第4話

 即興演奏というものは、案外不規則なものではなく、むしろコード理論の規則に則った知識や経験が必要なものだ。逆に言えばそれらがなければ、即興演奏が奏者のイメージ通りに奏でられることはないだろう。

 響介と律、二人の即興演奏は、早くも規則から逸れ始めたようだった。昨日の帰り際には『また放課後に』と約束を交わしたはずなのだが、どういうわけか現在二人は昼休みの音楽室に二人して忍びこみ、グランドピアノを囲んで問答を交わすことになっていた。


 話はまた少々遡る。響介はやはり今日も、文武両道ならぬ文音両道について頭を悩ませていた。授業には集中しているものの、勉強について行くのに精一杯で、とてもじゃないが両道を行くような余裕はない。これでは文と音のうち、音の方が遅れていってしまう。彼にとってはむしろ、音楽の方こそが本命のはずなのに、だ。

 思わず昼食中にもため息をついてしまったので、沢根も部長も神絵師も、響介のことを心配した。沢根は得意教科の数学なら「少しの基礎復習くらいは教えられるぜ」と提案してくれたが、響介としてはこれ以上、彼に借りばかりを作ってしまうのは流石に申し訳がなかった。

 なんとかして、一人でも音楽の勉強ができる方法はないだろうか。そう思った彼がとった行動こそが、昼休みに一人で音楽室に忍び込む、という突拍子もない行為だった。

 共高の音楽の授業は、選択教科の一つである。そして一学年で選択教科が始まるのは、五月以降のことだった。もちろん響介は選択教科も音楽を選ぶつもりでいたが、正直なところ彼は、学校の授業で学ぶ音楽に、ロックや電子音楽といった大衆ジャンルの参考になるものは期待できないと思っていた。その上選択教科の一つという括りの程度では、音大への進学に挑めるほどの内容を、授業だけで賄うのは無理があるだろう。とはいえ、成谷家には音楽講師を雇うような金銭の余裕もない。

 そこで自主学習という名目で、音楽室に何か参考になるものがないか、試しに覗いてみようと思った次第だった。廃部になってしまったとはいえ、共高の過去に有名バンドを輩出した軽音楽部があったことは事実だ。何かしらの資料は残されているかもしれない。

 そう思ってこっそり教室を抜け出して、十分ほど辺りを探したところだったが、残念ながら響介の期待しているものが見つかりそうな気配はなかった。

「んー……なんもねえなー……」

 おもむろに独り言を発しながら、響介は資料棚の楽譜本を手当たり次第に手にとってみたり、鍵のしまっている倉庫室をドアの窓から覗き込んでみたり、果てには壁にかかったクラシック作家の肖像画を、順に眺めていったりなどの悪あがきをしていた。

 そうこうしているうちに時間は過ぎていく。結局何の成果も得られそうにないので、響介は不意に、楽器でも触って帰ろうか、などと思い当たった。黒板の近くに置かれている、響介が十人ほどは入れそうな大きさのグランドピアノへと手を伸ばす。

 裏地の赤い、艶やかな光沢のあるピアノカバーへと手をかけた、その時だった。

「勝手にピアノに触るのは良くないよ」

「うわっ⁉︎」

 振り向くと、入り口には昨日握手を交わして名を知ったばかりの、暗灰色の髪の少年が立っていた。

「な、なんだ律か……いつから居たんだよ?」

「『なんもねえなー』とか、独り言を言ってたあたりから」

 律は平然とそう答えたので、響介は素直に驚いた。

「結構前から居たな⁉︎ なんで黙ってたんだよ……全然気配が無かったぞ、忍者かお前?」

「別に僕のことはいいでしょ」

 いいわけがあるか。先日の放課後だって、そうして律に気配を消されたから、自分は教室に誰もいないものだと思ってあんな熱唱をしてしまったのだ。そう言いたい響介を尻目に、律は目線を彼の顔から手元の方へと移した。

