第6話

 季節はあっという間に過ぎていく。気づけば五月すらとうに過ぎ──響介は中間テストの成績のあまりの悪さに、白目を剥きながら頭を抱える羽目になり──六月下旬、期末テストを控え、さらに重たくなった頭を机に押しつけて、突っ伏す事態になっていた。

「響介、大丈夫?」

 前方から律の声がかかる。四月の後半に席替えを終えて、偶然にも響介と律は前後の席になっていた。窓際の前から二番目が律、そして三番目が響介だ。一般的には“当たりの席”と呼ばれる位置だが、席の当たり外れなんか、今の響介にはどうでもいいことだった。

「大丈夫……じゃ、ない、かも……」

 弱々しく返事を濁しながらも、響介ははっきりと絶望感を抱いていた。大丈夫じゃない、どころではない。彼はまだ中学の復習レベルの内容が大半を締めているはずの、一学期中間テストですら赤点ギリギリの点数だったのだ。一学期は中間テストの後から、急に新しく学ぶことが増え、途端に勉強が難しくなった。次は本当に全教科を赤点にしてしまうかもしれない。

 万が一、期末テストで赤点を取ってしまったら……待ち構えているのは、夏休みの補習である。その上宿題も出るというのに、補習なんかになってしまったら、アルバイトどころか音楽活動をする暇もなくなってしまう。意地でも赤点は免れたかった。

 しかし──響介は顔を少し上げて、自分のノートへと目をやって、それからやはりまた突っ伏した。

 そもそも授業内容のまとめすら、てんでなっていないのだ。前の授業が理解しきれていないまま、授業の方がどんどん先へと進んでしまう。自宅での復習でなんとか追いつこうとしているものの、そうしているうちにも授業はさらに進んでいく。響介は置いていかれる一方だった。

「えっと……響介、僕教えようか? 今やってるの、数学だよね」

 律は心配そうに眉を下げて、響介の顔を覗き込んだ。もう放課後だというのに、彼は残って復習している響介を、わざわざ待ってくれている。それだけでも有難いのに、教えてもらうのは流石に申し訳がない。

「いや、やっぱ大丈夫。多分……なんとかなるから。律は先に帰ってくれよ。俺、もう少し残っていくから」

 あからさまな作り笑いだったが、律は納得した様子で頷いた。席を離れていく律の背中を見ながら、響介は不甲斐なさに目頭が熱くなった。

 律にはただでさえ、音楽のことも一から教わっているのだ。楽譜もまともに読めず、音楽記号が何なのかすらわからない響介に、律は毎日のように昼休みや放課後の時間を使って一から付き合ってくれている。

 その内容は音階・音程・和音の種類、調判定、楽語などの基礎的な音楽知識や、音楽史の解説に加え、参考になる別ジャンルの音楽についての話まで、様々だ。何もかも彼から教わることだらけで、あまりにも後ろめたかった。

 熱くなった目頭を、窓から入ってきた初夏の風がひゅうと冷やしていく。

「はぁ……」

 響介は思わずため息をついた。重くなった胸中から、少しでも苦心を吐き出そうとついた息が、却って響介の周りの空気も重くしてしまうようだった。どうやら天候すらそんな彼の気持ちを察したらしい。梅雨の曇り空がぽつぽつと雨を落とし始めたので、響介は席に座ったまま手を伸ばし、気だるそうに窓を閉めた。

「なぁにため息なんかついてんだよ、成谷」

 湿気た空気を吹き飛ばすような、快活な声がかかった。響介は振り向いた。

「沢根? お前、残ってたのか?」

 沢根は相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべて、響介のことを見下ろしていた。

「あぁ。誰かさんが泣きべそかいてっから、つい心配になってさ」

 言いながら沢根は律の席の椅子を引っ張り出し、そのまま背もたれに手を組むようにして座ってしまった。「そこ、律の席だぞ」と響介が思わず口を挟むと、沢根は笑いながら「あいつはもう帰っただろ?」と手を振ってみせた。

