《世界を選ぶ者》第2話

 感覚が広がるとはいかなるものか。


 淡色の少年は草原に立つ。

 色彩はどこか乏しく、目で見ている景色ではないことが分かる。ふわふわとした感覚に自身には実体がなく、重さもないことが分かる。どこまでも、どこまでも飛んでいけるようだと少年は両腕を広げる。実際には飛ぶ必要さえなく、世界のすべてが見えるようだった。

 空を飛ぶ鳥の姿が見える。草原を駆ける馬の姿が見える。人の営みが見える。葉の陰に隠れる小さな虫まではっきりと感じられる。空と、大地と、風と、水と、少年は世界のすべてと繋がっていた。

 高揚感に胸が躍る。

 振り返れば世界の中心が見える。渦巻く生命の本流が轟き、その輝きと荒々しさには畏怖を覚える程。

 その本流に僅かばかりの乱れが見えた気がして、淡色の少年は少しばかりの不安を覚えた。


   *


 ガランガランと鐘の音が重々しく相談室の中に鳴り響く。

「午前の部、終了です。残りは午後に」

 神官補佐の声に順番待ちをしていた民衆の殆どが踵を返す中、神官の席に詰め寄る者達がいた。

「神官様! 神官様!」

「どうか話を聞いてください!」

「午前中ずっと待っていたんだっ。これ以上待ってられるか!」

「午前の部は終了と言ってるだろう!」

 行く先を遮るように前に出た神官補佐にも民衆は引き下がらない。

「……急ぎなのか」

 抑揚に欠ける、赤い髪の神官の声に民衆は神官補佐を押し退けて更に詰め寄る。

 弾かれた神官補佐はため息をつく。

「神官様!」

「神官様!」

 民衆は訴える。

「神官様。最近、作物の育ちが悪いのです」

「不作の時とも何やら様子が違うのです」

「井戸の水が減り始めています」

「川の流れも弱まって淀んできています」

「虫の鳴き声が聞こえません。何やら不気味で」

「家畜達もどこか落ち着きがなく」

「何かの前触れでは?」

「神官様」

「神官様」

「《世界》様は何か伝えて来てくださってはいませんか?」

「……」

 神官は指を組み、静かに目を閉じる。

「追って伝える。今日のところは帰ってくれ」

 民衆はお互いの顔を見合わせ、不安そうな、不満そうな顔のまま相談室から出て行った。

 重く息を吐き出す神官に神官補佐は近付く。

「あまり気になさいませんよう。民は勝手なことを言うものです」

「勝手なことか」

「作物がいつも豊作である訳がありません。家畜も生き物である以上不調なこともあるでしょう」

「けど、彼らはその道のプロだ。彼らがそう言うなら何かあるのかもしれない」

「……」

 黙った神官補佐を見て神官は疲れた顔で笑う。

「あんたは噂の方を気にしてるんだろう」

「……」

「俺の耳にも聞こえて来てる。『新たな神官は《世界》の言葉をあまり伝えて来ない』『聞こえていないんじゃないか』『あんな若造に神官が務まるのか』『相談に行っても御座なりにされている気がする』『役に立たない』。使用人達が話していたのを聞いた」

「チッ。口を閉じるよう言っておいたのに……」

「そういうあんただって俺に不満があるだろう」

「……」

 黙った神官補佐に神官は苦笑する。

「こんなガキの補佐なんてやりたくなかっただろ」

「そんな、ことは……」

「実際、俺には《世界》の声があまり聞こえない。前の神官はかなりの頻度で前の  《世界》からイメージを受け取っていたからな。それを皆に還元もしていたし。だから俺にも同等のものが求められてる。けど、俺にはどうしたらいいのか分からない。俺にはあいつの考えていることがこれっぽっちも分からない」

「あなたが連れてきた《世界を選ぶ者》でしょう」

「俺はあいつを、そういうつもりで連れて来た訳じゃなかった」

 神官はグッと眉間に皺を寄せる。

 もう、お互いの目を見て話すこともできない相手に歩み寄れる気など到底しない、とため息をつく。

「俺は神官失格だな」

「そんな、ことは……」

 神官補佐は自信なさげに目を泳がせる。

「……今日は天気がいいな」

「……そうですね」

 窓の外では太陽の光を受けて七色に輝く花畑が広がっている。


   *


 昼休みを利用して、神官はひとつの部屋を目指す。花畑を横目に真っ白な廊下を歩いて行く。

 霊廟のように真っ白な建物。その最奥に位置するのは入り口のアーチが特徴的な部屋。中央に楕円形の箱が置いてあるだけの殺風景な部屋。

 神官はその楕円形の箱に近付く。覗き込めば自分より小柄だが自分と同じ年である筈の少年が眠っている。

 パタパタという足音が部屋に近付く。

「神官様! いらっしゃるならちゃんと前以って知らせてください! こちらにも準備というものが!」

 息を切らせて現れたのは、動きもしない《世界を選ぶ者》の世話を任せられた者。

「……気を付ける」

 世話係は成人している割に小さな背を精一杯伸ばして文句を言い続ける。それを神官は軽く受け流しつつ、箱の中で眠り続ける《世界》を持ち上げる。その軽さに少し眉を顰めつつ、そのまま抱え上げる。

