6

 一本また一本と引かれていく線。一色また一色と増えていく色。それは、濃くなり淡くなり世界を彩る。まるで色々な世界を知り大人に成っていく子どものように白紙は色付いていく。

 俺は完成に近づいていくのが――描き進め完成へと近づいていると感じる瞬間が好きだ。それはふとやってくる。時間や暑さすらも忘れる集中から目覚めた時、改めて絵を見てそう思う。白紙だったものがここまで彩られたと。心まで鮮やかになるのを感じる。

 こうやって気ままに絵を描いてると、巣穴から顔を覗かせるように少し昔を思い出した。初めて絵というものに魅了されたあの瞬間。

 あれは確か今日みたいな暑い日だった。


 帽子を被った俺は母さんと公園に来ていた。小さく遊具もこじんまりとしているが、花壇には沢山の花が咲いている。俺も好きだったが特に母さんはその花達がお気に入りだった。


「お母さんちょっとお手洗い行ってくるからここで待っておくのよ?」

「うん」


 そう言って俺は一人花壇の前。することも無くただしゃがんで、俺らとは違い全身で祝福を受けるみたいに太陽を浴びる花を眺めていた。色鮮やかで、小さく――でも生命力に満ち溢れている力強い花。


「花が好きなの?」


 すると影が俺を包み込み柔らかな声がそう尋ねてきた。視線を花から声のした方へ移動させてみると、そこには肩に鞄を掛け白いワンピースを着て麦わら帽子を被った強い日差しと向日葵畑がよく似合いそうな若い女性が立っていた。


「普通」


 俺は春陽を感じさせる微笑みを浮かべたその人へ正直に答えた。特段、好きと言う訳でも嫌いという訳でもないと。でもどちらかで答えなければならないら迷わず好きと答えるだろう。そんな感じ。


「私は大好き」


 そんな俺の返事ごと包み込むような元気さでそう言うと、女性はその場にしゃがみ俺との目線を水平に近づけた。

 そして脚の上に乗せた鞄を漁り始め、小さな画用紙と色鉛筆にクリップボードを取り出した。その間、俺は女性を何をするんだろうかと見つめていただけ。


「ちょっと待っててねー」


 女性はその一言を口にしながら颯爽と色鉛筆を走らせ始めた。額に汗を滲ませながらも楽しそうな表情で黙々と。

 俺はその間、何も言わずただその女性の横顔を眺めていた。地面からの熱気と太陽からの熱。サウナのような状態の中でどれくらい経っただろうか。


「はい。出来た!」


 突然、溌剌とした声が高い蒼穹へ打ち上がった。

 そして女性は手元のクリップボードを俺の方へ。画用紙には目の前にあったのと同じ花が一輪咲いていた。


「あんまりちゃんとは描けてないけどね」


 そう言いながら少し自信なさげな微笑みを浮かべる女性。

 でもそんな女性とは相反し俺はその絵を目にした瞬間、初めての感覚を感じていた。衝撃や感動。そう言ったものとは違う感覚を胸に。

 気が付けば意識を吸い込まれただその絵を見つめていた。

 白紙の中央にぽつりと咲いた青い花。そう言ってしまえばそうだが、その絵にはついさっきまで見ていた花とは違った輝きがあって。魅力があって。そう、例えるなら初めて恋をした時のような分からないけど心地好い感覚が胸を一杯にしていた。


「じゃあ、はい。これはあげる」


 女性は最初からそのつもりだったのか、それとも俺があまりにも熱心に見つめていたからなのか。その絵を差し出してくれた。


「えっ? いいの?」

「うん。これで君も少しぐらい花の事を好きになってくれたら嬉しいな」


 最後に絵の花と同じように魅力的な笑顔を浮かべると女性は立ち上がった。


「それじゃあね。バイバイ」

「――ばいばい」


 手を振りながら歩き出し行ってしまった女性にはもう届かない程の声を遅れて呟いた俺は、その白い後姿に手を振り返していた。


 それから俺は絵を描くようになった。あの時の感覚が胸の中で迸り続け、同じ瞬間を探し求めるように――というよりその感覚を燃料にただ楽しんで絵を描いてただけか。プロのスーパープレイを見てやる気が上がるのと似て。


