第二章

1

 コンクールに作品を応募すると決まった日の夜。俺は机に向かっていた。


「はぁー。何でこんなことになっちまったかなぁ」


 既に零れる溜息。同時に机へ突っ伏し、閉じた瞼に視界は暗闇で覆われた。

 真っ暗な闇の中、真っ先に思い出したのは今日のカフェでの出来事。ではなく、海へ行った日の事だった。

 久しぶりに絵を描いた時の事。画用紙や色鉛筆――色々な相違点はあったがあの感覚は確かに久しぶりなものだった。自分の中に思い描いたイメージを目の前の白に描き出そうと一心不乱にペンを走らせる。ただ期待に胸を躍らせ、ただ想像に胸を膨らませ、楽しくて仕方ない中で描く絵。あの感覚を久しく忘れていた。いや、ただ避けていただけなのかもしれない。

 でもあれが懐かしく楽しい時間だったのは間違いない。何故かあの瞬間を思い出していると、カフェで唐突に決まったコンクールに挑もうという気力が湧いてきた。相変わらず最優秀賞は取れないだろうという気持ちはあるが。


「まぁ、久しぶりやってみるのもいいのかもな」


 そう一人呟くと、俺は引き出しから長いこと使っていない液タブを取り出した。

 だがその前にコンクールの応募方法を確認(これで前に痛い目を見た事がある)。別にどっちで書いてもいいらしい。直接郵送してもデータで送っても。


「ん-。まぁ、こっちの方が描き慣れてるしこっちでいいか」


 少しだけ考えた結果、俺は液タブで描くことにした。油絵や色鉛筆、クレヨンで描くのも正直に言うと魅力的だが、あの海での悪夢が俺を液タブへと誘導した。もし何かのミスで折角の絵が台無しになったらという恐怖(もちろん液タブにもデータ消失などといった恐怖もあるが)。

 だがこれも久しぶりに起動する液タブ。上手く描ける気はしない。


「まずは練習か」


 それから良い時間まで適用に絵を描いていた。色々と感覚を思い出そうと簡単に描いたが、あまり良い出来栄えじゃなかった。


「流石にあれからずっと描いてないんだもんな」


 分かってたとは言え、溜息が零れる。


「とりあえず今は描くか」


 これからどこを意識して練習するかを考える為にも何枚か描いて出来てないところを見つけないと。

 それから俺はただひたすらに描いた。



「おはようございます」


 この日は朝からバイトの為に開店前のカフェへ。上空から灼熱の太陽、足元からは天然サウナのようなアスファルト熱。逃げ場のない灼熱地獄から一変し、カフェの中に入ると季節に似合わない冷気が全身をそよ風のように撫でた。