「神官様!?」

「裾を持て」

「へ!? あ、はい!」

 神官は《世界》を抱えたまま部屋を出ると廊下から直に花の海に進んで行く。世話係は慌てて神官の裾を持ってその後に続いた。

 蹴散らされた花弁が舞う。

『    』

 神官は眉間に皺を寄せた。前振りもなく《世界》を花畑の中へ放り投げる。

 それを見た世話係が素っ頓狂に叫ぶ。

「神官様ああぁぁあぁ――――――――!!!?」

「クソ……。こっちの気も知らないで。鼻歌歌いやがって」

「へ?」

「少し下がっててくれ」

「あ、は、でも……」

 世話係は投げ出された《世界》を見る。

「大丈夫だ」

「あ、はい……」

 目上の存在にそう言われてしまってはただの世話係は言う通りにするしかない。持っていた裾を下ろし、その場から離れる。けれど、声は聞こえずとも、ふたりの姿が見える位置で立ち止まる。曲がりなりにも《世界》の世話係を任されている。何かあった場合はすぐに駆け付けられる位置に控える。

 神官は放り投げた《世界》を抱え直す。そのまま、その場に腰を下ろす。腕の中の《世界》の顔を覗けば閉じられた目蓋が開かれる気配など当然なく。頬を指で撫でれば柔らかく幽かに温かい。黙って見ていると小さな息遣いが聞こえてくる。

 その穏やかな寝顔に神官はため息をつく。

「はあ」

 風が吹く。舞い上がった花弁に太陽の光が反射してキラキラと輝く。

「……温かいな」

『本当に。連れ出してくれてありがとう。でも、乱暴に扱って欲しくはなかったな』

「……」

 神官は空を見上げている。地上に咲き乱れる花々を映したかのように煌めく空を見上げ続ける。

『……』

 《世界》は淡い色の瞳を閉じる。実体はないから、イメージで目蓋を閉じる。

『僕はこんなにも君の存在を近くに感じてるのに……』

 赤い髪の神官の存在を淡色の少年ははっきりと感じ取る。神官の頭の先から手先足先にまで、力強い生の気が流れているのを自分のことのように感じ取る。

 神官が見ている空を少年も見上げる。

 こんなに近くに感じているのに声が届かないことを少年はとても寂しく感じる。それでも、少年は《世界》になったことを後悔しない。けれど、胸の内に小さなしこりができていることも自覚する。

『覚悟はちゃんと決めた筈だったんだけどな……』

 淡い色の瞳が神官の赤い瞳を覗き込む。けれど、その瞳に少年が映ることはない。

『……僕、ここにいるよ?』

 神官は答えない。

『もう。鼻歌だけは聞きとるくせに……。っ!』

 突然、景色が明滅した。驚いた少年は振り返る。世界の中心。生命の本流が激しく明滅していた。

『何!?』

 直視できない光に顔の前に手を翳す。それでも何が起きているのかちゃんと見なくてはと少年は翳した手指の隙間から見る。明滅する生命の本流の向こうに……。

『ああ……。そうゆうことだったのか。大変だ』

 伝えなくてはと少年は振り返る。けれど、神官は《世界》に対して心を閉ざしてしまっている。それでも、どうしても伝えなくてはならないと、少年は必死に声を張り上げる。どうか届いてくれと必死に祈る。


   *


「神官様は《世界》様をどう思っているのでしょう」

 世話係はひとり、白い廊下を歩く。

「絶対大切に思ってません。だって、前の神官様はあんなにたくさん、前の《世界》様に花を送っていらっしゃったのに。今の神官様は何も、何もない。偶に会いには来るけど。それだけ」

 不満を溢しながら歩く世話係は、その手に一輪の花が生けられた花瓶を持つ。

「たくさんは無理ですが。せめて一輪ぐらい私が差し上げても罰は当たらないでしょう。そうすればあの殺風景な部屋も少しは賑わう筈です」

 目指す部屋に辿り着いて、世話係は花瓶を取り落とす。甲高い音が真っ白な壁に反響した。


   *


 変わり映えしない毎日。相談室でいつものように嘆願書を持った民衆達の話を聞いていた神官が目を見開いて顔を上げる。

「そんな、馬鹿な……」

「神官様?」

 嘆願書を重要度順に振り分けていた神官補佐が顔を上げる。

 神官は立ち上がり走り出す。

「神官様!?」

 飛び出して行った神官に民衆達は騒然となった。

「閉室! 閉室! 今日はここまでとします!」

 更に騒然とする住民達を残して、神官補佐は神官を追い掛ける。


   *


「……」

 淡い色の瞳が真っ白な天井を見上げる。懐かしい色彩。それは間違いなく肉眼で見る光景だった。少年は一度、二度と瞬きを繰り返す。

「《世界》様……」

 部屋の入り口で立ちつくす世話係に、楕円形の箱の中で上体を起こしていた少年は微笑む。

「ああ、君は。いつも、ありがとうね」

「どうして……」

 世話係は目の前の光景が信じられなくてその場から動けない。

 淡色の少年は楕円形の箱の縁に手を掛け立ち上がろうとして、失敗する。

「《世界》様!!」

「だ、大丈夫。大丈夫」

 箱から転げ落ちた少年に世話係は駆け寄って手を貸す。世話係の手を借り、肘を支えに少年は何とか状態だけは持ち上げる。

「足が動かない」

「ずっと寝ていらっしゃいましたから」

「そうか。そうだよね」

 バタバタと近付いてくる足音に少年は顔を上げる。部屋の入り口に息を切らせた神官が現れる。

「どうして……」

「僕、君に……」

「神官様! 何が……」

 神官の後を追ってやって来た神官補佐は《世界》の姿を見て言葉を失う。そして、その更に後ろから騒ぎを聞きつけた使用人達が次々と顔を出す。

 《世界》に近付く神官に神官補佐は我に返る。騒ぎ始めた使用人達を振り返る。

「何をしている! ここは神聖な場所だ。お前達が入っていい場所ではない! 仕事に戻れ! お前達は何も見ていない! いいな! 神官補佐の名の元、今見たことは他言無用だ! 語った者は厳罰に処す!」