「それより勉強、詰まってんだろ。教えてやるから見せてみろよ」

 沢根はまるで当然そうにそう言うので、響介は却って驚いた。慌てて作り笑いを見せる。

「いいって。このくらい自分で……」

「出来てねえだろ。お前の顔見りゃわかるぜ。いいからノート見せてみろって」

 沢根の顔から笑みが消えた。彼は真剣だった。そのあまりの気迫と強引さに、響介は慌てて支離滅裂の数学ノートを差し出した。

 ノートを一瞬見ただけで響介の学力を察したのか、沢根は「あちゃあ」と声を漏らした。

「こりゃまずいな。解き方わかんねえのに、とりあえず板書をそのまま写しただけって感じだ。中学の基礎問題からやり直した方が早そうだな」

 直球の発言だったが、まるで沢根の言う通りで、響介はぐうの音も出なかった。そもそも数学に関しては中学の頃から苦手な科目だ。教師が何を説明しているのか、授業が何を進行しているのかが全く理解できず、ひたすら黒板の文字を写しながら唸ることしかできなかった。

 それでも中間テストで赤点を免れたのは、数学教師に文章問題でオマケの点数を貰ったからだ。あのオマケ点がなければ、響介は間違いなく赤点になっていた。数学は期末テストにおいて、響介の最も高い壁だった。

「うう……けど、中学基礎からやり直したら、とんでもない量にならないか? 期末テストまでもう時間が……」

「そこは大丈夫だぜ。俺はこう見えて数学には自信あるんだ。効率良く覚える方法を知ってっからさ」

 不安に駆られる響介に、沢根は得意げに笑ってみせた。頼り甲斐があるのは嬉しいが、やはり人にばかり頼るのはなんとなく申し訳がない。

「いやあ、そういうの、教えてくれんのは有難いけど……」

 響介は思わずまた遠慮をしてしまった。すると沢根はやはりまた笑うのをやめ、真剣な目つきへと変わった。

「成谷。お前、バイトの件、やるって言ったよな?」

「うっ」

 響介は反射的に身構えた。彼の言う通り、遠慮をしているどころではなかった。それは以前から沢根に誘われていた、夏休みの観光地での泊まり込みアルバイトの話だった。

「補習になったらバイトどころじゃなくなるだろ。前にも言ったけど、あそこ俺の伯父さんの知り合いの店なんだって。今更反故にされたら困るぜ?」

「た、確かに……」

 響介は律と本格的に音楽活動を始めるにあたり、沢根にあのアルバイトの件を、やると伝えていた。音楽活動にはやはり資金が必要不可欠だ。楽器に教材に備品にと、とにかくお金がかかる。アルバイト申請も委員長に手伝ってもらい、すでに学校の許可も下りていた。ただし、それは期末テストを乗り越えることが前提の条件だ。

「そういうことだから、無理矢理にでも教えさせてもらうぜ。教えてもらってるからって気に病むのもやめだ。このぶんの借りはバイトの方で返してくれよ」

「えっ、もしかして給料何割か取られたりするのか⁉︎」

 響介は真面目に怯えたが、沢根は本心から愉快そうに笑い飛ばした。

「おいおい。俺がわざわざ金に困ってるやつからふんだくるような甲斐性無しに見えるか? よく働いて売り上げ伸ばしてくれってことだよ」

 それもそうだ。響介は胸を撫で下ろした。だがそう思うと同時に、今度は別の疑問が頭の中に浮かんできた。

「なるほど……そういや思ったんだけど、沢根ってやけにその伯父さんの知り合いの店……っていうか、伯父さんのことに拘ってるよな。意外と親戚を気にするタイプなのか?」

「意外とって何だよ。まあ……そうだな。伯父さんにはかなり世話になってるっつーか……いや、“成谷になら”言ってもいいかな」

 どうやら沢根側にも事情があるようだ。響介は無意識に背筋を正した。

「俺、結構前から伯父さんと伯母さん夫婦のとこで暮らしてんだ。俺には伯父さん達がもう、家族同然なんだよ」

 家族同然という言葉に、響介はやはり引っかかりをおぼえた。それなら彼の実の親は、一体どこでどうしているのだろう。しかしその疑問をぽんと口に出してしまうほど、響介は無神経ではなかった。

 自分の家庭環境だって、他人事とは言い難い状況なのだ。家の事情に勝手に口を出されたり、気を遣われたりするのは嫌だ。そのことは響介が一番よく知っていた。

「そういうことか。じゃあ俺もバイトの件、頑張んないとだな」

「おう。つーわけで一旦そのノートは閉じろ。新しく一からまとめ直すぜ」

「えっ⁉︎ 一からやり直すの⁉︎」

 響介は絶句した。沢根は確かにいい奴であることは間違いないが、時折彼の大胆な言動は、常人を逸しているように感じられた。


 通学路の途中、アパートへの帰路を大きく逸れ、二人は近所の大型ショッピングモールへと寄っていた。響介はあまり訪れることの少ない場所だが、地元住民には馴染みの深い商業施設だ。店内はそこそこ混み合っており、中には制服姿のまま寄り道をしている他校生の姿もあった。

