5

 カウンターに少し凭れながら液タブを覗き込む燈さんはそんな事を訊いて来た。


「なんでって……」

「昔は結構、ちゃんとって言うか――描いてたんでしょ?」

「まぁそうですね。一応、真面目にっていうか描いてました」

「なのに何でよ?」


 すぐには返事が出来なかった。

 そんな少し黙ってしまっていた俺の脳裏に僅かだが蘇る昔の記憶。変な間を埋めるように飲んだ珈琲は不思議とさっきまでの味がしない。


「――まぁ。何となくってやつですね。特に理由は無いです。強いて言うなら好奇心で始めたからですかね」

「好奇心ねー。いやぁ。アタシも高校生の時は――」

「いや、いいです。話さなくて大丈夫です」

「おっ? 何だよ。話させろよ」

「いいですよ。それに燈さんが思ってるほど、年上の人が自ら話し始める昔話って興味ないですよ?」


 すると俺の頬へ伸びてきた燈さんの手は割と強めに抓った。


「痛い! 痛いですって!」

「店長のご機嫌ぐらい取れ。バイト」

「すみません」


 燈さんの手が離れても頬にはまだ余韻の痛みが居座っている。


「まぁでも何か熱中できる事があるっていうのはいいことなんじゃない」

「って言っても昔の話ですよ?」

「昔ってまた描いてるじゃない」

「これは、ただ夏樹の変な提案の所為で……」

「嫌々やってるわけ?」

「そういう意味じゃ。確かに懐かしさはありますけど、昔みたいにっていうのとはちょっと違う気もするって言うか」


 楽しくないと言えば嘘になる。でも今は犇めく程に溢れた懐古の情がそうさせてるような気もして、分からないというのが正直な気持ちなのかもしれない。


「まぁほんとにやってて楽しんでるかはそのうち分かるわよ。アタシも……」


 そう段々と小さくなっていった声は最終的に言葉を途切れさせ、燈さんは徐に俺の方を見遣った。


「やっぱいい」


 さっきの言葉を思い出していたのか数秒の沈黙を挟み諦めたようにそう一言。


「俺、何も言ってないんですけど?」

「こうやってね。下の者に気を遣ってあげるのも上司の役目なんだよ。分かるかい? 上司部下と言っても一人の人と人。そうやって二つの関係性を両立しながら接する上司が尊敬されるんだよ」


 それはわざとらしい演技だった。良い事を言ってるのかもしれないけど、その所為かあまり頭には入ってこない。


「はぁ。何なんすか? 急に?」

「社会勉強。まぁ、アタシそんなガチガチの会社にいたことないから分からないけど」

「そりゃどうも」


 一体なんだったんだという気持ちが残留しながらも一応お礼を口にした。その後に小首を傾げはしたが。

 それから止まっていた手を動かそうとしたが直前で止まった。


「燈さん。お店っていつ閉めます?」

「いつも通りだけど」

「分かりました。それまでここいいっすよね?」

「いいよー。それとアタシ裏に行くからおかわりは自分で淹れな」

「はい。ありがとうございます」


 それから時間一杯まであの鉛筆で描いた絵に代わるものを黙々と描き続けた。お店を閉める時間が来るまで描き続け、まだ途中のそれを持って帰宅。その夜も俺はまだ完成とは言えないお店の絵を少しでも前へ進ませていた。


「あっ、そうだ」


 真っ暗だった部屋の電気を点けるようにふとある事を思い出した。


「早くやらないとまた文句言われそうだしな」


 一人呟きながらしたのは、夏樹に言われていたサイトへの投稿だ。アカウントは作り直したもののまだ投稿はしてない。最初はあの滝の絵を投稿する予定だ。

 だが無駄な期待なんてものはもう持ち合わせてない。ただ機械的に描いたものを投稿するだけ。


「ラインしとくか」


 一言、言われた通り投稿したという旨だけを伝えた。

 それを終えるとお店の絵へと取り掛かる。すっかり集中してた俺は三頭の丑が過ぎ去った頃まで描き続け、最後は眠気に無理矢理ベッドへと引きずり込まれた。


 まるで嫌がらせのように燦々と降り注ぐあっつい陽光。アイスでなくても悲鳴を上げたくなるような気温の正午。

 俺はとある公園にいた。丘の上にある公園。街が一望出来る絶景の穴場スポットとでもいうのだろうか。その公園にある屋根付きベンチに座っていた。

 陰に隠れても尚、その猛攻は一切緩まず暑い。でも耐えられないほどじゃない。むしろ夏って感じがして悪くない気もしてる。それは嘘だ。太陽に照らされてたらそれも感じるかもしれないが、陰に居る時の暑さはただ暑いだけな気がする。