「それよりピアノ。繊細な楽器だから、素人が下手に触ると良くないよ」

「そうなのか?」

 響介の疑問に、律はどう答えたものかと一瞬首を傾げ、

「二百万円」

 と簡素に金額を述べた。

「にっ、二百万円⁉︎」

 響介は仰天し、カバーをつまんでいた手を慌てて離すと、グランドピアノから飛び退く勢いで離れた。

「うん。学校にあるグランドピアノなら、大体そのくらいの金額だと思う。だから傷なんか付けたら大変だよ」

 無人の教室に、こんなに堂々と置いてある“普通のグランドピアノ”が、二百万円もするというのだ。成谷家の年収と同じくらい──ということはさておき、響介には、小学校の頃から当たり前のように見知っていたこの楽器が、突如として高価な黒い宝石のように見え始めた。

「そんなにすんのかよ、ピアノって……俺のギターなんか五千円で買ったんだぞ」

 響介は小学生の頃に、少ない小遣いをコツコツと貯めて買った、愛用の中古プラスチック製ギターのことを思い返していた。単純計算で、あのギターの四百倍の値段だ。四百倍という大きすぎる数字に、却って響介の価値観は麻痺してしまうようだった。もう、それがどれだけ高価なのかすらわからない。

「随分と安いギターだね。というか、響介ってギターが弾けるんだ?」

 随分と安いギターという言い回しに、響介は僅かな苛立ちを感じた。しかし軽易で安直な響介も、そろそろこの口下手な少年は、ただ言葉選びが上手くないだけだということを学習し始めていた。苛立ちはそっと飲み込んだ。

「まあ、独学なんだけどさ。楽譜も殆ど読めないし……だから音楽室に、軽音楽部の資料とか残ってねーかなって思って……」

 なるほど。律は首を大きく頷かせ、ようやく彼の突拍子もない行動の理由を理解した。

「軽音楽部の資料は……多分残ってないんじゃないかな。先輩が問題を起こしたって理由で、廃部になったらしいって聞いたから」

 噂をかじった程度だけど、と律は補足したが、響介はむしろようやく腑に落ちた様子だった。

「あぁ……そりゃ通りでなんもねえはずだ」

 そんな理由なら、確かに軽音楽部の資料が一つも残っておらず、楽器もみんな他校へ引き渡されてしまったわけが理解できる。ロックという音楽ジャンルは、悲しいことにこの令和という時代ですら、未だに素行の悪いものとして扱われているのだろうか。

 響介はまた、本日何度目かもわからないため息をついてしまった。ため息をつくと幸せが逃げるというらしいが、それなら幸せが逃げたことにがっかりして、またため息をついてしまい、これでは無限に幸せを逃し続けることになりそうだと思った。

 一方律の方は未だにピアノが気になるのか、響介が離れた後でも、その視線はグランドピアノのほうへと向いていた。響介はふと、そういえばそれまで黙っていた律が、急に自分に話しかけてきたきっかけも『ピアノに触らない方がいい』という注意だったことを思い出した。

 彼は何か、ピアノに特別な思い入れでもあるのだろうか。響介はため息と不幸の無限循環は一先ず置いて、律の方へと気を向けた。

「律。ピアノが気になるのか?」

「えっ? あぁ……」

 どうやら彼の方も、ピアノに視線を向けていたことに自覚がなかったらしい。律は呆然としていた表情を正して、目を響介の方へ移した。

「別に……それより響介、さっきどうしてピアノを触っていたの?」

「えっ、俺?」

 質問に対して質問が返ってきたので、響介は戸惑った。先日の放課後からずっと思っていたが、どうにも律は会話のキャッチボールという行為が苦手らしい。響介は仕方なく答えた。

「いや、鍵盤ってどんなもんかなって思って」

「鍵盤?」

「うん、鍵盤。なんかあの、エレ……なんとかって音楽? 鍵盤の楽器を使うんじゃなかったっけ?」

「もしかして、エレクトロニックのこと?」

 あぁそれだ、と響介が手を叩いて頷くと、どういうわけか律は呆れた様子で頭をかき始めた。

 響介の頭の中では、電子の音といえばキーボードの印象で、キーボードといえば鍵盤、という繋がりになっていた。彼は先日沢根から教わったばかりの、あの電子の世界のオーケストラを、無意識に思い出すほど脳裏に焼き付けていたのだ。

 一方律は、この困惑を響介にどう説明しようか、顔を仰がせて思案していた。

「エレクトロニックミュージックに、普通グランドピアノは使わないと思うけど……もしかして、シンセサイザーや電子オルガンあたりを混同してない? アップライトピアノを見間違えるならまだしも……」

「シン……? アップラ……?」

 新たに現れたカタカナ言葉に、響介は余計に混乱してしまったようだった。彼にはシンセサイザーが、一体何なのかから説明しないとならないのだろうか。そもそもこの様子だと、電子ピアノの回路による発音方法と、アコースティックピアノの打弦の振動による発音方法の、根本的な違いから説明しないといけなさそうだ。

 律は再び、どうしたものかと音楽室の天井を仰ぐことになった。均等に小さな穴が点々と空いた有孔ボードの天井が、まるで囲碁盤の星のように見えてきたところだった。

「なぁ律。やけに詳しいけど……もしかしてお前、そのシン……なんとかってやつ、弾けたりするのか?」

 考えあぐねていた律に、響介のほうから声がかかった。

「まあ……嗜む程度に」

 ぼんやりとそう答える律に対して、響介の反応は仰々しいものだった。

「マジで⁉︎ 弾けんの⁉︎ すげえな、弾いてみてくれよ!」

「ちょ、ちょっと待って、はしゃぎすぎだよ。そもそも普通科の学校の音楽室に、シンセサイザーなんて置いてないから」

 律はいきなり詰め寄ってきた響介に、背中を逸らして慄きながらも指摘した。

「あー、それもそうか……。あっ、じゃあそこのピアノは?」

 さっき違うものだと言ったばかりのグランドピアノを指差され、律はもう目眩がするようだった。思わず頭を抱えると、響介は慌てた様子で発言を捕捉し始めた。

「いや、そうじゃなくて。さすがに俺だって、もうコレとシン……なんたらが、別の楽器だっていうのはわかったぜ? でも何だかお前って、ピアノのこと好きそうだなって思ってさ」

「……好きそう?」

 響介の言葉で、律の心中にどきりと緊張が走った。確かに律は、ピアノが好きだった。けれどそれは過去の話だ。

 律が他人の前でピアノを──ましてやグランドピアノなんて大それた楽器を弾いたのは、あの乱にも満たない失態の舞台が最後だった。電子歌姫の作曲をしていたときには、自宅のアップライトピアノを何度か弾いていたこともあるが、それは自分一人しかいない空間でのことだった。

 果たして、自分は今でもピアノが好きなのだろうか。古傷を引っ張られたような感覚に、律の表情はわずかに歪んだ。

「あれ……違うのか? さっきはピアノのこと、大事そうみたいな言い方してたから、てっきり好きなんだと思ったんだけど」

 律は再び返答に迷った。ピアノのことを、『好きだ』と言ってもいいのか、『昔は好きだった』と言うべきか、いっそ『わからない』と答えてしまおうか、彼の頭の中では天秤がゆらゆらと揺れ続けていた。

 響介は律儀にもそんな律を急かすことはせず、却って真剣な顔をして彼の返事を待っていた。まるでもう、律の答えは決まっているのを既に知っていて、あとはそれが出てくるのを待っているかのようだった。

「僕は──」

 しかし律が答えを出すよりも先に、昼休みの終わりを告げる鐘の音が、彼の小さな声をかき消してしまった。

「……戻ろう、響介」

「えっ? お、おう」

 さっさと音楽室を出て行ってしまった律の背を、響介は当惑しながら追っていった。


 午後の授業は、不思議と午前の授業よりも身に入ってくるように感じられた。響介にとって、唯一の得意分野とも言える現代文の授業だったからかもしれない。ただし得意分野といえど、共高の平均学力の中で言えば、響介はそれでも中の下という程度だった。

 放課後、響介は苦手な英語の復習をしながら、他の生徒の帰りを待った。新しく学んだ英単語を、受験勉強の頃から愛用し続けている赤い透明下敷きで隠し、何度も覚え直す。やはり英語は苦手だ。単語とその意味がなかなか結び付かず、頭の中に入ってきてくれない。