 使用人達が散り、その場に残るのは四人だけになる。

 神官が《世界》の眼前に膝を付くのを神官補佐と世話係は見る。

「え、えっと……」

 少年はしっかりと淡色の瞳を捉える赤色の瞳に必死に言葉を紡ごうとする。しかし、神官は少年の頬に触れ、耳から首から確かめるように撫で回し始める。少年は思わず閉口し、それでも何とか一言を絞り出す。

「くすぐったい……です」

「ああ。悪い。……本当にお前なのか」

「うん。僕だ」

 神官の頬が微かに緩むが、すぐに厳しい顔になる。

「どうして、目覚めた?」

「あの、あのね。僕、どうしても君に伝えなくちゃいけないことがあって。でも、君は全然僕の声聞いてくれないし。必死に叫んだのに。もう、なんでかな。僕はこんなに君を……」

「それで、俺に伝えなくちゃいけないことって?」

「ああ。そうだった。えっと、とても大変なことが起こるんだ。大変な……」

 《世界》の言葉に神官補佐と世話係が固唾を呑む。しかし、言葉は紡がれない。

「おい?」

 神官は先を促す。

「大変なことってなんだ?」

「……分からない」

「は?」

 少年は床に目線を落とす。

「分からない……」

「分からないって」

「忘れちゃった……」

「……」

 神官が、神官補佐が、世話係が呆気に取られて言葉をなくす。

「め、目が覚めたら忘れちゃった。ごめんなさい……」

 とても大事なことだったことだけは覚えている。少年は目を閉じて必死に《世界を選ぶ者》の感覚を思い出そうとする。けれど、焦れば焦る程うまくいかない。

 そもそも、人から《世界を選ぶ者》になって、また人に戻れるなんて少年にとっても想定外のことだった。ここからまた《世界》に戻ることはできるのかと、違う不安が押し寄せる。

「一先ず、部屋を用意する」

 神官は立ち上がり、歩き出す。

「あ、えと……」

「《世界》様」

 世話係が《世界》に手を差し出す。その手を取って少年は立ち上がろうとするがうまく行かない。

「ごめん……」

「いえ。私が非力なのがいけないんです」

「どうした?」

 振り返った神官を少年は見上げる。

「歩けないんだ」

 すると、神官はすぐに踵を返し、少年を軽々と抱え上げた。

 驚きのあまり少年は目を丸くする。

 おかしな話だが、少年は《世界》であった間、時々、神官に抱え上げられて外に連れられてはいたが、端から見ているようなそれは実感するには程遠く。肉体を以て体験する初めてのことに心臓が緊張と不安から早鐘を打つ。