 施設の中にはさまざまな店舗が並んでおり、二人はその中の格安雑貨店へと入っていった。新しいノートを買い、その後はそのまま真っ直ぐに隣のコーヒー店へと向かう。沢根は慣れた様子でコーヒー店へと入って行ったが、響介は店の大人びた雰囲気に僅かに気怖じしていた。

 既に注文カウンターの前に立っていた沢根に手を招かれ、響介は慌てて彼の横へと並んだ。彼らは帰りがけにこのコーヒー店に寄り、勉強会をしてから帰宅する予定だった。

 もちろんこれは沢根の提案だ。沢根曰く、勉強はいかにもな雰囲気の教室や自宅より、こういった洒落た店の空気の方が捗るのだという。信憑性は定かではないが、響介も流行りのコーヒー店とやらには興味があった。

 まずはお手本、と言わんばかりに沢根は自分のドリンクを注文した。

「バニラクリームフラペチーノのエクストラホイップにエクストラキャラメルソースホワイトモカシロップの追加とブレベミルクライトアイスに変更で」

「えっ……ええっ⁉︎」

 響介は沢根の顔を二度見した。彼はただでさえ横文字には疎かったが、沢根の長々とした注文は、もはや魔法の呪文を唱えているようにしか聞こえなかった。

 店員は「かしこまりました!」と明るい笑顔で答えた。どうやら店員の方も、この呪文のような長い注文に慣れているようだ。一体沢根は何を頼んだのだろうか。響介は狼狽えつつもカウンターのメニューを覗き込んだが、結果的に彼は更に混乱してしまう羽目になった。

 このコーヒー店は、ドリンクの種類だけでもとんでもなく多かった。響介にはそもそもフラペチーノというものが何なのかすらよくわからない。その上エスプレッソだのラテだのモカだのといった、恐らくコーヒーの仲間であろう横文字達の違いもほとんどわからなかった。

「ええと……じゃあ俺も同じの……」

「待て、成谷。お前甘い物好きだったか?」

 頭を真っ白にしながら、とりあえず沢根と同じものを頼もうとした響介に、待ったの声が掛かった。

「うーん、特別好きってわけでもないかな」

「なら俺のカスタムは相当甘いから、同じやつは頼まない方がいいと思うぜ。奢るから、無難にアイスカフェラテとかにしとけよ」

 言うが早いか、沢根は響介のぶんのアイスカフェラテをさっさと注文してしまい、そのまま支払いまで済ませてしまった。響介は奢られた肩身の狭さを感じる余裕すらなく、緊張で身体じゅうをカチカチにしながら彼の後をついて行った。

 店内はシックなダークブラウンの内装に、やや暗めの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。二人はそれぞれ受け取ったドリンクを片手に、店の端のカウンター席へと並んで腰掛け、ノートを広げた。響介の方は、さっき買ったばかりの新品のノートだ。

「さて、勉強会開始といきますか。まずは成谷の苦手な基礎問題の復習からだな」

「ありがとう沢根。……お前、意外と字は下手なんだな」

 響介は隣に広げられた沢根のノートが、案外雑然と書かれていたので、思わずそんなことを口走ってしまった。沢根は顔をしかめながらも笑ってみせた。

「お前なぁ、教えてもらう立場でよくそんなこと言えんな? まあ俺のノートは読めなくていいぜ。口頭で説明するし、さっきも言ったけど数学には自信あるからな」

 沢根は「こう見えて中間テストの数学の順位、学年二位なんだぜ」と響介にウインクして見せた。

「二位⁉︎」

「しーっ、声でけえよ」

 響介は無自覚に大きな声をあげたので、沢根に手で口を塞がれてしまった。共高のテスト順位は掲示板に貼り出されるようなことはないものの、試験成績表が一人一人に配られ、自分の順位だけはしっかりと思い知らされる仕組みになっていた。

 無論、響介は全ての教科において、下から数えた方が早いくらいの成績だった。彼には沢根が、急に雲の上の人のように思えてきてしまった。

 しかし学年二位という好成績をとっておきながら、沢根はどこか腑に落ちないようだった。

「ちなみに、あんま言いたくねえけど……一位が誰かの見当もついてる。多分、お前の前の席のアイツだ」

 言いながら、沢根はさらに気落ちしていく様子で表情を曇らせていった。響介は以前、彼が律のことを『あまり関わらない方がいい』と言っていたことを思い出した。律の方も確か、沢根のことを良いとは言えない意図で言及していたことがある。