「そういや。あの絵。どこに仕舞ったっけ」


 ふとペンは止まり思い返すが、答えは闇の中。ここで考えたところで仕方ないと早々に気が付くと、すぐにペンを動かし始めた。

 あの名前も知らない女性ともあれ以来、会う事も無くどこで何をしているのか何も分からないまま。正直、思い出すまで気にしていなかったが、今は少しだけ気になる。あの女性の名前や何をしているのか。気になる――少しだけ。

 でも絵の場所以上にそれは考えても仕方のない事。早々に俺は目の前の絵へと集中を戻した。背後からはすっかり遊び惚けてる莉星と流華の声が聞こえる。誰か知らなければまさか高校生だとは思わないような燥ぎようだ。いや、子どもとは言えない声質でこれだけ燥げるのは高校生ぐらいなのかもしれない。この暑さの中だし、きっと汗だくになって遊んでるんだろう。そう思うと(悪気はないが)鼻で笑ってしまった。

 それから(二人を除けば)無人のこの公園で一人、招かざる雫を頬に流しながら絵を描き続けていた時の事だった。


「随分と上手だね」


 ゆったりとした声が傍から聞こえた。明らかに自分へ向けられた言葉を(何せ俺しかいないのだから)ここで無視できるようなメンタルは持ち合わせていない俺は、手を止めてその声の方を見遣る。

 そこには柔和な表情のおばあさんがいた。莞爾として笑いながら俺の絵を覗き込んでいる。


「ありがとうございます」


 突然の事で吃驚としたが、見ず知らずの人に褒められ嬉しくないはずがない。

 するとその双眸が絵から移り俺を見た。


「この街の子かい?」

「まぁ、はい」

「この街は好きかい?」

「――嫌いではないですね」


 答えを聞くとおばあさんは次に街の景色を瞳に映した。


「長い事この街に住んでるが、ここから見る街が一番好きだね」


 おばあさんの後を追うように俺もその街景色へ顔を向ける。


「昔とは随分と変わってしまったけど、ここに来ればいつでもこの街が広がってた。どれだけ変わってしまってもここにはこれまでの想い出が、足跡が残っているからね。少しぐらい特別な気持ちになるんだよ」


 横目でそう話すおばあさんを見遣ると、どこか遠くを――昔を見ているような懐古の表情を浮かべていた。


「この街のどこが好きなんですか?」


 この街で生きてきて想い出があるからなのか、それとも他の何かがあるのか。気になった時にはもうそう尋ねていた。おばあさんの見ている景色が俺のとはあまりに違っているように思えたから。


「理由が必要かい?」

「え? いや……」

「別に理由なんて無くていいんだよ。好きだと言える確かな感情があればね。何でもそうさ。理由が分からなくても、人は楽しくなって、悲しくなって、怒って、喜んで、誰かを好きになって、誰かを愛す。別に理由を求める事が駄目だって言ってる訳じゃない。ただそれをそれを追い求め過ぎて大切な感情を放っておくのはどうなんだろうね。感情は誰よりも、自分よりも自分を知ってる正直者。理由が無くとも信用していいと私は思うよ」


 そう言うとおばあさんは、「それじゃあね」と行ってしまった。

 その後姿を少しばかり見ていた俺は顔を前へと戻した。街を眺めながら(あんな事を言われはしたが)それでもやっぱり理由を考えてしまう。きっとあの人の長い人生がここには詰まっているんだ。喜怒哀楽、全ての感情がここには色々な形で詰まってるに違いない。

 そう思うと、今日はずっとここに座って何度も何時間も見てたはずなのに、少しだけ違って見えた。あの人以外にも色々な人の人生が――感情が今見ている街には詰まってる。見た目だけじゃなくてもっと見えないモノが詰まってる。

 それに少しでも気が付けたからなのか、街が少しだけ色鮮やかに見えたのは。見えない光が。見えない色が。街に加わった気がした。

 それはとても美景でどこか感傷的な気持ちにさせるような景色だった。きっとあの人もこんな風にあの人にしか見えない色や光の加わった景色を見ていたんだろう。

 だとするとあの人の言う通り本人にとって理由は大して必要ないと思うけど、他人からすれば理由は必要なんだと思う。理由を知る事によってより一層その人の見ている景色に近づけるような気がするから。全く知らない夫婦を見るのと、そこに至るまでの物語を知っているのとでは、その夫婦の見え方が違うように。

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