 神官は腕の中の少年の顔をちらと見ると、迷いなく殺風景な部屋を後にする。その後を世話係と神官補佐が追い掛ける。

「私。神官様を誤解していたかもしれません」

「ん?」

 世話係の呟きに神官補佐が振り返る。

「神官様は《世界》様のことがあまり好きではないのだと思っていたのです。《世界》様を隣の世界から自ら連れて来ておきながら滅多に会いにも来ない。随分冷たい方だと」

「そうか」

「でも、違ったのですね」

「私も少し驚いている。でも、そうだな。神官様はそのつもりであの少年を連れて来た訳ではなかったらしいからな」

「え」


   *


 小さな部屋だった。廊下に面する壁以外は殆どが本棚で埋まり、小さな窓の下にふたり掛けのソファが置いてあるだけの小さな部屋。

 神官はソファの上に少年を下ろす。

「ここ……」

「俺の仮眠室だ。ここなら勝手に誰かが入ってくることはない。こいつ以外は」

「私はあなたの補佐兼、秘書兼、お目付け役ですから」

 補佐官が胸を張って言う。忌々しそうな神官の目にも補佐官は涼しい顔。ふたりのやり取りに少年は笑う。静かで柔らかな笑顔。

「《世界》様は随分と穏やかなのですね。神官様とは大違いです」

 神官補佐の言葉に少年は笑顔を引っ込め、少し目を伏せる。

「失望しないで欲しい。彼が塞ぎがちなのは僕の所為だから。僕が彼の思いを無視して自分の意志を優先したから」

「己惚れるなよ」

 神官はきつく握り締めた手を震わせながら少年を見下ろす。力の入れ過ぎで震える手に少年は手を伸ばす。逆にその手を取って神官は少年の横に腰を下ろす。

「お前の意思を無視して引き留められなかったのは俺の弱さだ」

 神官は少年を抱き締め、少年は神官に身を委ねる。

「君、大きくなったね。見てた筈なのに、こうして初めて実感するよ」

 少年を抱く神官の手が震える。

「……多少はな。お陰で成長しない誰かさんを運ぶのが少し楽になった。それに育ち盛りだからな。まだデカくなる」

「その為にはこんなソファじゃなくて、休める時はちゃんと休んでほしい」

 神官は唇を嚙んだ。

「お前を遠くに感じてたのは俺だけか」

 皮肉めいたように笑うと神官は立ち上がる。

「世話係。ここの出入りの際はくれぐれも注意しろ。勘付かれるなよ」

「は、はい!」

 神官と神官補佐が部屋から出て行く。少年は向けられた背に俯く。ドアは閉じられ、狭い部屋に少年と世話係だけが残される。

 俯いたまま少年はぽつりと呟く。

「僕はずっと側にいた。気付かなかったのは君じゃないか。って、言ってやればよかったかな?」

「《世界》様」

「冗談だよ」

「いえ、今度言ってやりましょう」

 申し訳なさそうに笑っていた少年は目を丸くし、世話係と小さく笑い合う。

 少年はソファに横になる。

「彼の臭いがする。落ち着くー」

「《世界》様。そのセリフは変態臭いです」

「え……。酷い」

 世話係が寝転がる少年の前に跪く。

「《世界》様。あなたと言葉を交わせることをとても嬉しく思います」

「ありがとう。今の僕を肯定してくれる君は、今の僕にとって何物にも代えがたいよ」

 《世界》は笑う。寂しそうに笑う。その心の内に誰がいるのかなんて世話係には容易く想像できた。


   *


「前例がありません」

「分かってる」

「どうするおつもりで?」

「《世界》が目覚めたこと、どれぐらいで知れ渡ると思う?」

 神官補佐は諦めの溜め息をつく。

「明日にはもう知れ渡っていることでしょう」


   *


 神官補佐の言葉通り、明るくなったばかりだというのに相談室の前には黒山の人集りが出来ていた。

「《世界》様が目覚めたというのは本当ですか!?」

「そんなこと今の今までなかったことだ!」

「何が起こってるの!?」

「恐ろしい! 何かの前触れじゃないのか!」

「現在原因解明の為、調査中だ!」

 相談室の扉の前で神官補佐が押し寄せる民衆に声を張り上げる。

「調査して何か分かるものなのか!?」

「神官様を出せ!」

「説明しろ!」

「今の《世界》様は他の世界から連れて来られたお人だというじゃないか。それが原因じゃないのか!? 神官様は災いを連れてきたのでは!? 現神官は神官に相応しくないのでは!?」

「何を!」

 神官補佐が眉を吊り上げる。

「いいや! きっと《世界を選ぶ者》に問題があったのだ! 神官様が《世界》の言葉を伝えて来なかったのは伝えたくとも伝えられなかったからだ。きっと他の世界から連れてきた《世界》が使い物にならなかったのだ!」

 重いものを弾き飛ばす音と軋む音が大きく響く。

 内側から突如開かれた扉の前に立っていた神官補佐は驚いて振り返った。

 内側から扉を蹴り開けた神官が上げていた足を下ろす。

「神官様。今はまだ……」

 神官補佐の言葉もそこそこに神官は顔を上げる。集まる民衆に向かって叫ぶ。

「よく聞け! 俺のことはなんと言おうが構わない! だが、あいつを侮辱することは絶対に許さない! まだ何か言い募るつもりのある者はそれなりの覚悟をしておけ! 肝に銘じろ! 神官補佐! 昨日までに終わらなかった嘆願書をすべて出せ!」

「は、はい!」

 神官補佐は慌てて相談室に駆け込み、紙の束を持って戻る。紙の束を神官補佐の手から奪うように取って、神官はそのすべてに一瞬で目を通す。

「近所の諍いには調停員を出す。殴り合いは許さない。とことんまで話し合え。川の淀みの改善には既に着手している。井戸水の目減りも現在地下水脈を調査中だ。新たな井戸を掘る計画も進めている。畑の様子も家畜の様子も現場を確認後、その場で相談だ。好きな女がいるなら手をこまねいてないでさっさと告白して玉砕しろ。経年劣化の柵の補修と家屋の補修は大工を損傷の酷いところから順番に回らせている。材料の調達もこちらで負っている。問題ない。引っ越すなら七日後にしろ。天気は良く、風もない。同じ理由でピクニックも七日後だ。婚礼式は午前小雨、午後に必ず晴れる日に。そうゆう日はまだ当分ないから先送りにしろ!」

 今までどこかやる気の見えなかった神官の変わりように民衆達はぽかんと口を開く。

「お前達はお前達の目の前の問題をどうにかすることに尽力しろ。ここ最近身の回りのことで何かおかしいと感じている者。お前達の勘は恐らく間違っていない。その原因を《世界》は伝える為に目覚めたんだ。全てはあいつのイメージを受け取れなかった俺に責任がある。世界と直に言葉を交わしている最中だ。詳細は分かり次第追って報告する。暫し待て!」