 二人の関係が良くないらしいことは、流石の響介も察していた。しかし今の響介にとっては、沢根は親しい友人で、律は音楽の道を共にする仲間だ。

「……沢根ってさ、もしかしてあいつのこと嫌いなのか?」

 響介はあえて包み隠さず尋ねた。沢根は意外そうに目を見開いたものの、入学初日の昼休みの時のような、嫌な顔は見せなかった。むしろ気まずそうに笑みを作って、

「成谷には敵わねえな」

 と呟いた。

「そうだな。回りくどいのもお前に悪いし、正直に言うよ。俺と椀田は、色々あって仲が悪いんだ。つってもガキの頃の話だぜ。最近のアイツのことは俺もよく知らねえ」

「やっぱり。なんか俺もそんな気はしてたんだ。もしかして、俺が最近律と仲良いのって、沢根からしたら嫌だったりするのか?」

 響介は何の気なくそう尋ねたが、沢根は却って狼狽した様子で手を横に振った。

「おいおい、変な気を遣うなよ。っつーか気を遣うべきなのは俺の方だったな。板挟みにしちまって悪かった」

「別に板挟みってほど、俺は困ってないぜ? 沢根が嫌じゃねーなら別に良いんだけど」

 アイスカフェラテを口に含みながら、響介は堂々と答えた。自分で言った通り、彼は人間関係の機微には疎い方だ。たとえ二人の間柄が悪かろうと、響介は本人達が嫌がらない限り、沢根とは友達でいたかったし、律とは仲間でありたかった。

 初めてコーヒー店で飲んだカフェラテは、瓶詰めのインスタントコーヒーとは明らかに違う、良い香りがした。この芳しさを都会的と言うのだろうか。響介は呑気にもそんなことさえ考えていた。

「成谷の器がデカくて助かったよ。俺だってダチの交友関係に口を挟むほどガキじゃないぜ。成谷が“上手くいく”ならそれでいいんだ」

 沢根も響介を真似するように、フラペチーノのカップを手に取った。一口吸うと、途端に彼の表情が綻んだ。

「はは、喋ってるうちに溶けちまってら。ライトアイスにしない方が良かったな、コレ」

 ライトアイスとやらが何なのかはわからなかったが、沢根は白いフラペチーノを「ウマい」と呟きながら飲んでいる。本人曰く『相当甘い』という代物らしいが、あの呪文のような注文で出てきたドリンクは、どんな味がするのだろうか。響介はふと気になった。

「なあ沢根、ソレ……美味いのか?」

「おっ。一口飲んでみるか?」

 沢根は躊躇なくカップを差し出した。響介は彼の言葉に甘えてストローに口をつけた。

 が、瞬間彼の舌には、練乳を直接塗りたくられたかのような強烈な甘さが広がった。

「甘っっっ‼︎‼︎」

 あまりの甘さに飛び退く響介に、沢根は歯を見せてけらけらと笑った。

「だーから言ったろ。甘党カスタムだって」


 勉強会は一時間ほど続いたが、沢根は思っていた以上に人に教えるのが上手く、響介は驚くほど長時間の勉強が苦にならなかった。

 沢根曰く、数学は基礎の応用、その応用、そのまた応用と順を追って続いていくため、どこかの基礎理解が躓くと、その後の応用問題も全てわからなくなってしまうのだという。次の試験範囲のさらに基礎にあたる問題を、沢根は懇切丁寧に説明してくれた。

 彼は時折冗談混じりに、響介の興味を惹く話題を混ぜながら話してくれるので、苦手なものはなかなか覚えられない響介でも楽しんで学ぶことができた。

「すげえな、沢根って。もう一学期中間の問題まで追いついた。教師とか向いてるんじゃないか? あのメガネの先生の話よりよっぽど面白いぜ」

「はは、確かに石上先生の授業は真面目っていうか、ちょっと堅物って感じだよな。向いてるって言われんのは嬉しいけど、俺はもう目指してる職業があるんだ」

 響介は彼の意識の高さに驚いた。沢根は一年の一学期も終わらないうちに、既に自分の将来像や、志望大学まで決めていた。彼は都内の国立大学に進学し、情報工学を専攻したいのだと言う。彼がコンピュータに詳しそうなことは知っていたが、まさかそこまでとは。

