第2話 少女の困惑と母と水槽の魚

 アリアは『魚』が喋っていると思い、急いで部屋を後にした。

 ただ、兄が学校に通い始めてから、少女の部屋には特別なルールが設けられている。 

 元々自分の部屋だが、この部屋はフィッシャーマン家の小さな屋敷の中で、最も海風が当たる部屋なのだ。


 だから少女は一度、水浴びをして、違う服に着替えなければならない。

 でなければ、貴族街用の服が収納されている母の部屋には行けない。

 少女も服の値段くらい知っている——0の桁が二つ違うのも知っている。


「お父さんは絶対に入りたがらないから、お母さん。えっとこのボロ着はこっちに置いて……、それから……」


 少女はとても真面目な性格である。

 それに身の程を弁える大切さも知っている。

 だから真剣に体を洗い、髪も洗い、指の間もしっかり洗って、家着に着替えた。


 勿論、両親が帰っていなければ、これほど潔癖な手順は踏まなくても良い。

 こんな面倒くさいことをしなくても、祖母か使用人として屋敷で働いている祖母に縋り付くか、祖母の弟が住む別邸に駆け込むだけで済む。

 でも、今は二人とも両親の給仕をしている。

 祖母と祖母の弟にも、同じルールが適用される。


 『バシャァ!』


 アリアは頭から水を被ったことで、文字通り頭が冷めてきた。


「あれ……? 私って、何を言ってるんだろ。魔導書の不気味な魔法陣を書いてたから、頭がおかしくなっていたのかな?それともやっぱり夢?」


 でも、本当だったなら、あまりにも怖すぎる。

 だから、確かめて貰うだけだ、無論、その為に母も同じ手順を取る必要がある。

 勿論、臭いのする部屋に行く時にシャワーは必要ない。

 あの部屋用のボロ着に着替えるだけだ。


 ……だ、だ、だ、大丈夫。——え、何が大丈夫? 何もないことが大丈夫なんだけど、それだとお母さんに凄い手間をとらせてしまう。


 だが、ここまで来たのだ、後には引き返せない。

 だからアリアは丁寧な仕草で素朴なドアをノックした。


 アリアの母、イザベラ・フィッシャーマンはゴリルゴリラ子爵の娘である。

 ただ、四女ということで、仕方なく呪われた地、フィッシャーマン領に嫁いできた。

 でも、その臭い海風に吹かれても、腐ることなく貴族であり続けた。

 とはいえ、アリアに対しては非常に優しい母である。——それはそうだろう、彼女は娘に昔の自分を投影している。

 だから、長男に頼み込んで、友人に本を借りさせたのだ。

 金がないなら努力しかない。

 時間だけは平等なのだから、努力を注ぎ込める何かがあれば、きっと追いつける。

 けれども残念ながら今は別だったりする。

 次男のリーベスの就職面接が控えているのだ。

 ど田舎暮らしで培った不作法がときどき見え隠れしている。

 だから、母としても机に向かうべき一週間なのだ。

 次男の為に、マナーブックを今現在作成中である。

 最低限以上のマナーや言葉遣いを身につける必要があるのだ。


 『コンコン』


 このタイミングでノックの音がした。


「お、お母様。ただいま、宜しいでしょうか?」


 本人には言い辛いことだが、アリアにはその技能は必要ない。

 この地の娘が伯爵様や侯爵様、ましてや王族に召し抱えられることはない。

 申し訳ないとは思うが、そんなシンデレラストーリーは伽話でしか登場しない。


「アリア? 今は写し作業中ですよね。何か問題でも?」


 すると、金髪の美少女はオロオロと貴族らしからぬ態度で狼狽えてた。

 勿論、彼女にマナーの指導はしない——できれば、もっと伸び伸びと生きてほしい。

 ただ、見るたびに勿体ないと思ってしまう。

 容姿は自分の若い頃の愛らしさに、端正な美しさを足したもの。

 呪われた土地生まれでなければ、先ほど否定したシンデレラストーリーも叶ったかもしれない。

 だが、この後の言葉にイザベラは嘆息した。


「お母様、さ、魚が喋ったんです!」


 イザベラの時が止まった、——くらい頭を抱えた。

 やはり、高等魔導書をいきなり読ませたのが問題だったらしい。

 でも、アリアの教育はそれくらいしなければ追いつけるものではなかった。

 元々、追いつく必要はないのかもしれないが、やはり親というものは、自分ができなかったことを子供に押し付けるものなのだろうか。


「はぁ……、そんなに魔導書が苦手?」

「ま、魔導書?うーん、それはそうかもだけど……——って、そうじゃないんだって!水槽の中のお魚が喋ったよ!!」


 イザベラは若い頃の自分と娘を重ねていた。——やはりそうなったか。

 親の心子知らずと言うが、子の心だって親には分からない。

 ここで跳ね飛ばすのも教育かもしれないが、あんなに必死なのだ。

 ……仕方ない、私も缶詰に付き合った方が良いわよね。


 アリアは母を連れて、自室へ戻っていく。

 因みに、途中で母には見窄らしい部屋着に着替えて貰う。


 そして、ついにドアの前に立つ母と娘。


 いざ————


『ぷくぷくぷくぷく』


 そこには祖父が買った頃と変わらぬ魚が、何食わぬ顔で泳いでいた。

 無論、三年で三回りは大きくなった。——これ以上大きくなったら水槽を変えなければならないが、そんなお金はここにはない。


「あれ!?あれ!?」


 娘の様子が明らかにおかしい。——否、おかしいのは分かっていた。

 だから今日はちゃんと話し合おう、母は誓った……筈だったのだが。


「待って、分かった。私の順番がおかしかったんだ……」


 ——はて?おかしいのは順番ではない筈だが?


「お母さん、ごめん。やっぱり私の勘違いみたい!……だって、この魚、おじいちゃんが魔除けになるかもって買ってくれたんだもん。私、勉強頑張るね!」


 ————はてはて。イザベラには何が何やら分からないが、そこはいつもと変わらないアリアの部屋だった。



 そしてイザベラはせっかく臭いのきつい部屋に来たのに、勉強の邪魔だと退出させられた為、首を傾げながらシャワーを浴びにいく。


「今日の夜は、ゆっくり家族会議ね。」

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