 神官は羽織を大きく翻し、蹴り開けた扉の向こうへ消えて行く。民衆は既に姿の見えなくなった神官に呆然と立ち尽くす。

「き、今日の嘆願書は午後に目を通すこととする」

 神官補佐は相談室の扉を閉めて神官の後を追う。

「神官様。これからどうするのです。はったりはあまり長くは持ちません」

「ああ。そうだな」

 神官は廊下を足早に歩く。

 仮眠室の扉を開ければ、少年が世話係の手を支えに立っていた。

「あ、おはよう」

「歩けるようになったのか」

 神官の言葉に少年は首を横に振る。

「ううん。この子の手を借りて立てるようになっただけ」

「そうか」

 神官が近付くと世話係は身を引く。世話係の代わりに神官が差し出した腕を支えに少年は立ち続ける。神官はそっと少年の頬に触れる。

「君、僕が目覚めてからやたら触ってくるね」

「現実か確かめてる」

「《世界》だった時もしょっちゅう触ってたのに」

 神官の手が止まった。バツの悪そうな顔に今度は少年が手を伸ばす。

「おい」

 神官は低い声を出すが少年の手を振り払いはしなかった。神官の頬を少年は片手で撫で続ける。

「ああ、そうか。そうだよね」

「なに?」

 指先から伝わる神官の体温に少年は独り言ちる。《世界》であった時、神官を近くに感じていたことに間違いはない。けれど、それとは明らかに違う感覚を以て今、少年は神官を近くに感じる。神官の背に両腕を回して息を吐き出す。

「こうゆうことか」

 神官もまた少年を抱き締め返す。

「分かればいい」

 あまりにも優しい腕に、温かさに、零れ落ちそうになった涙を誤魔化すように少年は笑う。

身を寄せ合う《世界》と神官から少し距離を取って立っていた世話係が涙ぐむ。ふたりの関係性に疑問を持っていた昨日までの自分を恥じた。

 神官は問う。

「何か思い出せたか?」

「ううん。まだ、何も」

「そうか。まあ、いいさ。ゆっくり思い出せ」

「神官様が《世界》様にそんなに甘いとは思いませんでした」

 神官と少年が目を向ければ神官補佐が厳しい顔をして立っている。

「黙ってろ」

「そうはいきません。《世界》様」

「はい……」

「聞かなくていい」

 少年の耳を塞ごうとする神官の手を少年は首を捻って避ける。

「僕も君が僕に対してこんなに過保護だとは思わなかった」

「外を見ていない《世界》様の方が今の状況の厳しさを理解なさっているとは」

 神官が神官補佐を睨み付ける。

 ピリピリとし出した空気に世話係が不安そうな顔になる。

「《世界》様。あなたが目覚めたことは既に民に知れ渡っています」

「そうだよね。昨日、たくさんの人に見られちゃったから」

「そうです。人の口に戸は立てられません。緘口令など意味がありません。先程、騒ぎ立てる民を神官様が黙らせましたが。それも、いつまで持つか。《世界》様にお告げを思い出して頂けない限り収拾は着きません。表に立っているのは神官様です。それを、努々お忘れなきよう」