 口をあんぐりと開けている響介に、沢根は慌ててかぶりを振った。

「いや、目標の話だぜ⁉︎ まだ受かるかどうかすらわかんねえし。けど、目標は高ければ高いほどいいからな」

 白いフラペチーノを飲み干しながら、沢根はにかりと笑った。響介には甘すぎて劇物のように感じたそれをぺろりと平らげた沢根は、やはり常人を逸している。彼曰く、脳を使うときには糖分が要るとのことだが、それにしても糖の過剰摂取がすぎるのではなかろうか。

 響介は彼の健康が心配になりつつも、自分もアイスカフェラテを飲み干した。勉強会の間に氷が溶けたのか、最後の一口はコーヒー風味の水になってしまっていた。 


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 放課後の勉強会はその後も何日か続いた。響介は最も苦手な数学を沢根の教えに頼ることで、自力での学習を得意科目に絞ることができた。特に現代文や日本史は、共高のレベルでは中の下程度とはいえ、響介にとっては得意科目だ。彼は確かな手応えを感じつつあった。

 少しづつ自信を取り戻していたのが表情にも出ていたのだろう。明くる日の朝、前の席から振り向いた律も、響介の顔を見て微笑んだ。

「響介。調子はどう? 前より良くなったように見えるけど」

「おう。まだ期末テストが大丈夫……かはわかんねーけど、前よりは大丈夫な感じだぜ」

 響介も笑顔を見せた。が、その表情は話しながら次第に曇っていった。

「……っつーか俺が勉強遅れてるせいで、音楽の方……全然進んでなくて、ごめんな」

「そんな」

 律は目を見開いた。そもそも自分の方から響介のことを支援したいと言い出したのだ。本当は勉強の方だって、全て自分が響介に教えたいくらいだった。しかしどうにも彼とは学力に差がありすぎるのか、律には響介が、どこをどう“できない”のかがわからなかった。

 もどかしい気持ちが律の心中を渦巻いていく。律はあえて知らないふりをしていたが、響介が急に苦手科目の数学を克服できた理由は、あのザネリの協力があったからだとわかっていた。

 彼は二人が時折、並んで帰っているところも見かけていた。あれがザネリにはできて、自分にはできないのだろうか。律の腹の底では、薄暗い影が色を濃くしていくようだった。

 いいや。律は影を振り払うように、首を横に振った。自分にだって何かできるはずだ。自分からパトロンになると言い出した以上、本来なら響介を全面的に支援するべきなのは、自分の方のはずだ。先日は響介本人の後ろめたそうな遠慮に負けてしまったが、ザネリが彼に関わっていると知った以上、もう後に引きたくはなかった。

 それはもはや、ただの意地に近い感情だった。しかし律にとっては、意地でも何かを成したいと思うのは、久方ぶりのことだった。

 律は響介に尋ねた。

「響介、やっぱり僕にも教えさせて。他に躓いてる教科はある?」

「えっ? ええと……」

 やはり思った通り、彼は律に対し引け目を感じている様子だった。しかしザネリはこれを強引に突破して、彼を導いたのだ。ザネリにできて自分にできないことがあるものか。律は胸の奥が熱くなるのを感じながら、拳を握って続けた。

「音楽、やりたいんでしょ。学校の勉強なんかで突っかかってる場合じゃないよ。夏休みになったら、一緒にもっと音楽の勉強もしよう」

 響介は息を呑んだ。律が自分にここまで積極的に関わろうとしてくるのは、流石に意外だった。いつもは物静かで落ち着いた印象を受ける彼だったが、今、その目は何かに燃えたぎっているようだった。

「そう、だな……それなら、英語かな。担任の先生にも心配されたけど、単語を覚えるどころか文法からさっぱりで……」

「わかった。任せて」

 律は眉を釣り上げて、自信ありげに笑みを見せた。

 英語は響介達の属している、一年二組の担任教師の担当科目だ。彼女は響介の英語の成績の悪さをよく知っており、彼のことを最も気にかけている人物である。そのことは律も知っていた。ならば先生からも力を借りよう。律は頭の中で、響介の英語克服のための作戦を建て始めていた。


 律はその日早速、英語の授業前の休憩時間に、担任教師の元へと向かった。エレン先生の愛称で親しまれている江連永子えづれながこ先生は、おっとりとした雰囲気の優しい女性教師で、生徒からの人気も高い。他の生徒から話しかけられてしまうよりも先に、律は彼女に声をかけた。

