第四章

1

 絵を辞めたのはこれで二度目だ。液タブは引き出しで眠り、白紙を彩る事も無ければ、頭で絵を考える事も無い――訳でもなかった。頭では癖のようにふと考えてしまう。きっとあの日からまだ数日しか経ってないからなんだろう。心もまだ混沌としたままだ。それでいてずっと空っぽな気分だった。


「零。今日バイト休みだろ?」

「一緒に遊びいこーよー」


 放課後、莉星と流華にそう誘われたがここ最近はそんな気分じゃない。


「悪い。俺はいいや」


 それだけを言い残し俺は帰路に就いた。

 学校でもバイトでも欠けたような気持ちは変わらない。


「最近あんた元気ないけど、どうかしたわけ? 失恋かぁ?」

「違いますよ」

「ホントかぁ? まぁ何か恋愛相談があったらこの経験豊富なお姉さんに相談するんだぞ? こうビシッと解決してあげっから」

「はいはい。分かりましたって」


 真面目に相手する気分でも無かったが結局は軽くあしらうといういつもの反応になった。


「そう言えばあんたのあれどーなったわけ?」

「あれって?」

「絵よ。絵」


 コンクールの事か。その一言ですぐ分かったのと同時に思い出したくも無い記憶に内心で溜息を零した。


「あれは……。ダメでした。全然」

「そう。それは残念だったわね」

「すみません」

「なんで謝んのよ」


 俺がそんな事を言うとは思っても無かったと燈さんの言葉は笑い交じりだった。


「いや……」

「なに? ホントにアタシ達の為だけに参加してた訳?」

「そうじゃないですけど」

「じゃあそんな言葉いらないでしょ。あんたはあんたが描いた絵をあんたの為に応募して挑戦した訳なんだし」


 俺は自分で描いた絵を自分の為に。自分の為だったはずなのに結果それが自分を奥深くへと引きずり込んだのだから皮肉なものだ。こんなことをしなければただ心地好さだけを味わってられただろうに。

 だけど今はただ身が軋むほど冷たく闇いだけ。忘れてしまうまでの間、幾分かマシな息苦しさに耐え続けるだけだ。そのいつかまでずっと心は晴れない。雨が降る事はないが、厭世的で自嘲的な雲が蒼穹を覆い隠し決して晴れることも無い。そんな心模様が続いている。


「はぁー」


 もう一度抱え上げたモノをもう一度手放したはずなのに、俺は未だに散らばったそれを見つめ目を離せないでいる。こんな苦しいだけのモノなんてもう要らない。そう思ったはずなのに未だに息苦しさは続いてる。


「ほらぁ。仕事中に溜息つくなって」

「すみません」

「よーし。それは必要な言葉ね」


 少し強めに肩を叩かれた俺はそれから心を覆い隠した仮面でバイトを最後までやり切った。


 その日、俺は夢を見た。どう誤っても吉夢とは言えない悪夢。

 そこにいたのはまだ一度も絵を手放した事が無く無垢にペンを踊らせていた頃の俺だった。体を誘うように小躍りする心はビートを打つように鼓動し、夢中になりながらも無意識で口元は緩んでいる。自室で自他共に俺は楽しんで絵を描いていた。

 だが突然、足元から茶褐色が溢れ出したかと思うとあっという間に俺の顔下までを呑み込んでしまった。瞬く間に沈められたそれは泥。すると一変したのはそれだけではなく、気が付けば辺りには部屋から大海原の様に果てしない泥へと広がっていた。泥の海に一人放り出された俺は戸惑いながらも(何故かは分からないが夢とはそんなものだ)泳ぎ始め必死で陸を目指した。腕を動かし、脚をバタつかせ、必死で泳ぐ。

 しかしながらその必死さとは裏腹に体は一向に前へ進まない。引き留めるように絡み付く泥の所為で神様がわざと低速再生しているかのように全く。でも俺はそんな現実に抵抗するようにただ死ぬ物狂いで前へ進もうとした。息が切れようが、腕が疲れようが、脚が千切れそうになろうが必死で。


 夢はその途中で終わった。飛び起きた俺は緩く呼吸が荒れ、心臓がバクつき、気分は最悪。


「ったく。何なんだよ」


 顔を手で覆いそう呟く程には。

 その気分は有無を言わさず一日中俺に纏わりついて来た。放課後になっても俺の内側に居座り気分を濁し続ける。


「あれ? 今まだ残ってたの?」


 野球部の声が微かに耳へ届く中、バッグを机へ乗せた俺に教室へ戻ってきた夏樹は一言そう言った。


「提出物があったからそれで」

「あぁ~アレね。じゃあ今帰るとこ?」

「そうだな」

「じゃあ一緒帰ろ」


 夏樹はそう言うとロッカーへ歩き出す。


「にしても零。最近元気ないよね。あっ、もしかしてあのコンクールの事、引きずってんの?」

「いや……まぁ」


 俺が答える間に夏樹は鞄を持って前(自分)の席へ戻ると筆箱や何やらを入れ始めた。


「私も零なら大丈夫だと思ってたけど、あんな結果になっちゃって残念だとは思ってるよ。でもいつまでも落ち込んでても前に進めないじゃん。――最近は絵、描いてるの?」

「いや、あれからは……」

「あのコンクールは残念だったけど、零ならきっと大丈夫って私はそう思ってるよ。だから頑張ってね。って私が言うのもあれだけど……」

「そう簡単に言うなよ」


 それは気が付けば出ていた言葉だった。そして自分の中で苛立ちがふつふつと湧き上がってくるのを感じた。


「そもそもお前があんな事言わなければ――俺だってまた絵を描くことだって無かったのに……」


 その時は既に、俺は自分の黯い部分が溢れ出すのを感じながらもそれを見つめる事しか出来ないでいた。ただそれが八つ当たりだという事を放心としながら認識する事しか出来ないでいた。


「お前の所為だよ。お前があんな事言いださなければ」


 少しの間、カバンを肩に掛けた夏樹は何も言えず俺へ視線を向け続けていた。それはまるで俺以外の世界が時間を止めてしまったかのよう。


「――ごめなさい。でも私は……。ただ」


 視線を落とした夏樹は涙声だった。


「ただ、久しぶりに絵を描いてる零を見て――その。良かれと思って……。でも……。私の所為だったんだね。ごめん」


 一粒二粒。泪を宙に羽ばたかせながら背を向けた夏樹はそのまま逃げるように教室を後にした。

 足音が走り去り、微かに聞こえてくる部活動生の場違いに溌剌とした声の中に一人残された俺は拳を握り締めた。そのまま自分で自分の拳を握り潰してしまいそうなほど強く。


「チッ。クソっ」


 小さくだが強く呟いた俺は抱えきれなくなった分を椅子にぶつけてしまった。少し強く椅子を蹴り机へと戻しても一切晴れる事の無い心。それを胸に俺は教室を後にした。

 次の日、学校で顔を合わせた夏樹はぎこちなさを感じる微笑みを浮かべながらもいつも通り接してきた。だがやはりそこには見えない壁があり俺らしか知らない秘密の気まずさがあった。

 ペンを置いてからずっと心にこびり付いた汚れのように取れない何かがある。その所為でずっと心の眼は曇ったまま。毎日が憂鬱で憤懣遣る方無い。水面が遠く、もう抵抗してないはずなのに体は重く息が苦しい。何がそうさせているのか分からないが、成す術の無い俺は毎日、朝起きてから寝るまで抱えるには重荷過ぎる心を胸にしなければならなかった。

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