第3話

 マスクは電車内に貼り付いていて、誰もが目元から覗くように下を向いてスマホを操作している。座りながら週刊誌のサイトを見ていた女は顔をあげると、規律の整ったポーズが車両の向こうまで届いている。“車内での会話はお控えください”という知らせが貼られる前から、とうにルールは守られていた。次いで“できる限りスマホをさわり、他者や現実との接点を退けてください”という制限もあるようで、皆が顕微鏡で対象を研究するようにそれぞれが近視眼の世界に没頭している。女もすぐに下を向き、芸能ニュースの続きに目を追わせた。すると、「おいっ、そんなに近寄んなよ」叫ぶ声がしたので、見るとズボンの裾のだぶついた男が発したらしく、「感染るだよ、来んなよ」シャウトした。女からは背中しか見えないが背広姿の大きさは中年のサラリーマンらしく、互い違いに顔を引っ張られたようにひきつった男はぼそぼそ何か口走っているらしく、「あんっ、聞こえねぇぇよ、聞こえねぇぇんだよぉぉ」待てずに叫ばれ、サラリーマンから手が出て、わめく男は背中から倒れて後頭部を連結部の扉にぶつけた。(ヤアァァネェェ、男ハスグ怒鳴ルンダカラ)女が見る向こうの一幕だけ動きがあり、そこに至るまでの乗客の半分は手を止めて目をやり、四分の一が知らぬ素振りで電子機器を相手にし、残りは黒衣のように静かに騒動から離れていた。

 店内はチラシ広告のフォントやカラーに調子を合わせたように、夕方から始まる小さな買物市が録音音声で喧伝されていた。(アノ人、本当ニ魚ノ煮付ケニスルノカシラ)、女は魚コーナーの前で立ち止まっていた。──秋刀魚ニますく、鰯ニますく、鰈ニますく、あおりいかニますく──目線を冷蔵ケースに泳がせ、(キットシナイワネ、アアヤッテ話ヲスルダケ、別ニ話題ナンカナイカラ、アアヤッテ話シタイダケ)パックされたカレイを手に取り、(一人ジャ、料理スル気ニモナラナイワ)──生姜ガ甘辛イ煮汁ニ香リヲ放ッテ換気扇ニ吸イ込マレテイルト、隣ニ女ノ子ガ近寄ッテ来ル──、元に戻し、魚コーナーをあとにした。

 (コレモイイワネ)サバの棒寿司を手に持ち、その上に手巻き寿司を重ね、煮物のパックなどの総菜を前にうろうろしているところで、「あら、奥さん」小太りの女が話しかけてきた。「あら、奥さん」おうむ返しに応えると、「仕事の帰りなの」「そうなの」「あら大変ねぇぇ、ご苦労様」「そうなの、あなたは」「あたしも、仕事が終わったところなの」「そうなの、だから私服なのね」「そうそう、ちょっと買って、帰るところ」手に持つ寿司が重ねられたまま世間話は続いていき、「そうなの、大変なの、娘の職場で感染者が出たって」「あらやだ、ほんと、大変ね」「大変も大変、ほんと厄介なの、ほら、あれでしょ、濃厚接触者だと、なんとか検査っていうの受けなきゃいけないでしょ、だから、もし……」(感染スル人ッテ、本当ニイルモノナノネ)「ほんと迷惑だわ、その人、きっと、夜の街で、いかがわしいお店にいたのよ、行っちゃだめって言われているのに、厚かましい」「娘さんは、大丈夫なのかしら」「そう、それなの、よくわからないんだけど、なんとか検査を受けるみたいで、なんか、会社から……」(大変、アノ子モ、ホント、大丈夫ブカシラ)、話はさらにさらに続き、女はサバの棒寿司と金時豆の煮物を買って帰った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る