第11話 炎天下の襲撃

 暑い。こんな真夏の炎天下にバイクになど乗るものではない。風を全身に受けるから涼しいイメージがあるかも知れないが、山間部のワインディングロードならともかく、信号だらけでゴー・ストップばかりの街中のアスファルトの上など、鉄板焼きのホタテ貝になった気分だ。


 右斜め前にはフルオープンにしたスポーツカーが走っているが、あっちの方が絶対に涼しいに決まってる。ヘルメットはいらないしエアコンの冷気に当たれるだろうし。ああ、何でバイクになんて乗ってるんだろう。ヘルメットだけでも夏用に一つ買おうかな。フルフェイスはキツい。


 そんな文句を延々と頭の中で垂れ流しつつ、グリーンのライダースーツの女は交差点で四百CCのバイクを左に傾けた。ようやく国道を走らずに済む。住宅街は日陰も多いし多少は涼しくなるはずだ。焼き肉屋の前を通り中学校の前を過ぎると、前方に緑が見えてくる。神社だ。ここの角を右折してスーパーの前を抜けたらすぐだな、と思った瞬間、思わずブレーキをかけた。曲がり角の前に何か落ちている。


 嫌な感じがした。ヘルメットのシールドを上げてよく見れば、やはり動物の死体のようだ。猫か、それとも犬だろうか。車にでも轢かれたのかも知れない。せめて道の脇にでも寄せてやりたい気持ちはあったが、いまは急ぎの仕事中だ。手を汚す訳にも行かないし、放置するしかない。


 ん……あれは何だ。女の目はまるで吸い寄せられるかのように、小さな獣の死体の、その隣に向けられた。獣の血が溜まった中、古びた子グマの小さな人形が座っている。目が合った。いや、そんなはずはない。はずはないのだが、どうしても目が離せない。女はバイクを降り、死体に近付いた。


 猫でも犬でもない、アライグマの死体。最近はこの辺りでも増えているのか。だがそれはどうでもいい。問題はまるで一緒に葬られているかの如くその隣に並ぶ黒い塊。拳銃だった。まさか本物ではあるまい。プラスチックの弾を発射するオモチャに決まっている。


 彼女は拳銃になど興味がない。リボルバーや自動拳銃という言葉すら知らないし、そもそも何の魅力も感じない。なのに手が伸びる。どうしても拾わなければならないと、心の中で何かが急かすのだ。気味が悪い、いったい何故こんなものを。


 しかし疑問は自身に無視され、伸ばした手は黒い拳銃をつかんだ。その瞬間、脳内に流れ込む圧倒的な量の情報。血、死、狂気、憤怒、絶望。その向こう側に感じる頑強な黒い意思。それが彼女の最後の思考。恐怖するいとますらもなく、女の頭脳は完全に乗っ取られた。




 うだるような炎天下の国道。歩道に立つ黒いワンピースの少女は、爪先の丸い黒いロングブーツに黒いレースの長手袋、黒いドレスハットを身につけて、黒いレースの日傘こそ差しているものの、ほとんど素肌を見せないその姿は暑そうに思える。しかし唯一見える白い顔には汗一つかいていない。


 車道には車が渋滞中。パトカーがサイレンを鳴らしながらマイクで怒鳴り、何とか前に行こうとしているのだが、遅々として進まない。


「緊急車両が通ります! 前を空けてください! 前空けて!」


 どうやらこの道の先で事故でも起こったようだ。遠くに黒い煙が立ち上っているのが見える。


「蝶断丸ぅ、アレなのぉ?」


 少女の問いに言葉を返す者はいない。だが少女は「そう」とつぶやくと、後ろを振り返った。ワンピースのフリルがひらめく。足下には真っ白いマルチーズのボタンがチョコンと座っていた。


「『餌』は向こうにいるんだけどなぁ、予想通りには動いてくれないのねぇ」


 ボタンはワウと返事をする。そして“りこりん”はもう一度煙の方向を振り返ると、諦めたようにこう言った。


「まあ、仕方ない。なるようになぁれ、かなぁ」


 黒衣の少女は微笑むと、ボタンを引き連れ煙の方に歩き出した。




 音も色彩も消えたスローモーションの世界。まるで悪夢の中の光景。迫り来る恐怖に、どこか脳の回路がショートしているのかも知れない。そんな冷静な言葉が浮かぶのも、ある種の現実逃避なのだろうか。何でこんなことになったんだ。小丸久志は渋滞で止まっている車列の合間を抜けて走りながら考えていた。


