3

 家に帰るとキッチンで消費した水分を補充してから部屋に上がり机の前へ。椅子に深く腰掛けながら俺は燈さんの言葉を思い出していた。


『じゃあまた絵だけでも描けば? 別に投稿も応募もしないで、ただ描けばいいじゃん』


 また絵を描く……か。正直そこまで描きたいとは思わないけど、もしそれで今よりマシになるのならそれも良いのかもしれない。

 俺は引き出しから取り出した液タブと久しぶりのご対面をすると、早速ペンを走らせた。最初は軽快に無の世界へ小さな二次元空間を生み出していくが、それもその全貌が露わになる前に失速し最後は止まった。絵を描いているだけで内側からふつふつと嫌な感覚が湧き上がるのを感じたからだ。希望と絶望のメトロノームが揺れ動き、描いていると呪われたように心を照らしていた陽光が身を顰め始める。描いているだけであの瞬間を思い出す。幾度となく染め上げられた敗北の色。まるで俺の全てを否定するように隅々まで塗り潰してしまう。

 気が付けば溜息を零しやる気の欠片すら見つけられなかった。俺は投げ捨てるようにペンを置くとそのままベッドへ。その瞬間、まるであの日のあの時間――コンクールの結果に喰い殺されたあの時へ戻ったような、正確には言葉に出来ない混沌とした感情が俺の中に広がった。

 そのほんの一部すら発散出来ないと分かっていながら強く握りしめた拳をベッドに叩きつける。もう一度、もう一度。このまま気の済むまで暴れて部屋をめちゃくちゃにしたい気分だった。

 でもそれは昨夜、遅くに寝た割に早起きし殆ど寝てないお陰だろう。程なくして俺は眠りに落ちていた。一時的に感情も何もかも忘れた俺が次に目を覚ましたのは夕暮れ。


「結構寝ちまったな」


 窓から差し込む夕陽を眠気の残る双眸で見ながらそう呟くと、視線はそのまま机の上へ。そこには当然ながら出しっぱなしの液タブが未だ空を見上げていた。それを見ただけで欠伸より先に溜息が溢れ出す。

 俺はベッドから降りるとスマホと財布だけを持って外へと出掛けた。あのまま、あの部屋でじっとするのには耐えられなかったからだ。

 気分転換も兼ね外へと出ると、目的も無くただぶらり。耳にしたイヤホンで音楽でも聴きながらただ歩いていた。

 家を出てからどれくらい歩いただろう。俺は海の見える場所に来ていた。眼前に広がる真っ赤に染まった海と空。いつもより儚く淡い海と感傷的な階調の空は、どこか異世界へと紛れ込んでしまったかのように幻想的。思わず足を止めるには十分過ぎるその光景を前に俺は欄干へと近づいた。

 瞳のキャンバスに描かれた景色。それが体中へ沁み渡るのを感じる。外界の気温とは対極的な液体が口から胃へ向かう最中、じわり辺りへ広がっていくように。双眸から差し込んだそれは心へと沁み、段々とセンチメンタル色へと染め上げていく。

 手を伸ばせば音楽も相俟ってそのままあの夕日へ――この景色へ吸い込まれていきそうだった。それにこの景色を見ていると自然と昔を思い出し懐古の情に駆られる。


「綺麗だ」


 まるで絶世の美女でも目の前にしたかのように俺は呟いていた。

 空気を伝い言葉が届けられた後、お返しの様に吹いたそよ風に肌を撫でられながらも俺は眼前に広がる自然の魔法が生み出した美景をただただ眺めていた。

 だがその景色を見ていると段々心の皮を一枚一枚剥いていくように、複雑に絡み合った感情が解かれ鮮明になっていくのを感じた。そこにある早く手放したいと願ってやまないモノがこの場で生まれた感動という感情を押し上げ奥底から溢れ返る。

 最初の頃はよかった。自分が下手なのも認め自他の評価も一致してたし、気合も希望も期待も何もかもが十分で。でも次第に視界の見え方が変わっていった。俺が置いて行かれたのか、俺が先走ってただけなのか、生じたズレが段々と二人を引き離していく。