「先生、すみません。少しお話できますか」

「あら。どうしたの? 椀田くん」

 江連先生は少し驚いた顔をしてから答えた。普段は泰然として、常に一人で過ごすことが多い優等生の彼が、自ら話しかけてきたのは初めてだった。律は真剣な顔を崩さないまま話を続けた。

「うちのクラスの成谷くんに、英語を教えたいと思っています。ほんの少しでも構わないので、先生にもご助力を仰ぎたいのですが、お時間を頂くことは可能でしょうか」

 律の明瞭な態度に、江連先生はまたも驚いた。担任教師としては、自分のクラスの生徒同士が勉強を教えようとしてくれるのは、存分に嬉しいことだった。律に対してどこか孤独そうな印象を抱いていた彼女には、彼が響介に対し、勉強を教えられるほどの関係であることも喜ばしかった。

「ええ。勿論よ。ホームルームの後でも大丈夫かしら?」

「はい。ありがとうございます」

 まずは第一関門の突破だ。自ら担任教師へ話しかけるなんて、ずいぶんと久しぶりのことだった。律は緊張に胸を高鳴らせながら彼女に頭を下げた。

 律が考えた英語克服作戦は、基礎からやり直す沢根のやり方とは真逆のものだった。そもそも英語は基礎からやり直すには、あまりにも覚えることが多すぎる。反面、期末テストでの出題範囲はほとんど決まっているため、比較的テスト対策はしやすい科目だ。

 まずは目の前の期末テストへの対策に要点を絞り、確実に点数を取れる問題を重点的にこなしていく。それが律の考えた作戦だった。担当教師への協力を仰いだのも、対策範囲をできるだけ絞るためだ。響介の苦手な英語が、彼の担任の担当教科だったのは不幸中の幸いだ。

 律は響介に音楽を教える最中で、彼の地頭の良さにも勘づいていた。響介は少々世間知らずなようだが、一度覚えたことはしっかりとこなせるのだ。英語だって、覚えることが多すぎるために苦手意識を持ってしまっているだけで、的確に範囲を絞れば必ず点数を取れるはずだ。

 律は沸き立つ使命感に強ばる手を、堅く握りしめた。


「そういえば、二人共部活には入っていないのよね?」

 ホームルームの後、江連先生はふと響介と律に尋ねた。共高の部活動は強制ではないものの、部活に入っていた方が進学にも有利に傾くため、帰宅部を選ぶのは少数派だった。

 律は彼女にどう返事をしようか迷ったが、後ろに座っている響介が代わりに声を上げた。

「俺たち、音楽をやってるんです。今はまだ趣味の範囲なんですけど、本気で活動したいって考えてるので、部活をやってる暇がなくて」

 響介は苦笑いをしながら、「流石にテスト勉強は優先してるつもりなんですけど」と付け加えた。音楽にかまけて授業を疎かにしている、という風には思われたくなかった。

 江連先生は照れ臭そうに苦笑する彼の顔と、緊張した様子で強張っている律の顔を交互に見てから、納得した様子で頷いた。

「それなら、音楽も勉強も両方頑張ってもらわないとね。椀田くんから話は聞いていたから、私もこういうのを作ってみたの」

 彼女は二枚のプリント用紙を、二人にそれぞれ手渡した。英語の練習問題がいくつか載っている、問題用紙のようだ。響介は渡された用紙を呆然と眺めていたが、律はその内容に驚いた顔をしていた。

「先生。これ、良いんですか?」

「他の子達には絶対内緒。それも今回限りの特別よ。それから確実に同じ問題が出るわけじゃないから、その点も気をつけてね」

 響介は律の様子から、江連先生がどうやら何か凄いことをしてくれたらしい、ということだけは理解した。

「ありがとうございます、先生!」

 表情を明るくしながら感謝する律を見て、響介も慌てて「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。すると江連先生は響介に向けて、長いまつ毛を重ねるようにして、にっこりと微笑んだ。

「頑張ってね、成谷くん」

 小さなガッツポーズを見せて応援をしてくれた彼女に、響介は思わず心臓が高鳴るのを感じた。声を上擦らせながら返事をすると、江連先生は時間が押しているらしく、頷きながら律の方へと話しかけた。

「それじゃあ後はよろしくね、椀田くん。先生、二人とも応援してるから」

 去り際に彼女は教室のドアの前で振り向いて、二人へ手を振ってみせた。若い女性教師のお茶目な仕草に、響介の鼓動はますます早まった。

 先生が去っていった後、響介は開口一番に律に話しかけた。

「なあ律。江連先生って、すっげー可愛いよな⁉︎」

「はあ⁉︎」

 律は思わず素っ頓狂な声を上げてから、大きくため息をついた。響介は決して不真面目なわけではないが、時折こうして何かに興味を惹かれるあまり、やるべきことを疎かにしてしまうのだ。

