8

 次の日、時刻はお昼時より少し過ぎた頃。俺はカフェのドアを開けた。

 店内に充満する冷気と共に俺を迎えたのはカウンター越しの燈さんとカウンター席にずらりと並んだ莉星、流華、真人だった。


「おー、バイト。遅刻だぞー」


 すると俺の姿を見るや否や莉星がわざとらしく口を尖らせそう突っかかってきた。


「今日は休みだっての」


 俺は淡々とそう返しながら莉星の隣に腰を下ろした。


「燈さん。これ」


 座ってすぐに俺はそう言ってカウンターへ鍵を置いた。俺が燈さんの帰りを待たずして家を出られるように鍵が置かれていたのだ。『今度返すように』というメモと共に。


「それと服もありがとうございました」


 結局俺は朝起きずそのまま自然と目覚めるまで寝ていたのだが、起きた時には服が洗濯され乾燥機に入っていた(その事は鍵のメモの下に書かれていた)。


「え? えっ? ちょっとどうゆう事?」


 すると戸惑いを隠し切れていない流華の声が背後から聞こえてきた。いつの間にか立ち上がり背後へと来ていた流華は俺越しに鍵を手に取る燈さんへ戸惑いに揺れる双眸を向けていた(それはあくまで想像に過ぎないが)。


「えぇー。何で零が燈さんの鍵持ってんの~?」

「あれぇ~? 零君。どうゆー事かなぁ?」


 流華に続き莉星と少し身を乗り出した真人の視線が横から突き刺さる。しかも既に面倒な調子の声付きで。


「別に。ただ昨日、家に泊めてもらったってだけ。燈さんは店で朝早かったから鍵置いててくれたんだよ」

「えー! 泊まった!? 僕、誘われて無いんだけどぉ?」

「オレもー」

「あたしもー」

「誘ってねーからな。てか俺も急だったし」

「ズルい! ズル過ぎるよ零!」


 両肩を掴んだ流華は言葉を口にしながら駄々を捏ねるように俺を揺らした。


「今度、僕も泊まりに行っていいですか?」


 そして揺れが止んだかと思うと俺から身を乗り出し、燈さんにそう尋ねた。


「え? ヤダ」


 だがその言葉のキャッチボールとして投げられた問いかけは流華の頭上を大きく超え打ち返されてしまった。ホームラン。


「にしても――」


 それを俺は流華の重みを感じながら他人事のように聞いていた訳だが、燈さんは突然何の嫌がらせかいつもより高く甘えるような声でこんな発言をしてきた。


「昨日は良い夜だったね。零」


 言葉の後、口元に漏れ出す人の困惑を美味とし貪る笑み。

 そして俺はその笑みに眉を顰め否定しようとするが、それより先に首へマフラーのように腕が回った。


「零。このまま絞めちゃっていい?」

「いいわけないだろ」

「えぇー! 零ばっかいいなぁ~。僕もお泊りしたーい」

「あぁーあ。零の所為で流華が拗ねたー」

「うわぁー。流華が燈さんのこと好きなの知っててそんな事するかねぇ? えぇ? 零?」


 追い討ちでもかけるように先に莉星が、続いて真人が俺へわざとらしさ満点な軽蔑の視線を向けた(口元が既に笑ってる)。あまりいい予感はしない。


「そーだよ零。僕もう許さないからね! でーもー。今度の休みにディーランドに行ってくれたら許すかも~」

「いやぁ~、これは行くしかねーよな?」

「そうそう。大人しく次の休みはあたし達と思いっ切り遊ぶしかないわよねぇ~」


 断ればそのまま絞めると言わんばかりに流華の腕は未だ俺の首を囲ったままだった。

 昨日より前までの俺なら、もしかしたらそれでも断ってたかもしれない。だが、今は違う。確かにまだ立ち直れた訳じゃないし、思い出せば溜息を零してしまう上にそこまで騒いで遊びたい気分でもない。

 だけどそんな俺の為にこうして――しかも最近は何度も断っているにも関わらずまたこうして誘ってくれているという事を考えると断れるはずがなかった。そんなの望んでないかもしれないが、その優しさに対するせめてものお礼だ。


「わーったよ。じゃあ次の休みな」


 その瞬間、俺の首から腕は離れ三人はさっきまでの体はどこへやら堂々とハイタッチをし出した。

 そんな三人を見ながら俺はひとつ疑問を浮かべた。


「そういや、夏樹は?」

「あぁ。なんか今日は無理って言ってよ」


 それには真人が真っ先に答えた。


「そういや、最近あいつも様子がいつもと違うよな」

「そーなんだよねぇ。でもただバイトで疲れてるだけって言ってたし、どうなんだろうね」


 この中で俺一人だけが知っている。あの日あの瞬間の言葉と血飛沫。ぼやけていた――いや、見ていなかった周囲が見え始めたからか、今ではその記憶が何よりも深く心へ突き刺さる。後悔と自己嫌悪。あの時でさえ感じたというのに今はより一層、濃くハッキリとしている。柄を握るその感情を意識すればするほど、より深く刀身が沈んでいくのを感じた。