 そんな中、俺は絵を描いていた。この暑さとは裏腹に爽やかな蒼穹とアイスでも食べたくなる雲、その下に広がるのは季節関係なく人々が働く街。その景色を俺は描いていた。


「あぁ~。あっついよぉ~」


 すると右手から聞こえてきた嘆くような声。流華だ。


「もう地球は終わりだ。溶けてなくなる。絶対。アイスみたいにな」


 今度は左手から。こっちは莉星。


「つーか何でお前らまでいんだよ」

「別にいいじゃん。夏休みなんだし。それに暇だし」

「でも地球がアイスならどんな味がすんだろーなぁ。名付けて惑星アイスボール」


 俺の言葉など微塵も聞こえてないのか無視してるのか、もしくは暑さで脳がやられてるのか。莉星は一人自分の呟きの続きを口にしていた。


「さぁ。ブルーハワイとかじゃない?」

「それかき氷だろ」


 無視してるだけかもしれない。


「あぁー。なんか雲見てたらアイス食いたくなってきた。あの雲とかソフトクリームっぽくね?」


 俺は莉星と同じ思考してたのか。その事に思わず手が止まる。拒絶する程に嫌って訳じゃないけど、なんか嫌だな。


「ほんとだ。あぁー、いいねー。ソフトクリーム。僕、バニラ好きなんだよね。零は?」

「んー。クッキー&クリーム」

「オレは抹茶だな」

「そういえば昔、抹茶系の着色料に蚕のフンが使われてるって話あったよね」


 確かにそんな話を誰かがしてたような気もする。


「なんか漢方薬に使われてるやつじゃなかったか?」

「そうそう。でも今は使うの少なくなったって聞くけどね」

「まぁ別にオレは美味いならどーでもいいけどなぁ」

「まぁ莉星はそうだよねー。――それじゃあ!」


 すると流華は唐突に意気込む声と共に立ち上がった。


「零の邪魔しないように僕らは遊んでこようか」

「遊ぶってどこでだよ」

「ほら。そこに公園があるじゃん」

「ヤダよ。こんな炎天下の中、公園とか」

「いいじゃん。それにここも、もうそろそろ無くなっちゃいそうだし」


 それは初耳だ。俺は思わず流華へ顔を向けた。


「取り壊しになるのか?」

「さぁ? でもここあんんまり人気ないし。広場になりそうじゃない?」


 俺は後ろを振り向き、陽に照らさている子ども達のいないどこか寂しげな遊具を見遣った。確かに流華の言う通り広場にしてしまった方が有意義な場所になるような気もする。

 でもこうやって目の前にあるからか、無くなってしまうのはどこか寂しい気もした。そんな気持ちに煽られるように俺はスマホを取り出すと公園の写真を一枚。


「なに? 零ってこの公園にそんな思い入れあったの?」

「いや。別に」

「そう。じゃあ僕らはいつか零が描くこの公園の絵を見て懐かしめるように思いっきり遊ぼうか」


 流華は視線を戻した俺の前を通り莉星の元へ。だが莉星は暑さにやられ一歩も動こうとしなかった。


「やだー。動きたくねー。オレもうここに住む」

「そんな事したら迷惑でしょ。それに夜になったら通報されるよ。僕に」

「お前かよ」

「ほら行くよ」


 力の入ってない状態で立ち上がった莉星は腕を引かれながら焼かれるような日差しの下に肌を晒し、公園へと歩いて行った。

 それを見送った俺は再度、眼前の特別じゃないが好きな景色へと顔を戻しペンを走らせ始めた。

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