7

 絵を描き終えてから四日間。俺は何も描かず何も考えず、去年のようにみんなと夏を謳歌した。遊び、だらけ、時間を無駄に消費し、俺にとって本来あるべき姿の夏休みを過ごした。その時間は気楽で楽しく、伸び伸びと飛び出す笑い声にはなんの重圧も無い。抵抗を感じながらも掻き分ける海水の中を魚のようにスムーズに泳ぐ気分だ。

 だがそれも過ぎると、今度は風光明媚展を目指し絵を描き始める。色々な景色に様々な色。白紙を彩る度に、霧が晴れ鮮明になる道の先。いつの間にか日常の一色と化していた絵を毎日のように描いては、完成させ投稿していく。コンクールの絵を描き上げてから再度組み込まれた歯車は回り出し円滑に回り続けていた。少なくとも俺の感覚では。コンクールの絵を描いていた時とは別世界のような海の中を悠々さを兼ね備えながらも必死に掻き進む。

 でも実際はどうだろうか?

 風光明媚展まではまだかなりの期間がある。夏の想い出風景画コンクールの結果を見てから描き始めても支障が無いほどには。そのおかげか暫くの間は、気軽に絵を描くことが出来ていた。ぶらり見つけた景色や記憶や記録に残っていた景色。コンクールよりは軽く、だが少しでも上手く。一枚また一枚と描き上げていく度に積み重なり流れる星へ伸ばした手が近づいくような気がした。


「そう言えば昨日のやつどうなったんだろう」


 俺はスマホを手に取ると投稿サイトを開きマイページへ。そして昨日、投稿した作品を確認した。観覧数も評価数もまずまずといったところ。とりわけ良い訳でもなければ悪くも無い。

 最近はずっとこうだ。穏やかな海のように何の変化も無い。代わり映えしない水中はどれだけ掻き分けれ進めどその実感さえ与えず――もしかしたら単なる錯覚という可能性でさえある。当然ながらそれまでと同じ分の評価を貰えているという事はありがたい。だが同時に創作者の性なのか人の慣れなのか、落胆の破片が心へと突き刺さるのを感じる。

 しかも時折、水流は行く手を阻むかのように前方から襲い掛かった。


「全然伸びてないし。これはいける気がしてけど……」


 コンクール用の作品を描き上げ、再度ペンを取ってからというもの以前のような変化は、良くも悪くも大きくはない。ゼロという訳じゃないが、そこに表示される数字は常に一定領域。外へ出るとしても下で上はない。より上手くそう励む俺にとって、この変化の無い状況が続くのは少し息苦さを感じる。

 最初と比べれば良くなったとしてもこの投稿サイト内だけでも下の方。最初の方に勢いよく伸びた。それだけ。コンクールの為にも絵の向上を目指してる俺にとってその状況が続くのは、良くなったと思ってるのは自分だけで実際はあまり変わってないと言われているようだ。いや、そうなのかもしれない。上手くなってればもっと増えるはずなのに……。だから反応を確認する度に、代わり映えの無い光景を目にしては溜息が零れる。

 それは日常として馴染むには十分な時間の間続いた。その間も絵を描く手を止めはしなかったものの夢と現実の狭間に囚われ、全てが沈黙した世界で俺は一人藻掻き続けていた。


「これも駄目だ」


 あれだけあった夏休みも残りわずか。

 だがペンを握る俺は依然として膨大な夏休みの最初の方に居た。囚われ、抜け出せない。


「あぁー。これも駄目か」


 停滞をより顕著に感じ始めると、よりその存在感は増大していく。内側で膨れ上がり今ままで自分が何もしてこなかったようにさえ感じる。そしてそこから滲み、伝い、滴る焦燥の雫。ポタリ、心へ急かすように落ちては沁みていく。

 俺はその感覚を知っていた。生物の宿命として死へ向かうのに比例し濃くなっていくそれを。大海原を干上がらせ、猛火に沈黙を齎してしまう恐ろしき病だ。その魔の手がゆるり俺を包み込もうとしていた。背後に感じる気配。腕に触れる高湿度の暑さのように纏わりつく嫌な感触。じっくり浸透する毒の如くゆるりジワリと。

 開いたまま何も進まない絵を閉じ俺はベッドへと体を倒した。特に眠気があった訳じゃないが、自然と目が閉じていく。そして見る事も聞く事も感じる事も、全てから逃れるように気が付けば眠りに落ちていた。