「うん」

「返事だけでは困りますよ」

「おい」

 少年を庇って前に出ようとする神官を少年が止める。

「うん」

 まっすぐな淡い色の瞳に神官補佐は目を伏せる。

「すべてがうまく行くことを心から願います」

「うん」

 神官補佐は世話係に目を向ける。

「《世界》様の世話は引き続きあなたに任せます。頼みましたよ」

「はい!」

 世話係は言われなくともと気合いを入れる。そのまま《世界》に目を向けると、そこにはお互いに寄り添い合う《世界》と神官の姿がある。

「あまり気負わなくていい」

「無理」

「俺のことは気にするな」

「無理」

「お前な……」

「無理なものは無理。早く……」

 思い出さなくちゃ、と少年は神官補佐を前にした時には見せなかった不安を、その瞳に少しばかり滲ませた。


   *


「神官様。神官様」

「《世界》様のお言葉はまだ伝えてもらえないのでしょうか?」

「今、まとめているところだ」

「神官様。神官様」

「《世界》様がお目覚めになられてからもう数日になります」

「もう少し待て」

「神官様。神官様!」

「《世界》様のお言葉を聞くだけなのに何故こんなにも時間が掛かっているのです!?」

「……もう、暫し待て」

「神官様!」

「《世界》様は今どちらに! お目覚めなのでしょう? 直接お言葉を聞かせては貰えないでしょうか?」

「……」


   *


「神官様。もう、限界ではないかと」

「クソッ!」

 神官は乱暴に廊下を蹴り歩く。仮眠室の扉を開ける。ソファに横になって目を閉じる少年の姿に神官は息を呑む。

「あ、神官様……」

 世話係の姿になど目も呉れず、神官は少年に取り付く。

「おいっ!」

 肩を揺さぶられた少年が薄らと目を開く。

「あ……おかえり」

 神官は安堵の溜め息をつく。

「よかった。また……」

 そこまで言って言葉を切った神官に、神官補佐は信じ難い可能性に気付いて一歩前に出る。

「神官様。あなた、もしや……《世界》様を《世界を選ぶ者》に戻す気がないのですか!?」

 神官補佐の余裕のない詰問に神官は立ち上がり振り返る。

「ああ。そうだ」

「っ! あなたは! 神官失格だ!」

「だーいじょーぶ」

 間の抜けた声にそこにいた全員が顔を向ける。少年が身体を起こす。

「僕は一度決めたことを覆すつもりはない」

カッとなった神官が少年の胸倉を掴んだ。

「お前は! また、俺を置いて行くのか!」

「……ごめんね」

 少年は神官と目を合わせずに言った。

 目の前の《世界を選ぶ者》たる少年に神官は愕然とする。少年を軽く突き飛ばすと神官は部屋を飛び出した。

「神官様!」

 神官補佐がその後を追う。

「あ、あの……」

 しどろもどろする世話係に少年は微笑み掛ける。

「全部、僕が勝手に決めたことなんだ。だから、また僕が《世界》に戻って眠りについた時、彼が冷たい態度を取るようになっても大目に見てあげて欲しい」

「《世界》様……」

 世話係は俯くことしかできない。


   *


「ちくしょう! ちくしょう!!」

 神官は夕暮れの花畑の上をがむしゃらに走り抜ける。着慣れた筈の神官服の裾に足を取られて、派手に花弁が舞う。

「神官様! 神官様!」

 神官補佐が花畑に倒れる神官に駆け寄る。

「申し訳ありません。配慮が足りませんでした。おふたりの問題に私は自分本位なことを」

「謝るな。あんたは悪くない。あんたは間違ってない……。クソッ!」

 拳が振り下ろされ、再び花弁が舞う。


   *


「《世界》様」

「少し眠る」

「《世界》様?」

「なんだか、酷く眠いんだ」

 少年は再びソファに横になる。

「彼が戻ってきたら、そう伝えて」

「眠いから眠っていますって、ですか?」

 困ったように眉をハの字にして笑う世話係に少年は少し申し訳なさそうに微笑む。そのまま、抗い難い睡魔に身を委ねた。


   *


「今夜。暴動が起こるかもしれません」

「そうか」

「《世界》様に会う為、民が奥まで押し入る準備をしていると報告がありました」

「そうか。限界だな」

「はい。どうしますか?」

「迎え撃つ訳にもいかないしな」

「落ち着いていらっしゃいますね。このままでは神官様も《世界》様も只ではすみません」

「そうだな。そして、新しい神官と新しい《世界を選ぶ者》がまた選ばれるんだろうさ」

「……」

「もうすぐ日暮れか。今日はやたら早くから星が明るいな」

「そういえば、そうですね」


   *


 大地の底から響いてくる轟きに実体のない少年は振り返る。世界の中心。生命の源。その本流がいつか見た明滅を繰り返す。その向こうに見えるのは……。

『ああ、そうだった』

 僕は恥ずかしさを紛らわすように肩を縮こまらせる。

『ごめん。僕がひとりで勝手にワタワタしてただけなのに、わざわざ知らせてくれるなんて。ありがとう』

 一際激しい本流が明滅を繰り返す。

『もう一回行ってくる。今更って感じだけど、ちゃんと伝えてくるよ。それが、僕の役目だから』


   *


 激しく揺さぶられ、少年は目を覚ます。

「《世界》様! 《世界》様!」

 世話係が瞳に涙を一杯に浮かべて、必死に少年の肩を揺らす。

「君……」

 窓の外が激しく明滅する。

「ああ」

「ああ、じゃないです! 何が、何が起こっているんですか!?」

「大丈夫だよ」

「へ?」

 笑い掛ける少年に世話係はポカンとする。

「行こう」

「《世界》様?」

 さも当然のように歩き出した《世界》に世話係は口を半開きにする。

「足……」

 呟いて、我に返った時には既に《世界》の背中は部屋の外にあり、世話係は慌てて追い掛けた。


 空が何度も何度も明滅する。激しい風が吹き荒れる。

「《世界》様!」

「大丈夫大丈夫」

