第3話

「一昨日は悪かった、成谷! 俺も遅刻したら罰掃除なんて校則があるって、知らなかったんだ」

 響介が登校するやいなや、沢根はいかにも切迫した様子で、開口一番にそう言った。わざわざ手まで合わせて、真摯すぎる謝罪に響介は却って唖然とした。

「別に、沢根が悪いわけじゃないだろ。俺がうっかりだったのは……その、事実なわけだし」

 響介は弱ったような顔で答えた。そんな彼の気落ちした様子を見て、沢根は気を逸らすようにつんと顎を上げてみせた。

「そもそも、遅刻したくらいで罰掃除なんて校則があるのが古いんだよ。清掃の時間があるのに二度も掃除なんかさせやがって、全く時間の無駄だぜ。次に遅刻しないための反省文とかを書かされるほうが、まだ有意義じゃねえか。なぁ、成谷。俺が悪くないならお前も悪くないぜ」

 沢根らしい切れの良い励ましに、響介の落ち込んだ気持ちも僅かに上向いた。しかし正直なところ響介本人は、反省文を書かされるくらいなら、罰掃除のほうがいくらかマシだと思っていた。

 彼は長い文章を書くのが苦手だった。思わず中学の頃、夏休みの宿題で、読書感想文が最後まで残ってしまった苦い思い出が脳裏を過ぎる。勉強は苦手だ。そもそも響介は頭があまり良くないのか、どの教科も得意とは言い難い浅学さだった。彼にとって唯一自信が持てることは、音楽への情熱だけだった。

 そうしてふと響介の心の中で、まるで火傷痕が疼くような感覚がした。昨日の人形少年のことだ。あの暗灰色の髪の少年は、それこそ実際に、海の向こうの世界も見てきたかのような博識さだった。一日が経ったにも関わらず、彼に口論で負けた響介の悔しさが消えることはなかった。

「ありがとう、沢根。お前って、話をするのが上手いよな」

 響介は本心からそう思っていた。あの人形少年は相当賢かったが、沢根の口ぶりもまた、徒ならない様相を放っているのだ。電子音楽を勧めてきたことといい、彼は響介の知らない多くを知っている。人形少年との違いは、沢根は響介の味方だということだ。

「いやいや。上手いは上手いでも、俺みたいなのは“口先”が上手いって言うんだぜ」

 皮肉めいた自虐を、さも可笑しそうにウインクしてみせる彼のことは、やはり一枚上手だと感じざるを得なかった。


 昼食の後、響介は廊下側後方の席へとこっそり目を向けた。人形少年は、今日は太宰治ではない、別の本を読んでいるようだった。思い返せば確か、今朝の登校直後も彼は本を読んでいたはずだ。どうやらあの人形少年の博識さは、絶えざる読書の賜物らしい。

 響介はそれなら自分も本を読んでみようか、と一瞬思いかけたが、それではやはりあの少年を真似するようで癪だと思い直した。

「なぁ成谷、聞いてるか?」

「えっ?」

 低い声で不意に話しかけられ、響介は驚いて前を向いた。昼食の時間から席をくっつけていた沢根が、何やら釈然としなさそうな苦笑いを浮かべていたので、響介は慌てて謝罪した。

