5

「すみません。てっきり燈さんが酔って変な事言ってるのかと思ってました」

「そんなに呑んでないっての」


 そう言いながらもう一本のビールを開ける燈さん。


「確かに説得力がありますね」


 明日が休みだと知ったからだろう心做しかアルコールでも入れたように幾分か気分が良くなったように感じた。


「そうか休みかぁ」

「――で? 何するわけ?」


 改めて噛み締めるが如く口にした小さな呟きに燈さんはそんな問いかけをしてきた。

 それに対し少し考えてみるがそれ自体が既に予定のない証だった。


「んー。さぁ、何でしょうね」


 ここ最近の休日は記憶に残らない程に何もしてない。少し前まではずっと絵を描いていたのに。


「あんた料理出来る?」

「料理? まぁ、簡単なのなら。たまに朝とか昼とか自分で作る時もありますし」

「よしっ! じゃあ今日は泊まって明日の朝、お店に行く前のアタシにご飯よろしく」

「えぇ……。お店って何時ですか?」


 面倒だと言う無言の言葉が自然と眉を顰めさせた。


「七時には開けるからそれに合わせて行く感じ」

「えぇー。休みの日に早起きなんて嫌ですよ」

「いーじゃん。お店の料理も任せられるか試験してあげよう」

「いいです。それって俺の仕事が増えるだけなんで」

「ん? いい? さっすがぁ~。んじゃよろしく」

「えっ? いや……。はぁー」


 今は何を言っても駄目なような気がして俺は無力の溜息を零した。


「そうだ。あんたって漫画とか読む?」


 そこからは何故か突然始まった漫画の話が意外と花を咲かせ、しばらくはその話題のボールでラリーが続いた。

 家にいるからか、それとも話題が盛り上がりを見せたからか、燈さんのお酒の手もテンポを早めどんどん空缶が増えて行った。


「あぁー。もう無くなくちゃった。よし! コンビニ行くか」

「マジですか? まだ呑むんですか?」

「あんたも泊まるんだから色々買う物があるっしょ。ほら」

「いや、俺はまだ……」


 どうして俺の抵抗はこうも虚しく散っていくんだろうか。結局、手を引かれるように俺は近くのコンビニへと来ていた。お酒におつまみたまたま見つけた新刊など燈さんは商品を手にとってはかごへ入れていく。

 そして会計を済ませ荷物は全部俺が持つ羽目になりながら家へと戻った訳だが、その途中、俺はもう泊まるしかないと観念し親へ電話をかけた(同時に休日の早起きが決定した)。その時、俺が話していると横からスマホを取った燈さんは直接親と簡単に言葉を交わしたのだが、流石は大人と言うべきなんだろうかその声には丁寧さが纏わり接客時のような物腰だった。恐らく親は燈さんが呑んでいるとは夢にも思ってないだろう。当然のように素面で話をしているんだと思ってるに違いない。それ程までに普通の対応だっだ。これはアレに似ている。説教中の母親が電話に出た途端、さっきまでのが嘘のように穏やかになるあの現象(大人としては当然の対応だと思うが、それでもその変貌っぷりは中々のものだ)。

 それから家に戻ると燈さんはまた呑み始めるかと思ったが「いつでも寝れるように」と颯爽とお風呂に入り、汗をかいてしまっていた俺もその後に借りた。


「なんですかこれ?」


 あまり気は進まなかったが着る物も無かったので服も貸してもらった訳だが、そのTシャツには良く分からないキャラが描かれていた。それはもう何度見ても何か分からない謎過ぎるキャラが。


「さぁ? 気に入ったんだったらあげるけど? 随分着てないし」

「いや、遠慮しときます」

「そう」


 呟くようなその声を掻き消すようにビールの解放音が一瞬、響いた。

 それからソファに並んで座りながらしたことと言えば会話と会話。今日だけで燈さんとは一生分、話したようにも思える。でもずっと話しをしているというのも悪くない。何かを考えたり思い出したりして沈む隙すらないのは楽だったし、何よりそこには単純な楽しさだけが記憶として残っていた。最初、ご飯に誘われた時も泊まる事も今思えば良かったのかもしれない。何となくそう思う。

 すると、少しぼーっとしながら手元の缶を見下ろしていた俺の頭を燈さんが荒らすように撫でた。


「少しは元気出たかぁ?」


 突然の事に少しばかり驚きながらも燈さんを見遣る。多分、その時の俺の双眸は何だと問いかけていたと思う。


「だから、少しぐらい気分は良くなったかって?」

「えーっと、というと?」

「あんた今日も元気なかったし、それにあんまり遊びにも行ってないみたいじゃん。思ったより落ち込んでるんだなぁって思って」

「もしかしてだから今日は珍しくご飯に連れてってくれたりしんたんですか?」

「そーゆーこと。で? 少しぐらい気分転換になった?」


 珍しく(というか初めて)ご飯なんて誘われたかと思ったが、まさか俺の為にしてくれていたとは思いもしなかった。


「――はい。ありがとうございます」


 その思いもよらぬ気遣いに俺はお礼を言いながら心の中で面倒だと思ったりしてしまっていた事に対して申し訳なく感じていた。


「じゃぁー良かったよ」

「――実は昨日、家に帰ってから燈さんに言われた通り描いてみたんですよね。投稿とかコンクールとか関係なくただ絵を」


 別に報告とかそう言うのじゃないけど、何故かふと思い出して気が付けばその事を口にしてた。

 言葉を口にしながら俺はその時の事を鮮明に思い出していた。最初はペンも走ったがすぐに描けなくなってしまった時の事をその感情の隅々まで。


「でも駄目だったんですよね。上手く説明出来ないですけど、凄く苦しくて自分が何もない無力な奴に思えて……辛い気持ちが全身に纏わり付いてきて。昔、絵を辞めた時と同じ――この前のコンクールに落ちた時と同じ気持ちが、こう忘れるなって言うみたいに湧き上がってきて……」


