第13話 嘘つきめ

 あちこちペンキの剥がれた階段に赤錆の浮いた古いアパート。真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップをかぶった、半袖のパーカーにハーフパンツ姿の少女が階段を上って行く。地豪勇作より先に階段を上りきったマーニーは、振り返って面白そうに言った。


「こんなところに住んでいるのか」


「こんなところで悪かったな」


 そう言ってから何か気になったのだろう、階段の上で立ち止まった勇作はたずねた。


「おまえ、どんなところに住んでたんだ」


「おまえ言うな。住んでいたのは、もっとボロボロでもっと狭いところだ。ネズミやゴキブリの走り回る部屋に何人も放り込まれていた」


「……そうか」


「風呂はあるのか?」


 随分と楽しげなマーニーに、勇作は少し答えるのを躊躇する。


「え、ああ、狭いが一応ある」


「そいつは豪勢だ。マトモに風呂に入るのは何日ぶりかな」


「いや、風呂に入る時間ねえだろ。着替えて何か食ったらすぐ出るぞ」


 勇作は部屋の前に立ち、オレンジ色の縦長のポストに隠してある鍵を取り出した。言うまでもなく扉を開けるためだが、マーニーは当たり前のように先に扉を開け、勝手に部屋に入って行く。


「固いこと言うな。一緒に入ればすぐ済むぞ」


「誰が一緒に入るか」


 あれ、鍵かけてなかったっけか。そんなはずはないんだが、と困惑している勇作を振り返り、マーニーは言った。


「何だ、やらしいことでも考えてるのか」


「考えねえよ! ふざけんなテメエこの野郎」


 マーニーはからからと笑い、部屋の真ん中で仁王立ちしている。


「冗談の通じんヤツよな。あと野郎ではない。女の子だ」


 勇作は憤然とマーニーを無視し、部屋に上がると押し入れを開けて黒いバックパックを取り出した。ちょっと無理をすればマーニーを詰め込めそうな大きさだ。これにタンスから下着と衣服を詰め込み、保存食も投げ込んだ。マーニーは綺麗に片付いている部屋を見回している。


「随分キチンとしているのだな」


「性格なんだよ。悪いか」


「悪くはないが、見た目からは想像できんぞ」


「余計なお世話だ、ほっとけ」


「自分の下着だけ持って行くつもりか」


「おまえの下着がここにある訳ねえだろうが!」


 これにマーニーは、ちょっと意表を突かれた顔を見せた。


「なるほど、それはそうか。あとおまえ言うな」


 もう知るか、とばかりに勇作は背を向けた。他に持って行く物はないだろうかと部屋の中を見回していると。


「ナイフが一本あると便利だぞ」


 マーニーが言う。勇作はしばらく知らん顔をしていたが、不意に思い立ったように小さな流し台へと向かう。ガタつく引き出しを開ければ、スプーンと割り箸の横にそれはあった。古い、柄の部分が真っ黒焦げの果物ナイフ。あの日、焼け落ちた家の跡からただ一つ見つかった、母親の使っていた思い出の品。


 勇作はそれを手に取ると無造作にバックパックに放り込み、マーニーにたずねた。


「……風呂に入る時間はあるのか」


 そら見たことか、と言わんばかりにマーニーは笑顔でうなずく。


「どういう訳か、アレはこっちから離れたらしい。多少の余裕はあると思う」


 大きなため息をついて勇作はまた立ち上がった。湯船に浸かるのは無理でも、シャワーくらい何とかなるかと思いながら。




 マーニーがシャワーを浴びている間に、勇作はPCを立ち上げた。ニュース系のサイトをいくつか回るつもりだったが、その必要はないようだ。ポータルサイトのニューストップに国道の拳銃乱射事件がある。記事を開けば、現場はここからそう遠くない。あのトカレフだろうか。


 もしもそうなら、何故こちらに来ず道路上で乱射事件など起こしたのか。俺たちに逃げられる可能性を考えなかったのか……いや、待てよ。勇作は気付いた。関連ニュースにネットカフェの店員が射殺された事件が載っている。これもあのトカレフの仕業しわざなら。


 マーニーの言うことを全面的に信じた訳ではない。信じられるはずもない。だが、勇作自身にトカレフの銃口が向けられたのは夢ではなく、紛れもない事実だ。それも二度、別の人間によって。


 ならば一応それが正しいという前提で考える必要があるだろう。意思を持った拳銃。人の思考を乗っ取るトカレフがマーニーを追いかけ、その途中で道草を食うかのように人を殺している。いったい何を考えているのか。