 さっき散場大黒奉賛会の支部教会に戻るタクシーの中、スマホに電話がかかって来た。実家からだ。娘に何かあったのだろうか、そう思って慌てて出れば、聞こえて来たのは母親の呑気な声。


「どうしてる。ご飯食べた?」


 思わずこめかみを指で押しながら、久志は背中を丸めて小声で話した。


「いま仕事中。何なの、何かあったの」


「いや、めぐちゃんがお父さんと話したいって言うからさあ」


「恵が?」


 いったい何だろう。仕事で数日帰れないとは言ってあるし、恵は普段からワガママなど言わない子だ。そんな恵が話したいと言う。久志は激しく胸騒ぎを覚えた。


「とにかく、とにかく代わって」


 久志の言葉に、スマホの向こう側で「めぐちゃーん」と母親が呼ぶ。少し間を置いて聞こえてきたのは大事な大事な愛娘の声。


「父さん」


「恵か、どうした。どっか痛いのか。それとも何か困ってるのか」


「あの子の夢を見たの」


「……夢?」


「あの子が私に会いたいって。父さん、あの子を私に会わせて」


「ちょ、ちょっと待て恵、えーっと、あの子って誰?」


 恵は十歳になるが、心臓が悪く学校にも通えていない。ベッドで横になっていることの多い状態で、少々夢見がちなところがある。どうやらイマジナリーフレンドもいるらしい。なので迂闊に「誰」とたずねるのは機嫌を損ねるおそれがあるのだが、いまの久志にそこまで気を遣っている余裕はなかった。


 スマホを通じて伝わる怒りの沈黙。やがて小さなため息が聞こえ、恵は呆れたように言う。


「ちゃんと話したよ。一昨日、父さんが仕事で留守にするって言ったとき、あの子と会いたいって。父さんが出会うはずだからって」


 そう言われれば、そんな会話をしたような気もしないではない。しかしそのときは潜入捜査への不安と緊張と心配と億劫さで、何を話したのかよく覚えていない。久志はこういうところがある。いつも余裕がなくて焦りながら生きている。そして、その場しのぎですぐごまかす。


「いや、それはそうかも知れないけど、そうじゃなくて、相手の名前とか教えてくれないと」


「だから名前わかんないって言ったじゃん!」


 スマホが絶叫した。ああ、やってしまった。また逆鱗に触れてしまったのだ。電話の向こうで恵が泣きじゃくっている。泣きたいのはこっちだよ、そう思いながら久志が頭を抱えたときである。


 窓の向こうを緑色の輝きがすり抜けて行った。車の間を縫うように走るバイクなど、別に珍しい光景ではない。だが何故か、何かが気になる。久志が行方を目で追うと、バイクもこちらに気付いたように見えた。直後、バイクはタクシーの前に割り込んで突然ブレーキをかける。


「あっ!」


 運転手が声を上げ、急ブレーキを踏んだ。同時に鳴り響くクラクション。しかしバイクは動かない。いや、それどころかバイクを降りてこちらに向かって来る。フルフェイスのヘルメットをかぶったグリーンのライダースーツ。女のようだが、何か気に入らないことでもあったのだろうか。などと久志が思っている目の前で、相手の右手が挙がった。


「やべえっ!」


 釜鳴佐平が体を低く伏せ、同時に縞緒有希恵も身をかがめて久志を引き倒す。タクシーのフロントウインドウが砕け散り、久志の視界に赤いしぶきが花火のように散った。記憶しているのはそこまで。


 気付けば音も色彩もないスローモーションの世界で、車が渋滞する車道を逆行して走っている。何がどうなっているのかはわからない。だが逃げないと。何故かはわからなくても、逃げないと殺される。本能が叫んでいる。振り返るな、振り返らず走れ、走れ。


 背後で乾いた銃声が鳴った。目の前に停まっていたトラックのフロントウインドウが砕け、バラバラと崩れ落ちる。その向こうにあったはずの運転手の頭部が見えない。久志の心は走れとわめく。なのに足はすくんで止まり、顔は後ろを振り返った。満面に恐怖をたたえながら。


 ライダースーツの女が立っている。右手に黒い自動拳銃を構えて。


「おまえ、しって、いるな」


 片言、日本人じゃないのだろうか。いやどこの人間でも同じだ。銃を持ってこちらを撃とうとするヤツの国籍などどうでもいい。久志が沈黙していると、女はもう一歩近付く。


「あのこども、しって、いるな」


 あの子に会わせて。娘の言葉が久志の脳裏をよぎる。


「あのこどもにあわせろ」


「し、知らない!」


 答えた瞬間、しまったと思った。銃口は久志の頭部に向いている。知らないのなら要らないのだ。これで、こんなところで終わるのか。銃弾は音速を超える。次に銃声が久志の耳に届いたとき、頭蓋には風穴が空いていることだろう。