「ごめん沢根、聞いてなかった」

「いいぜ。それよりさ、夏休みだよ」

 沢根は首を横に振ると、さっきまでの苦虫を噛んだような苦笑は振り落としたように、いつもの浮ついた笑みを見せた。

「ちょっと気が早いけど、特に予定が無いなら、この前言ったバイトの話をしようかと思ってさ」

 先日聞いていた、夏休みの短期間アルバイトの話だ。沢根曰く、彼の伯父の知り合いが観光地で経営している飲食店の、泊まり込み給仕の募集らしい。

「伯父さんの知り合いの店だからさ、できれば早めに決まると有り難いんだ。あそこ、繁忙期はいつもあり得ないくらい混雑するから、毎年人手不足なんだよ」

「なるほど。それで収入がいいぶん死ぬほど忙しいバイト、ってわけだ」

「成谷としても収入は高い方が良いだろ? 音楽やるならどっちにしろ、金は要るわけだしさ」

 沢根の指摘は鋭い。金銭面のことは、今しがた響介の前に立ちはだかっている、大きな課題だった。「お節介かもしれないけど」と前置きをしてから、沢根は続けた。

「成谷、共高で休みにバイトなんかできるのは、一年のうちだけだぜ」

「えっ、そうなのか?」

 沢根は飄々とした態度をやめ、いかにも真摯そうに表情を強張らせて言った。張り詰めた空気に、響介は思わず背筋が伸びるように感じた。

「二年からはすぐ受験勉強が始まるからな。授業スケジュールも他所の高校より早いんだ。稼ぐなら一年のうちだぜ。それと……」

「それと?」

 響介は天敵を前にした鼠のごとく固まって、沢根の話に耳をそばだてた。

「音楽のこともだ。もし音大に進学するつもりなら、今年中に腹を括った方が良いぜ。それこそ、共高からの転学も視野に入れるぐらいの覚悟が必要だ」

 まるで心の隙間を猛風が吹き抜けていくような言葉だった。進学の予定のことなど、響介はまだ考えていなかった。それと同時に入学して数日しか経たないのにも関わらず、ただ隣の席の友人という間柄の響介のことを、先のことまで案じていた沢根にも驚きを感じた。

「この前俺、成谷に電子音楽を勧めただろ? ああいうネットを用いた手段もあるけど、正直あれでプロデビューを目指せるのは余程センスのある奴だけだ。音楽の道なら他の手もあるぜ。例えば一つの楽器を極めて演奏家、または声楽を極めてボーカリスト、って道もある。バンドはレーベルにさえ入れれば、それからでも拾ってもらえる可能性がある。どちらにせよ本気で一つを極めるなら、音大だ。けど、音大を目指すのはリスクも高いぜ」

 賭けで例えるなら大穴狙いだ、と沢根は続けた。確かに音楽専門科というのは、普通科と比べて圧倒的に就職率が低く、堅実的、もとい現実的とは言い難い。その上そもそも音大の入試に挑むような人物は、幼少期から音楽のみに振り切ってきたような猛者たちばかりであり、そこには入学することすら至難の域だ。

 そのことは響介も知っていた。いや、むしろその現実を知っていたからこそ、今まで響介は音楽の道へと踏み切れずにいたのだ。

 ましてや成谷家は母子家庭だ。普通科ですら大学へ進学できるか危うい状況なのに、音大だなんて、奨学金を借りたとしても足りるかどうか怪しいところだ。もしも入試に落ちて、浪人または高卒なんてことになってしまったら? たとえ入学できたとしても、就職活動が上手くいかなかったら? 母さんはどうなるだろう──響介の脳裏を、嫌な想像が過ぎっていった。

 母のことを思うと、胸が苦しくなる。実は響介は、今の今まで、母に音楽の道へ進みたいという気持ちを打ち明けられずにいたのだ。共高への進学を決めた時も、表向きは軽音楽部への憧れを隠して、普通科の進学校として選んでいた。その軽音楽部が廃部になっていた以上、このまま普通科の大学へと進学して、安定した企業への就職を目指すという道も考えていたのだ。

 たった一つの夢と、たった一人の家族が、天秤に掛けられてしまった。自分は一体、どうするべきなのだろうか。

「……ごめん成谷。俺、今意地悪なこと言ったわ」

「えっ?」

 沢根はばつが悪そうに目を泳がせ、首をかいた。彼が困った様子を見せるのは初めてだった。何故かそれがとても意外なことであるように感じて、響介は目を瞬かせた。

 困りながらも、沢根は口角を上げて見せた。彼は口が上手いが、笑顔を作るのも上手かった。

「いいや、まだ何も決まってない成谷相手に、立て続けに色々言いすぎたなって思ってさ。急いては事を仕損じる、とは言ったもんだ。今の話、一旦置いといていいぜ。焦ると碌なことになりゃしねえからな」