 少年は一歩一歩大地を踏みしめて歩く。その先、花畑の中に複数の人影が蹲る。

「なんだ、なんだこれは!?」

「世界の終わりだ。世界が終わるんだ……」

「俺達はここで終わるんだ!」

 頭を抱える民衆の側には鋤やら鍬やらスコップやら金槌が放り出されている。

「大丈夫ですか?」

「ひえっ。だ、誰だ?」

 蹲る人々に無防備に近付いた《世界》に世話係は焦る。

 心の内で世話係は「《世界》様!」と叫びながら民衆から離れさせようとその腕を引く。けれど《世界》は動かない。

「大丈夫ですよ」

 微笑んだ少年に民衆は叫ぶ。

「何が大丈夫なものか!」

「世界が終わるんだぞ!」

「いいえ。これはその逆です」

「は?」

「逆?」

「新たな世界が生まれるんです。所謂、世界の代替わりです」

 確信を以てはっきりと告げる少年に民衆は二度、三度と瞬きする。

「あんた……」

 慌てた世話係は《世界》の腕を一層強く引く。

「それ以上は何も仰らないでください! 《世界》様!」

 世話係は慌てて自身の口を塞いだ。

「……《世界》様?」

「あんたが……。いや、あなた様が?」

 蹲っていた民衆が姿勢を正して跪く。

「《世界》様! どうか、どうか! 我らをお導きください!」

 世界が終わるのでは、というような局面で「そうではない」と断言した少年に民衆は縋る。

 《世界》と神官を批判していた民衆達の手の平を返すような態度に世話係は不快感を隠せない。

「勝手なっ」

 前に出ようとする世話係を少年が手で制す。

「《世界》様」

 少年は世話係に微笑むと民衆達の前に膝を付く。

「不安にさせてしまってごめんなさい。僕がちゃんと役割を果たせなかったから。遅くなってしまったけど、行きましょう」

「どこへ?」

「丘の上です。ちょっと風が強いけど、きっと、綺麗ですよ」

 空は未だ激しく明滅していたが、《世界》の笑顔に民衆はもう不安な顔をしていなかった。お互いに顔を見合わせながらもぞろぞろと先頭を行く少年の後を追って行く。

 世話係も後を追って歩き出した時、こちらに駆け寄ってくるふたつの影に気が付く。

「《世界》様」

「ん?」

 世話係の声に少年が振り返ると汗だくの神官が少年に抱き付いた。

「んぐ」

 思い切り抱き締められた少年は息ができなくて神官の肩を叩く。神官が少年を放す。

「どこに、どこに行ったのかと思った。探したんだぞ!」

「ごめん、先に君のところに行くべきだったね」

「そうだ! 何かあったらお前はまず俺のところに来るべきなんだ! なのに、こんなところで何してる!」

 すごい剣幕で攻め立てる神官に少年は落ち着いたまま少し考える。

「えーと……。とりあえず、みんなで丘の上に行こう。その瞬間を見に行こう」

「何を見に行くって?」

 まだ息の切れている神官の手を取って少年は歩き出す。

「遅くなって本当にごめん」

「お前、思い出したのか!」

 少年は小さく頷く。


   *


 空の明滅は既になく、丘の上に着く頃には風も大分弱まっていた。

 導かれた民衆は目の前に広がる景色に見入る。

「夜だからより一層はっきり見えるね」

「大地が輝いている……」

 神官補佐が民衆と同じ顔をして呟いた。

 風が完全に治まると、大地の光はより鮮明に輝き。暗い夜空に瞬く星は一足先に以前よりも強い光を放つ。

 少年はゆっくりと花の絨毯の上に座る。神官に隣に座るように促す。神官が座ると少年は遠慮なく神官に寄り掛かった。

 神官はそうすることが当然というように少年の身体を支える。

「いやー。ありがたい」

「ふざけたこと抜かしてると放り出すぞ」

「酷い」

 辺りの様子を少年は窺う。

 空を見上げる者、景色に目を奪われる者、言葉を失い涙ぐむ民衆の中、世話係と神官補佐が少し離れたところから少年と神官を見守る。

 気遣い屋さん達に感謝しながら少年は神官との時間を満喫する。

「世界の代替わりだ」

「どういうことだ」

「新しい世界が生まれたんだよ。そして、前の世界からこの世界を引き継いだ。引き継ぐ際、世界そのものに変動はないんだけど、派手になることは僕にも分かったから。みんなが慌てないように前以って教えてあげなくっちゃって、思ったんだけど……」

「忘れたんだな」

「そもそも君がちゃんと僕からイメージを受け取ってくれてたら」

「あ?」

「ナンデモナイデス」

 神官は少しずつ身体に掛かる比重が増えていることに気付く。

「おい」

 少年はゆっくりと目蓋を開いたり閉じたりを繰り返す。

「おい……」

「ごめん。呼ばれてる」

「呼ばれてるって。誰に」

「誰って。決まってる」

 少年は微笑む。神官は何かを堪えるように口を引き締める。

「僕を必要としてくれてありがとう。君の願いを聞けない僕を許してほしい」

「絶対許さねえ」

「酷い」

 少年は苦笑する。落ちてくる目蓋に抗えない。

 神官は腕の中の少年を抱き締める。強く抱き締める。

 神官と《世界》の様子に気付いた神官補佐と世話係は何が起こったか察する。神官の心情を思って神官補佐は唇を噛み、世話係は自身の手を握り込む。それぞれに感情を押し殺す。


 光り輝いていた大地は静かにその身に夜を取り戻す。


   *


 少年は目蓋を開ける。イメージだ。既に自分の瞳で世界を見ることが叶わないことは分かっている。

「?」

 以前は生き物達の生命の営み、命の輝きが流れ込んで来て、すべてが手に取るように分かっていたのに。今、少年が感じるものは静寂だった。遠くにそれらが見えることに気付く。遠くに色々なものを感じる。何故こんなにも遠いのか分からなくて不安に駆られるが、少年はハッと世界の中心はどうなっただろうと振り返る。代替わりを終えて、あの畏怖さえ感じさせる生命の本流、轟きはどうなったのか。