 けれど黒い自動拳銃の咆吼を耳にしたとき、久志の頭も体も無事だった。銃弾は音速を超える。だが光速は超えない。そして光は突然差すものだ。希望の光もまた。その瞬間、久志の周囲には音と色彩が復活した。


 久志の頭を飛び越えて銃口の前に降り立った全身黒づくめの少女は、目にも留まらぬ速さで短めの刀を振るった。連続する銃声とほぼ同時に重い金属音が響く。


 まさか、銃弾を刀ではじいている?


 魅入られたように立ち尽くす久志の眼前で、漆黒のフリルのワンピースをひらめかせる美しい魔人は、ライダースーツの女を追い詰めて行く。銃声は六回続き、最後にカチッ、と空を打つ音。弾切れだ。勝負あった、かに思えた。




 相手は全弾撃ち尽くした。マガジンを交換する時間さえ与えなければ「詰み」だ。もう逃がさない、今度こそ。


 油断をしていた訳ではない。だが前のめりになる気持ちが空回りし、ほんの僅かな時間“りこりん”の反応を遅らせた。後ろから音もなく迫る気配に日傘を開いて向けたものの、それをかいくぐるように飛来したモノたちは少女の腕や脚、六カ所を音速でかすめる。


 このときになって、やっと彼女は気付いたのだ。その刀がはじき飛ばしたはずの弾丸は、まだ死んでいないのだということに。


「馬鹿なっ!」


 元よりマトモな相手だなどとは思っていない。人間を乗っ取る呪いの拳銃。その時点でどう考えても馬鹿みたいな存在としか言いようがない。理性的に考えて有り得ない、常識的には存在し得ない、そんな厄介な物を回収する仕事と承知して引き受けたのだ。だがいかに何でも、無茶苦茶にも程度があるだろう。


 一度発射した弾丸を、速度を維持したまま宙を飛ばせ続けて意のままに操る。こんなもの呪いの拳銃というより、宇宙人の未来兵器である。


 六方向から飛んで来る弾丸の攻撃に、“りこりん”は防戦一方となった。避けきれない弾丸が黒いワンピースを引き裂き、手足をえぐり、血しぶきが飛ぶ。すぐそこに、手の届くところにターゲットはあるのに刀が振るえない。そんな黒づくめの少女を嘲笑うかのように、グリーンのライダースーツの女は拳銃のマガジンを交換した。銃口が“りこりん”に向く。


「ボタン!」


 “りこりん”の叫び声と宙を駆ける白い閃光。マルチーズのボタンがライダースーツの女の右手首に噛み付き、唸り声を上げて激しく頭を振った。女は迷わず右手を地面に叩き付けるがボタンは軽々と飛び下がり、息つく暇すら与えず女の足首に噛み付いて頭を振る。その白い毛並みに向けられる銃口。


 そこに響いた二発の銃声。ただ、それは黒いトカレフからではない。ライダースーツの女がよろめき振り返れば、背後に立つのは上着のポケットに右手を突っ込んだ老人。ポケットの端には穴が開き、煙が漂っている。


 ライダースーツの女はすぐ横に停まっていたセダンのバンパーを足場に、ボンネットに飛び乗ったかと思うと、並んでいる車の屋根から屋根へと飛び移り、渋滞する道路を走り去って行った。




「おいおい、八艘はっそう跳びじゃねえんだぞ」


 呆れた口調で釜鳴が振り返る。そこで意識が途切れたのか、黒いワンピースの少女は不意に脱力した。このままでは膝を強打する、と思った久志が手を伸ばしたのだが、目の前で縞緒が少女の体を抱き止め、横目で久志をにらんだ。


「いやらしい」


「な、何言ってるんですか! 僕はただ」


 釜鳴は上着のポケットに空いた穴から指を出しながら近付いてきた。


「おしゃべりしてる時間は、ねえみたいでやすぜ」


 パトカーのサイレンが聞こえている。もうすぐここまでやって来るだろう。


「どうしやすか、おとなしく警察のご厄介になるんですかい」


「まあ、ケガ人がいますしね、それも仕方ないのかも知れません」


 釜鳴の言葉に縞緒が落ち着いて答えたとき、久志が顔を上げた。


「……いや、逃げましょう」

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