第9話

 ある時だ、大通りを歩いていると、「仕返しだ、仕返しだ」大声が向こうから響いてきて、何かと戸惑っている内に声の主を避ける人人が目に入り、続いて貧相な白い体が細く女の目に入った。「仕返しだ、仕返しだ」連呼しながらステップを踏む人は若い男性らしく、(気色悪イ、何カシラ)巻き込まれないように道端に寄ると、どんな姿をしているか目に入った。「アラヤダ、ぶぅぅめらんぱんつ一枚ジャナイ」マスクをしない顔立ちよりも、女はすぐに股間に目が行った。(紐ぱんカシラ、モウゥゥヤダ、ハミ出シテイルジャナイ、汚ラシイ)陰毛に紛れて陰嚢が漏れており、女はピンと来た──シカツメラシイ顔ヲシタ政治家ハ、神妙ナ面持チデ、各家庭ニますくヲ配布スルト述ベテイル──。(マア、政治家ますくジャナイ、ミットモナイ)女は凝視した。やや小さめのマスクは股間を防いでいるが、あまり大きいサイズでない布生地は限界まで引っ張られて鬼の目のように釣りあがり、左右の紐は悪魔の耳のように鋭い角度で尖り、細く骨の浮いた腰に不思議と引っかかっている。「よくも解雇にしやがって、仕返しだ仕返しだ」わき腹に手を当て、背筋を伸ばしたまま笑みを絶やさず、軽い足取りで弾んで進む姿は凶暴な声と言葉に似つかわず、奇妙なずれによって奇怪な怖気を周囲に放っていた。(辞メサセラレタ腹癒セカシラ、デモ、ますくヲぱんつニ……、ヤルワネ)女はくすっと笑った。

 その日の退勤後にパチンコ店は今月で畳むと知らされた。残り五日しかないのに、突然の出来事に夕飯の献立を訊いてくる白髪の女は、奥で狼狽して何かつぶやいている。子供はまだ小さいと言っていたけど、たしか旦那さんがいるはず、パートの給料が削られたからと言って、来月からの生活に悩むほどのことではない。一人身の自身を鑑みると、女は気楽な者だと思った。この年になると、生活を大きく曲げるどんな突然の事でも、すぐに飲み込む前に予感していたような気がして、衝撃はあるが視界にめまいを起こさせるほどの振動はない。まず頭に浮かぶのが貯金の額で、続いて家計簿からの差し引きとなり、男性的な合理性と感覚としての数字の判断は不得意だったが、特殊景品の色ですぐに札の枚数がイコールされる慣れの早さで、再来月までは収入なしでも生きられると思った。若い男女の社員はわざわざ天に聞こえるように、突然の解雇通達について演劇らしい声量とわざとらしさで会話しており、本当の怒りよりもなりきれずに愚痴と不満を漏らし、それを誰かに聞かれて問い詰められても、そんな事は喋っていないとしらばくれるような逃げ道を用意しているようだった。今の若い人はぶつからない。自分の時もそうではなかったが、ずいぶんましな他人との衝突があったと女は思った。娘は、ずけずけものを言うと思ったが、離れた夫は、かわしてばかりだった。

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