「確かにそうかもしれないけど……でも、沢根のアドバイスはその通りだったよ。意地悪なんかじゃないぜ」

 響介は本心からそう思っていた。響介は確かに世間知らずだし、沢根の言うことはいつも的確だったのだ。しかしそれでも、「いや」と沢根はかぶりを振った。

「今、俺は確かに意地悪だったんだ。悪い、成谷。完全に“こっちの”話だから、今のは忘れてくれ。ごめんな」

 彼の言うこっちの話とやらが、一体どちら様の話なのかは定かでなかったが、響介はとりあえず頷いた。やがて昼休みの終わりを告げる鐘の音が聞こえたので、二人は机を元の位置へと戻すことにした。

 そのとき一瞬、沢根は響介──ではなく、その後ろの方へと目をやったように見えた。しかしやはり響介には、沢根が一体どちら様のことを気にしているのかはわからなかった。

 それより響介は、沢根から言われた先のことが気がかりでならなかった。『急いては事を仕損じる』と彼は言ったが、響介本人としては、それは中学時代から常に放棄し続けて、後回しにしてきた問題だった。沢根の言う通り、早く腹を括らなければならないだろう。

 響介の胃の中では、食べたばかりの昼食が煮えるように、焦りが激っていた。


---


 けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。本の中の一節で、ジョバンニが云う。律にはやはり、カムパネルラと同じく『わからない』という答えしか出せなかった。しかしそれでも、銀河鉄道は線路を進んでいく。

 人の幸せのためなら、どんなことでもしようと決意を改めるジョバンニの向こうで、カムパネルラは天上の世界へ消えていってしまう。現実に戻って、友を失ったジョバンニは、ただ父の帰りを知らせるため母の元へと帰っていく。こうしてこの物語は、ぼんやりと疑問を残したまま終わってしまうのだ。

 しかし、律はこの銀河鉄道の夜という作品が好きだった。作中で語られている“ほんとうのさいわい”は様々な意味を持つ。気の毒な鳥捕りが消えたときは、ジョバンニは自分の持つものを譲ればよかったと思う。タイタニック号で亡くなった青年達の話を聞いたときは、彼らが他人の幸のために、家族を犠牲にしなければならなかったことを知る。理想の幸と、現実の幸はあまりにも違う。

 そういった背景が描かれているからだろうか、律はこの物語を読むとき、どこか心持ちが落ち着くように感じたのだ。律にも彼なりの理想の幸がある。しかし、所詮は理想でしかない。厳しい現実の前では、綺麗事なんて無いものに等しい。けれども心の内側では、その綺麗な理想は抱き続けていて良いものなのだろう。

 銀河鉄道の夜の物語は、そうしてふらつく律の理想を、まるで肯定してくれているように感じられた。賢治ともしどこかの銀河で会えたなら、律は『僕はあなたのおかげで幸いです』と伝えたかった。

「なぁ成谷、聞いてるか?」

「えっ?」

 前方で聞き覚えのある声が、聞き覚えのある名前を呼ぶのが耳に入った。律は本を読み耽るふりをしながら、こっそりと視線を向こうへとやった。ザネリ──銀河鉄道の夜の登場人物のことではなく、沢根英里のあだ名のことだ──のやつが、成谷と何やら話をしている様子だった。流石に話の内容までは聞き取れないが、彼らの様子を見るに、どうやら真剣な話をしているようだ。

 普段はヘラヘラとしているザネリのやつが、成谷に真摯な顔をして何かを訴えている。成谷はどうも何か迷っているのか、考えあぐねているらしく、ザネリの話に時折首を頷かせるのが見えた。まだ初登校から数日目だというのに、彼らはもう親しい間柄になったらしい。

 ザネリは口が上手く、友人を作るのも上手かった。小学校の頃から彼と何度も同じクラスになっていた律は、そのことを嫌になるほど知っていた。

 そうして律は、もう一度本へと視線を戻した。今更成谷のことを気にするだなんて、未練がましくて、全く自分らしくないと思ったのだ。どうせ二人とも、自分とはとっくに関わりのない人物だ。ザネリとはもう数年の間、会話すら交わしていないし、成谷だって昨日はあんな酷い口喧嘩をしたのだから、これから先関わることはないだろう。

 それでも未練が後を引いてしまうのは、きっとあの赤い夕の刻に聴いた、成谷のあまりに青々とした歌声のせいだ。

 その後の律はもう、顔を本へと埋めるようにして昼休みの時間を過ごしていた。あの二人があんな風に親しそうに話しているのを見ると、律でさえ悔しいと感じるのだ。自分には、至って対人関係能力という技術が欠けていることを痛感する。

 そうしてまた思い返す。やはり自分の一生は、こんな風に延々と本とばかり顔を合わせて、人とはろくに話すことはなく、それこそ文字通り“孤立くん”として終えてしまうのだろう。律はもう、自分の先のことはそうだと決めつけるような気持ちでいた。

 だからその日の夕方、彼は度肝を抜かれるほど驚くこととなった。

 どういう風の吹き回しかはわからないが、成谷の方から律を訪ねてきたのだ。


「今日は太宰じゃないんだな」

 放課後、急に成谷からそう言われ、律は驚きのあまり何も答えることができなかった。一方成谷の方はというと、律が返事をしないことを疑問そうに、きょとんとした顔をしつつ、その注意は律の読んでいる本の方へと向いている様子だった。

「銀河鉄道の夜? 宮沢賢治って、雨ニモマケズの人だっけ。確か小学校の頃に習ったような……」

 律は、成谷が勝手にああだこうだと話すのを、ただ呆然と眺める外なかった。何をどう返事すればいいのか、皆目見当が付かなかったのだ。そもそも何故彼が、こうしてまた自分に話しかけてきたのか、律には成谷の考えていることが全く読めなかった。

 暫くすると、成谷は唐突に「あっ」と口走り、これまた急に手を差し伸べて、やや大仰そうに口上を述べ始めた。

「俺は成谷響介。お前は?」

 成谷の方からそう名乗られて、律はようやく、自分は成谷の名前を知らなかったし、成谷にも名前を教えていなかったと気がついた。

「……椀田律」

 律の口からは、これまた簡素に、名前だけが小さく吐き出されるのみだった。そんな彼の様子に、成谷は差し出したままの右手を、見せびらかすようにふらふらと揺らし始めた。

「いや、手。お前も出せよ」

 その表情はとても握手を求める友好的な態度とは思えない、むしろ好戦的ともいえる歪んだ笑顔だった。律は恐る恐る手を出すと、成谷に勢いよく掴まれたので、思わず「わっ」と情けない声をあげる羽目になった。

「よろしくな、律」

 律の手をしっかりと握りながら、にやりと不敵に笑う成谷は、何かに勝ち誇っているかのようだった。一体彼が何と戦っていたのかはわからない。しかし律もひとまず彼を真似て、緩やかに口角を上げてみせた。

「えっと……よろしく、響介」




 話は少々遡る。響介は放課後、先の自分のこと、音楽科か、普通科か、それから金銭面、夏休みのアルバイト……など、煮凝りのようになった様々な焦燥感について考え込んでいた。沢根からは気まずそうに声を掛けられたが、「それこそ“こっちの”話だから、気にしなくていいぜ」と緩くかわしておいた。

 こういう時は、まずは優先順位を決めるほかないだろう。進路については二年に進級してから決めることだ。それならまずは、進路を決める際に有利な状況になっておく必要がある。つまりは、二年に進級するまでに音楽科でも普通科でも選ぶことができるよう、余裕のある状態になるべきということだ。

