生存限界汚染領域のキミ
枕五味
キミに出会う
文献での初出は50年くらい前。口伝えならおよそ100年以上前から存在を認識されていたらしいことが窺える。
小さな田舎の村を囲む山の一つ。生い茂る草をかき分けながら険しい道を進んでいくと、白い靄のような物にやがて囲まれる。そのまま進んで行くと、そこにたどり着く。迷い込んだら二度と戻れない。
生存限界汚染領域。
そう呼び始めたのは私のチームメイトだ。ふざけた名前だがしっくりきた。
それはまるで山の中にもう一つ別の山の入り口がそこから先にあるとでも言わんばかりの不可解な現象。極端に目撃情報も少なくあやふやなため、神隠しの類のただの地域民俗の伝承か何かだと考えられていた。
映像記録が撮られるまでは。
一月前。撮影者は民俗学の研究者で、ネットにアップする探索動画を解説と共に撮ろうとしていたらしい。熱心な方だ。動画は手振れのすくない手慣れたものによる映像で、見やすくて資料に最適だった。
前方に向かって進む映像、名前もわからない雑草、灰色の空、黒い木肌、飛び出ている枝。「危なさそうだから帰るかぁ」という撮影者の暢気な独り言。
その独り言から数秒後、白い靄の中に奇妙な虹彩が混じって現れた。「なんだなんだ」と撮影者は言いながらその虹彩に向かって突き進んでいく。数歩進んだところで、虹彩の向こうに明らかに奇妙な光景の輪郭が現れる。霧が薄れて見えたのは見慣れない色に染まった曲がりくねった植物、名状しがたい極彩色の粘菌や菌類のようなものがあちこちに蔓延っている。
悍ましく美しい異界の入り口。
その景色の向こう側で、こちらに向かって手招きをする人影のような「何か」の影が見えた……。撮影者の緊張感が画面の震えとなって此方に伝わってくる。カメラはのレンズが大気中の物質のせいで汚れてきているのか、段々と映像がくもっていく。これ以上進むと戻れない……。画面は180度方向を転換させると、来た道を走って戻っていった。
そこで映像は終わった。
映像の撮影者はその映像をそのままネットにアップするのではなく、有識者的理性を働かせてしかるべき行政機関へ届け出た。
初めこそ馬鹿馬鹿しいと一蹴された映像だが、職員複数人が現地に赴き事実であると確認した後、さらに安全性を確認するために国軍へと調査の依頼が来た。
そこに私はいた。
もともと人口が少ない山の中の村だったので、住民にはしばらく村の外に避難してもらうという作業はとても簡単に済ませられた。おかげで元々人気のない村の中はより一層不気味なくらいひっそりとしている。
その町の一番端の山の麓に一時的に建てられた質素な汚れた白いテントの下。
一月前の映像を、私は現地調査担当チームの仲間たちと見ていた。
今から向かう調査のための予習だ。
二週間前にその靄の向こうをさらに探索するために人員が数名派遣されたが、簡単なマスクと登山用の服装に猟銃という軽い装備で出かけたがために大怪我をして帰ってきた。
霧の向こうの領域に入ってしばらくすると体に得体の知れない物質が大量に貼り付き、それを放置すると肌が赤黒く変色しそこから炎症を起こしてしまう。その部位は放っておくと腐敗し、やがて崩れ落ちてキノコのようなものが生えてくるが、その未知なるキノコも数日すれば跡形もなく朽ち果てる。消費体力も出血量も相当ひどいことになる。調査に連れていった犬や鳥がそうなったのだ。すぐ帰って来れば軽傷ですみ治るのも早いが、生身で長居すると大変危険なのは素人にでもわかる。
外界からの異物は悉く汚染され、到底生存することなどできない領域。
そんなとこに今から調査に向かう。緊張しすぎて業務に支障が出てはいけないので気分を落ち着かせるためにゆっくり呼吸をした。
リーダーの号令を合図に全員が装備を整える。
顔全体を覆うガスマスク、軽量だが作りの丈夫な装備、視界を記録するために小型カメラも頭に取り付けた。猛獣などがいた時に対応できるように銃火器も装備する。居ないといいと何度も願った。