 英単語が入ってこない頭の中で、響介は律のことを考えていた。今日は何故か急に昼休みに会うことになってしまったが、昨日の約束の通りなら、彼はまた放課後に教室に残るだろうと踏んでいた。先に帰宅していく沢根達へと手を振り交わし、他のクラスメイトも続いて教室を出ていくのを見届ける。

 そうして徐々に静かになっていく教室の中心で、響介は後ろの席へと目をやった。今日の博識少年──改め律は、いつもの読書をする代わりに、ノートへと顔を伏せ、何やら書き留めているようだった。

 また自分から声をかけようか、と思ったが、響介はふと、こちらからは律に対して話すネタがないということに気がついた。昨日は自分本位の勢いで、彼に突っ込んでいくような気持ちで話しかけたが、今日の放課後はわけが違う。彼はもう、響介に対して火傷をつけるような、忌々しい人形少年なんかではないのだ。

 考えを巡らせていくうちに、響介は律のことを、文字通り何も知らないと思い至った。彼は暗灰色の髪と整った顔立ちをしていて、いつも一人で過ごしており、放課後に居残るほど読書が好きで、音楽にも詳しい。しかし、彼について知っていることといえば、それだけだった。

 彼は一体何が好きで、どんなことを好むのだろう。響介からすると、律はそういった自分自身のことを、まるで隠しているように見えるのだ。昨日手を握り交わした後は、確かに人らしい笑顔を見せてくれたものの、昼休みの跡を濁した会話といい、未だ彼は響介に心を開いてはくれていないようだ。

 もう人形ではなくなった彼に、人として接するのなら、今はなんと話しかけるべきなのだろうか。熱心にシャープペンシルを握っている律に対し、響介はただ呆然と視線を向けていた。集中しているのなら、こちらから話しかけるのも悪いだろうか。昨日までの響介の遠慮のなさは、彼が人形ではなかったと理解した時点で無くなっていた。

 するとノートをとり終わったらしい律が、机の上を片付けながら顔を上げた。

「……響介」

 律の方から名前を呼ばれて、響介は不意打ちをかけられたように「えっ」だの「あぁ、うん」だのと言葉を詰まらせた。

「どうしたの、急に慌てたりして」

 対する律は、今日も変わらず平然としている。

「いや、どうもしてないけど、なんとなく……」

 文字通り、なんとなく気まずさを感じている響介に、律の方は却って調子がいいようだった。何故か憑き物が落ちたような、さっぱりとした顔をして、律は微笑んだ。

「約束、覚えていてくれたんだ」

 昨日のことだ。「そりゃ、俺から言ったもんな」響介は当然のように答えたが、その一方で互いに約束を覚えていたことに安堵した。

「響介。行きたいところがあるんだけど、着いてきてくれない?」

「行きたいところ?」

 律は腹を括った様子で、そう宣言した。彼がこんなに堂々として、自分から何かを成そうとするところを見るのは、初めてだった。




 窓の向こうのグラウンドから、吹奏楽部が練習をしているのだろう、管楽器達のざわめきが聞こえてくる。白い廊下にそっと赤い陽が差す中を、二人は並んで影を伸ばしながら歩いていた。靴底が床のビニルタイルをコツコツと鳴らす音が、淡々と響いている。静かだった。

 響介は前を泰然と歩き続ける律の背を、漠然と眺めながらついて行っていた。そのうち律は廊下を曲がりきり、階段を上へと歩み始めたので、響介も彼に習って登り始めた。このまま上の階を目指すなら、恐らく律が向かっている場所は音楽室だ。

 どうして放課後に音楽室へ向かっているのか、響介は律に尋ねようかと思った。しかしその疑問が口から出る前に、それよりも先にもっと聞きたい事が思い浮かんだ。

「なぁ、律。さっきのノートは何を書いていたんだ?」

 先程彼は、いつもの読書ではなく、ノートに何かを書いていた。彼が常に読書ばかりをしているような人物でなければ、そんなことを疑問には思わなかったのだが。響介にはなぜか、律が放課後にノートをとるという行動が、意外なものに思えたのだ。

