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 それから暑さも忘れ俺は向日葵畑を描き続けた。正直、何度も描き直して嫌になるがこれもコンクールでいい成績を取る為、言わばテスト勉強だ。コンクールに真剣に向き合い始めてから――何度も絵を描き直すようになってからたまに嫌になる事がある。でもそれも我慢しなければならないという事は分かってるからこそ、妥協したくなっても堪えもう一歩踏み出す。

 でもそうやってどれだけ嫌でもやるのは、別にカッコいい事でも何でもない。ただただ自分の為。自分が得をする為だ。誰の為でも無い。自分の為。


「はい。どうぞ」


 俺が僅かに口を開くほどには集中して描いていた時の事。その声と一緒にお茶のペットボトルが差し出された。

 それに顔を上げてみるとそこには三井さんが立っていた。


「ありがとうございます」


 少し遅れながらもそのペットボトルを受け取り一口。喉にほろ苦く美味しいお茶がその冷たさを主張しながら流れていった。

 そんな風に俺が貰ったお茶で喉を潤している間に、三井さんは隣で欄干へ腕を乗せ凭れかかる。互いに何かを話し始める訳でもなく、何とも言えな空気の沈黙が微かに辺りを漂った。


「丁度、このデッキを作ってる時だったよ」


 すると三井さんがそう不意に話しを始めた。最初は何の話だか分からなかったが俺は静かに耳を傾けていた。


「ここで作業している時に君のお母さんと話しをしたんだ。とっても綺麗な向日葵ね。そう言ってくれたのをよく覚えているよ。普段は料金所にも人が居るからお客さんと関わることも無かったからね」


 それは単なる気の所為というか俺の考え過ぎだと思う。母さんは自分で言うのもあれだがとても丁寧な人だ。だから初対面の人にそうやってタメ口で話しかけているというのには、少しばかり違和感を感じた。本当に考え過ぎだと思うし、あまりの素晴らしい景色に興奮しついそうなったという可能性もある。まぁ、考えるだけ無駄だということだ。

 それとこの景色を目にした時、多少の違いを感じたのはこの事なんだと納得がいった。記憶の中ではこのデッキ上からじゃなく普通にこの向日葵畑を見たんだろう。だからこのデッキ上から見るのは初めてで、そこが違和感となって浮かび上がったのかもしれない。


「その時、隣で手を握ってた幼い子どもが君。それが今じゃこんなに大きくなってるとはね。別に僕が育てた訳じゃないのに、何故か感慨深いものがあるよ」


 正直、何をどう返事していいか分からなかった。だから俺はその場濁しの笑みを浮かべるだけ。

 すると三井さんが俺の液タブを覗き込んだ。


「絵を描くのかい?」

「はい。一応」

「上手いね」

「ありがとうございます」


 会釈と共にお礼を口にした。


「それが将来の夢?」

「いや、どうでしょう」


 それはハッキリと自信を持っては答えられないものだった。そんな未来を想像したことはあるが、将来の夢かと聞かれればどうだろう。でも今は将来の夢であるかのように、夢へ向かって努力するかのように取り組んでるのは確かだ。


「好きな夢を追いかけるといいよ。ちゃんと勉強していい大学に行っていい会社に入るっていうのも全然いいと思うし、やれるか分からなくても画家や小説家や何かしらのプロを目指すのもいい。結局はやってて楽しいかどうかなんだと僕は思うよ。絵を描いてて楽しいかい?」

「まぁ、そうですね」

「他にもっと楽しくて熱中できることは?」

「今のところはないですかね」

「じゃあ他の何かが見つかるまででも今はそれを夢として追い続けるのがいいよ。一時的にでもいいし、真剣に考えないといけなくなるまででも。他に将来の夢がないのならとりあえずでも好きな事を夢として全力で追い続ければいい。学生の有り余る時間の使い道が無いなら、どうせなら夢として好きな事に全力で取り組んだ方が得だと思わない? 別に後から止めてもいいだよ。今だけでもね」

「そうですね。――夢だったんですか? これって」


 俺はペンを持ったままの手で眼前の向日葵畑を指した。


「そうだね。向日葵畑っていうかこういう美しい景色を作りたかったんだ。昔から花が好きでね」

「じゃあ夢を叶えられたわけなんですね」

「そういう事になるね。その代わりに失ったものもあるけど」


 横目で見た三井さんは顔を俯かせ思ったより後悔色の濃い表情を浮かべていたが、それを尋ねるのは流石に気が引けた。


「でも応援してくれる友達もいたし何とかやってこれたよ」


 その言葉で俺が思い出したのは、今もあの家でお茶をしているであろう四人。俺がこれを夢としてやっていくと言えばきっと三井さんの友人と同じように応援してくれるんだろう。その光景は容易に目に浮かぶ。


「君の友達もきっと君を支えてくれるだろうね。君がそうするように。それに君のお母さんやお父さんも」


 父親。母さんは俺が将来的に絵で食べていきたいと言えば応援してくれるだろう。でもそれまでの間に他の仕事に就かなくてはいけないから勉強もちゃんとしろと言うはず。

 でも父親は分からない。俺がもしそう言ったとしたら一体なんて言うんだろうか。想像すら出来ない。

 何故なら俺は、父親を知らない。別に疑問に思った事はない。それぐらい最初から父親という存在はなかった。母さんと俺。それが俺にとって普通の家庭の形だった。何故いないのか尋ねたことも無い。他の子の家と違うと分かった最初の頃は疑問にも思ったが、母さんも何も言わないし別に聞いたところで何かが変わる気もしない。だから聞く気もない。

 でもこの一瞬だけは少しだけ気になった。一体なんて声を掛けてくれるんだろうか。


「母さんはそうかもしれないですけど、父親はどうでしょうね。分かりません」

「否定する?」

「いや、どうでしょう」

「大丈夫だよ。ちゃんと応援するし、何かあれば支えてくれる」


 そう言う三井さんの顔がどこか父親を知っているというように見えたのは、俺がそう望んでいるからなんだろうか。


「そうかもしれないですね」


 そして三井さんは俺の肩を軽く叩き「頑張って」と一言だけ言うとデッキを降りて行った。

 その背中を見送ると俺は描きかけの絵へ視線を落とした。


「夢か……」


 やっぱり今はまだ分からない。今はただこの絵を仕上げて風光明媚展に向け準備をする事で頭が一杯だ。


「とにかく今は描くのを優先しないとか」


 自分に言い聞かせるように呟くと俺はまた目の前の景色を見ながら絵を進め始めた。



「ありがとうございました」


 臨時休業の看板が掛かった小屋を背に俺らは頭を下げた。


「いーよ。またおいで。次はちゃんと料金を払ってね」


 冗談顔を浮かべる三井さんに笑みを浮かべ返した俺らが思っていた事は全員同じだと思う。


「分かりました。また来ます。次はちゃんと開いてる時に」

「――それじゃあ。気を付けて帰ってね」

「はい。ありがとうございました」


 想い出の景色を見る事も出来たし、絵も大分進んだ。実りある向日葵岬での時間を終えた俺らは来た時と同じように電車で住み慣れた街へと帰った。

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