未踏の地の奥深くへの冒険譚とは字に書けば心が躍るかもしれないが、今まで集められた資料全てに目を通したチームメイトは実際には高揚感より恐怖感を抱えて赴くことになる。
その方が緊張感をもって任務をこなせるから、不真面目な態度のやつも減ると思うと気が少し楽だ。
集団の均衡を崩してはいけない。不真面目なのはいけない。皆のためだ。自分のためだ。
いつものように心の中で自戒を念じる。
こうすると集団行動の中で自分がきちんととるべき行動ととらないべき行動をすぐに再確認できる。
慣れた動作で仲間たちがお互いの装備を確認しテントを出ると、私たちはトラックに乗り込み山の奥地のさらに奥の霧の向こうへと向かった。
トラックを降りて枯葉や雑草で敷き詰められた道をしばらく歩くと、地面から映えるように突き刺さっている黒い杭のような形の石を発見した。大きさは私よりも頭一つぶんくらいの高さだ。表面はでこぼことしている。
リーダーの指示で大きさを測り地図に印をつける。今まで見た映像記録にこんな奇妙なものは映っていただろうかと誰もが疑問に思っただろうが、石の存在があまりにも異様で不気味だったので特に触れようとしなかった。
あとでちゃんと専門のチームが解析してくれるだろう。
段々と無彩色だった霧が奇妙な色で染まる。映像通りならもうすぐだと思いながら、私たちは雑多な色彩の中を進んでいく。
霧が晴れたと思ったらそこはもう領域の中だった。なんとなく空気が変わったのがわかるし何より景色が一変した。装備はしっかりつけているとは言え、一段と気を引き締めて前に進んでいく。何が命に関わるかわからない。この緊張感は、来る前にはうんざりするがいざ現場にくると高揚感も合わさってちょっと気分が上がる。楽しいとは言わないがそれに近しいものがあった。
どこかでみたことがあるような山道の面影はもはやなく、今や私たちは奇妙に曲がりくねった形の木のようなもので囲まれている。白い幹のそれらは「の」の形のように歪に曲がりながらも天に向かって伸びていた。葉というよりも蜘蛛の巣のような物が上部にはかかっているが、もしかして粘菌の類だろうか。触りたくないと思えるくらいの不潔さと怪しさを放っている。怪しげな色の光を反射して、すべてのものが様々な色彩をまとっている。
横を見ると鳥ではなく足を生やした蛇のような生き物が木から木へ渡っているのを見つけ、それを突っ立って観察しているとヒヨヒヨと甲高い謎の鳴き声を聴いた。
なんていうか、正に異世界だ。
混沌で満ちている。
何から何まで自分が見てきたものと大きくかけ離れた景観を眺めるために視線が動かすのが忙しい。
何がどんな危険につながるかもわからないから見ないわけにもいかない。
いや、違う。
本当の事を言うとこの時の私は内心楽しくて仕方なかった。
みるもの全ての自然物が斬新な見た目をしており、およそ私たちの住む世界には決して無いであろうモノで溢れていた。全てを余す事なく見るだけでなく、できる事なら一つくらい持って帰りたい。
上を向きすぎて首が痛くなってきたころ「この木を目印にして辺りを散策しよう」とリーダーから全員に命令がかかった。
各員3名ずつの3チームに分かれて作業を始める。
私のチームはとりあえず周辺の原生植物、石、そのほか何らかの資料になりそうなものを採取する。
他のチームは簡易なボーリング作業で地層を確認したり、どんな動物がいるのか撮影しにいったりするのだが…。
こんな悍ましくも神々しい場所に来ておいて、やることはなんだかまるでゴミ拾いみたいなだなと思ってしまった。
ある程度「こう言うものがいい」というような指示はもらってはいるものの、専門分野では無いので選りすぐりしようとしても結局迷ってしまうのは目に見えていた。
とりあえず周りにあるものが全て資料になるのだ。であればある程度指示されたものに近そうな植物たちを適当に魔法瓶みたいなホルダーに突っ込んで、あとは外にいる博識な仕事仲間たちが適切に観察してもらおう。その結果を元にして次回の探索時にさらにもう少し具体的な指示を仰いだ方が効率がいい。
