7

「大丈夫――今のあんたに頑張れなんて言わないよ。むしろ、あんたはよく頑張ったんでしょ?」

「どう……なんですかね?」

「頑張ったよ。あんたはよく頑張った。沢山悩んで、沢山向き合って、沢山苦労して。こんなにも落ち込んじゃうぐらい真剣にやってきたんだよ。あんたがそう思えないとしても、代わりに言ってあげる。――よく頑張ったわね」


 昔も、そして今回も――色々と思う事はあるが結局はそうやって実力で現実をねじ伏せられない自分が悪いんだと心のどこかでは思ってた。どれだけやろうが――いや、その努力と呼ぶ行為ですら自分の実力を伸ばすにはまだまだ足りてないんだと。俺はまだやってるつもりなだけで、他から見れば全然で、ただ甘えて頑張れてないだけなんだと。どこかでは思っていた。この苦しみでさえ本当に頑張ってる人からすれば鼻で笑ってしまう程度なのだと。

 でも自分の頑張りを誰かに認めて欲しい。嘘でもいいからちゃんと俺はやってきたんだって言って欲しい。心のどこかではやはりそういう気持ちがあったんだろうか。それとも同じような辛苦を経験してきたという燈さんの言葉だからだろうか。

 ――分からない。

 だけど頭を愛撫されながら言われたその言葉は胸の奥深くへと響き、そして共鳴するように全身へと染渡っていった。優しく包み込み勝手に目頭が熱を帯び始めいく。


「世間一般にとって一番重要なのは結果。あんたがどれだけ頑張ったとか、どれだけ苦労したとかあんまり興味ないのよ。それだけの作品を作れなかったら存在しないみたいに見向きもしない。でもそれだけの作品がを作れたら急にそれまでを称え始める。まぁそれは当たり前だけどね。アタシ達だって他の誰かをそうやって見てないわけだし」


 それは今まで痛いと言うほど味わってきた気がする。でも勝負の世界はそういうものだ、と言われればそうだ。常に冷酷で現実的で容赦ない。それに文句を言うつもりはない。


「――でもその人の傍に居る人は違う。あの子達やアタシとかはね。あんたと同じように結果を願って望んでるけど、それまでであんたが流した汗や泪もちゃんと知ってる。見てる。結果がどうであれあんたの事をちゃんと見守ってる人達にはちゃんと、その頑張りは届いてるもんよ。アタシもあの時は訳が分からないほど一人で練習したし、それでも中々上手く出来ない時もあった。でもそれで落ち込んでたら他のメンバーにはむしろ褒められちゃってさ。ちょっと照れ臭かったけど。嬉しかったんだよね」


 そう語る燈さんの表情は当時の面映ゆさはなく、ただただ嬉しそうで穏やかに笑っていた。


「確かに今回は全然ダメだったかもしれないけど、その為にあんたが沢山描いてたのはアタシも知ってる。色々頑張ったんでしょ。だからさ、ダメだったかもしれないけど」


 そう言って燈さんはもう一度、手を優しく動かした。


「――よく頑張ったわね。お疲れさん」


 その瞬間、ずっと心の中で蠢いていた混沌が少しだけ和らいだ気がした。ずっとコンクールも駄目で投稿作品も酷い有様。まるで往来する人々でごった返す中、一人必死に絵を描いてはそれを持ってアピールしているのに誰一人として足を止めるどころか見向きすらされないような気持ちだった。

 でもその「頑張った」という言葉は、たった一言の何てことない言葉かもしれないけど、自分ではない誰かに初めて言われたその言葉は――春先の暖かな陽光のようにそんな俺を照らした。これまで一人で抱え込み感じてきた苦しみが少しだけ報われたような――あの辛さは無駄だった訳じゃないんだと少しだけ思えた気がする。

 それに単純に誰かにそう言ってもらえて嬉しかったのかもしれない。やっぱり心のどこかでは無意識のうちに求めていたのかも。

 だからか俺の意識とは関係なく、気が付けば目から振り出した驟雨が頬を伝っていたのは。

 俺はそれに気が付くとすぐさま顔を俯かせた。理由は単純に恥ずかしかったからだ。顔を見られないように、泪がバレないようになるべく自然で迅速に行動したつもりだった。

 だが、顔を俯けるのとほぼ同時に頭上の手は頭を撫でながら(包み込むように)横顔へと触れ、俺の顔を引き寄せた。頭が柔らかな感触にぶつかり視界に広がる見覚えのある色。


「見なかった事にしてあげるから、気の済むまでいいよ」


 頭に回った燈さんの両腕は力強くも優しく俺を抱き締めてくれていた。まだ恥ずかしさはむず痒く残っていたが俺は少しの間、その言葉に甘えさせてもらった。燈さんの胸の中で感じる温もりは温かく、心へ沁みる優しさもまた温かい。その最中、あの混沌が一人で抱えるには余りにも重く、激しく、大きかったんだという事を感じた。

 それが双眸から雫となって体の外へと流れ出している。そう簡単に全てを吐き出すことは出来ないんだろう。でも少しぐらい楽になっていくのを感じた。

 しかしあまりずっとそうしいる訳にもいかない。俺は気持ちが幾分か楽になると若干の気まずさと恥ずかしさを胸に残したまま燈さんから離れた。


「――あの……」


 俺が何を言っていいか分からないでいると、燈さんの伸びてきた手が頭を撫でた。


「忘れたらダメよ。たまには立ち止まってちゃんと周りを見ないと。自分一人で抱え込んで蹲ってたら差し出された手に気付けないからね」


 頭上から滑り落ちた手は頬へ触れ、流れそびれた泪を拭った。


「――はい。ありがとうございます」

「まぁでも、もしあんたが頑張らないといけないってのに怠けてたらケツ蹴ってやるけどね」


 その笑みはいつもの燈さんの笑みに俺は思わず笑いを零す。


「燈さんは容赦なさそうなんでそれはちょっと勘弁してもらいたいですね」

「じゃあ怠けないように。特にバイトはね」

「自分で言うのもあれですけど、結構いい働きしてると思いますけどね。急なシフトも大体応じるし」

「確かにねぇ。やっぱ良い店長の元には良いバイトが集まるってこよねぇ~。それにアタシの人を見る目も良いって事かぁ」


 燈さんはしみじみとした様子で最終的にはウンウンと自分を褒め始めた。


「まぁそうですね」


 流すようにそう言うと俺は部屋の中へと戻った。


「その言い方、思ってないな!」


 それからテーブルにはまた空缶が増え、俺はいつもより早い時間に眠りに就いた。

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