第11話

 家に帰り、女はテレビをつけてチケットを眺めた。時、場所、主催者など文字の書かれただけの紙で、カラーの写真でプロレスラーの姿が印刷されているわけではない。地味なチケットだ。マスクのプロレスラーなんか想像もつかない。しかし、誰か行く人がいるだろうか。──モウ、オ母サン、ソンナ正体ノ知レナイ人カラ、変ナ物モラッテ、危ナイワヨ──女はため息をつくと、「あの人も、あの人も、とてもプロレスなんか観ないわよ、ねぇぇ」チケットをひっくり返して、じろじろ見つめた。

 女は紙に書かれていた体育館にやってきた。こんなところは初めてだった。演劇や歌舞伎は好きだったが、サッカーや野球のルールなどてんで知らない女は、肉体がぶつかり合う野蛮な格闘技など見向きもしなかった。なんでわざわざ好き好んで痛めつけあうのか、その意味がまるで理解できなかった。そんな女がなぜプロレスを観に来たのか、意味と無意識は数限りなくあるにしても、純然とはっきりしていたのは(アノ男ノ子、良イ声シテイタワネェェ)。マスクをすると言っていたから、顔を見たかったが、それは叶わない。それでも、あの、優しく太い声が聞けるなら、どんな体つきをしていて、どんな舞をするのか知ることはできる。それに痛みに声をあげることもあるだろうから、どんな叫び声か聞けるかもしれない。それらは意識の上で考えたことで、女を動かす大きな要因となっていた。

 驚いたのは客だった。若い、暴力を好む、あの憎むべき、娘を誘惑して惨事に至らせたカラスマスクを着けて暴走する連中が集うような所だと思っていたら、たしかに粗野な人もいるが、清楚な女性もいて、身だしなみの整った紳士もいる。それも老若男女問わず、若い者とばかり思っていたら、むしろ年輩の方が多いかもしれない。若者の劇はそのような客層ばかりだが、大正の香りを残す政治色を持った古い新劇に来るような、上品で高価な眼鏡をかける女性も見受けられる。

 試合が始まると、屈強な肉体の男たちが見るからに痛そうな打撃を、信じられないような勢いで何度も打ちつけるのに喫驚した。ところが面白いことに、よくわからないが、時折ぶつかっていないのに大袈裟に倒れたり、わざわざ避けもせずに近づいて攻撃を受ける不可解な動作があったりと、ただ真面目に闘い合うのとは異なる、どことなく相手を配慮しつつ、観客全員に楽しんでもらう劇と似たショーマンシップの行き届いたサービスがあることを感じとった。それだけでなく、見事に肩のがっちりした背中に、足が短くぷりっとした昔の海水パンツのような小さい尻などが可愛らしく、誘ってくれた人の言っていた通り、飛び散る汗と叫びは肉体を唸らせ、剛健な体が高いところから回転して、重力が鳴らす多様な肉体運動が重くも軽く変化自在に飛び交っていた。

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