そう思い私はとにかく手あたり次第周りにあるなんとなくそれっぽいものを手に取った。キノコっぽい何か、ねばねばした何か、植物の茎みたいな石らしきもの、石みたいな植物らしきもの、その他いろいろエトセトラ。
私以外の二人は案の定目の前に広がりすぎるサンプルからどれにするか悩んでいるようだった。
私がホルダーの中をパンパンにし終わったころ、雑務みたいな作業に飽きたのか二人のうちの一人が私に声をかけてきた。
「お前さっき気ぃ抜いてただろ。真面目さんが珍しいな」
さっきというのは入って直後のことだ。うるさいな、と図星をつかれてちょっと不機嫌だという気持ちもこめて肯定の返事をかえした。
「まぁこんな奇抜な場所だから気持ちもわかるけどな」
理解者がいてくれてよかったよと適当な相槌をかえすと、私は少しだけ二人から距離を取った。二人がちゃんと視界に入りつつも、向こうも私のことがちゃんと見えるであろうくらいの距離。二人に何かが近づいてきてもこの距離感なら注意も払える。そして何よりも自分の分の仕事は終えたので二人の仕事の邪魔をしない範囲でこの領域の雰囲気に浸りたかったのもある。後者に関しては危機感なさすぎると自分でも思った。
だが現実離れしたこの場所は自分が恐怖を知らない童心に戻るのをいともたやすくさせてしまう。
規律を重んじる窮屈な職場から色んな意味でここはだいぶ遠い。
いつも規律を守り、たまに息抜きをしようとしても息が抜き切れないと感じることがある。
領域の外はいつでもどこでもそうだ。
暴れたいわけじゃないが、今自分が抱えているものを全て忘れて行動してみたいと思う事がある。
ここでやったら命に係わるだろうけれど。
そこまで思慮に更けって、自分がまた気を抜いてしまっていることに気づいた。
緊張を解いてはいけない。皆のためだ。自分のためだ。
そうやってまた自分に言い聞かせながら、地面や木やよくわからない胞子ごしに「何かしら」を探している2人を眺めていると、背後から視線を感じた。
反射的に銃をかまえ、その方向を見る。
曲がりくねった木の向こうから人型の人ではない生物がこちらをじっと見ていた。
姿かたちは人間のようだが、その尋常でない雰囲気が人間ではないことを語っている。彩り豊かだが褪せている豊かな量の髪の毛と、着物のように見えなくもない大きな布を巻いて結んだだけのような不思議な装いをしており、色とりどりの木の実だか何だかで体中を飾っている。瞳は蜂蜜のような金色をしており、風貌は野生にあふれていたが、それがその生物を神秘的な存在のように仕立てていた。
つまり、その、とてもきれいだった。
その生き物は私の視線に気づくと目を見開き、片腕を此方に差し出して手のひらを上下に動かした。
手招きしているようだ。
勘違いかもしれないなとも思いつつ、銃のセーフティを外したままにその生物の方に歩み寄った。
貴重な生物のサンプルだし、間近で観察しておけば後で提出するレポートの内容に困らない。
私が一歩一歩近づくごとに、そいつは目を爛々と輝かせた。嬉しそうに私の歩みを眺めている。
ついにお互いの顔がはっきり見える距離まで来た。―私はガスマスクで顔を覆っているが―
そいつは口元をにっこりと笑みの形にしたと思ったら、獣のようだが人間のそれとほとんど形の変わらない手と指でおもむろに私の頬に触れた。慎重ながらも好奇心が隠せていないその触れ方はまるで小さい生き物に優しく触れようとする子供のような手つきだった。
頬から流れて耳元に、そのまま手のひらで頭を撫でるように、私が何もせずじっとしていると両手で頭をこねるように揉んできた。…随分と楽しんでくれている。
私もいいかな。
そう思って銃のセーフティにロックをかけると、手の平で相手の頬に触れた。
相手はすこし驚いたかと思うと、喜んで私の手に頬を擦り寄せてきた。
嬉しくてたまらないようだった。なんだか犬みたいで可愛いなと思って頬を撫で続けた。
耳の後ろとかくすぐると気持ち良さそうにしている。細めた目はまるで猫のような愛くるしさがあった。
いつの間にか私の中の警戒心はほとんど消えかかっていた。
キミ、名前はあるのかな?