「日記だよ」

 そしてやはり、意外な答えが返ってきた。勉強の予習や復習などではなく、日記をつけていたのだという。

 律は続けて話し始めた。その声はやはり平然としていたが、その一方で、どこか気を張っているようにも聞こえた。

「いつもは帰宅してから書いているんだけど……今日は先に書いておいたんだ」

 響介は彼の身の上話になんと返せばいいか思い浮かばず、結局二人は黙ったまま音楽室へとたどり着いた。律が言うには、吹奏楽部は週に一回グラウンドで練習をするため、その日は放課後の音楽室が空くのだという。そう淡白に述べて音楽室へと入っていく律に、響介は昼間には感じなかった緊張感をおぼえた。

 そして律はそのまま真っ直ぐに、あの高価な黒宝石の楽器へと手を伸ばした。

「触らないほうが良いんじゃなかったのか?」

「そうだね。だから内緒だよ」

 思わず指摘した響介の方へ向けて、わざとらしく口角を上げてみせた律は、なんだかいたずらをする子供のような顔をしていた。しかし無邪気そうなその笑みは、ピアノカバーをめくり、椅子へ座って鍵盤蓋を開ける頃には、まるでこれから強大な敵へ立ち向かおうとしている戦士のように、張り詰めた表情へと変わっていた。

「響介」

 ピアノを真剣に見つめる律に名前を呼ばれ、思わず響介も背筋を伸ばした。律の指先は、もう今すぐにでもピアノを弾こうとする姿勢で、鍵盤へと触れていた。

「昼休みの質問、まだ答えてなかったよね」

「ピアノが弾けるか、ってことか?」

「ううん。そうだけど……そっちじゃない」

 そっちじゃないというのは、一体何のことなのだろうか。響介が疑問を浮かべると同時に、律は手を動かし始めた。

 ピアノの音が響き始めた──そう思った瞬間、律の手は、凄まじい速さと勢いで、洗練された旋律を奏で始めた。

 響介は知らなかった。あの博士のように冷静で、顕学で、平然としていた律が、ピアノという楽器を手にした途端に、敵を圧する義侠の士のような顔つきになったのだ。しかし彼は猛々しい顔をして、その指さばきは大胆かつ繊細であった。

 奏でられている楽曲に、響介は聞き覚えがあった。曲名まではわからないが、有名なクラシックの曲だ。右手は怒り、唸るような主旋律を力強く放ち、一方で左手は高速のアルペジオを、悲しみをたたえるように流していく。

 憤怒と悲哀、対になる感情が苦心の中で調和し、響き合い、旋律となって音楽室じゅうを満たしていく。響介は律の“革命”が、まるで響介の根本を変革するように打ち付けてくるのを感じた。

 革命はやがて色を変えていく。ピアノが葛藤しているかのように、旋律は切なげに力を弱め、かと思えばまた激しさを増し、奮闘する。そうして喘ぐピアノを鳴らしている律の横顔もまた、何かと闘っているかのごとく表情を歪ませていた。

 響介はまるで律のその顔が、病魔に侵され、死の淵で苦しみ喘いでいるかのように見えた。熱だ。あの日、仮想の世界で聴いた“死んでしまったピアノ”が、目の前の現実へと蘇ってきたのだ──あの熱と同じものが、律の指先の一本づつにまで込められていた。

 雪崩れるように両手のユニゾンが下降し、革命は重々しく終止した。僅か二分弱の短い曲だったが、律の技巧が響介を圧倒するには十分だった。響介は拍手や歓声を送ることすら忘れ、ただ呆然と打ちのめされていた。

 暫くして、鍵盤に触れたまま肩を上下させていた律が、ふうとため息をついてピアノから手を離した。演奏を終えた律の方もまた、椅子に腰をかけたまま、呆然としているようだった。

