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「はぁー」
「あんた、お客さんの前でついたら承知しないからね」
それは無意識で気付かぬうちについていた溜息。
幸いにもテーブル席へ疎らに座るお客さんには聞こえてなさそうだったが、流石に隣の燈さんには聞こえてたようだ。
「すみません」
「最近よく溜息ついてるけど、どうしたわけ? あっ、恋の悩みならおねーさんが――」
「そういうんじゃないですし、そうだったとしても言わないですよ」
「おっ、なんだ? やんのか? 舐めるなよ。アタシだって恋愛の十や二十、経験はあんたよりあるわよ」
眉間に小皺を寄せながら若干の臨戦態勢を取る燈さん。
「いや別にそんな事言ってませんし、ガラ悪いですって」
「じゃあ何をそんなに溜息ばっかついてるわけ?」
「それは……ちょっと色々と上手くいかなくて」
「もしかして絵のこと言ってんの?」
はい、と返事をしながら俺は一度頷いて見せた。
「今はどっちの為に描いてるわけ?」
俺はその質問の意味が良く分からなかった。首を傾げ鸚鵡返しのように訊き返すほどには。
「どっちって?」
「誰かの為か自分の為か。言われて参加することになったから描いてるのかそれとも自分が望んで描いてるのか。どっちなわけ? 前のあんたはあの子の提案の所為って言ってたけど、今のあんたも同じ?」
確かに前とは違う。特に風光明媚展を目指すと決めてからは、これも通過点であり力試しだと。だから今は夏樹が変な提案をしたからというわけじゃない。
「前だったらそれなりの絵を描いて応募して終わりだったと思いますけど、今は自分が描ける一番の良い絵を描きたいって思ってますね。だから、自分の為ですかね」
「なら納得して満足するまで頑張りなさい。流れでやる事になったからやってるだけならそんなに気張らなくても良いって言うけど、自分でやりたいからやってるなら、後悔しないように全力で取り組むことね。残る残らないは置いておいて、これでいいって思えるようなものを描きなさい。例え色々と苦労することになってもね」
背中を押されたって言うよりは、支えられたって言った方が良いのかもしれない。
ちょっとずつしか進まない絵に――というよりそんな自分に段々と嫌気が差し始めていた。これぐらいいいかな、なんて思った事もある。
でも燈さんの言う通りもう少しちゃんと描いてればって思うよりかは、今の時点で嫌になっても納得いくまで描いた方がいいと思う。あまりにも上手くいかなさ過ぎて段々とこれを終わらす事が俺の中で大きくなり始めていた。この苦労から早く抜け出したいと。
でも改めて他の人の口から言われる事でそれに気が付けた。ここが踏ん張りどころだって。
「ありがとうございます。流石、燈さん」
「いやぁそんな褒めるなって。まぁアタシとあんたじゃ経験ってのが違うからね」
上機嫌で得意満面な燈さんは色んな意味で流石だ。
「まぁ、思う存分頑張りなさい。若者よ」
「燈さんそれはちょっと……」
「え? 年寄っぽかった?」
「年寄っぽいっていうか――変な感じですかね」
「じゃあ今のはカットで」
「すませーん」
そんな俺らの会話を終わらせるようにお客さんの呼ぶ声が聞こえた。
空から差し込む陽光に微かに霞がかりながらも辺り一面に広がる向日葵。その見る者の心さえ照らしてしまうような煌めきは眩しく神秘的だった。脇役でありながらも顔色ひとつで全体の雰囲気を変えてしまう繊細な青に染まる蒼穹。視界端で夏を象徴するように浮かぶ入道雲。奥に広がる水平線でハッキリと区切られた海は狭範囲でありながらもその存在感を絶妙に出せている。そして奥にぽつりと佇む一軒家は良い感じにアクセントとなっていた。
「よしっ! やっと完成した」
最後の確認を終えもう一度、完成した絵を見てみる。
「大丈夫。良い感じだ」
そう呟くと液タブを閉じ、俺はベッドへ倒れるように寝転んだ。体がマットに沈み今までの溜息とは違い大きく息を吐き出す。達成感に満足感、解放感。今までとは相反する感情が指先の先まで広がっているのを感じた。背中に背負っていた大きく重い荷物を下ろしたような気分だ。双眸に瞼を下ろせば全身が水となり溶けていくように心地好い。体に巻き付いていた茨は綺麗に解け身を顰め、残り香のような疲労の中へ爽快さと清々しさが入れ替わるように現れた。
そしてついさっき最終確認した絵が脳裏に浮かぶと、思わず口元が緩む。個人的には中々の出来栄えだ。もしこれを投稿出来たら今までで一番の反応があっただろうし、まだ応募さえ完了してないうちから既にいいところまでいける気がしてる。それ程までに自信の作品だった。あれだけ頭を悩ませ、何度も描き直し、時間も精神も注ぎ込んだ甲斐があると思える。そんな作品。
