第8話
女には自負心があった。マスクもタピオカも私が先取りした。流行る前から私の中にすでにあった。娘の卒業を記念して、また女の身辺を含めての新たな門出の祝いとして、母子で台湾を旅行したのは十年以上前で、指でさして言葉を伝えるガイドブックを手に提灯が浮くアニメーション映画のロケ地と言われる所で騒いだり、カラスミやドライフルーツをあれこれ物色して通じない言葉で驚くほど大胆に交渉したり、夢のように並ぶ夜の屋台で豆腐の臭いが鼻を刺激しながら互いに顔をしかめて牡蠣のたまご焼きを食べたり、数日の間に何度も思い出に楽しませてくれる瞬間瞬間が休みなく色づいていた。多多ある些細でかけがえのない出来事の中で特に思い出深かった一つは、道を間違えて互いにふてくされ、旅行の中弛みに襲ってくる異国情緒の孤独感と疲れに倦んでいた時に、たまたま呼び誘われて入った店に飲ませてもらったタピオカティーで、おそるおそる口つけた二人は顔を見合わせて、「やだぁぁ、おいしいぃぃ」と叫んで笑いあった。
もう一つは娘が行きたいと特に希望していた台南で、駅に着き、外を出ると、たくさんのバイクが柄のマスクをして走っており、女が「かわいいわね、あのマスク」と言うと、「ええぇぇ、そうかなぁぁ」と娘は口を尖らせて膨らませた。「お母さん知らなかった、マスクがこんなに普通にあるなんて」「日本じゃ普通にないよ、こんなの」「日本はね、日本は、でも、台湾には、マスクがこんなにあるのね、あなた、台湾好きだから詳しいでしょ、知ってたの」「ううん、知らなかった」「そうなの……、知らなかったのね」そう言いながら、女は露天の裏表に飾られている布のマスクを手に触った。パンダが転がる可愛い柄だった。「ねえ、これなんかどう、白い病棟で、目立って可愛いんじゃない」「だめよお母さん、新人が、こんな派手なマスクしてちゃ、睨まれるって」「そうかしらねぇぇ、可愛いのに……」。
(アノ子大丈夫カシラ)──白衣ニますくヲシテ働ク娘ガ、真剣ナ目デ病室ノ患者ヲ覗イテイル──(因果ネ、ますくガアノ子ノ将来ヲ決メルナンテ)女はシャッター街に輝き渡るタピオカ屋の前で、行きつ戻りつしていた。
感染者の増加についで死者が数字で報道され、雇い止めや倒産も表れ始め、飲食店の休業に店仕舞い、旅客機の停止に旅行業者の八方塞がりと、散散な世の中で女は小さな箱の中に働き続けていた。不急不要として営業の中止は勧告されていたが、このパチンコ店のオーナーは怖い人らしく、政治家にも顔が利くと聞いていたので、客の出入りは減ったが職への影響は感じていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます