第5−2話

 教授はどうも誰かと待ち合わせているようだ。すでにフロントで行き先を聞いていたらしい。マントを脱ぎながらエレベーターに乗り込み、迷うことなく最上階のボタンを押した。


「持っていてくれないか」


 教授が僕に服紗で包まれた物を差し出した。


「なんですか、これ」

「仕事で使う物だ。詳しい使い方は中に書いてあるから、心配しなくていい」

「はい」

「中に入ってからは、私が良いと言うまで、口をきいてはいけないよ」

「分かりました」


 教授は実に淡々と話すタイプではあるが、この時の会話には少し厳しい響きが混ざっていた。有無を言わさぬ様子というか……。僕はもう後戻りは出来ない、という気持ちになっていた。彼が行うことが、良いことにしろ悪いことにしろ、それを見てしまう訳だから、今までの世界には、きっと戻れない。だからといって絶望していたわけではない。希望を持っていた訳でもないが。これは純粋な好奇心だ。ふつふつと湧き上がるその気持ちに突き動かされていた。僕はこれから、何かの神秘を見るのに違いない。先週からここまで、いろんなことが起きすぎている。それなら全部見てやろう、そんな考えも浮かんでいた。


 古いベルの音が鳴り、エレベーターを降りる。廊下に敷かれた絨毯はふっくらとしていて、その幅も普通のホテルに比べると広いような気がした。――ドアとドアの間隔がとても広い。部屋自体が大きいということだろう。予想はしていたが、この階にあるのはスイートルームだけなのだ。それも最高級の。ということは、仕事の相手というのも相当のVIPのはずだ。一体誰が待っているのだろう。


 とある一室の前で、教授が足を止めた。肩越しに目配せをされて目が合う。念を押しているのだろう。「何を見ても驚くな、表情を変えるな」。頭の中で何度も繰り返した。

 とんとん、と軽くノックをする。ややあって静かに戸が開くと、目の前に黒いスーツを纏った大きな男が現れた。かなり体格がいい。色の濃いレンズのメガネをかけていて、小さいころ映画で見た、未来からやってきたサイボーグに似ているなと、あさっての方向に思考を巡らせて驚きをどこかへ逃がそうと必死になった。


「先生、ご無沙汰しています」


 スーツの男は小さいがよく響く声で挨拶をした。僕のこともちらりと見たが、それ以上の反応は無く、軽く会釈をして、僕たちを部屋の中へ招き入れた。

 シックな調度品、天井の高さも部屋の広さも段違い。狭苦しい自分の部屋と、旅行先で泊まったビジネスホテルしか知らない僕にとっては、正に別世界というべき光景が広がっていた。一枚ガラスの向こうには、東京のオフィス街が広がっている。

 入ってすぐの空間に、いくつかソファやテーブルが組まれていた。窓の前の席に、先程の黒いスーツの男とは対照的に、明るいベージュのスーツを着た男が座っていた。教授より若いように見えるが、四十代ぐらいというところだろうか。テーブルの上の書類を眺めていたが、僕たちが来たことに気付くと、満面の笑みを浮かべて、すっくと立ち上がった。


「ああ、先生! こんにちは!」

「こんにちは、松本さん」


 この人が仕事の相手のようだ。大げさな仕草で教授に手を差し出し、快くそれを取った教授の手を、両手でぶんぶんと振っている。先程の挨拶の声もよく通っていたし、快活な人物だと伺えた。それにしてもどこかで見たことがある気がする。そう、今朝のテレビで見たような……。


「父の時に会って以来ですね。お元気でしたか」

「ええ。懲りずにやっております」

「その様子も、昔のままだ。懐かしい」続けて彼は僕の方を見た。「こちらの方は?」

「彼は私の助手でして」

「ついに後進の教育に」

「まあ、そんなところです。こう見えてウチの学部のホープなんですよ」

「それは有望ですね」


 松本氏に促されて、教授はソファーに座った。隣は空いていたが、紹介されていない僕が座るのは気が引けたので、そのすぐ後ろに立っていることにした。秘書なのかボディーガードなのか分からないが、黒スーツも少し離れたところで、こちらを向いて立っている。教授たちの間では世間話が始まっていて、内容はあまり聞かないように努めた。


「さて……今日は初めてですね。どういった内容ですか」


 しばらく経って、教授が本題に入った。それまでにこやかだった松本氏の表情が打って変わって真剣なものになると、黒スーツに目配せをした。彼は小さくうなづいて、部屋から出ていった。


「三ヶ月前に父が亡くなって、私が後を継いだということは、先生もよくご存知だと思います」

「ええ」

「包み隠さず言えば、先行きが不安でして。もちろん、こういうことになる前から父の補佐として働いていましたから、会社のことはよく分かっているのですが、いかんせん周りの古参たちを差し置いて、という印象が無いとも限らず……」

