第3話 死すべき種族

 どうにか砂利道を抜け、フロントガラスの砕け散った四駆は舗装された細い県道にまで到達した。もっともこれから先、この車で移動する訳には行かない。もし警察に見つかれば確実に厄介なことになるのは、どう考えてもわかり切っている話だ。ここで捨てるしかあるまい。


 ドアを開けて降りようとしたとき、地豪勇作の左半身に激痛が走った。必死に運転していたおかげで――脳内麻薬がジャブジャブ出ていたのだろう――忘れていたが、左腕を撃たれている。迷彩柄のシャツに指が入るほどの大きな穴が空き、血がダラダラと流れていた。これでは車を捨てたとしても、とびっきりの不審者だ。いやそれどころか、このままだと死ぬぞ。


 クソ、とにかく何か腕の付け根を縛る物を探さなければ。紐、紐はないか。勇作が車内を見回していると、助手席のピーナの娘がシートベルトを引っ張って言った。


「これを使えばよかろう」


 そうか! ……待てよ、切るのにナイフがいるな。ナイフ、ナイフは。畜生、こんなときに限ってナイフ持ってきてねえよ! 勇作は頭を抱えた。ロサンゼルス・エンゼルスの赤いキャップをかぶった娘は、それを見て不思議そうな顔で首をかしげる。


「何をそんなに慌てている」


「撃たれたんだよ!」


 勇作は思わず怒鳴った。


「おまえが言ったんだろう、撃たれないって!」


 すると娘は不本意げに眉を寄せた。


「撃たれないとは言っていない。当たらないと言ったんだ」


「当たってるじゃねえか!」


「そうでも言わないと、逃げられなかっただろう。それに」


 娘は無造作に右手を伸ばし、勇作の傷口に触れた。勇作は思わず身をよじる。


「てっ!」


 その様子がおかしかったのか、娘はクスッと笑った。


「その程度、当たったうちに入らない」


 すでに勇作の頭には血が上っていたが、それが一気に三倍増しになる。


「ふっざけんなよこのガキ! この傷が」


 見えないのか、と言いかけて勇作は絶句した。左腕の傷口がなかったからだ。シャツの袖は血で汚れているのに、どこからも血が流れ出していない。椅子に落ちた血はそのままだったが、腕にしたたっていた血は消えてしまった。動かせばまだ微かに痛みはあるものの、違和感もほぼない。


 娘は赤いキャップのつばを、チョイと持ち上げた。


「ほら、当たったうちに入らない」


「……おまえ、何をした」


「元々くっついていたモノを、もう一度くっつけただけだ。たいしたことはしていない」


 困惑している勇作にそう言うと、娘はドアを開け車を降りる。勇作も慌てて後を追った。


「おい、ちょっと待て。どこへ行く気だ、おまえ」


「おまえおまえ、うるさいな」


 どう見ても十二、三歳にしか見えない、半袖のパーカーにハーフパンツ姿の娘は振り返ると、エンゼルスの赤いキャップを手に、まるで千年を生きた巨人が見下ろすかの如く顎を上げた。


「私の名前はマーニー。覚えておけ、地豪勇作」




 山笹の生えた斜面にゴミが不法投棄されていた。その中に赤い釣り竿ケースがあるのを見つけた勇作は、カビ臭いそれを拾い、中に猟銃を隠して担いだ。


 しずかさや、岩に染み入るセミの声。なるほど確かにな。延々とセミの大合唱を聞いていると耳が馬鹿になる。それ以外何も聞こえない世界は確かに静かだ。


 道路の上に生い茂った木の枝が作るトンネルの下、僅かな木漏れ日の中、マーニーと名乗る娘の後を追うように坂道の端を下へ下へと歩き続ける勇作は、暑さ故か、それとも血を流したためか、少し頭がぼうっとしている。


 マーニー、そんなタイトルの映画があったような気がしたが、よく思い出せない。いやそもそも、あのガキのことなんぞどうでもいいのだ。問題はあの銃を持った白人の男だ。車に撥ね飛ばされて死んだのならいいが、もし生きていたら追いかけてこないとも限らない。


 アイツはいったい何者だ。何故あの場所にいて、何故マーニーたちを追いかけて、何故無差別に殺した。死んだフィリピン人の女、あれはマーニーの母親だろうか。


 勇作の脳裏によぎる炎。あの日、炎の中に消えた自らの母親の声が聞こえた気がした。


 無意識に足が止まる。いつの間にかうつむいていた勇作が視線を上げると、赤いキャップをかぶったマーニーが振り返り、無言で前方を指差していた。道路が大きくカーブする直前に、コンビニが建っている。




 こんなときには、とにかく水分と糖分だ。勇作が五百ミリリットルのスポーツドリンクをコンビニの冷蔵庫から取り出して振り返ると、マーニーが当たり前のような顔でメロンシャーベットを持っていた。


 店の前のベンチに座り、二人並んで休憩する。こんなところを襲われたらひとたまりもないな、勇作はそんなことを思いはしたが、これ以上休まず歩き続けるのは難しい。ペットボトルを一気に空にしたい気持ちを抑えて、少しずつ、喉を湿らせるように飲んで行く。隣ではマーニーが、木のスプーンでシャクシャクと音を立てながら、足を振り振りメロンシャーベットを口に運んでいた。まるで遠足にでも来たかのように楽しげに。


