったため、あまり前進しているとは言えない状態だったのだ。
『どうやら』、『みたい』といった表現で言葉を濁す響介に対し、委員長は何かに気づいた様子で目を見開いた。
「……それって、成谷くん。うちのクラスのピアノがすごく上手い子って、もしかして椀田くんのことだったりする?」
「えっ、知ってるのか?」
委員長の口から律の名前が出たことに、響介は率直に驚いた。
「うん。中学のとき、合唱コンクールの伴奏をしてくれたことがあって……あっ、でも練習のときに、たった一度弾いてくれただけだったんだけどね。伴奏担当の子が体調不良で休んじゃったとき、代わりに演奏してくれたの」
委員長は記憶を辿るように、深く頷きながら話を続けた。
「これはその伴奏担当の子には内緒なんだけど……私は正直、椀田くんの演奏の方が、上手いなって思っちゃったんだ。けれど彼、人前に出たがらないみたいで、椀田くんの演奏はその一回しか聴いたことがないんだけどね」
「確かにあいつ、人前では弾けなくなったって、言ってた気がする」
響介も頷いた。委員長はどこか寂しげな顔で俯いた。
「そっか……なんだか納得しちゃった。ほら、椀田くんっていつも一人でいたがるっていうか、周りを避けてそうな感じがしたから。失礼かもしれないけど、成谷くんと椀田くんが一緒に音楽をやるって、ちょっと意外だなって思っちゃって」
「そうかな……そうかも?」
響介はそう言われてみると、確かに納得した。いつの間にか一緒に音楽をするということになっていたが、律との初対面はとてもじゃないが好意的なものではなかったのだ。
それでも彼らの縁がこうして繋がったのは、“音楽が好き”という気持ちの一致、その一点のみが理由だろう。響介はなんだか不思議な感覚をおぼえ、思わず首を傾げながら笑った。
委員長は話しながらはっとして、頭を横に振った。彼女はどうやら、律の中学時代を知っていて、彼のことを気にかけているようだった。
「ううん! 椀田くんのことを悪く言うつもりじゃないの。ただ私、彼のことがちょっと心配で……中学が同じだったってだけなのに、勝手に心配なんかするのも何様かもしれないけど。でも、良かったよ」
委員長はにこりと優しげに笑みを作った。パンクな服装に身を包んでいるが、その表情はやはり優等生らしかった。
「成谷くん。赤の他人が言うのもなんだけど、椀田くんと仲良くしてくれると嬉しいな。彼、ちょっと口数は少ないけれど、きっと優しい人だから。合唱練習の伴奏も、困ってるクラスのために自分から言い出してくれたんだもの」
委員長は「人前で弾くの、苦手だったのにね」と律の気持ちを想って眉を下げた。やはり彼女は人を見る目も良いようだ。律の冷たい人形のような表層の奥に、温かい魂が入っていることを、ちゃんとわかっている。響介は「もちろん」と胸を叩き、彼女へ親指を突き立ててみせた。
「たとえ言われなくなって、あいつとは良くやってくつもりだぜ」
啖呵をきりながら、響介は熱い胸の奥がますます燃え上がるのを感じた。
その後も数曲ほど委員長と歌い交わし、喉を少々痛めつつも、響介は胸中の熱を保ったまま帰宅した。帰ったら早速、自分から律へ次の予定を立てに、声をかけようと思ったのだ。
そうしてその晩、折り畳み携帯のオープンボタンを押して画面を開いた瞬間、響介はようやく気がついた。そういえば、律の連絡先を教えてもらうのを忘れていた。
月曜になったら、必ず連絡先を聞こう。響介は“うっかり”しないように、手のひらに油性のマジックで『律の連絡先』としっかり書いてから、床についた。
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