 どれだけやっても生まれてくるのは結果なんかじゃなくて辛さと苦しさだけ。その辛苦に溜息を零し、歯を食い縛っても――それでも描いて描いて描き続けたあの頃。無言にどれだけ叩きのめされようが、どれだけ追い越され置いてけぼりにされようが、進む事を止めなかったあの頃の俺を支えていたのは――原動力は何だったんだろうか。蜃気楼のような未来、根拠の無い自信、キャンバス一杯に彩られた鮮やかで純粋な絵への想い。今の俺にはないそれは一体何なんだろうか。

 でもそれが何にせよ全て腐敗し消え去った。全てが嫌になった。どれだけ進んでも一向に距離の縮まらない未来も、根拠の支えが無く倒れてしまった自信も、辛苦に塗れ目も当てられないキャンバスも。全てが俺の心を生きたまま喰い殺してしまった。

 もう酷く疲れた。ああしてこうして、もっとここを――なんて描いたものを無に帰しながら希望と期待を混ぜた煌めく電子絵具で時間を掛けて少しでもいい作品を作り上げていく。どうせ誰も見ないのに。どうせ誰の心にも響かず、気に入られることも無いのに。もっと多くの人に、そう思いながらどれだけ時間と苦労を掛けようが結局は何も変わらない。自分を無駄に削り落としているだけだ。描けば描く程に、時間と苦労を掛ける度に、苦痛に辛苦に苛まれる程に。出来上がった作品と共に残るのは虚しさだけ。描くのに苦労し、結果に苦悩する。それはまるで死ぬほど一生懸命に崖を上り、やっとの思いで辿り着いた途端に奈落の底へ突き落されるような気分だ。上っては落ち、上っては落ち。気分とモチベーションは大波を打って、最後は水平線を描く。

 追い込まれ、誰かと比べ、自分の方が良いのにと愚痴を零し。そうやって 更に落胆しては、そんな自分に嫌気さえ差す。

 強く願い求めていたからこそ――それらが苦しくて、悔しくて、辛くて、痛くて、どうしようもなくて。


「あああああァァァァァ!」


 まるでこの世界に産み落とされたばかりの赤子のように叫ぶ事しか出来ない。心の膿を絞り出すようにとにかく大声を出す。それはイヤホンから聞こえる音楽を掻き消すぐらい大きく、誰かが見ていたら不審がる程に感情を押し込んだ声だ。

 意味が無い事は分かっていた。だけどそうせずにはいられなかった。これ以外に内から湧き上がる激情をどうしていいか……。これ以上、抱えてはいられなかった。

 俺は息の続く限り、声の続く限り、叫び続けた。体を前のめりにさせながらも全てを吐き出すように。

 でもこんな俺の八つ当たりのような叫びでさえ受け止めてくれるほどには、この夕焼け空と海は寛大だった。全てを呑み込んでも尚、眼前の景色は美しさを保っている。雲ひとつ変わらず、波ひとつ荒れず。俺の声を飲み干してくれた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 軽く荒れる息。俯く顔。出せる限りの声で叫んだ。これまでの短い人生の中でも――それこそ赤ん坊の頃と良い勝負をするほどには。

 だがそれでも胸の中に詰め込まれた辛苦は減りすらしない。

 俺は丁度視線を落とした先――握っていた欄干を見つめながらその胸の内で蠢く感情を感じていた。あの頃の嫌な気分を再現するような感情は煽るように堂々とそこにいて、それをより鮮明に感じれば感じるほど欄干を握る手が軋む。そしてついには居ても立っても居られなくなり、前後へ振るように欄干へと力を加えた。殴るように激しくそして強く。

 だがどう足掻いても変えられない現実のように、欄干はビクりともしない。そこにはただ何も出来ない虚しい俺と言う存在だけがぽつり残されていた。


「何だよ。クソっ!」


 正直に言って、そのままその場で泣き崩れたいような気分だった。それで全てを流し切り楽になるのなら。

 でもいくら泪を流そうが心にこびり付いたこれを洗い流せない事は分かっている。もしかしたら俺は一生この汚れを付けたまま生きていくのかもしれない。そんな事を思いながら今はただ気分転換どころかより一層落ちてしまった心を抱えその場を離れるしかなった。

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