 ようするに、文武両道ならぬ、文音両道だ。どちらかに腹を括るまでは、それらを両立する以外の道はなかった。そこまで考えて、ふと響介はあの人形少年のことを思い出していた。

 彼こそまさに、文音両道の者ではないだろうか。あの少年は博識だが、その上で響介たちの英雄、もとい七十年代の海外ロックバンドにも、あれだけ造詣が深かったのだ。大衆文化サブカルチャー、あるいは音楽の知識も豊富なのではなかろうか。

 振り向くと、やはり今日も人形少年は教室の隅で、放課後に残ってまで読書に耽っているようだった。今朝までは癪だのなんだのと苛ついていたが、こうなれば話は別だ。彼と関わることで、得るものがあれば得るべきだし、なければないで、彼は越えるべき目標──好敵手とするには申し分ない存在だ。

 いずれにしろ、響介は彼に関わるべきだと考えた。たとえ昨日のように正論で叩き潰され、豊富な知識に焼き焦がされようが、食ってかかってやるくらいのつもりでいたのだ。

 そもそも響介は、極度の負けず嫌いだった。むしろ昨日の口論があったからこそ、人形少年には、一矢報いてやりたいとまで思っていた。響介は手始めに、彼の読んでいる本について尋ねることにした。

「今日は太宰じゃないんだな」

 本の背には、“銀河鉄道の夜 宮沢賢治”と書かれていた。そういえば、賢治も明治生まれの文豪のはずだ。確か小学校の国語の授業で、詩や童話を習ったような記憶がある。この人形少年も、響介が沢根から揶揄われたような、『古典主義者』的な趣味を持っているのだろうか。

 響介は彼のあの博識さの根源が、一体どこから湧いているのかが気になって、その後も人形少年に色々と話しかけてみた。しかし昨日はあれほど流暢だった彼は、今日は本当の西洋人形になってしまったように黙り続けていた。

 また読書に夢中になって、無視をされているのだろうか。響介はそう思ったが、よく見ると人形少年の視線は本ではなく、確かに響介の方へと向いているようだった。俯き加減に見られているものだから、一瞬睨まれているのかと驚いたが、どうも彼の表情からは敵意といったものを感じられない。どちらかというと、眉尻を下げて、困惑している様子だった。

 彼のそんな様相に、響介は不思議なことに、自尊心が満たされていくのを感じた。冷静に考えれば、そうして今の響介を満たしているのは、子供じみた対抗意識でしかないだろう。しかし未だ思春期の最中にいる男子高校生にとって、相手より優位に立ちたいというプライドは、大人が思うより優先順位が高いものなのだ。

 響介はもう、すっかり調子に乗っていた。何故か今なら、この博識の少年に対して、こちらの熱意が勝つだろうという自信すらあった。響介は自ら手を差し出して、まるで武将にでもなったかのような勢いで名乗りを上げた。

「俺は成谷響介。お前は?」

 人形少年は何を思っているのか、ぽかんと口を開けて暫く固まっていたが、やがてその口から「……椀田律」と小さな名乗りが返ってきた。

 椀田律──どこかで聞いたことのある名前だ。どこで聞いたのだろうか。思考を巡らせて、響介は入学式後のロングホームルームの、自己紹介のことを思い出した。教室の一番後ろの、一番端の席で、一番最後に『特に何もないです』と言い放った彼だ。

 他の誰もが『マンガが好きです』とか『野球観戦によく行きます』など、各々の好きなものや趣味関心を紹介していく中、律だけは、あのとき“何もない”と言い放ったのだ。それは端から己を隠し、他者を退けるも同然の言い回しだった。

 けれど響介は知っていた。律には本当に“何もない”わけがない。少なくとも、何世代も前のロックバンドを、あんなに饒舌に語ることができたのだ。律は単に他人を避けたがっているだけだ。響介は直感的にそう察した。