「……やっぱり、好きだったんじゃないか。ピアノ……」

 ようやく響介の口から出た感想は、能ある鷹の隠し持っていた爪を突きつけられ、慄きのあまり簡素なものになってしまった。

 しかし響介の言葉に、律は噛み締めるように笑みをみせた。むしろ彼がそう言うのを、待っていたかのようだった。

「うん……“やっぱり”好きだったんだ、ピアノ」

「どうして、そんなに凄いのに隠してたんだよ。好きなんてどころじゃない……お前、プロのピアニストみたいじゃないか」

 目を丸くしながら褒め言葉を捻り出す響介に、律は苦笑した。響介は彼の苦笑いを見て、「まさか本当にピアニストだったのか?」と疑いかけた。律は彼の発想が見当違いの方向へ行ってしまったのが、尚のことおかしく感じられた。

「まさか。プロなんて凄いものじゃないよ。僕はただ、ちょっとピアノが好きなだけなんだ」

 自分でそう言いながら、思わず笑いが込み上げてきてしまった。律は間違いなく、ピアノが──音楽が好きだった。

 しかし対する響介は、却って意気消沈してしまったようだった。

「そんな……お前みたいな凄い奴が、ただちょっと好きなだけ、なんて……」

 今度は焼き焦がされるどころでは済まなかった。響介はもう、音楽という世界の果てのなさを目の当たりにして、すっかり怯えきっていた。これ程までの技巧を持つ文音両道の者でさえ、『ただちょっと好きなだけ』だというのだ。

 井の中の蛙だった響介の前に、急に大海が広がった。こんな大海原を、ちっぽけな蛙が泳ぎきれるだろうか。彼の心中を、不安がせめごうとしたその時だった。

「響介。凄いのは君の方だよ」

「えっ?」

 予想だにしなかった律の言葉に、響介は顔を上げた。律はとてもじゃないが、冗談を言っているような表情をしてはいなかった。先程までの笑みは消え失せ、彼は真っ直ぐに響介を見つめていた。


---


 四月十三日(木)天気/晴れ

 僕は世の中をすっかり知ったような気でいて、実際は何も知らなかった。最近、ようやく自身のそういった、不知案内さに気づくようになった。特に人というのは、不思議だ。みんなが似ているように見えて、実際はみんながバラバラだ。僕はどうやら、人というものを何か勘違いしていたらしい。

 成谷君を初めて見たとき、僕は彼を変な人物だと思った。恐らく他の誰もが忌み嫌うであろう僕に、あれ程積極的に接してきたのは、彼が初めてだったからだ。昼間に一人で音楽室へ忍び込んでいくのを見かけたときも、やっぱり彼はどこか他人と違う、変な人物なんだろうと思っていた。

 けれど、彼と音楽室で話しているうちに、一つ確実にわかったことがある。彼は、純粋に音楽が好きだということだ。ただひたすらに音楽を求めて、没頭している。だから彼にとって、僕が少し他人より嫌なやつだってことなんかは、ほんの些細なことにすぎないのだろう。

 成谷君の純真爛漫なまでの情熱は、やはり憧れに値する。僕が今、こうして彼に好意を抱いているのは、彼の青々とした熱意へ対する敬意からだ。彼は確かに少し、変な人かもしれない。けれど名を残してきたアーティストは皆、人と少しずれているものだ。それは変というより、優れている、というべきだろう。

 そんな彼に、今日僕は「ピアノが好きか」と聞かれた。僕はその質問に答えることができなかった。人前で弾くことができなくなった僕に、まだピアノが好きだと言う権利があるのかが、わからなかったからだ。

 昼休みからずっと、そのことについて考えていた。散々迷ったけれど、やっぱり僕は、ピアノが好きだと言いたい。人前で弾くのは、まだ怖い。だけど成谷君の存在は、もしかしたら神様が僕に遣わしてくださった、千載一遇の機会かもしれない。もしかしたら、これが最後かもしれない。

 もう一度だけ、あの革命に挑もうと思う。

 少しでも良い。僕は、成谷君に近づきたい。


---


「俺が凄いって、どこがなんだ……?」

 俺なんか、と続けようとした瞬間、律は激しい剣幕で響介の言葉を遮った。

「君のおかげなんだ!」

 何がだ、と響介が尋ねる前に、律は矢継ぎ早に話を続けた。

「僕は、小学校の頃からずっと……人の前ではピアノが弾けなかったんだ。失敗して、失望されるのが怖くて、自分一人でいるときにしか演奏できなかった。けれど今日、たった今、君の前でピアノが弾けたんだ」

