第2話 潜入捜査

 外からセミの声が響く県警の小会議室に、小丸こまる久志ひさしは座っていた。冷房はかかっているが、汗が止まらない。目の前には課長が一人だけ。と言っても、彼の直属の上司である会計課長ではない。刑事部組織犯罪対策局薬物銃器対策課の鮫村さめむら課長である。漢字が詰まって目が滑りそうな役職だが、平たく言えばドラッグと銃を取り締まる部署だ。


 いったい何の用なのだろうといぶかる久志の前で、鮫村課長は延々とヤスリで爪を磨いている。これが美女なら多少はマゾヒスティックな嬉しさも感じるのかも知れないが、相手はいかに身綺麗とは言え、いかつい中年のオヤジである。嬉しくも楽しくもない。


「……あの」


 沈黙に耐えきれなくなった久志が口を開くと同時に、まるでそれを押さえ込むかのように鮫村がこう言った。


「小丸久志くん、だったね」


「はい」


 返事はしたものの、課長の視線はいまだ久志に向かない。丹念に丁寧に爪を磨きながら会話を続ける。


「君は確か、バツイチ子持ちだったっけね」


 それがどうした。いったい何のハラスメントだ、と言いたい気持ちを久志はグッと飲み込んだ。相手の意図がまるで見えないうちに、迂闊な言動は命取りになりかねない。


「そうですが」


「いまの時間、お子さんはどうしてるの。学校?」


「いえ、娘はその」


「ああ、そうか。心臓が悪いのだっけね。なら家で寝ているのかな。それとも入院してるの」


 何でそんなことを知っているのか。職場で娘の病気の話などした記憶はないし、そもそも何かあったら疑われかねない事実を無思慮に公にする危険を冒すほど、不注意でも馬鹿でもない。何かあるぞ、注意しなくては。久志の頭の中で信号が青から黄色に変わった。


「娘は、実家の両親に見てもらっていますが。あの」


「病気ってお金がかかるでしょう。よりによって心臓だものね」


 赤だ。久志の頭の中はいま、真っ赤な警戒色に染まった。この男は知っている。自分のしていることを知っているに違いない。なのに時間と手間をかけて追い詰めようとしている。どういうつもりだ。体を固くする久志の前で、鮫村はまだ爪を磨いていた。


「会計課の給料だけで、よく心臓病の治療なんてできるね。やっぱり会計やる人は、お金の使い方が上手いのかな」


 そしてようやく、課長の目は久志へと向く。平然と、怒りはもちろん猜疑や軽蔑といったあらゆる感情を浮かべることなく、ただ壁のカレンダーでも見るような目で言った。


「キミ、県警のお金チョロまかしてるよね」


 それはあたかも死刑宣告。そう、久志は娘の治療費を捻出するため、警察の予算から少しずつ、定期的に横領していたのだ。


「あ、いや……そんな」


「上手だよねえ、会計課長にも気付かれないなんてさ。そんな才能あるんなら、警察なんかよりもっと儲かる仕事しても良かったんじゃない」


「僕は、僕はそんな」


 可能ならば嘘であっても否定したかった。肯定して自分のメリットになる展開が想像できない。だが下手に否定すれば、相手は決定的な証拠を持ち出してトドメを刺しに来るかも知れない。どうすればいいんだ。顔面蒼白になる久志に、鮫村は小さく微笑むと首をかしげた。


「取引しようか」


「とり、ひき、ですか?」


 もはや追い詰められ口も頭も上手く回らない久志に、相手はヤスリを上着の胸ポケットに片付けながらうなずく。


「うちが追ってるヤマで一件、ちょっと厄介なのがあってね。潜入捜査しようとしてるのに、何故かことごとく相手方にバレちゃうの。捜査課にも応援頼んだんだけど、やっぱりダメでさ。どうもこっちの情報が向こうに筒抜けになってるみたい。考えたくはないけど、県警の内部にスパイがいるのかも知れないね」


「はあ」


 いったい何の話をしているのだろう。それが自分のしでかした横領と関係があるとでもいうのか。いまの久志は脳内がパニックを起こし、悲鳴を上げたくなるのを押さえるだけで必死である。マトモな想像力など働く余地はない。それを見通しているのか、課長は小さく口元を緩ませた。


