第8話 少女、水槽を持って都会へ行く
まだ空が白み始める前、フィッシャーマン邸の中では、木と木がぶつかり合う音や水槽と壁がぶつかる音がしていた。
「アリア……、えっと本当にそのアクアリウムを持っているつもりなの?」
イザベラは肩を竦めて、溜め息を吐いた。
そして夫を半眼で睨み、コホンと咳払いを演じた。
「わ、私が手伝おう!……仕方ないだろう。魔法が使えるようになったら、という条件だったんだ。アリアを貴族街に連れていける口実ができて良かったと思うことにしている。」
「はぁ。そうね。このどでかい水槽がなければ、さらに良かったんだけど……」
マーベルをイザベラがアリアに対してずっと罪悪感を抱いていたことは事実だった。
そして聡い娘の気遣いに助けられていたのも分かっている。
だから都会に、王の領地『キングスフィールド』に行くこと自体は大いに賛成である。
ただ、そこにどうして観賞魚を連れていくのか。
……やっぱり、寂しかったのよね。私も子供の頃、どこに行くにもぬいぐるみを持っていたっけ。
盛大に勘違いしている母はさておき、マーベルが水槽運びを手伝ったことで、準備が一気に進むことになった。
『
今日は馬車が二台用意されている。
一台はマーベルとイザベラが貴族街に戻る為に用意したので、とても豪華なもの。
そしてもの一つは荷車を単に馬が引いているというもの、今から出荷されますと主張している素朴なもの。
因みに貴族たる者、魔法の一つや二つは使える。
当然のように使える——ただ、使えるのは自領内だけだ。
使えないわけではないが、それが貴族としてのマナーである。
格上の爵位を持っている者、もしくはそれに類するものの前での魔法使用はご法度。
そも、貴族街では魔法の使用も家の中に限られる。
『ふーん、色々大変なんだな。ま、銃刀法違反的な法律は必要だろうしな。』
「そうなの。だからキングスフィールドには特別な結界が張られているって話よ。」
二台には大きな水槽と空気ポンプを胸に抱えて体育座りしているアリアがいた。
『アリア、お前も貴族ならあっちの馬車に乗った方がいいんじゃないか?』
「ダメよ。メンマがまた酸欠で三途の川を渡っちゃうじゃない!」
人面魚は気を使ったのだが、少女は半眼になって反論した。
……いや、喋ってなきゃ、水槽内の空気でなんとかなるんだけどな。
とかなんとか言っているが、やはり話し相手がいてくれた方が嬉しい。
『にしても、話には聞いていたがアリアんちの領地はまさに天然の監獄だな。』
「でしょ?でしょ?ほんと、立地最悪よね。ご先祖さまも酷い扱いを受けていたってことよね!』
少女の主張に対し、今度は人面魚が半眼になる。——ただ、半眼の瞳の先は少女にではなく切り立った岩山に向けられている。
……本当に天然なのかは疑わしいけどな。言ってみればここは人間側の陣地だったんだろうな。
『で、仕方なく漁を始めたと。普通はそう考えるか。岩山からは湧水が出て、川もある。だったら尚更、復興は早いかもなぁ』
人面魚は隠し事が多い。
そしてその全てを少女が知る必要はないと考えている。
「後は、私の話術……ってことよね。うーん、自信ないなぁ……」
『それなんだけどな……』
人面魚は少女に、まーた悪いことを教えた。
□□□
馬車は畑を抜け、お世辞程度の林を抜け、そして天然の洞窟に入っていった。
この巨大なトンネルこそが王領とフィッシャーマン領の境界線である。
フィッシャーマン領は元々王家の直轄地であった。
それがいつしか切り離され、元々、領地を管理していたフィッシャーマン家に割譲された。
だから王族領キングスフィールドは岩山を挟んですぐのところにある。
だが、トンネルを抜けた先で人面魚は目を剥いた。
『まるで別世界だな……』
「それはそうよ。だってエルセイリア王国の王都なのよ!近代設備も整っているし、公共のバスや線路だったあるし。遊ぶところだって……」
『……』
メンマは無言で頷いた、といっても首はないから全身で頷く。
そして必死に言葉を呑み込んでいた。
……電気があるから魔法と科学の折衷世界を創造していたけど、これは間違いだな。科学は魔法研究の副産物程度、俺の知っている世界の逆を辿った世界ってことか。
そんなこと思い出しても意味がない。そう思って人面魚は言葉を呑み込んだ。
因みにもう一つ理由がある。
入った瞬間視線を感じたのだ。
おそらくこれがキングスフィールドの結界。
「あ、お父様達の馬車が停まりました。トーマスさん、ここで一度止まってください。」
トーマスはアリアの祖母の弟の息子だ。
フィッシャーマン家はギリギリ一つの男爵位を持っているだけなので、親戚といえども、皆平民に近い。
それを言ったらアリアの今の服装も平民のそれなのだが、中年の男トーマスは馬車を止め、少女に傅いた。
「トーマスさん、やめてください。私も……」
「いえ、アリア様にはいつもよくして頂いているので。」
これはアリアの日頃の努力の賜物だ。
人面魚は窓からしか見ていないが、彼女は領民への声かけをしっかりと行なっている。
父と母、それに領主を継ぐ兄や他の領主に取り入る就活をしている次男はほとんど領地に戻らない。
その間、領民の話を聞いているのは祖母を伴ったアリアなのだ。
窓越しからでも分かる。
——彼女はフィッシャーマン領のアイドルである。
12歳の少女アリアは人間的にも魅力的なのだ。
それがおそらく祖父が彼女に未来を託した理由だろう、なんて人面魚は考えていたりする。
そんなことをしていると、いつの間にかアリアの父・マーベルが馬子にも衣装と言わんばかりの高そうに見える服を着て、馬車から一人だけ降りてきた。
「アリア、実は直接学校へは行けない。ここから先にある学校保有の寮の一画で話をすることになっている。それに今のお前の格好では……」
「分かってます。ですが、交渉には私とこの水槽も同行させてくださいませ。」
「す、水槽も? お前、正気か?」
「正気です。この鯉はお父様のお父様が残した魔除けの魚です。それに幸運を呼ぶ魚とも聞いております。きっとこのような時を想定されていたのではないでしょうか。」
真顔のアリアに人面魚メンマは吹き出しそうになった。
……魔除けの魚ねぇ。確かにギーベルはそんなことを言っていたか。でも幸運を呼ぶとは1mmも考えていなかった筈だがな。
「分かった。とにかくここでは魔法が使えない。トーマスも手伝ってくれ。デーマスは先に妻を貴族街に送ってくれ。その後は先に領地に戻ってくれて構わない。私も交渉が終わり次第、アリアを返すために一度屋敷に戻る必要があるからな。」
……なるほど。そうですか、そうですか。お貴族様になるというのは大変なことらしい。
『アリア、例の計画、忘れるなよ!』
「う、うん」
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