2

 それはあるバイト終わり。家までもうすぐというところで俺は財布を忘れた事に気が付いた。


「やば」


 道に一人立ち止まり若干の絶望と共に言葉を口にする。

 そしてスマホを取り出すと燈さんへ連絡を入れた。


『あぁ。それなら念の為アタシが持ち帰ったから次のシフトの時に渡してあげる』


 確か次のシフトは明後日。


「明後日まで財布無いのはなぁ」


 少し考えた末、燈さんに今から取りに行っていいかを尋ねた。


『明日の朝ならいいよ』


 忘れたのは俺だし都合は合わせないと。土曜日だと言うのに少し早起きする事が決まった俺は了解の意を返した。

 翌日の朝。俺は約束通り燈さんの家へ。以前、何かの用で来て以来だがそれが何の用だったのかは今では思い出せない。

 インターホンを押すと少し遅れてドアが開いた。


「おー。早かったね」


 中から出て来たのはボサついた髪に(別に自分の家だからいいが)だらしない恰好をした燈さん。


「まだ寝てました?」


 燈さんの眠気を感じる顔を見ながら既に俺は申し訳ない気持ちになっていた。


「まぁね。でも気にしなくてもいいって」

「すみません。あっ、これ」


 そう言って俺はここへ来る前に買ってきたちょっとしたスイーツの入ったコンビニ袋を差し出す。


「お詫びというかお礼というか」

「へぇー。そんな気遣い出来るんだね。――じゃっ、上がりな。お茶ぐらい出してあげっからさ」


 燈さんはそう言うと踵を返して奥へと歩き出し、俺は閉まり始めたドアへ手を伸ばした。財布を貰ってすぐ帰ろうと思っていたが、まぁいいかと玄関へと足を踏み入れる。


「お邪魔します」


 聞こえてるかは分からないが言葉を口にし家へと上がる。廊下を進み開きっぱなしのドアを通るとダイニングキッチンが顔を見せ、もう一つの部屋(中を見た事はないけど寝室って言ってたような気がする)へと繋がる戸は閉まっていた。

 それにしても相変わらず綺麗とも散らかっているとも言い難い、生活感のある家だ。


「これ持ってテーブル行ってて」

「はい」


 さっき渡したばかりの袋を受け取ると俺は若干ながら物が散乱したテーブルへソファを背凭れに腰を下ろした。


「何がいい? 珈琲か麦茶か」

「珈琲で」

「はいよ」


 先行してカフェにいるような匂いが漂い始め少ししてから珈琲の入ったコップを二つ持った燈さんが戻ってきた。その姿を見た俺は袋から二つのスイーツを出し並べる。


「ありがとうございます」


 目の前に珈琲が置かれるとお礼と共に頭を軽く下げた。

 そして燈さんは隣に腰を下ろすと二つのスイーツを手に取り見つめ始めた(どっちから食べようか悩んでいるんだろう)。


「こっちだな」


 そう呟くともう一つを俺の方へ。


「いや、でもこれは」

「いいから。いいから」

「――それじゃあ、ありがとうございます」


 そしてほんのり苦くも美味しい珈琲と一緒に甘いスイーツを食べ始めた。我ながら良い選択だったのではないかと自画自賛してしまう程にはそのスイーツは美味しかった。


「あんた最近、ほんと元気ないよね」


 スイーツを食べていると燈さんがふとそんな事を言い出した。


「え? 出てました?」

「まぁそれなりに」

「ちゃんと接客してるつもりだったんですけど。すみません」

「そうじゃなくて。それ以外で。接客はいつも通りだから」

「なら良かったです」


 てっきり接客業の店員としてあるまじき顔でもしててそれを怒られるのかと思ったが、違うらしく内心ホッとしてる。


「どうした?」

「え?」

「だから何をそんなにしょげてるわけ?」

「いや、しょげてるっていうか……」

「なに?」

「――いや、実は俺にも良く分からなくて」


 情けない話だがそれが本音だ。自分でも今の自分が良く分かってない。


「コンクールが決まって、また絵を描き始めて、サイトに投稿するようになって。最初は楽しかったんですけど、段々と上手くいかなくなって。正直、あのコンクールはいいところまでいける自信があったんです。でも実際は全く駄目で。それで色々崩れ落ちたっていうか。――でもよく考えたら昔もそうだったんですよね。自分では十分頑張ってると思ってたし、確実に作品も良くなってるって思ってたのに。投稿に対する反応の良い変化も無ければ、コンクールは軒並み落選して。そんな感じでずっと空回りしっぱなしで。――結局、どれだけやってもやっぱり俺には無理なんだなってわかっちゃったんですよね。だからもういいやって止めたのに……なんかまだ変な気分が続いちゃってて」