「……なあ」


 いま、このタイミングでたずねることでもないのかも知れない。だが気になって気になって仕方ないのだ。勇作は思い切って質問した。


「あの、だな。あれは、おまえのお母さん、だったのか」


 シャーベットを食べる手が止まる。マーニーは勇作を見上げた。だが何故だろう、勇作はこの小さな娘に見下ろされているかのように感じてしまう。


「おまえ言うな。そうだ、死んだのは私の母親だ。この体を産んだのだから母親で間違いない」


 平然と事実を告げるマーニーの目には、悲しみは見えなかった。かえってそれに勇作が動揺する。


「平気、なのか。その、母親が死んで」


 これにマーニーは静かな顔で返した。


「私はつくづく親に縁がない」


「縁がない?」


 どういう意味だろうか。母親が嫌いだったとか。もしかして虐待でもされていたのか。いや、あのフィリピン人の女はマーニーを必死で守ろうとしていた。とてもそんな風には思えない。混乱する勇作に、マーニーはまるで突き放すように言う。


「わからなくていい。同情も理解もしなくていい。それは本質ではないからな。ただ親を失ったから可哀想などと、必ずしも思う必要はないということだよ」


 そして遠い目で空を見上げた。


「人間は所詮、死すべき種族の者なのだ」


 どう見ても単なる赤いキャップをかぶった十二、三歳の娘にしか見えない。見えないのに、勇作はまるで巨人の隣にいるかのような錯覚を覚える。悠久の時を超えて生きる不死の巨人。何故そんな錯覚を覚えるのかはサッパリわからないのだが。


 マーニーの口元に笑みが浮かんだ。


「ついでだから言っておいてやる。あの銃を持った白人の男は死んだぞ。追いかけてくることはもうない」


「ほ、本当か」


 思わず立ち上がりそうになる勇作をなだめるかの如く、マーニーは大きくうなずいた。


「本当だ。でも、それは何の解決にもならない」


「解決にならない? どうして」


 勇作の疑問は妥当に思われたが、マーニーは平然とこう言う。


「いま言葉で説明しても信じられまい。まあ、そのうちわかる」


 そしてまたシャーベットを食べ始めた。そのあまりにも泰然とした様子に、思わず勇作は本音が出てしまう。


「どうでもいいけどおまえ、その口調は何とかならないのか」


「おまえおまえ、うるさい」


「いや、でも変だぞ」


「うーるさーい!」


 マーニーは一気にシャーベットを口にかき込んだ。そして頭がキーンとしたのか、こめかみをしばらく押さえていた。




あかりをつけましょランタンにぃ」


 ボディを黒く塗装されたガソリンランタンが辺りを照らす。


「お花をあげましょ黒い薔薇ぁ」


 頭にかぶった黒いドレスハットの周りを黒薔薇が囲んでいる。


「五人刺したら休みましょ、今日も楽しい人捜しぃ」


 膝下丈の黒いフリルのワンピースは、下に履いたパニエで可愛く膨らんでいた。背中には羽根の生えた小さな黒いリュックを背負い、爪先の丸い黒いロングブーツは三センチのヒール。その足が死体を踏む。


 ここは緑のモスクと呼ばれるムスリムの拠点。黒づくめの少女の周囲にはイスラム教徒の男女の死体がいくつも転がっている。だが殺したのは彼女ではない。ここに来たとき、すでに誰一人生きてはいなかったのだ。


 カラーコンタクトを入れているのだろう、真っ黒で大きな瞳が周囲を見回す。何一つ動くモノはない。少女は少し恥ずかしそうにワンピースの裾から手を入れると、黒い物を取り出した。


 黒い漆塗りのさやに入った刀。つばはなくも漆塗り。短い。脇差しだろうか。少女は鞘からスラリと白刃を抜き放つ。


「さあ蝶断丸ちょうだちまる、死者の声を“りこりん”に聞かせておくれ。プリーズ」


 そう言って刀の切っ先を足の下の死体に触れさせる。数秒の静寂の後、黒いレースの手袋に包まれた細い指がピクリと動いた。


「……名前はムスタファ……男、中肉中背……ジーンズ、深緑のシャツ……黒い拳銃……南に向かった」


 低くしゃがれた声が少女の口から漏れてくる。“りこりん”と名乗る少女は刀を鞘に納め、ニッコリと微笑んだ。


「“りこりん”了解。サンクス、蝶断丸」


 打って変わって鈴の転がるような声でそうつぶやくと、“りこりん”は刀を再びワンピースの裾から中に入れる。そしてもう一度誰にも見られていないことを確認して、開け放たれた玄関を振り返る。そこには小さな影。頭の毛を赤いリンゴの飾りが付いたゴムで結わえた白い小さな犬。マルチーズか。


「ねぇボタン、近くに誰もいない?」


 少女の言葉に、ボタンと呼ばれた子犬はワウと返事をする。“りこりん”はその横を通って緑のモスクから出た。もはや死体になど目もくれない。


 外は夕方、薄闇が広がっている。間もなく夜がやって来る。黒の映える夜が。ああ、黒で決めてきて良かった。“りこりん”が浮かべる満面の笑み。


「大成功ぉ」


 一人で小さなガッツポーズを見せると、黒衣の少女はボタンに「行くよ」と声をかける。一人と一匹はランタンを振り振り、セミがざわめく暗い森へと駆けていった。まるで暗黒の妖精のように。

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