「!?」

 少年は驚きのあまり息を呑んだ。

 振り返った先に何かが存在していた。居るのは分かるのだが少年にはその姿がハッキリと見えない。

「え?」

 少年は流れ込んで来たものに驚きのあまりすぐに言葉が出ない。

「え? え?」

 姿のハッキリしない存在が首を傾げる。

 少年は目の前の存在がなんなのか、いつの間にか分かっていた。返事を待っている存在に少年は少し俯く。

「でも、そんな我儘、通していいのかな?」

 迷いを見せた少年に存在が遠退く。断ったと判断されたことに少年は慌てる。

「待って! まだっ……。ていうか、お願いします!」

 少年の視界が真っ白に埋め尽くされる。ない筈の身体がふわりと浮く不思議な感覚を覚える。


   *


 少年はゆっくりと目蓋を開ける、イメージではない実体の目蓋を押し開ける。

 見開かれた赤い色の瞳と淡い色の瞳が交差する。

「あれ?」

 少年が声を発しても神官は身じろぎひとつしない。

「《世界》様!?」

「《世界》様!」

 神官の肩越しに世話係と神官補佐が少年を見下ろす。

 ふたりの驚いた顔から少年は周囲に目を向ける。目蓋を閉じた時と変わらず少年は神官の腕の中にいた。ただ、朝になっていた。花畑が朝日に輝く。民衆の姿はない。

「お前、お前は……」

 震える神官の声に少年は顔を向ける。神官は色んな感情がごちゃ混ぜになった形容し難い顔になっていた。それがすんっと一瞬で無表情になり、少年は小さな恐怖心を覚える。

「自分がどんな状態か、お前、説明できるか?」

「は、はい」

「そうか。なら戻ってから話を聞く」

 立ち上がるであろう神官を察して、少年も起き上がろうとする。が、神官は易々と少年を抱えて立ち上がった。

「ちょ、ちょっと、僕、歩ける。もう歩けるから!」

「知るか! 少しは何かやり返さないと俺の気が済まないんだよ!」

 少年は助けを求めて世話係と神官補佐に目を向ける。

 神官補佐と世話係は少年の意など介さず、安堵に胸を撫で下ろし、微笑ましいものを見る顔で神官の後に続いた。


   *


 神官が仮眠室として使っている小さな部屋でソファに座らされた少年は語る。

「世界の仕様が少し変わったみたいで」

「世界の仕様?」

「うん。新しい世界が何を考えてそうゆう提案をしてきたのかは分からないけど。簡単に言うと僕は今、半分なんだ。正確にはもっと、なんか、違うと思うけど」

「半分……」

「うん。とりあえずそこは聞き流してもらって。ともかく、僕は今も《世界を選ぶ者》だ。それは間違いない。世界を感じることができてる。ちょっと遠いけど。でも意識を集中すればあっち側に行けそう。だから、寝てる時間が多くなるとは思うけど、こっちにもちゃんと戻って来れる。あ、そうすると向こうで見たもの、ちゃんと口頭で伝えられるね。毎日、君と話ができるよ」

 神官が少年の耳たぶを思い切り引っ張る。

「痛い! 何するのさ!?」

 目を見開いたまま神官が口角を上げていた。あまり見ない表情に少年は身を引いた。

「つまり、我々は今まで通り《世界》様の恩恵に肖れるということですね」

 神官補佐の言葉に少年は頷く。

「そういうこと」

「私達にとって都合が良すぎませんか?」

「《世界》様にだけ負担が増えたのでは?」

 状況は理解できたが前例のないことに神官補佐と世話係は戸惑う。

「僕のことを心配してくれてありがとう。でも、僕自身は普通の人より寝てる時間が長い人になるだけな気がしてる」

 少年はけろりと言うが神官補佐と世話係の顔から不安は消えない。

 少年の隣に座っていた神官が立ち上がる。

「まあ、手探りでやっていくしかないな」

「すっきりした顔しちゃって」

 少年の耳たぶに神官は手を伸ばす。その手を少年は体を反らすことで避けた。


   *


 ガランガランと鐘の音が重々しく相談室の中に鳴り響く。

 神官は勢い良く立ち上がる。勢いが良過ぎて背後に倒れた椅子がけたたましい音を立てる。

「本日はこれにて終了!」

「それを言うのは私の仕事です」

 神官補佐の言葉を無視して神官は手を差し出す。

「残りの嘆願書!」

「はいはい」

「これとこれはすぐに対応しろ。残りは明日に回す! 解散!」

 渡された嘆願書に一瞬で目を通した神官は駆け足で相談室から出て行った。

 神官のいなくなった相談室で神官補佐はため息をつく。

 呆気に取られていた民衆は、我に返った者から少しずつ席を立つ。

「あの夜以降、神官様の仕事が早いなあ」

「定時になるとすぐに《世界》様のところに飛んで行っているらしい」

「仲睦まじいのは良いことだ」

「そうだ。お前の方の畑、どうなった」

「段々と収穫量が戻ってるよ」

「井戸の水は今や目減りする前より豊かになってる」

「川は以前より流れが速くなっちまって」

「淀んでいる時に改修工事をしただろう。そのお陰で氾濫しないで済んでるらしい」

「神官様の采配に間違いはなかったんだなあ」

 聞こえてくる民衆の暢気な声に神官補佐は小さく笑う。


   *


 バタバタと近付いてくる足音に世話係は顔を上げる。

 息を整えるのもそこそこに神官は仮眠室のドアを開く。

 現れた神官に世話係は礼をしてそっと仮眠室から出て行く。

 ソファで横になっていた少年は気配に薄らと目を開けた。目の前に見えた赤い色の瞳に顔を綻ばせる。

「おかえり」

 神官もまた答えるように少年に笑い掛ける。

「ただいま」


   *


 神官が先に通ったであろう真っ白な廊下を神官補佐がゆっくり歩いていると、その前方から世話係が歩いて来る。

「やあ」

「これは神官補佐様。お疲れ様です」

「君がここにいるということは、神官様は既に《世界》様のところか」

「はい。毎日毎日こっちが恥ずかしくなるほど神官様は全速力で《世界》様の元へ帰って来ます。空気を読むのにも慣れてきました」

「そうか」

 口を尖らせながらもどこか楽しそうな世話係に神官補佐も穏やかに笑う。

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