 そう言えばあれからまともに話しをしてない。


 翌日。俺は学校で夏樹に「放課後話がある」と言ったが、避けるように委員の仕事があると返された。だが俺は終わるまで教室で待ってるとだけ言い残しその話を終わらせた。

 そして放課後。俺は一人誰もいない教室で夏樹が来るのを待っていた。一方的に待ってると言ったのが最後だから夏樹は俺がこうして待っているのを知っている。その状況の中、いくら気まずいからといって何も言わず帰るような奴じゃない事は分かっているが、鞄の残されていない目の前の机とこのまま時間だけが過ぎ去りそうな静寂に少しだけ不安が霧のようにかかり出す。

 だがそれは俺がトイレから戻った時だった。そこには教室の前でドアへ手を触れさせながらも立ち尽くすく夏樹の姿。俺には気が付いてないようだ。

 すると夏樹はドアを開けずにさっと手を引いたかと思うと、体を階段の方へ向けるとそのまま歩き出してしまった。その姿に俺は(別に意識した訳じゃないが)静かにその後を追い夏樹の手首を掴む。


「おい」


 その声と手に当然と言うべきか夏樹は吃驚としながら振り返った。


「――あっ。零。その……」


 口ごもり、ばつが悪そうに俯く顔。

 だが俺はそんな夏樹を遮るように言うべき事を口にした。


「悪かった」

「え?」


 恐らくそんな事を言われると思ってなかったんだろう。上がったその顔はキョトンとしていた。


「この前、お前の所為とか言って。でもあれは本当に思ってたわけじゃないから。理由にならねーけど、ただの八つ当たりだったんだよ。俺、自分の事で手一杯になってて……それで。だから悪かった」

「――でも。私があんなこと言い出したからっていうのうは間違いないわけだし……」


 あれが俺の本心かどうかに関係なく、もしかしたら夏樹は酷く落ち込む俺に責任を感じているのかもしれない。

 でもちゃんと分かってる。別に俺は強制された訳じゃない。断ろうと思えば断れた。だけどコンクールへ挑戦する事を受け入れた。それは自分の中で嫌と言うほどでは無かったからだ。昔を思い出すようで懐かしく、また絵を描く楽しさに触れていたから。


「いや、むしろお前はもう一度チャンスをくれたんだよ。なのに自分の力不足を棚に上げあんな八つ当たり……。いくら余裕が無かったとしても許される事じゃない」


 それはあの時既に後悔と苛立ちの念に駆られていた自分が良く分かっていた。


「お前が何か気に病んだり、責任を感じる必要はこれっぽちもない。俺にお前を責める資格がないのと同じぐらいな。――だからその、あんな事言って悪かった。ごめん。それとありがとうな」


 謝罪とお礼。俺が今伝えるべき言葉を口にすると、夏樹の表情は明るさを取り戻した。その久しぶりにも感じる笑顔に自然と俺も釣られてしまう。


「なら良かった。――でも零が辛い思いしたのには、やっぱり私にも責任があるよ。ほら、夏休みの始めに課題をする為に海に行ったじゃん。私ね。あの時に零が凄く楽しそうに絵を描いてるのを見て、また昔みたいに絵を描く零が見たいなって思ったんだよね。だからどうにかまた絵を描いてもらおうって思って、その口実としてあのコンクールの話をしたんだ。私は自分の我が儘で、また零が絵を描くように仕向けたんだよ。だから絵を描き始めた事でまた苦しんだんなら責任が無い訳じゃない」


 ついさっきまで浮かべていた夏樹の笑顔はあっという間に上書きされてしまった。


「でもまた零が昔みたいに辛そうにしてるのを見てたらどんどん申し訳なくなって……。だからさ。あの言葉もあながち間違いって訳じゃないんだよね。私に責任があるのと同じぐらい、零にもそう言う資格はあるよ」

「そうだったんだな。急に何であんな事言いだしたのかとは思ってたけど。――でもやっぱり俺にはそんな事を言う資格はない。結局は描く選択をしたのも俺だし、実力不足だったのも俺だし。全部、自己責任だから」


 そうだ。結局は何も変わらない。コンクールの選択も描いた絵の実力も、全ては俺次第だった訳だし。それを夏樹に都合よく押し付ける事は出来ないし、するなんて自分勝手だ。

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