 考えなどないのではないか。論理的な思考などしないのかも知れない。人間の意思を乗っ取ると言っても、乗っ取った大元は拳銃だ。頭脳がある訳じゃない。他人に頭の良し悪しを言える勇作ではないものの、まったく脳みそのない拳銃よりはマシかも知れない。アレには指向性はあっても思考力がない可能性はあるだろう。


「それがそう単純ではない」


 その声に勇作が驚いて振り返れば、バスタオルを体にグルグル巻いたマーニーが、びしょびしょの頭で立っていた。


「アレはアレなりに考えを巡らせるのだ、厄介なことに」


「あーっ、おまえ頭拭いてねえじゃねえか!」


「おまえ言うな。あと細かい」


 そう言いかけたマーニーの頭を首にかけていたタオルで包んで、勇作はゴシゴシこすった。マーニーのキャッキャとはしゃぐ声が部屋に響く


「こらこらこら、痛い痛い」


「うるせえ、動くな馬鹿野郎」


「野郎ではないと言うとろうに」


 勇作は心の隅っこで思い出していた。小さな頃、風呂から上がって母親に頭を拭かれたときのことを。親になるって、どんな気持ちなんだろうか。




 いつポックリ死んでもおかしくないようなババアを騙して、浄水器を買わせて三十万。いくら耄碌もうろくしてても、さすがに怪しいと思われるかも知れない。この近辺にはしばらく近付かないでおくか。そんなことを考えながら、茶髪でよく日焼けした作業服の男は、社名もない白いライトバンを駐車場から出した。


 判断力の落ちた高齢者を狙って、水道局の関係者を装い、市販価格の十倍で浄水器を売りつける。悪質な訪問販売だが、本当にあくどいヤツらは桁が一つ上を行く。自分などまだまだ良心的な方だと男は思っていた。


 そのとき、ゴン、と車の左側からの異音。よく確認せずに道路に出たのだが、もしかして歩行者にでもぶつかったのだろうか。男は舌打ちをして車を止めた。前を回り込んで左側をのぞいてみれば、フルフェイスのヘルメットをかぶったグリーンのライダースーツの女が倒れている。


「おいおい、マジかよ」


 ため息をついて周囲を見回すが、目撃者がいるような気配はない。このまま逃げるか。警察に捕まったところで、猫か何かだと思っていたとか言えばごまかせるかも知れない。人身事故など、この男にはその程度の問題でしかなかった。


 すると、意識があるのかライダースーツの女はゆっくりと身を起こし、震える左腕を持ち上げる。その手には黒い自動拳銃が。作業服の男はニヤリとサディスティックな笑みを浮かべた。


「何よ。ビビらすつもりなの、彼女。ねえ」


 そして怯える気配もなく黒い銃を奪う。


「こんなオモチャでビビるかって……」


 だがその瞬間、男の目は虚ろに変わった。その頭には、もはや誰かを騙すのに必要なだけの知能も自由意志も残されていない。ただ誰かを撃ちたいという渇望、神への崇拝、そしてあの汚らわしき「輝き」への憎悪だけが思考を支配していた。




 ショッピングモールの下着売り場で、勇作は若い女性店員を呼び止めた。


「すみません、いいですか」


「……何でございましょう」


 振り返った店員の表情は固い。平然としているようだが、いまにも逃げ出したいという感情が目元や口元に見え隠れしていた。ただでさえ勇作の外見は威圧感が強すぎる。ましてや穴の開いたジーンズに迷彩柄の半袖のTシャツ、ポケットの多いベストを着て、しかも重そうなバックパックと釣り竿ケースを背負っているのだ、そうそう頻繁に下着売り場で見かける姿ではないだろう。相手の反応もむべなるかな。


 こういうときは無闇に店員に近付くのではなく、その場でシンプルに話すに限る。これは経験則。勇作は隣のマーニーを指差した。


「この子の下着を探してるんですけど、どこですかね」


 店員の目にホッとした感情がよぎったのが見える。


「あ、はい。ではこちらにどうぞ」


 案内する店員の後に続いて歩きながら、勇作はマーニーに小さな声でたずねた。


「まだ時間はあるのか」


 相手は、これに小さく首を振る。


「あんまりはないだろうな。急いだ方がいいぞ」


「おまえのための買い物だ」


「頼んではおらんが」


「そういう問題じゃねえんだよ」


 店員がアクリル製の棚の前で立ち止まる。


「お父様、こちらでございます」


 お父様ではないが、否定すれば面倒なことになるのは目に見えている。勇作は店員に無骨な笑顔を返し、マーニーを促した。


「ほら、自分で選びなさい」


 真っ赤なキャップを目深にかぶったマーニーは、やれやれといった風に棚に歩み寄る。


「嘘つきめ」


 そうつぶやきながら。

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