「変なこと言ってないで、それよりプリントを見てよ。凄いよ、これ」

 響介はもう一度配られたプリント用紙を見た。一学期期末試験練習問題、と書かれていたが、それの何が凄いことなのか、響介はいまいち考えが及ばなかった。

 首を傾げる響介に、律は念を押した。

「僕、今日の午前の授業のときに先生に声をかけたんだ。今これを配ってくれたってことは、先生、昼休みから放課後までの時間で、わざわざこの問題用紙を作ってくれたんだよ」

「わざわざ⁉︎」

 響介はようやく凄いの意味を理解した。彼女は他にも仕事がある中で、貴重な時間を自分達の──というより、響介のために割いてくれたのだ。彼女の言った“絶対内緒”と、“今回限りの特別”という言葉が身に染みた。

 しかし、そうだと知れば尚のこと、むしろ響介の胸のときめきは増してしまうのだった。『頑張ってね』と笑顔を見せてくれた彼女の顔を思い出し、響介は思わず顔を綻ばせた。


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 結果として、沢根の“基礎から復習作戦”も、律の“テスト対策特化作戦”も、どちらも功を成した。七月の上旬、響介は全ての教科の点数を伸ばし、無事に期末テストを乗り越えることができた──にも関わらず、その日の彼の表情は、あまり喜ばしそうではなかった。

「いつまでしょげてんだよ、成谷」

「だってさぁ……」

 響介はテスト対策成功の打ち上げという名目で、再び沢根に連れられてコーヒー店に訪れていた。隣のカウンター席に座る沢根は“例の白い劇物ドリンク”を飲みながら、肩を落としている響介を笑い飛ばしていた。

 それもそのはずで、響介が期末テストを無事に越えたにも関わらず、浮かない顔をしている理由は、彼からすれば取るに足らないものだったのだ。

「テスト前はしてなかったじゃんか、指輪……」

 響介の発言に沢根は抑えきれず、ついに声を上げて笑ってしまった。「笑うなよぉ」と情けない声を漏らす響介がますます面白くて、沢根は申し訳ないと思いつつも笑うのをやめられなかった。

「だってお前、今時高校生が担任の先生に片思いって……ひひひっ。少女漫画みてえじゃねえか」

「わかってるよ!」

 響介は半ばべそをかきながら答えた。彼はテスト期間の最中、担任の江連先生に対し、淡い想いを抱き続けていたのだ。テストの点が良くなれば、先生に褒めてもらえるだろうか、と下心じみた期待も抱いていた。

 そして答案が返ってきたとき、確かに彼女は響介の期待通り、彼のことを『よく頑張ったね』と愛らしい笑みで褒めてくれたのだ。ただ──答案を手渡したその左手の薬指には、高価そうな指輪が嵌められていた。指輪の意味くらいは、響介にだって瞬時に理解できた。

 響介の儚い好意は、恋にすら成る前に打ち砕かれてしまったのである。

「わかってるって、あんな美人の先生に恋人がいないはずないってことくらい……けど、わかってても落ち込んじまったんだもん。仕方ねーじゃんか」

 響介はせっかく自腹を切ったアイスカフェラテには一切口をつけずに、カウンターに突っ伏してしまった。どうやら思っていたよりも自体は深刻らしい。沢根はようやく笑うのをやめた。

「まあ、その……なんだ、成谷。恋なんてもんはさ、星みてえなもんなんだ。叶わなくたってそのうちまた新しい恋が巡ってくるぜ」

「星みてーなもんって、そりゃ手が届かねーって意味じゃんか。俺は一生片思いばっかすんのかよぉ」

 適当に慰めようとしたが、どうやら彼には逆効果だったらしい。ますます落ち込んでゆく響介は、もう木製のカウンターへとめり込んでいってしまいそうなほど重い気を纏い始めていた。

 その様子には流石の沢根も驚き、彼は甘いフラペチーノは側に置いて、響介の方へと向き直った。

「まぁ、あんまり深く考えるなよ。っつーかそんなに落ち込むって、お前、初恋だったのか?」

「さぁ……どうだったんだろう」

 思いがけない曖昧な返事に、沢根は目を丸くした。しかし続く響介の言葉は、さらに予想外なものだった。

「俺、中学の頃まともに学校通ってなかったんだ。だから恋とか、全然わかんない。こんなにつらくて寂しいなら、俺、もう誰も好きになんかなりたくないよ」

 沢根はかける言葉を失ってしまった。自分も──自分で思うのも何だが──波瀾万丈な人生を送ってきたつもりだったが、響介も相当な苦労をしてきたのだろう。沢根は登校初日に彼に初めて抱いた印象を思い返した。

 あの日、一人だけ初日から遅刻してきた響介は、見るからに明るそうに振る舞っていたものの、どこか他人と違う雰囲気を纏っているように感じたのだ。それが過去の自分に似ているように思えたのかもしれない。

 今更ながら、自分が響介に対して抱いていたものは、友愛というよりは同情だったのだろうか。不意にそんな疑問を抱いてから、沢根は首を横に振った。

「なぁ成谷。失恋だったら、俺も中学の頃にしたことがあるぜ」

 沢根の思わぬ告白に、響介はようやく顔を上げた。

「一番好きだった女の子が、一番嫌いだった奴のことを好きでさ。そのまま付き合っちまったと思ったら、その二人、すぐに別れちまったんだ」

 沢根の話が予想外の方へと向き始めたので、響介は目を見開いて続きを聞き入った。

「今思うと恥でしかねえんだけど、当時の俺……チャンスだって思って、その子の相談に乗ろうと話しかけたんだ」

 響介の頭の中で、中学時代の沢根が、失恋した少女に声をかけるイメージが浮かんできた。気さくで口の上手い彼のことだ、傷ついた女の子も上手く慰められたのだろう。

「そうしたらその子、俺に向かって『彼の代わりに付き合って』って言ったんだよ。それ聞いた瞬間、俺、その子のこと好きじゃなくなっちまった」

 自嘲げに笑って話す沢根に、響介は息をのんだ。

「それが初恋で、あれからずっと恋はしてない。ずっと好きだった子から、付き合ってって言われたのに、その瞬間好きじゃなくなっちまったんだ。それなら俺が今まで好きだったのは、一体誰だったんだろうって思っちまった。それからは恋が何なのか、もうずっとわかんなくなった」

 響介は頭の中で、当時の沢根の気持ちを汲もうと想像を巡らせた。自分の一番好きな子が、自分の一番嫌いな奴の代わりになってほしいと言ったのだ。嫌いな奴の代替にされるなんて、どんなに悔しいことだろう。

 考えているうちに、響介も沢根と同じように、恋が一体何なのか、わからなくなり始めてしまった。

「けど俺……恋はわかんねえけど、愛ならわかるぜ。前にも話しただろ、伯父さんと伯母さんの話」

「あぁ。あの、家族同然だって言ってた……」

 沢根は深く頷いた。そして胸いっぱいに溜め込んでいたものを、ゆっくりと吐き出すように話し始めた。

「俺、伯母さんの妹の子なんだ。他所から知らされるまで、ずっとそのことをわかってなかった。二人とも、俺のことを本当の息子として育ててくれたんだ。そういうのは、愛だと思うんだよ」

 響介は彼の言葉になんと答えていいかわからず、口をぽかんと開けて黙ってしまった。ただ、沢根の言葉は響介の想像よりも重く、心の深くまで突き刺さるように感じられた。

 呆然とする響介に対し、沢根は真摯だった表情を元の軽薄そうな笑みに変え、わざとらしくおどけてみせた。

「悪い。今のは反応に困るよな。つまり俺が言いてえのはさ、“恋と愛は違うもの”ってことなんだよ。愛は不変だ。そして重いもんだ。けどよ、恋なんかは俺だって適当だぜ。だからそんなにくよくよしなくていい、ってコトだ」

 言い終えてから、沢根は頭をかいて「これじゃ、何言いてえのかさっぱりだ」と照れ臭そうに笑って誤魔化した。彼らしくない纏まりに欠けた話だったが、沢根なりに自分を元気付けようとしているという思いは、響介にもしっかりと伝わっていた。

「そうだな。くよくよしても仕方ないよな」

「おう。あと数日もしたら、もう夏休みだ。楽しもうぜ、成谷」

 ウインクしながらフラペチーノを飲み干す沢根に、負けじと響介もカフェラテのストローへ口をつけた。コーヒーの香りとミルクのほのかな甘味が、響介の喉を冷たく潤しながら通っていく。爽やかで香ばしい匂いは、これから訪れる夏への期待を膨らましていくようだった。

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