第7話
目が開いたとき、周りは何もない白い空間だった。意識ははっきりしている。だが何かがおかしい。地に足をつけて立っているが、その実感が薄い。試しに拳を強く握ってみる。目一杯握っているはずだが、やはり引き締めが足りないような、妙な感覚がある。
『智樹くん、聞こえるかい』
天から降ってくるように、教授の声がした。姿は見えない。
『貘を通して、君に話しかけている。聞こえたら声を出してくれるかい』
「はい、聞こえます」
『よろしい。となると、近くに貘がいるはずだが、どうかね』
あたりを見回すと、足元に丸々とした貘の姿があった。合図のように鳴き声を上げる。
『通信良好、といったところか』
「これ、夢の中なんですよね」
『そうとも。実感は沸かないと思うが』
教授が言っていた通りだ。少々の違和感はあるが、自分の意思で動いていることを実感している。普段見ている夢とは全く違う。服装は現実の僕が着ていたものと同じになっているが、これもその気になれば変えられるのかもしれない。
『宙に浮こうとか考えないように。そういうのはもっと訓練しないと出来ないよ』
また今度の機会にしよう。隣にいる貘が痺れを切らして先に進んでいる。見失ったら大変だ。教授の心配が現実になってしまう。慌てて追いかける。
『さて、行き先についてだが、ひとつ見当は付けてある』
「そうなんですか」
『君が話してくれた、あの雨の日に行こう。九年前のあの日へ』
貘に追いついたことが合図になったのか、白い空間から、僕の母校へと場面が切り替わった。自分が覚えているよりも小さな机と椅子。黒板には何も書いておらず、棚は空っぽ。——あの、空き教室だった。
『あくまでも君の記憶を再生しているだけだ。スクリーンに投写した映像の中にいるとでも言おうか。これから起きることには、君も私もなんの介入もできない』
何か音が聞こえて、そちらに目を向ける。ちょうど、あのシーンがやってきたところだった。十歳の僕が走り込んでくる。息は乱れ、足はもつれて転びそうになっている。その後ろから囃し立てるような声をあげて、小さな僕よりも体格の大きい子供たちがやってきた。その顔はぐにゃぐにゃと不定形で霞か雲のように揺らいでいる。
『私たちをすんなりとここに通してくれたのはありがたい。だが少々以外だった』
「嫌な記憶ですけど、仕方ありません」
『男子生徒の顔は、君が無意識に封じているのだろう。今回の件に関係はないから、置いておきなさい』
彼らは周到に教室の鍵を閉め、慄いている小さな僕をどんどん追い詰める。何か言っているが聞き取れない。少年たちの声はモゾモゾとしたノイズになっていて、小さな僕の声は単純に小さかった。一際大きな少年が取り巻きに声をかけ、小さな僕をベランダに放り出そうと腕をひいた。ジタバタと抵抗するが、体格に差がありすぎてびくともしない。ついに小さな僕はベランダの外に出され、鍵を閉められた。
小さな僕はなおも抵抗していた。恐怖に顔を歪め、涙も鼻水も出るままに任せて、悲壮なまでに訴えていた。少年たちの顔は、今は見えない。だが、どんな顔をしているのかは覚えている。彼らは窓を叩いたり、勢いよく踏み出して威嚇し、あるいは小さな杖から閃光を出すことで、小さな僕を追い詰めた。そんなことを十分間も続けられるとは、およそ正気の沙汰ではない。でも事実だった。やがて空の様子が変わり、激しく雨が降り出した。彼らはなぜか大喜びして、教室を走って出ていった。
小さな僕は、しばらく窓を叩いていたが、それも疲れてやめてしまった。
『君が助け出されたのは何時ぐらいだね』
「午後七時ぐらいです」
『教師も見回りをしていただろうに』
「眠ってしまって、身体が隠れていたんです。この教室に母が入ってきてくれたのは、奇跡でした」
