底辺貴族令嬢の部屋の水槽の中にいる人面魚って実は俺なんですがこれって畜生道に落ちたってこと?

綿木絹

少女と水槽の魚

第1話 写経中の少女と水槽

 黄土色の素朴で薄いカーテンが風で捲れ上がっている。

 窓の外はある意味、とても絵になる海の街が広がっている。

 少女は、風に靡く金色の髪を鬱陶しがりながら、素朴な窓を閉めた。


「海の匂い、ちょっと苦手だな。」


 ようやく落ち着いた髪を結び直し、彼女は再び机に戻った。


「今日中に、ここまで書き写さないと……」


 少女の名はアリア・フィッシャーマン。

 一応貴族の娘である。

 ただ、貴族といっても色々ある。

 侯爵に伯爵に子爵に……それに辺境伯なんて特殊な貴族も……

 

「はぁ……、多い。まだまだこんなにある。」


 窓を閉めたことで、少しだけ集中できるようになった。

 けれど今度はアクアリウムのコポコポ音が耳に付く。


 ——なんであの時、あんなのを強請ねだったのだろう


 アクアリウムは彼女の祖父が買ってくれたものだ、——その祖父は三年前に他界した。

 だから、ある意味であれは形見でもある、

 それで今も自分の部屋に置いているし、大切にもしている。

 祖父は男爵位を王より賜っていた。

 そして今は父が爵位を継いでいる。

 二人の兄は貴族が通う学校に通っているが、彼女は学校には通えない。


 ——この地は呪われた土地、どうしてご先祖様はこんな不毛な地の領主になったのだろう。


 『パシャン』


 アクアリウムで飼っている魚が水音を立てた。

 その音に少女は再び集中を切らしてしまう。


「もう、静かにして! あと640頁も写さないといけないんだから!」


 この近海では何故か魚があまり取れない。

 そして時折腐ったような海風が吹く。

 だから農作物も質が高いとは言えない。

 そんな中で一発逆転を狙った父は、息子二人を貴族の学校に通わせた。

 しかも、貴族街の家を買ってまでだ。



 勿論、ここから王都オベロンの川沿いにある、『サッチマン貴族街』には通えない。

 サッチマン貴族街の中に貴族学校がある。

 だから両親は二人の息子のために、小さな小さな家を買った。

 ご先祖様が残してくれた、「ありとあらゆるもの」を売り捌いて。


「あと638頁くらいかな。学校に通えない分、家で勉強しろって……。」


 少女の年齢は12歳になったばかり——とはいえ、お金持ちの貴族ならばとっくに学校に通っている。

 でも、入学金だって必要なのだ、この呪われた地の収入だけで三人分も——しかも上流貴族に嫁げもしない少女を入学させる余裕はうちにはない。


「暑……。」


 ただ、それではあまりにも彼女が不憫である。

 だから母が一週間だけ、と分厚い魔導書を持って帰ってきた。


「窓を閉めたらやっぱり暑い……、温度設定が難しいのよね。」


 アクアリウムの水温はやや高めに設定されている。

 だから先ほどまで窓を開けていた。

 でも、今の時間は海からの腐敗臭がするので、暑いのを我慢しなければならない。


「お父さんとお母さんが戻ってきているのは嬉しいけど、私をこの部屋に缶詰なんて酷い。確かに、服に臭いがついちゃうのは分かるけど……」


 彼女自身、独り言が多くなっているのは理解している。

 そもそも一週間で書き写すなど不可能なのだ、——正直、2%くらいしか進んでいない。


「はぁ————

『やってられないよな』

「うん」

『世の中の99%の富は1%の人間が独り占めしてるんだぜ。いや、この場合、1%占めか』

「そうな……の……?」


 机に突っ伏していたアリアは目を剥いた。

 今、誰かと会話をした気がする。

 まるで兄と会話をしているようだった。

 ……もしくはお爺さま

 父が入ってくる筈はないし、絶対に母の声でもなかった。


「あー、もう!集中!集中!」


 分厚い魔導書を書き写しながら、眠ってしまったのだ——と、少女は考えた。

 そしてそれから1時間、少女は懸命に書き写していった。

 今日から始めた写経作業——だとしても、既に心は折れている。

 全部で666頁あるらしい。

 しかも、これは一番上の兄・マーベスが友人から借りた本らしい。

 兄とアリアは十歳も年齢が離れている、そしてその兄は六歳の頃から学校に通っている。

 ……つまりは十五年年以上勉強した人間の為の本である。

 中級魔法使いが、己をさらに磨くために読む参考書だ。


「元々、何を書いているのか分からないのに、それを書き写せって……」


 アリアは書き取っていない残りの頁を確認して、嘆息した。


『なんで、そんな難しい本を書き写す必要があるのかねぇ。普通、小学生向けの本からだろ』

「バカね。そんなお金あるわけないじゃない。マーベス兄さんはこの土地を継ぐのだし、リーベス兄さんもお偉い貴族様に仕えなきゃいけない。だから兄さんたちは勉強しなきゃいけなかったの。」


 それはアリアも分かっている。

 確かに自分だけお金を掛けてもらえない、と嘆いたこともある。

 そんな彼女を可哀想に思い、祖父はなけなしの金で、当時のアリアの身長ほどもあるアクアリウムを買ってくれた。


「フィッシャーマン領は呪われた地。だから、私は魔法や教養がそれなりにないと、嫁ぎ先は準男爵以下……、つまりは平民になってしまうの。」

『この世界の人間のほとんどが平民だろ?』

「それはそうだけど、お爺さまに言われたの。アリアは誇り高く生きろって。民衆を導く希望になれって」


 そしてアリアは一度、大きく深呼吸をした——いや、深呼吸というよりも、過呼吸に近い。一度、二度、三度、四度、五度、浅い呼吸をした。


 彼女は、浅い呼吸をこれでもかとした後、ガタッっと立ち上がり、木製の素朴な椅子を大きくズラした。

 

 ……その、たおやかな指先がアクアリウムに向く、——そして。


「……って、魚が喋ってる!お、お、お、お、お母さん!」

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