 律は何故か切羽詰まったように顔を赤くして、涙を堪えるように瞳を潤ませていた。響介はもう、何も言えずに彼の話を聞く外なかった。

「響介……一昨日の放課後、君の歌を聴いたとき、凄いって思ったんだ。君の歌は上手かった。けれどそれ以上に、熱意を感じたんだ。音楽が、本気で好きだって……ただ好きで、好きなことを頑張れるって、凄いことなんだ。僕にはそれが……」

 律は言葉を詰まらせ始めた。話しながら、今の自分の気持ちを、一体どんな言葉で表せばいいのかがわからなくなってきていた。何を彼にどう伝えれば良いのか、頭の中がこんがらがって、今話していることが自分の本意なのかすら、だんだんあやふやになってきていた。

「だから、僕ももう一度、ピアノが弾きたくなって……君の歌みたいに、音楽が……それで……」

 響介は答えられなかった。律自身にも、もう自分が何を言いたいのかがわからないのだ。響介には答えようがなかった。

 律はやっぱり、自分は話すのが下手だと痛感した。話せば話すほど、むしろ彼からは遠ざかってしまう気がして、律は徐々に恐怖を感じ始めた。

「……ごめん、響介。僕は……君を傷つけたかったわけじゃないんだ……」

 鍵盤蓋を閉じ、ピアノカバーを元に戻しながら、律はゆっくりと、消沈した様子でそう言った。そのまま彼は席を立ち、ピアノ椅子をそっと元の位置へ戻した。

 それから律は、自分の鞄を手にとると、まるで足音をほとんど立てずに、空気が流れるように響介の横を通っていった。

「もう、帰るよ……ごめんね、付き合ってくれてありがとう」

 律が罪悪感に小さく背を丸めて、音楽室を後にしようとしたときだった。

「待ってくれ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出て、響介は心臓を激しく鼓動させながら、考えるよりも先に手を伸ばしていた。

 掴んだ律の手は、昨日よりずっと冷えてしまっているようだった。響介のほうが、焦りからもっと熱くなっていたのかもしれない。

「律。俺、お前と一緒に音楽がしたい!」

 響介はもう、頭では考えず、心から直接言葉を吐き出すようにそう言った。計画性なんてまるでなく、律がどう返すかなんて、考えてすらいない発言だった。ただ、このまま悲しそうに帰宅しようとする彼を、引き留めたい一心だった。

 律は目を見開いた。彼と一緒に? 音楽を?──もちろん、答えなんて出てこなかった。応えるのも、断るのも、律のちっぽけな勇気では、すぐには決断できなかった。

 しばらく経ってから、ようやく律から発せられた返事は、ひどく小さく短いものだった。

「……明日」

 律は、臆病だった。『明日までに考えてくる』、そう答えを先延ばすだけでも、その一言すら上手く言えなかった。

 けれど響介には伝わっていた。瞳を震わせて、ただ『明日』とだけ呟いた律に、響介は笑って応えた。

「また明日、な。放課後じゃなくてもいいぜ。なんなら明日じゃなくてもいい。いつだっていいからさ」

 夕焼けに染まった赤い音楽室の中で、金色の瞳は爛々と輝いていた。流れて逃げていこうとする律に対し、響介のアドリブは必死について行こうとしていた。

「だからさ。もう、ごめんなんて言うなよ」

 律は、握られた手から、全身が暖まっていくのを感じた。


 その晩、律は不思議な夢を見た。

 無人の舞台の壇上で、自分はグランドピアノの前に座っている。そこまでは見慣れた光景だった。観客席には誰もおらず、一人ぽつんと律だけが座っている無音の舞台。幼少期の、あの失態の後から繰り返し見てきた夢だ。この後の展開だって知っている。

 律はグランドピアノの鍵盤を一つ叩いてみた。しかし重い鍵が落ちる手応えこそあるものの、ピアノの音が鳴ることはなかった。

 無人の舞台と、音の鳴らないピアノ。これはきっと、音楽の世界への未練が見せている悪夢なのだろう。律はこれが夢であることを知っていた。いわゆる明晰夢というものだ。

 明晰夢は眠りが浅いときに見るものだ。もうすぐ自分はこの夢から覚めるだろう。あとはこの、未練がましい無音の舞台から降りるだけだ。律は椅子から立ち、舞台裏へと戻ろうとした。