「もしかしたら本当に最優秀賞取れるかもな」
少なくともそんな希望と期待が零れ落ちる程には自信があった。
でもまだ全てが終わったわけじゃない。次は風光明媚展。むしろこれからが本番。それは分かっている。でも今はそれすらも忘れこの気持ちに浸っていたかった。ただハンモックのような波に揺られ続けたい。ただ意のままに吹く風に流され続けたい。ただ雲や波であり続けたい。穏やかな森の中で何の脅威にもさらされず、漣のような気分の中、木々の囁きを川のせせらぎを小鳥の囀りを聞きながら穢れ無き澄んだ空気へ溶けていく。
自分は何者でもなく、確固たる誰か。深淵からこちらを覗く誰かへ手を伸ばし、顔を近づけて見ればそこにいるのは過去と未来。二重面相はじっとこちらを見つめている。だが決してそこに自分はいない。それは自分の形をした何か。対成す鏡に帆を張った時、自分への航路は続く。
俺は気が付けば寝ていた。すっかり日も沈んだ頃、母さんの夕飯の声に目を覚ました俺は下へ降り、次に部屋へ戻る時は寝る以外のやり残しは無い状態。グループラインへメッセージをひとつ、送った俺はそのまま眠りに就いた。
翌日、俺の眼前には星をばら撒いたように煌々とした青い海と人々が犇めく白い砂浜が広がっていた。
「夏の海だぁー!(夏の海だぁー!)」
体を焼く陽光を浴びる俺の横から莉星と真人の燥ぐ声が聞こえる。
「海がオレを呼んでるぜ!」
そんな言葉を残し莉星は走り出した。それに続き真人と流華も。
俺と夏樹はその場に残され砂浜を走る三人を眺めていた。今回は途中で止まり一ヶ所に荷物をまとめるとそこで服を脱ぎ着ていた水着姿になってから海へ。前回と違い脱ぎ捨てないのは数え切れないほどの人がいるからだろう。
俺と夏樹はその海までの姿を見送ってから歩き出し、三人分の荷物が雑にまとまった場所へと向かった。前回はここでそのまま絵を描いたが、今回は俺も夏樹もさっさと水着へと着替え海へ。日差しから逃げるように冷たい海水に包み込まれた。
そして暫くそのビーチで南国旅行のようにゆったりしながらも遊んだ俺らは、水着と濡れた体のまま(手だけ拭いて)ビーチを離れ移動。少し歩いたところにある場所へと来た訳だが、そこは知る人ぞ知る飛び込みの場所だ。
「よーし! いっちょ飛んじゃいますか」
「ちょっと待って」
意気込み一歩踏み出す莉星をほぼ同時に流華の声が止めた。
「何だ? もしかしてビビっちゃいましたぁ? 流華ともあろう者が久しぶりにここ来てビビった? ん?」
「実はさっき夏樹と一緒にこれ買ってきたんだよね」
見事なまでのスルースキルを見せた流華はそう言ってリュックから袋を取り出した。更にそこから取り出したのは人数分の炭酸缶ジュース。それは袋から一本一本出されては、円を描くように立っていた各々の手へと配られていった。
「えー、じゃあ夏樹よろしくどーぞ」
「え? 私!」
「とりあえずみんなは蓋開けてもらって」
その言葉の後、五つ分の夏によく合う爽快な音が一瞬響いてはあっという間に猛暑へと溶けていった。
「えーっと。――私はただ零がコンクールの絵を描いたって言ってたから、お疲れ様ってことだったんだけど」
「零、おつかれー!」
要点は押さえていた夏樹の言葉を押し上げるように流華が缶を空高く掲げた。
「うぇーい!」
「おっつかれー!」
「流石は零!」
「お疲れ様ー」
「五十万~」
「いいぞー!」
「分かってたぞー!」
一人が何度も言葉を放つその四人からのガヤのような声は、蝉の鳴声みたいだった。正直、あまり何言ってるかは分からない。だが他の声より小さくひっそりと誰かが五十万と言ったのは何故だか聞こえた。
「それじゃあ、かんぱーい!」
そんな声を逸脱した流華のより大きな声が再度掲げた手よりも高く響くと、みんなの缶は中央に集結し軽くぶつかり合う。グラスのようにいい音は鳴らなかったが、俺にはそれにも負けず劣らない音が聞こえていた。そしてそのまま口へ流し込むと、思わず目を瞑り唸りたくなるような刺激が喉へ通り抜け様に突き刺さっていく。小高い山を描くように刺激が走っては収まるその感覚の後には新鮮な爽快感と心地好さが待っていた。何度味わってもこれはいい。
「ぷはぁー」
そう声を漏らす莉星と真人はまるでビールでも飲んでるようだ。
「それじゃあ早速、飛び込みにいこー! 誰かさんの足が竦む前にね」
流華の横目が挑発するように莉星へ向けられた。さっきの仕返しだろう。
そして莉星と流華を先頭に俺らはビーチの次はここで気の済むまで遊んだ。
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