と声をかける。きょとんとした表情のキミは言葉の意味など当然わからないようで、指先で私の口元を探った。声という音そのものを不思議に思っているんだろう。
意思疎通したいな。
保護のため手袋をしている事に煩わしさを感じ始めたころに「おーい」と背後から声が聞こえてきた。
呼ばれている。
急に現実に戻されたことにとても気分が冷めたと同時に、今の自分の任務内容も冷静に思い出す。
―何らかの資料になりそうなものを採取する―
よし。いけそうだ。
そう思って私は相手の髪の毛の中に指を突っ込んだ。そのまま手櫛をしたのち軽く手を握って引き戻す。手を開いて見ると、思惑通り数本の体毛がとれた。
相手はえ?もう終わりなの?と突然手を離されたことに対して戸惑いを隠せないようだった。
私は最後に大きく頭を撫でてやると、振り返って来た道を小走りで戻って行った。
また来る。
伝わるかどうかわからない言葉を放って、私は来た道を戻って行った。
虹の霧の向こうにいるキミはずっとそこに立ってこちらを名残惜しそうに見つめていたが、私が視線を外した一瞬のうちに消えていなくなっていた。
「なんで呼ばないんだよ」
私は一緒に行動した2名から猛烈なブーイングを食らっていた。
テントに戻ったのち頭に着けていたカメラの映像を各々リーダーに提出したのだが、提出した簡易レポート内容も合わさって私の遭遇した出来事は全員要確認すべきだとなり、早々とみんなでテント内のプロジェクタで私の撮った映像を見ることになったのだ。
「お前らしくない」「連携して行動していると言う意識が足りないんじゃないか」「そいつに食われていたらどうしていたんだ」「こんなのとよくこんなことできたな」とがみがみ言われていた。本当にそう思う。どうかしていた。
上司からも単独行動は危険なので決して次からはないようにと厳重に言われた。
反省しています。
本当にしています。と頭を下げて何度も謝った。
なんでこんなに少し前に起こした自分の行動を猛省しているかと言うと、重症を負って帰還したメンバーがいたからだ。
生物を記録するチームのメンバーの内の一人だ。彼の映像記録ももちろん上映された。
三人で上空を眺めて写真を撮っているところ…ゆったりと撮影者に向かってくるなにかがいた。
撮影者は拡大したカメラのレンズ越しに生物を記録していたからかちょうどその何かに死角からの接近を許してしまったようだ。
「の」の字に曲がりくねった木の幹の張り付いた巨大なカタツムリのようなカラをつけた、虫のような、幽霊のような、生物にみえないような、何か…。
「おい!そっちに何かいるぞ気をつけろ!」と他のメンバーが注意喚起をしたがすでに手遅れで、そのまま撮影者はそいつが放った触手に捕まり無理やり上空に引き上げられた。
「うわああ」という彼の悲鳴をその何かはそっちのけにして頭につけたマスクをはぎ取ったり防具を裂いたりし始めた。
触手を使いカメラも取り上げて機械の分解を始めた。カメラはあっというまに細かいパーツに分かれて地上にバラバラ落ちていく。
捕まった彼はどうにかこうにか藻掻くが全くもって歯が立たない。
地上にいる二人が銃を持って射撃をしようにも、捕まっている者に弾が当たっては大惨事だ。
そうこうしているうちに装備をはぎ取られた彼の肌が炎症を起こし始め、苦しみもがきだした。
あのまま捕まったままだと彼の体から謎の菌類が生えてきて…考えたくもない。
彼がさらに大きな悲鳴をあげたその途端、何かは突然彼を解放した。
枝にぶつかりながらバキバキと音を立てて彼はまっすぐに落下する。
幸いどの色んな枝だかなんだかがクッションになったので骨折などはしなかったようだ。
それでも突然の出来事と防具がなくなって炎症しつつある体のせいでパニックに陥っていた。
落ちた彼を一人が保護をすると、もう一人は銃を撃って何かを射撃した。
何発か当たったようだが、あまり効果はないようだった。
早急な対応によって今回は軽い炎症だけで済み、保護された彼は今は離脱して治療を受けている。
このように実害のある獣の存在を確認したので、次回現地に向かうメンバーは今日よりもいっそう気を張って行動するようにと言われた。
自分勝手な行動をしてはいけない。皆の安全のためだ。自分のためだ。
皆の安全のためだ。
了解、といつも通りみんなで返事をした。
領域の中で不思議な生物と交流して軽く夢見心地で帰ってきたのに、戻ってきたメンバーの内一人が別の不思議な生物と交戦してとんでもない目にあっていた。
後者の事件から領域の中は生物も危険性が非常に高いと判断された。一般市民が領域に入り込む可能性のある経路を確認でき次第、侵入禁止などの看板を立てるなどすることになるのだろう。隔離のために壁を設ける必要だってあるかもしれない。
滞在が長引きそうだが国民の安全を守るのが仕事だ。気を入れて行っていこう。