 だがそこで俺は何でこんな事まで話しているんだと我に返るように思い、言葉を途切れさせた。


「すみません。あっ、麦茶貰っていいですか?」

「どーぞ」


 そして逃げるようにキッチンへ行き麦茶を一杯コップに注いだ。一口飲みながらソファへ戻る途中、俺はたまたま目に入ったそれが意外な物で思わず手に取った。


「燈さんって煙草吸うんですか?」


 最初は意外だったがそう言いながら以前、お店の裏で寝かせて貰った時にタオルケットから少し煙草の匂いがしたのを思い出していた。


「ん? あぁ。それは、彼氏の」

「え? ほんとですか?」


 失礼ながら俺はその言葉に訝しげな視線で燈さんを見てしまった。言い訳するならてっきりいないとお思い込んでいたからだ。しかも以前の事を思い出し心の中では既に吸うんだと答えが半分以上出ていたから。


「何よ。アタシに彼氏がいたらおかしいっていう訳?」

「いや。そう言う訳じゃ……ないんですけど……」


 俺が勝手に若干ながらたじろんでいるとお酒を置いた燈さんはこっちへ近づいて来た。そして煙草を手に取ると一本取り出し人差し指と中指で挟んで見せる。


「じょーだん。あんたのご察し通り彼氏じゃない。これはたまーにね」

「でも似合いますね。煙草」


 さっきのがある所為で本心だが、なんだかご機嫌を取っているようにも感じた(相手がどうかは分からないけど)。


「そう?」


 燈さんはそう言うと煙草を咥えて見せた。


「カッコいいです」

「そう言わて悪い気はしないわね」


 口から煙草を離し口元を綻ばせながらライターと携帯灰皿を手に取ると、燈さんは歩き出しベランダへと出た。その後を追うと、すっかり夜に呑まれたベランダで一瞬火が灯り、蛍のような明りが宙を泳ぐのが見えた。そして欄干を背に凭れかかり部屋から漏れた光を浴びる燈さんの口から吐き出される白い煙。

 それはとても絵になる光景だった。思わず見つめてしまうくらいには。


「アンタ初恋いつだった?」


 煙草を吸う燈さんをただ見ていた俺。

 すると、燈さんは煙を吐いた後にそんな事を口にした。突拍子もない、自分の聞き間違えかと思ってしまうように突然にだ。


「え? 急になんですか?」

「初恋。あるでしょ? それともまだ?」


 そう言う訳じゃないが、心の中にはやはり何故そんな事を訊くのかと疑問が依然と存在していた。恐らくそこまで深い意味はないだろうけど。


「――そうじゃないですけど。まぁ……中一ですかね」

「へぇ~。中一って事は小学校は別ってわけね。それとも気付いたって感じ?」

「小学校は違う子です。別のクラスの夏樹に教科書借りに行った時、夏樹と話してた子で……ってもういいですか?」


 燈さんは煙を吐きながら些細な手振りと表情だけで、いいよと返事をしてくれた。


「アタシはね小学四年。その子はあんまり目立つ子じゃなかったんだけど、何かのキッカケで話すようになってね。でも最初はこれが恋だって分からなかったんだよね。ただその子の事をよく考えて、話していると他の子よりも楽しく感じるってくらい。だけどある日、アタシが登校してる時に後ろから肩を叩かれて振り返ったらその子がいてさ。別に特別な何かがあった訳じゃないんだよ。ただ、おはよう燈って笑顔で言ってくれて――それを見た時、アタシは気が付いたんだよね。胸を強く締め付けられるのと同時にこの子に対する気持ちが初めてのものだって」


(お酒の所為だろう)そんなエピソードを語る燈さんは顔を俯かせ記憶の上映を見ながら懐古に染められた微笑みを浮かべていた。

 そして顔を上げると煙草の指で俺を指差した。


「あんたはその子に告白したの?」

「まぁ一応……。駄目でしたけど」


 苦いと言えばそうだが、今更引きずるような思い出でもない。


「引きずった?」

「少しだけ。でもすぐに立ち直りましたけどね。そう言う燈さんはどうなんですか?」

「アタシはね――結局してない。中学も別だったし、その子とも小学生以来会ってないわね。後悔は……無いと言えば嘘になっちゃうかな。実際、中学の時は忘れられず後悔もしてたし。もしあの時、告白してたらどうなってたんだろうって。その所為で恋人どころか恋愛すら出来なかったからね」


 それは少し意外だった。燈さんなら好きだと分かったその日にでも告白してそうだったから。


「それに今もちょっとぐらいは思っちゃうかな。でもまぁ、もう考えても仕方ない事だし。――だけど今何してんだろ」


 燈さんは最後に小さく呟くと煙草を咥えた。そして赤い蛍が薄暗さに舞い、燈さんはどこか遠くを見つめていた。ここじゃない過去を見ているんだと思う。

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