「んー。ってあんた何その顔?」

「え?」


 一瞬、何のことが分からなかったがすぐに理解した。


「あぁ、実はちょっと昨日の夜に絵描いてたんですけど、そしたらいつの間にか朝になっちゃってて」


 思ったよりのめり込んでしまっていた俺は、気が付けばカーテン越しの朝日に照らされていた。


「徹夜したの?」

「少しだけ寝ましたけど……あまり徹夜と変わらないっすね」

「はぁー」


 俺の言葉に燈さんは顔に手を当て大きく溜息をついた。


「まぁ午前中はあんまり人来ないし裏で寝ていいよ」

「え? でも……」

「いや、接客業でその顔はダメでしょ。ほら」


 そう言われれば断る事は出来ない。それに出来れば俺も寝たかったから裏の小さな個室へと先に入る燈さんの後に続いた。

 ドアを通るといつも着替える場所より奥にある、デスクが一つとソファが一つ置いてある場所まで足を進める。


「ここで寝な」


 そう言ってソファを指差す燈さん。


「前から思ってたんですけど何でここにソファがあるんですか?」

「アタシがちょっとした休憩と終電逃した時に寝る用」

「なるほど」


 話しを聞きながら鞄を下ろした俺は、返事をしながらソファへ腰を下ろした。思った以上にフカフカで座り心地は最高。


「はい」


 あまりの座り心地に少し吃驚していると燈さんからブランケットが差し出された。


「ありがとうございます」

「起きたら着替えて店に出てきな」

「はい」

「それじゃ、おやすみー」


 最後に電気を消し燈さんはお店へ。俺はソファへ体を沈めブランケットを被った。

 すると鼻腔を撫でたその匂いに俺は思わずタオルケットに鼻を近づけ何度か匂いを嗅いだ。


「ちょっと煙草の匂いがする。まぁいいか」


 それから眠りにつくまではあっという間だった。気が付けば夢を見てて、気が付けば目覚めてて。体から眠気がほとんど消えていた。

 幾分かスッキリとした気持ちだったが、まだ寝ぼけ眼のまま体を起こし大きく伸びをする。気持ちよさが全身へ広がるのを感じながら腕を下ろせば欠伸が最後を締める。


「よし!」


 その一言で残った眠気を追いやると立ち上がり制服に着替えてお店へと出た。


「おっ、大分マシな顔になったじゃん」

「もう大丈夫です。ありがとうございます」

「おし。それじゃ、働いてもらうか」

「はい」


 それからお昼の時間帯も過ぎ、落ち着きを取り戻した店内。俺はさっき見た奇妙な夢を思い出した。


「そういえばさっき変な夢見たんですよね」

「へー。どんなん?」

「なんか俺がタバコに火を点けたらタバコの煙から――ランプの魔人みたいに燈さんが出てくるっていう」

「なんなのそれ?」

「さぁ?」


 こっちが訊きたい、そんな気持ちだったがその答えは燈さんも含め誰にも答えられないんだろう。


「それで? どんな願い事叶えてもらったわけ? コンクール最優秀賞とか?」

「いや。何をお願いしたかは覚えてないっすけど、結局は面倒くさいから嫌だって言って消えちゃいました」

「なんなのそいつ」

「だから燈さんですって。でもちょっとぽいですけどね」

「いや。アタシならそもそも姿見せないから」


 どうやら燈さんは思ってた以上に燈さんだったようだ。

 そんな風に和やかな時間を過ごしているとお店のドアが開き知った顔が入ってきた。


「こんにちわー」

「零。ちゃんと働いってかー?」


 夏樹と真人は真っすぐカウンター席に来ると俺の前に座った。


「そりゃあ働いてるに決まってんだろ」

「にしてもこんな可愛い子たちがよく来てくれるなんて、それだけでもあんたを雇った甲斐があるってもんよ」

「いや、俺ちゃんと働いてますよね?」

「うん。助かってるよー」

「やだぁ。可愛いだんなんて。まぁそうですけどー。燈さんこそこんな美人なマスターがいたら男のお客が一杯くるんじゃないですかぁ?」


 両手を頬に当てた真人は、面映ゆそうに笑ってはいるが本気で照れてる訳ではなさそうだ。

 そしてそんな真人の茶番返しに燈さんは少し前のめりになる。


「そりゃあうちはそれが売りだから。それより何だったらうちで可愛い服着てウェイターでもやってみない? もっと売り上げ伸びそうだし」

「えー、でもあたし高いですよ?」

「大丈夫。その分、あいつの給料削るから」


 すると茶番の飛び火が俺の方まで飛んできた。


「そしたら辞めます」

「冗談だってバイト君。そんな事するわけないっしょ」

「はいはい。それより注文は?」

「えーっと、あたしレモンティー」

「私はストレートティーにしようかな」

「かしこまりました」


 茶番も終わり俺はストレートティーを、燈さんがレモンティーを淹れほぼ同時に二人の前に並べた。


「それで? 零先生は調子の方どうなんですか?」

「何が?」

「何がってご……絵じゃないですかぁ」

「お前今、五十万って言いそうになっただろ」


 真人はあからさまに顔を逸らしティーを飲んだ。


「でも、どんな感じなの?」


 その言葉に俺の脳裏には自然と昨日の絵を思い出していた。


「んー。まぁ――無理だろうな」

「まだ諦めるには早いでしょ?」

「って言われてもなぁ」


 そんな事を言われても実際に自分の絵を思い浮かべてみれば可能性なんて微塵も感じない。あの絵で最優秀賞が取れれば俺は今頃、意気揚々と絵を描いてたはずだ。


「あっ! そうだ!」


 すると夏樹が何かを思いついたような声を上げた。その声に俺の中で(前科の所為か)妙に不安が込み上げて来る。

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