第2話

 講義が始まってしばらく経つと、雨は止んでいた。

 元々、天気雨だったこともあって、周りからは季節外れの通り雨だと思われたようだ。ずぶ濡れになってしまった僕は急いで生協でTシャツとタオルを買い、なんとか身支度を整えて大教室へたどり着いた。あの変な研究会の小太りの彼(サークル長らしい)にはとにかく謝って、クリーニング代として財布からいくらか渡しておいた。月曜日にして今週の生活費が残り千円になったが、とにかく一限に間に合ったので良しとしよう。一年次でいきなり単位を落とす、ということはなるべく避けたい。

 歴史の担当教授である髭田の声はマイクを通しているにも関わらず、ボソボソとして聞こえにくい。内容は中・高でやった授業のおさらいみたいなものだが、必修で受けなくてはならないというだけで駆り出される専門家も、一ヶ月前まで散々勉強してきた僕たちも、なかなかに不憫だと思う。


「——六十年代、東京オリンピックなどに伴い【高度経済成長期】が訪れたことは、先週までの講義でやった通りだが、七十年代に入るにつれて【エネルギー革命】がやってくる。単純な話、燃料が石炭から石油へと移り変わって行き、家電が普及していく中で電力の消費量も増大した。そうした時に起きたのが【オイルショック】である。第四次中東戦争の影響による石油危機というのが概要であるが、石炭も石油も大量に消費する火力発電といった電力事業にもその影響は色濃く出た。これを契機に新たなエネルギーとして注目されたのが、〈魔力〉である。

昔から幻想として語られていたが、その存在が立証されエネルギーとして使われるようになったのは、この頃からと言われている。同時に〈原子力〉も発電に使えるエネルギーとしてもてはやされていたが、軍事流用への懸念や人体に与える影響が大きいとして、あまり普及しなかった。

 〈魔力〉は人間や生物、植物にいたるまで、あらゆる有機物に内在する、ごくありふれたエネルギーだ。そのエネルギーを集めて増幅することで、電力や推進力といったものに変換出来るとされた。この阿倍野氏や藤原氏といった『始まりの三家』による提唱と宣言をもとに、ここから日本の歴史は【魔法時代】として歩みを進めることになる。君たちも知っている通り、現代の我々の生活は〈魔力〉・〈魔法〉によって成り立っている。空を飛ぶホウキ、道路を走る車、この部屋の照明、全員のポケットあるいはバッグに入っている携帯端末に至るまで、少なくともその電源として魔力が使われているわけだ。その反面、多元世界、今風に言えば「パラレルワールド」や、出来れば介入を避けたい〈怪異〉や〈呪い〉といったものとも隣り合わせだ。もちろん実験の失敗も含めてな。何か困ったことがあれば、この学校にはそうしたことへの専門家が腐るほどいる。それなりに見当を立ててアポを取って相談しなさい。——では今日はここまで。前回までのレポートは今日が提出期限だ。空き時間で構わんので、五時までには七号館へ立ち寄るように」


 いくら髭田がそう言ったところで、雨男の専門家が存在するわけでもなし。近しいと思われる種類の専門家は軒並み不在だった。

 運命学はフィールドワークで半年休講、呪術学は『魔界に出張』(ホントか?)、気象学のゼミでは水鏡がオンラインになっていたので試しに問いかけてみたが、


「確かに今年に入って雨量が増えているような気がするけど、このところゲリラ豪雨も多いしねぇ。予測自体がうまく出来ないのよ。ほとんど占い状態ね。それに、本当に君がそんな体質なのか確証がないし。何なら活かせるように訓練してみたら?儲かるかもよ」

「……」


 軽々しく言ってくれる。自分の思い通りになれば良いものを、そうなってくれないから忌み嫌っているのだ。


 ——花見に行きたい、海に行きたい、紅葉を見たい、その行楽の全ては僕自身と隔たりのあるものだ。小さな時の思い出は、いつも暗い空と雨音に塗りつぶされている。——こんな体質を持つくらいなら、もっと魔力がたくさん欲しかった。そうじゃなければ、体質をコントロール出来る様になっていればよかった。そうしたらもっと良いことがあったはずなのに。


 ◇


 構内をさまよっている内に昼時になってしまったので、学食に行くことにした。野菜タンメンを受け取って、席に着こうとした時に、にわかに周りがざわついた。何事かと振り向くと、入り口に人だかりができている。いや、この人だかりは単に券売機に並ぶ人と、その近くのメニュー表を見ていた学生や教師たちだ。それが少しずつ動いている。一人ずつの顔には、恐れや怯え、驚きが見て取れる。視線は少し下で、なにかを追っている。何だ。何かが来るのか。自分の身体に緊張が走った時、人だかりを割って、ずるり、と。


 黒いマントを着た人物が歩いてきた。


 成人男性と言うにはあまりに小さく、かといって女性とも思えない。フードを目深に被っているせいで顔も分からない。床に広がるマントの裾を重そうに引きずりながら、まっすぐに歩いてくる。人だかりを抜けた後も、誰もが恐れをなして近付かない。というか、その場に釘付けになっている。さながら異界の神が歩いているかのようだ。どこを目指しているのか、早くはないが、歩みは確実だ。ずる、ずる、と音を立てて歩いてくる。どうもこちらを向いているように思うが気のせいだろうか。そう考える間にもマントとの間合いは詰まっていく。髭田のボソボソ声が蘇る。『パラレルワールド』『呪い』『怪異』……前途揚々かどうかは分からないが、少なくともこの先六十年は続くかと思っていた人生がここで終了のお知らせとは残念だ。この身体から魂が抜けても体質は持続するのだろうか。いっそ荼毘に伏された時には一点の曇りもない五月晴れになることを希望する。だからどうか安らかな眠りを——!

 ほとんど生存を諦めていた僕の意識だったが、いつまでたっても途切れはしないので、すぐ後ろの柱に貼られたビラをしっかりと見ることができた。


[急募]助手(アルバイト)

 欠員により一名要。学業との関係は応相談。

 交通費支給。

 希望者は三号棟 民俗学研究室 バクまで。


 黒いマントは、未だ開かれたままの花道を進み、どこかへ消えていった。

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