 そこは綺麗な青の世界だった。水面越しに差し込む淡い陽光は優美で神秘的。雲にでもなったような浮遊感と漣のように穏やかな気持ち。

 俺は小魚だった。何故だか分からないが分かった。ふと思い出したように。

 でもそんな事はどうでもよく、俺はただ心地好さを身に纏いながら前へ泳ぎ始める。初めは一人気ままに。宇宙空間のように鰭を動かせば体は抵抗なく前へ。このままどこまでも行けそうな、そんな気持ちだった。

 すると、気が付けば周りには同じように小さな魚が数えきれないほど泳いでいた。まるで自分も群れの一員であるかのように。そして一匹、二匹、三匹、とある魚は俺を追い越し前を泳ぎ、ある魚は更に先へ消えて行った。

 でも俺はそんな事どうでもいい。ただ一人の時と変わらず泳ぎ続けた。他の魚を追い越したり、追い越されたり。周りの変化はあれど俺は変わらない。水の冷たさを、差し込む光を、青い世界を楽しみながら悠々自適に泳ぎ続ける。

 だが段々とそれも変わっていった。あの魚より前へ。また追い越されてしまった。いつの間にか周りの変化が気になり始めていた。真っすぐ前だけを見てただ泳ぎ続けていたはずが、今では辺りを見回しより速くと躍起になっている。前へ前へ。少しでも速く。水の温度など気にしない。光だろうが闇だろうがどうだっていい。世界が何色だろうと構わない。ただただ焦燥を燃料にするように前へと泳ぎ続けた。さっきと比べより真剣に、より全力で。

 でも、一匹また一匹と俺を追い越しては尾鰭を拝ませられる。

 すると俺はある事に気が付いた。それは自分が思うように進めていないという事。最初の頃と違い、前進しようとすれば後方へ引かれ進めない。

 俺の体には、無数の手のようなものが纏わりついていた。影のように真っ黒で不気味に冷たい手。それは段々と強く、より俺の動きを弱めた。必死に抵抗し俺は踠きながらも体を動かすが、魚影に次々と追い越されていくだけで一向に前へは進めない。どれだけ抵抗しようともそれは覆しようのない現実のように変わらなかった。

 そしてその場に一人取り残された俺の顔へ手が至ると、そのまま奥底へと引きずり込まれていった。世界は溶暗としていき、冷たく森閑として――(注射器か何かで)注ぎ込まれているかのように徐々に苦しくなっていく。段々と濃くなるにつれ俺から逃げてゆく黄金色の気泡が最早、見えない水面へと上がっていく。俺を置いて。

 俺は空っぽだ。何もない。それを感じ暗闇に包み込まれながら開いているかどうかも分からない瞳は光を拒んだ。


 一瞬の完全なる暗闇を挟み、手探りで歩むようにゆっくりと瞼を上げていく。外から差し込む夕日が眩しかったが眼前にはこれまで何度も朝に拝んだ部屋の天井があった。


「夢か……」


 そりゃそうだよな、そう呟きながら心の中ではそんな事を思っていた。だが若干ながら余韻のような息苦しさは残り目覚めとしてはお世辞にも良いとは言えない。


「はぁー」


 腕を顔へ乗せ双眸を覆うとひらり花弁が落ちるように零れる溜息。

 その時、内側で広がる既視感を感じた。だが最初はそう思ったが霧が晴れてゆくと、それが既視感ではない勘違いだという事に気が付いた。本当に似た状況があったのだ。

 あれはまだ俺が真剣に絵を描いていた頃(今もそうだが)。毎日のように絵を描いては頻繁に投稿していたのにも関わらず結果は芳しくないまま。ずっと自分の頑張りと結果が結びついてないと思っていた。自分の頑張りが空回りしているような気がしていた。泳いでも泳いでもゴールまでの距離が縮まらず、続けば続く程に苦しさだけが増していく。何で、何でって焦燥感に激しく駆られ宛名の無い苛立ちが更に息苦しくさせる。そのくせあの人やあの人は自分より短い期間でより先へいってしまう。自分より上にいるのに「全然まだまだ」「これだけしか」なんて言いやがる。それを見る度に自分がどれ程才能が無くて、どれ程努力している気になってるだけかを刻み込むように痛感させられる。

 でもあの頃は、今よりもより強烈で濃くそして深い――もっと暗い景色だった気がする。

 だが何のやる気も湧き起らないのは変わらない俺は、結局そのまま夕食までベッドの上でただ寝転がっているだけだった。

 残り少ない夏休み。依然と絵を描かなければいけないという気持ちばかりが先行するだけで、やる気は以前ほどは湧いてこない日が続いた。それでもペンを握りやや強引に絵は描きつつも大半の時間はいつものメンバーと遊びそれなりに充実した夏休みを全うした。

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