 しかし、今日の舞台はいつもの悪夢とは違うようだった。舞台裏へ続くカーテンの裏に、小さくて毛深い生き物が、こぢんまりと座ってこちらを見ていたのだ。子犬だ。柔らかそうな赤い毛に覆われた子犬が、金色のつぶらな瞳で律のことを見ているのだ。

 律がそれでも舞台裏へと戻ろうとすると、子犬は彼の元へとやってきて、足元にすり寄るようにしてじゃれつきはじめた。律は子犬を踏まないように足を止める。無音だった舞台に、子犬がきゃんきゃんと吠える声が響き渡った。

 子犬はそのうち律のズボンの裾を噛んで、まるで急かすようにピアノの方へと引っ張り始めた。ピアノを弾けとでも言っているかのようだった。

「だめだよ。そのピアノは音が鳴らないんだ」

 しかし子犬はまるで律の話を聞かず、ついには唸りながら歯を食いしばり始めたので、律はズボンの裾が破られてしまう前にピアノの方へと戻ることにした。子犬は律がもう一度ピアノ椅子へ座るのを見届けると、満足そうに“おすわり”をしてみせた。賢い子犬だ。

 律はため息をつきながら、鳴らないピアノを適当に弾くふりをしてみせた。やはりピアノの音は聞こえない。しかしそれでも子犬の方は、律がピアノを弾くのを見るのが嬉しいらしく、おすわりをやめてはしゃぎ始めた。

 子犬は跳ねたり駆けたり戻ったりしながら、そのうち興奮し始めたのか、自分の尻尾を追い回してくるくると回り始めた。くるくる、くるくる、と回り続ける子犬は、律にはなんだか楽しそうに見えた。そういえば、こんな光景にぴったりの曲があったはずだ。

 律の敬愛してやまない、ピアノの詩人──フレデリック・ショパンは、恋人の愛犬が回って遊ぶのを、規則的なリズムを繰り返すワルツに例えた。律は音の鳴らないピアノで、あの曲を弾こう、と思った。

 そう思った途端、今まで音がしなかったピアノから、急に子犬のワルツのメロディが鳴り始めた。夢にしても、鳴らなかったピアノが突然鳴り始めたのだ。やはり不思議な夢だった。

 子犬はワルツに合わせて、時折ワンと吠えながら、楽しそうに回り続けている。律も子犬に負けじと鍵盤を弾いた。子犬のワルツは、律が力を込めれば激しい調になり、律が気を抜けば軽やかな調になった。鳴らなかったはずのピアノが、律の思うがまま自由自在に音を奏で始めた。

 気づけば律は夢中になってピアノを弾いていた。これは夢の中だとわかっているが、それでも自分が思うよりも、ピアノがずっと上手く弾けるのが、楽しくて仕方がなかった。

 横をちらりと見やると、子犬はまだまだ回り続けているようだった。目が回らないのだろうか、と思いかけたが、子犬の楽しそうな様子にそんな野暮な疑問はふっと消えていった。

 無人だった舞台で、一人と一匹は飽きるまで奏で続けた。久々に、楽しい夢を見た──そうだ、音楽は楽しいのだ。目を覚ました翌日、律は愉快な気持ちを胸に、朝から手紙をしたためた。

 その後、一人普段よりも早い時間に登校し、まだ誰もいない教室の、中央の席の机の中へ、こっそり手紙を入れに向かった。“うっか成谷くん”が、手紙に気づかず捨ててしまう、なんてことにならなければいいが。そうなったらなったで、彼になら直接言えばいい、と思った。

 手紙を机の中へと忍ばせた後、律はふと気持ちが軽やかになっていくのを感じた。


---


 響介へ

 昼休みに、また音楽室で待っています。僕もピアノを弾くので、君の歌をもう一度聴かせてください。

 律より


 PS.昨晩、夢の中に君が出てきました。犬でした。

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