映像を早送りするように、あたりにノイズが走った。時間を早めているらしい。空がさらに暗くなり、母が教室に入ってきた。母は教室内を隈無く探した。教卓の下、オルガンの下、壁の棚と、可動式の棚の裏、机の下、ベランダ。動きが一度止まった。——僕の姿を見つけたのだろう。そこからは早かった。鍵を開け、勢いよく扉を開いて、僕を抱き上げて運び出していった。
『確か、洪水の発生は未明だったね』
「そうです」
『……もう少し進めようか』
また周りの風景が流れていく。場面は学校から自宅に変わり、夕食が終わり、風呂に入り、少しテレビを見て、ベッドに入る。家の電気は全て落とされた。
二階の自室へ入っていくと、思ったより小ぢんまりとした佇まいであることに驚きを感じた。カラーボックスにマンガや図鑑が入れられ、その上に少しだけキャラクターの人形が飾られている。
布団から頭の先だけ出している、小さな僕。昼間のことを忘れようとしているのだろう。でも眠れていないわけではなかった。ある意味、そういうところは子供で良かったと思う。
『確かに大雨だが、これで洪水が起きるのかね』
「洪水に遭った人たちは、“急に水かさが増した”と言っていたようです」
『そうか。ここからだと川が見えないな、行ってみるか』
振り返ると、貘が窓ガラスを取り抜けているところだった。
置いていかれる!
とっさに貘の短いしっぽを両手で掴み、一緒に窓ガラスを通り抜ける。何とか強くイメージして外に出られたが、あの何とも言えない感触は、そう何度も体験したいものではなかった。
『そこにいると危ない。貘の首に掴まっていなさい』
言われた通りに、尻尾から背、背から首によじ登っていく。貘は先ほどまで中型犬ぐらいの大きさだったと思うが、今は大型犬ほどの大きさに見える。その辺りも調節してくれているのだろうか。
激しい雨の中を緩やかに飛行していく。夢の中だからか、全身がずぶ濡れになっている感触もないし、雨粒が当たる感覚も鈍い。こうなれば、視界も悪くなって当然と思うが、その辺りは夢補正とでも言うべきか、きちんと周りが見えていた。
「教授、ここです」
『彼らの家はどこだい』
「確か、真ん中にあるイルミネーションの家と、その周辺です」
件の川の近くにやってきた。確かに元の川幅より大きく広がっており、水は茶色く濁っていた。それでも、まだ危険水位には達していない。時間は間も無く洪水が起きた時刻になろうとしている。あたりの家はほとんど明かりを消していて、一つの家に施された大量の電飾だけが、煌々と光っている。
遠く、上流の水面が膨らみ、徐々に迫り上がる。想像していたよりもずっと滑らかで、柔らかく、しかし、この後に訪れるだろう惨劇が分かるほど大きな波を作っていた。空に浮いている僕たちに届くほど大きくなった時、不意に弾けた。それが決壊の合図だった。
家が、車が、流されていく。
あたりは真っ暗闇で、僕たちに川の様子が見えているのは「夢だから」としか言いようがなかった。流された家は真っ暗のままのものもあれば、流される少し前に電気が付いたり、あるいは懐中電灯をつけているらしい、小さな光も見えた。過ぎ去ったこととはいえ、そこに住んでいた人々のことを思うと、胸が締め付けられる。恐ろしかっただろう。家を失ったことがどれだけ辛かったことか。洪水の後、教室から何人かの生徒が居なくなったことを思い出す。住む場所を失い、この地を離れて行ったのだ。
——これは、僕のせいなのだろうか。
呪いだろうが、体質だろうが、これだけのことが僕の、彼らを呪わしく思う心が起こしたことならば、僕は許されるべきではない。なぜ僕はこんなことをしているのだろう。誰か、誰か僕を罰してくれ。
上流の方を見ると、まだ水かさを増していくのが見えた。膨らみ、うねり、しぶきを上げてこちらに走ってくる。そして高く、大きく口を開けて僕の方に———。
「智樹くん!」
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