 だが、それなら尚、響介は彼の前から引きたくはなかった。それは前述通りの負けず嫌いの、ただの自分勝手な意地だった。響介は差し出した右手をそのままひらつかせて見せた。明らかに困惑している様子の律に、お前も手を出せと握手を求めた。

 律は少しの間迷っていたが、やがて恐る恐るといった体で手を伸ばした。響介は明らかに萎縮している様子の彼に、いてもたってもいられなくて、律の手を勢いよく掴んだ。「わっ」と怯えた声をあげた彼は、やっぱり人形なんかではなかった。

 その手は響介の体温よりも冷えてはいたが、ほのかに暖かかった。生きた、人の手だった。おまけに僅かに震えているようだった。

 響介は律の手の震えを、押さえつけてやるようにしっかりと握った。

「よろしくな、律」

 自分でそう言ってから、響介は自らの心中でたぎっていた、あの子供じみた対抗意識の炎が、まるで色を変え始めたように感じた。

「えっと……」

 言い淀む律の様子に、変色した心の炎は少しづつ鎮まっていく。業火はだんだんと小さくなっていき、それはやがて響介の心の中を小さく照らす、暖かい街灯のように形を変えていった。

「よろしく、響介」

 律は不器用に口角を上げて見せた。しかし、その目は怯えきっていて、ちっとも笑っていなかった。彼は口下手なようだが、笑顔を作るのも下手だった。

 それでも下手なりに笑顔を見せた律の姿に、響介は自分の世界が、まるで安らかに転調していくような心持ちを感じていた。長かったイントロが終わり、メロへと繋がっていく、調の変化の瞬間だ。響介は震えのおさまった律の手を、そっと離してやった。

 しかし、響介の調がそうして変化していく一方で、律の方は未だに彼に対し、一歩引いている様子だった。響介はいっそ、「俺に話しかけられるの、嫌か?」と尋ねてみたが、律はその問いには首を振って、「そういうわけじゃない」と答えた。

 そういうわけじゃないというのなら、一体どういうわけなのだろうか。響介は理解できないながらも、まずは律のことを知りたいと思っていた。律は明らかに、自分自身のことを隠そうとしている。しかし響介は、そうして隠されれば隠されるほど、却って気になってしまう心柄なのだ。やはりそれは、子供じみた好奇心が理由だった。

 暫くすると、ためらっていた律はようやく何かを決めたのか、顔を上げた。響介も勝手に話しかけるのをやめて、彼の話に耳を傾けた。

「あ、あのさ」

 律の声はやはり震えていた。一体何がそこまで怖いのだろうか。確かに響介は中学の頃、不良っぽいと言われた経験ならあった。しかし響介のことが怖いのなら、何故昨日の律は、響介に怯えていなかったのだろうか。

「……君は、どうして僕に話しかけるの」

「ええっ?」

 思ってもいなかった質問が返ってきたので、響介は呆気に取られてしまった。

「どうしてって、逆に理由もなく話しかけたらいけないのかよ?」

 響介は当然のようにそう答えた。律は一旦何かを考えてから、やはりどこか後ろめたそうに話し始めた。

「君の隣の席、沢根……くん、でしょ。彼から何か、聞いてない?」

 律の視線は完全に響介から逸れ、目が泳ぎきっていた。響介はいつだったか、確かに沢根から、『あいつとはあんまり関わらないほうがいいぞ』と言われていたことを思い出した。律が怖いのは、沢根のことなのだろうか。