「派閥闘争ですか」

「いいえ、そんな大層なものではないのですが。――ただ、これからどのように振る舞えば良いのか、それが会社にどう働くのか、気になっているんです」


 いくら側近といえど、同じ会社の人間に聞かせられる話ではない、ということか。こんな話をされるとは、教授はずいぶんとこの人に信頼されている。だが、一通り言い切ったあと、僕の方を見たような気もする。信頼している人が連れてきた人間が、同じように信頼されるわけではない。当然だ。


「この件については、大丈夫なんですよね」

「ええ。私も彼も誓いを立てています」

「というと」

「他言すれば、口がきけなくなります」

「……それは恐ろしい」


 そんな誓いを立てた覚えはないが、信用してもらうための方便だと思っておく。

 松本氏が言っている内容も、僕には嘘だと思えなかったが、真意はわからない。あまり詳しく話していないだけかもしれない。これがどのように作用するのか分からないが、教授もあまり発言はせず、相槌を打って話を聞いているだけだ。医者の問診のような感じなのだろうか。


「では、そろそろ準備に入ります」

「緊張するなぁ」

「そう硬くならずとも大丈夫ですよ。やることはお父上と同じです」


 教授が僕に目配せをした。あの服紗の出番なのだろう。会釈をして、どこか隠れられる場所を探す。寝室の方に進んでいくと、その影に小さなキッチンがあるのに気づいた。ちょうど松本氏からは見えない角度になる。電気を点け、シンクの上で服紗を開けた。中には教授が書いた手書きの指示書と、小さな包みがあった。

 指示書によれば、湯を沸かし、そこに包の中身をいれて、相手に渡せということだった。近くにあった電気ケトルの電源を入れて、暫し待つ。包を降るとサラサラと音がした。粉状のものが入っているのは間違いない。一瞬、中身を怪しむ考えが浮かぶが、頭を振って打ち消す。

 ケトルのスイッチが音を立てたので、食器棚からカップとソーサーを取り出し、包みに入っていた粉末とお湯を注ぎ込んだ。マドラーで軽くかき混ぜると、粉はすぐに溶けて、薄茶色の液体を作り出した。香ばしいほうじ茶の匂いが鼻をくすぐる。何だ、心配して損をした。食器棚にはちょうど良いお盆もあったので、カップ一式を載せて持っていく。こういったときのマナーには不慣れだが、とにかくこぼさないよう、そっと松本氏の前に置いた。


「ありがとう」


 つい口を開きかけたが、我慢して会釈で済ませた。その行動が先ほどの教授の話に信憑性を持たせたようで、一層 松本氏の顔に緊張が走る。


「どうぞ。私が調合したお茶です。緑茶よりも、ほうじ茶がお好みと聞いたので、それをベースに作ってみました」

「ハーブティー、ですか」

「有り体に言えば」


 松本氏はカップを持ち上げ、珍しそうに眺めた後、一口、また一口と飲んでいった。その間、教授との話が途切れなかったのは、教授自身の気遣いなのだろうと思った。


「ご馳走様でした。とても美味しかったです」

「それはよかった」

「じゃあ、もう移動した方が良いですか」

「お願いします」


 そのまま松本氏は寝室へ移動し、ジャケットを脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外して、ベッドへ寝転んだ。ベルトも緩めており、リラックスする姿勢を作っていた。教授はその松本氏について行き、ベッドの脇に椅子を用意している。僕もついて行った方が良いのだろう。彼が飲みきったカップを持ってキッチンに下げ、教授の後ろについた。


「ドキドキするなぁ。魔法をかけてもらうのは初めてなんです」

「人が人に魔法をかけることは、今となっては珍しいことなんでしょう」

「確かに。機械や道具にかかった魔法を使うばかりですね」

「だからこそ、あなたやあなたの会社に大事があっては困ります」

「そう言ってもらえると、私もがんばれます」


 松本氏の声が、ぼんやりとし始めた。だんだんと微睡んでいる。


「……深呼吸をしてみましょうか。――そう、その調子です。まぶたが重くなってきますから、無理せず瞑ってしまって良いですよ」


 教授の語り口は、催眠術師のようだ。その言葉に促されるまま、松本氏は静かに呼吸をし、まぶたを閉じる。たった数分前まで快活に話をしていたとは思えないほどあっさりと、彼は寝入ってしまった。教授はその様子を確認すると、指でベッドの反対側を指した。そちらに行け、ということか。指示された通りに移動すると、教授はいつの間にか仕舞っておいた杖を、懐から取り出していた。ステッキとして使っていた時の三分の一ぐらいのサイズに短くなっている。宝石がある方を持ち、細く尖っている先の方を、松本氏の頭のあたりに向けている。

 そして、静かに、しかし全てを伝って彼方へ届くような響きで、唱えた。

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