「だからキミ、潜入してくれない?」


「はあ……えっ。ええっ!」


 驚く久志の目をのぞき込むように鮫村は声を潜める。


「私に協力してくれたら、キミの横領は見なかったことにしてあげる」


「いや、でも僕は」


「嫌だと言うのなら、キミを業務上横領で逮捕するしかないけど」


 そんな殺生な。久志は泣きそうになった。まさか子供までいる歳になって上司に泣かされそうになるとは。しかし、もし鮫村課長の言うことが本当なら。潜入捜査を引き受けることで過去の横領に目をつぶってくれるというのなら、必ずしも悪い取引ではないようにも思える。どこまで信用できるのかは別の話として。


 鮫村課長は立ち上がると久志の肩をポンと叩く。


「これは私が独断で決めたこと。キミは県警ではなく私にだけ連絡をすればいい。わかったね」


 あまりわかりたくはなかったが、久志にはもう、うなずく以外の選択肢などない。さもなくば自分の人生だけではなく、娘のめぐみの人生すら失いかねないのだから。いつの間にか、外のセミは鳴き止んでいた。




 数日前の腹立たしい記憶を思い出しながら、小丸久志はパイプ椅子に座る尻を少しずらした。話が長すぎて下半身がくたびれている。何が入信者説明会だ、くだらない。


 散場ばらば大黒奉賛ほうさん会は、その名の通り大黒天を奉じる中規模の新宗教。商売繁盛など現世利益を表向きのうたい文句としているが、その裏で薬物や銃器の違法取引を行なっている疑いがあるらしい。鮫村課長の指示で入信者説明会にやって来たものの、これが久志には退屈極まりないものだった。


 何せ大黒と言うよりエビス顔の入信担当者は、小さな公民館に集まった三十人ほどの聴衆に向かって、いきなりこう話し始めたのだ。


「散場大黒奉賛会は新宗教と呼ばれています。明治以降に立ち上がった宗教という意味ですが、そもそものルーツを辿りますと、我々は明治より古い時代にまでつながっております。実は、皆様ご存じでしょうか、あの、戦国武将の『弥助』にたどり着くのです」


 久志は思わず眉を寄せた。


 まず弥助は戦国武将ではない。このエビス顔の男が言及している弥助が天正九年にイエズス会のイタリア人巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが連れて来日し、後に織田信長に仕えることになるアフリカ人のことならば、だが。


 弥助は確かに士分を与えられたし、後々城を与えたいと信長が言ったとか言わなかったとかいう話はあるが、あくまで侍であって武将ではない。テレビゲームの影響か、戦国時代の有名人を全部武将扱いする傾向は何とかならないものだろうか。そもそも弥助と大黒天信仰がどうつながるのだ。つながる訳があるか。久志はそんなことを考えながらイライラしていた。


 そう、小丸久志はかなり面倒臭い部類の歴史オタクだったのだ。


「大黒天とは本来、日本の神様ではございません。元はインドの信仰であるヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身、今風に言うならアバターの一つにマハー・カーラという姿がございました。このマハー・カーラは全身が黒く、中国に伝わった際に大黒天と呼ばれるようになりました。密教の守護神でもあり、護法善神と呼ばれます」


 この辺は確かにその通り。その通りではあるものの、マハー・カーラがシヴァの化身であるというのは、元々ヒンドゥー教的解釈である。密教がこの関係性をそのまま輸入したのだが、シヴァを密教の神とする段階で、大日如来の化身である降三世明王に調伏させ、大自在天の名を与えるというワンクッションを置いている。最初から守護神だった訳ではない。


 しかし、これがいつ弥助と結びつくというのだろう。よほどアクロバティックな屁理屈でもこねない限り、結びつくはずなどないと思うのだが。


「この大黒天信仰が日本に入ってきた後、大国主信仰と習合し、皆様ご存じの大黒様へと変化いたします。どちらもダイコクと音読みできるから、というのがその理由ですが、何とも言霊ことだまの国という気がしますね。さらにその後、大国主の息子である事代主ことしろぬしと日本神話の蛭子を習合させ、エビス様が出来上がります。よく大黒様とエビス様がセットになっているのはそういう理由で、この組み合わせは室町時代にはすでにあったと言われています」