 そのことをそっくりそのまま言うと、話を聞いた律は「じゃあ、何で僕に関わろうとするの」と答えた。

 これでは堂々巡りだ。

「だから、関わったらいけないってわけじゃないだろ? それとも律は、俺に関わられるのが嫌なのか?」

 もう一度改めて尋ねたが、律はやはり首を横に振った。響介は律の恐れているものが一体何なのか、ますますわからなくなった。


 一方、それは律も同じだった。律の方こそ、自分が何に怯えているのか、どうして響介と話すのが怖いのか、わからなかった。

 けれど、確かに自分で首を振った通り、彼と関わりたくないわけではなかった。むしろもう一度、あの青い歌声を聴く機会が与えられるのなら、縋りつきたいくらいだった。

 それなのに、自分でもわからない何かが怖くて仕方がなかった。その理由を、響介に説明することができなかった。しかし一向に調を変えられない律に対し、先に譜を進めてきたのは響介の方だった。

「だったら、別に良いじゃねーか」

 律は顔を上げた。響介の笑みは、もう好戦的でも、優越的でもなかった。同じ笑顔でもこれほど感じるものが違うのかと、律は初めて知った。今の響介の笑顔は、律にとって、優しい、と感じられる青さを孕んでいた。

 あの歌声と同じだ。吹き抜ける空のような、高く広大な青。または芽生えたばかりの新芽ような、力強い生命の青。気持ちのいい青さだった。

 響介は続けた。

「っつーか俺、沢根から確かに“関わらない方がいい”って言われたけど……“関わるな”とまでは言われてないぜ」

 響介の話す言葉の切れ味は、どうやら彼の隣の席の友人に似てきたようだった。

「っていうか、たとえ関わるなって言われてたとしても、そんなの知らねーよ。関わるかどうかは俺の勝手じゃんか」

 そうだ。勝手だ。彼の美しい青さは、ひどく自分勝手で未熟な青さなのだ。今の彼は、隣の席の友人のことなんか気にもかけず、律の方へと青い笑みを向けている。響介は歯に衣を着せないどころか、歯を見せつけるようにして笑ってそう言うので、律はもうおかしくなって、急に笑いが込み上げてきてしまった。

 笑ったのなんかいつぶりだろう。一体何がこんなにおかしいのだろう。わからないけれど、よくわからないのに笑ってしまった自分のことすらおかしくて、それがまた笑えてしまうのだ。

 響介は少し驚いたが、やがて「わかった」と何かに納得したように言った。

「俺、多分お前のそういう顔が見たくて、お前に話しかけたんだ」

 律の笑いが一旦おさまった。

「何それ、多分ってどういうことなの。意味がわからないよ」

「俺もよくわかんない。けど、なんか今、急にそんな気がしてきたんだよ」

 そして、もう一度笑いが込み上げてきた。もう、おかしくて仕方がなかった。今の律には、さっきまであんなに怯えていた自分のことが、滑稽で仕方がなかったのだ。

「そうか。そうだね。君自身にすらわからないことが、僕にわかるわけがないんだ」

 律は自分でそう言って、自ら納得した。自分自身にわからない自分の気持ちなんか、他の誰にもわかるわけがない。

 怯える必要なんか、最初からなかったのだ。

 意味もなく笑う律につられたのか、響介の方も笑いが込み上げてきた。西陽の差す春の教室が、彼らにはやけに熱く感じられた。


 その後、夕焼けに染まった教室でひとしきり笑い合ってから、響介と律は揃って通学路を歩いていた。沈みゆく太陽が、二人の影をコンクリートに長々と伸ばしていく。

「じゃあ俺、こっちだから」

 少し歩くと、響介はもう家が近いらしく、律に手を振って別れを告げた。それから律が別れを惜しいと思う間もなく、響介は律の目を見て話し始めた。

「明日も話そうぜ、律。なんだか沢根には悪いみたいだから、また放課後にさ」

「うん。また、放課後に」

 よく見ると響介の瞳は、今しがた傾きつつある、太陽のような金色をしていた。

 律は生まれて初めて、夕陽のことを暖かいと思った。そしてもう今にでも、また明日の夕方に、陽が傾き始めるのが待ち遠しくなっていた。


 彼らの長かったイントロは、ようやく終わったようだった。しかし音楽が盛り上がるのは、これからだ。

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