「――じゃあもう今は描いてないわけ?」

「あのコンクールの結果を見てからは何も」

「ふーん」


 てっきり何か言われるんだと思ってた。諦めずに頑張れとかそんな激励の言葉を。

 でも燈さんはあっけない返事をするとスイーツへスプーンを伸ばし始めた。


「何も言わないんですね」

「ん? 何か言って欲しいわけ?」

「いや。そう言うんじゃないですけど、何か何かこう頑張れとか言われるかと思ったんで」

「頑張ったんでしょ? あんたは」

「まぁ――」


 頑張った、俺はそう返そうと思ったが何故か言葉は喉で閊えてしまった。


「俺はそう思ってますけど……実際はどうなんでしょうね。結局、これと言って成果は出てない訳なんで気持ちだけそうなのかなとも思いますけど」

「別にあんたが自分のしてきたことに対してそう思うんならいいんじゃない。そしてそれをもう止めたいんでしょ?」

「そうかもしれないです。最初は楽しかったのに段々とそれが薄れて、いつしかただ辛いだけになっていって。あの頃もついこの間も、最初は絵を描いてるのが楽しかったから始めたはずなのに、結局最後はその絵を描くことが苦労で苦痛で辛くて。ただただ嫌な部分だけを味わってるだけに思えて来たんですよね。努力とか苦労とか、そういう苦しさだけが俺の手元にはあって肝心なモノは遥か向こうなんですよ」


 俺はただ結果に繋がらない臥薪嘗胆の日々を過ごしてきただけ。犠牲を払うだけ払ってその見返りは何もない。それだけじゃなく眼前に広がるのは果てしない大海原で最早どこに進めばいいかも目的の場所さえ見当たらない。

 そんな状況に俺はウンザリして耐えられなくなった。


「だから止めたはずなんですけどね。色々な苦難から抜け出そうと」

「そう。――じゃあまた絵だけでも描けば? 別に投稿も応募もしないで、ただ描けばいいじゃん。自分の為に。そしたら少しはマシになるんじゃい」

「そうですかね?」

「さぁ? でもやってみれば?」


 確かに俺は絵自体を止めたけど、ただ描くならいいのかもしれない。

 そう思っていると、スイーツを食べ終えた燈さんは立ち上がり隣の部屋へ行ってしまった。小首を傾げながらその姿を見送った俺が一口、スプーンに乗った甘味を食べてる間に燈さんはすぐ戻ってきた。


「はい。忘れないうちに」


 そう言って差し出されたのは財布。すっかり目的だったこれの事を忘れてしまっていた俺は心の中で「あっ」と声を漏らした。


「ありがとうございます」

「家にまた来たいからって忘れて行くなよー?」

「忘れませんって」


 意地悪な表情を浮かべる燈さんを他所に俺はすぐさまポケットに仕舞った。

 そして残りのスイーツを一気に食べ最後は珈琲で口をスッキリとさせてから俺は立ちあがった。


「ご馳走様でした。それじゃあ俺は行きますね」

「明日もちゃんと働けよー」

「言われなくても働きますよ。それじゃあ」


 無事財布と再会できた俺は燈さんの家を後にすると真っすぐ帰路に就いた。

 だがその途中、俺は聞き慣れた声に名前を呼ばれ足を止めた。


「こんなとこで会うなんて偶然じゃーん」


 そこに立っていたのは(声で分かってはいたが)真人。


「何してんの?」

「別に。帰るとこ。そっちは?」

「ちょっと用事に向かってる途中」


 特に気まずさがあった訳じゃない。でもこれといって話す事が無かった俺は唸るような声で返事をし軽く頷きながら何も言わなかった。

 だが俺らの間に沈黙が割り込む隙はほどんどなく、すぐに真人が次の言葉を口にした。


「アンタさぁ。最近、元気ないよねー。誘いもあんま乗ってくれなくなったし」

「そうか?」


 自分でもそれは嫌と言うほど分かっていたが、俺は何食わぬ顔で恍けた。


「どしたの?」

「どうしたって……別に何にも」


 だが真人は訝し気な視線を俺に向けていた。正直、見透かされているようで居心地は良くない。


「まっ、別にいーけど。でももし何かあるんだったら話ぐらい聞けるし、何か力になれるかもしれないって事は言っとくから。あたしだけじゃなくてみんなもね。それをめんどくさがったり迷惑がったりするような仲でもないっしょ。少なくともあたしはそー思ってるけど」

「――どうしたんだよ。急に」

「いやぁ、別に何も」

「そう。――じゃあ俺、行くわ」

「あたしも行かないと。んじゃまた」

「あぁ、またな」


 そして互いに歩き出しすれ違った俺らは互いに背を向け合い足を進めた。

 だが俺はすぐにその足を止めると一度振り返り、行き交う人々に紛れたその背中を少しだけ見つめていた。

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