 大黒天信仰に関する話の内容に嘘や間違いはない。だが長い。もっと要点を押さえて短くまとめられないものか。そう思ったのは久志だけではなかったようだ。入り口に近い席に座っていた中年の男が立ち上がり、無言で出口へと向かう。するとそれが切っ掛けになったのか、他に三人の退出者が出た。しかしマイクを握るエビス顔の担当者は気にも留めない。


 いや、気に留めないどころか、突然こんなことを言い出した。


「南の空に昇る春の星座にケンタウルス座があります」


 星座? 大黒天の話じゃなかったのか。内容が飛びすぎて微妙にざわめく人々を前に、エビス顔の担当者はニンマリ笑う。


「そのケンタウルス座でもっとも明るい星、αケンタウリの方向に、異星人の住む惑星があるそうです。ご存じですか?」


 いやいやいや、まったくご存じではない。宇宙関係は歴史オタクの理解の範疇の外だが、異星人の存在が確認されたのであれば世界的な大ニュースになるはずだ。そんな話は聞いたこともない。呆れる久志ら聴衆を前に、エビス顔はこう続けた。


「そう、おわかりですね。大黒様は宇宙人だったのです」


 はぁあ? 何言ってんだ、コイツ。思わず声を上げそうになったのは久志だけではなかったろう。会場内に動揺が走り、ざわめきが大きくなったのは言うまでもない。


「マハー・カーラ? ただの伝説です! 大国主? 嘘です! 現在我が国に伝わる大黒天にまつわる話は、全部フィクションに過ぎません。ただ唯一、我が散場大黒奉賛会のみが、本当に本物の大黒天を知っているのです!」


 熱を帯びるエビス顔に反比例して、聴衆は一気に冷めて行った。席を立つ数がドンドン増える。当たり前だ、こんな馬鹿げた話に付き合っていられるか。アクロバティックな屁理屈にも限度がある。だが久志は帰る訳に行かない。最後まで付き合うしかないのだ。


「戦国時代にこの日本に現われた弥助はアフリカ人ではありません。αケンタウリの方角からやってきた宇宙人、第二の大黒天だったのです! その真の大黒天を崇め奉ることこそが、我ら散場大黒奉賛会の、ひいては日本人の務め! 日本こそ、日本人こそが、世界の中心にして救世主の役目を背負っている民族なのであります!」


 エビス顔の絶叫が途切れたとき、聴衆はもはや久志を含めて三人しか残っていなかった。これでは入信説明会にならないではないか。もう呆れ返るしかない。こんな集会、わざわざ聴衆を集めて自分たちの団体を馬鹿にしてくれと喧伝するようなものだ。三人しか残らないのも、むべなるかな。いや三人残っただけで奇跡的とさえ言える。これは担当者が後で教団から怒られるのだろうな、そう思ったとき。


 その担当者であろう男のエビス顔に満足げな笑みが浮かんだのを、久志は見逃さなかった。


 ああっ、そうか!


 それは電撃にも似た気付き。違う、これは失敗ではない。これこそが成功だったのだ。この集まりは最初から入信説明会などではなかった。おそらく実際には入信試験である。すなわち、どんなとんでもない言葉を聞いても、それでも入信したいと思う者だけを受け入れるための、大仰な選別テスト。


 久志以外の二人は、もう七十歳を超えているのではないかと思われる小柄な高齢者の男性と、まだ三十歳にもならないと見えるメガネの若い女性。どちらも外見は普通の一般人に見えるが、このテストに合格するのだ、ある意味ただ者ではないはず。


 カルトが社会問題になるたび、世間の人々は疑問を口にする。何故こんな嘘に決まっているデタラメな教義に騙されるのかと。普通に考えればわかるだろうと。だが違うのだ。それがどんな突拍子もない教えであろうと、いや、突拍子もない教えであればあるほど、ごくごく僅かだが信じる人は必ず出て来るのである。それはもう本当に必ず、だ。人間という生き物のさがと言っていい。


 その少数は放置すればただの無害な変わり者で終わるが、これを上手く掬い上げて一箇所に集めることができれば、強烈な潜在的パワーを持つ集団ができ上がる。極めて危険な集団と言い換えてもいい。散場大黒奉賛会は、その危険極まりない集団を意図的に作り上げているのだ。この時点で鮫村課長の見立てはほぼ正解。それは同時に、久志の身が危険に晒されるという意味でもあった。

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