そう思い疲れた心と体を引きずって硬い簡易ベッドに入った。
今日行った領域の光景を瞼の裏に映す。
不可解な菌糸で汚染され、素肌を晒せば体が徐々に傷つけられていくあの領域。
この場所とは大きく違った、現実にある現実離れしたあの中。
仲間が襲われたあの映像は悍ましかったが、白く霞がかかっているのにさまざまな色彩の空気で輝いていたあの場所にどうしてかまた行きたかった。
美しい虹色をした混沌に満ちるあの光景。
その中でこちらに手を差し出してくる無邪気なキミの笑顔のことが、忘れられなかった。
採取されたサンプルは慎重に運ばれていく。
大きな温室のような強化ガラスでできた特別な部屋の中には防護服でガチガチに固めた2名の人間がいる。一つのホルダーが開封された。
中からは植物が転がり出てきた。うねうねと奇妙に動くそれを人間は切り刻んだりしてシャーレやプレパラートに載せると穴が開くほど顕微鏡でじっくりと観察を始める。
撮影をしたり、水を与えたり、どんな菌が付着しているのか、放射線は発したりしているのかとにかく色々調べられている。
きりきりと忙しなく動く人間たちの後ろで、外気に触れた植物は弱弱しく動く体から煙を上げると、やがて動きを止めた。
その事に彼らはいつ気づくのだろうか。
ようやく二度目の調査だ。
前回から5日も経っていた。内容はまたサンプルの採取だ。前に採ったサンプルはもうほとんど使い切ってしまったらしい。それが早いのか遅いのか素人の私にはわからないが、とにかくまたあの場所に行ける。
他のメンバーは襲われたメンバーのことを考えるとだいぶ気乗りではないようだった。
一方私の方はというと、領域内への恐怖よりもキミとの再会に対する楽しみの方が心の中を大きく締めていた。
夜が来るたびに思考を巡らせていた。映像に収められた惨劇の原因になった怪物と意味不明な行動。
あの襲ってきた怪物は恐ろしいけれどキミも同じくらい恐ろしいやつとは到底考えられない。
そう思うくらいには、自分でも戸惑うくらいにあの場所にすっかりと魅了されてしまっていた。
「今回は採取するサンプルに明確な指示がある。資料に印刷された現地の植物はホルダーになるべくたくさん入れること」
そういう命令のあとに資料とホルダーを各自配られる。
全員3つずつだったが、私には1つしか配られなかった。
不思議に思う私に上司は淡々と任務内容を告げる。
「お前には報告書にあった生物を捕獲してほしい。見つけて接触次第、これを打ち込め。その後に合図をしろ」
そう言われて前回持ち歩いた物とは違う銃……麻酔銃を手渡された。
隊員はリーダーを先頭にして前回と同じように決められたルートをブレずに進んでいく。一見退屈そうに見えるが、ただでさえ山の中なので危険なのは変わりない。
白い霞が視界に増えてきた。あの場所に近づいている。
以前もあった黒い杭のような形の岩を通り過ぎればすぐだ。
白い霞の中で小さな色彩たち踊る汚染された美しい空間。
生存限界汚染領域だ。
今回は複数のチームに分かれたりはしない。
「前回接触したポイントの付近までとりあえず向かおう」
リーダーがそう言うと私が以前いた地点まで速やかに全員で移動する。
独り占めしたいのにな…という考えは頭を軽くたたいて払拭した。仕事に集中せねば。
自分勝手なのはいけない。隊列を崩してはいけない。皆のためだ。自分のためだ。
……たぶん。
ところで同じ場所に果たしていてくれるものだろうか…?それでも私たちはとりあえずそこに行くしかなかった。
以前も見た怪しい光を反射する歪な形の木を見つけたと思ったら、その木に隠れるようにしてあの生き物がいた。
人間の形をしているが、どう見ても人間ではないキミ。
もしかして私のことを待ってくれていたのだろうか。
「あれか?」とリーダーに声をかけられ、そうですと答えた。
「よし、行け」
命令され軽く肩を叩かれる。そのちょっとした勢いで私の体は前に押し出され、そのままキミの方へと歩みを進めた。
キミはぼんやりとそこに立って向こう側を眺めていたが、此方が立てた足音に反応するとすぐに首を此方に向けた。
ぼんやりとしていたキミの表情はパッと霧が晴れたように明るくなる。くりくりと光る潤いたっぷりの蜂蜜色の瞳は私の姿を反射して映した。
まるでまた会えて嬉しい、と言っているようだ。
キミはまたこちらに向けて手招きを始めた。
少しでもこの空間の時間を大切にしたかったから、慎重な足取りを演じてゆっくりと足を動かす。
心に少しばかり複雑な気持ちを抱えて私はキミの元へ向かう。
隙を突いたら私が銃を撃ち、動けなくなったキミをチームメイト全員で運び出す段取りだ。
私がキミの目の前に立つと、キミはまた手を出して私の頬に手を当てた。
両手で私の頬を撫で回し、そのままガスマスクの硬いパーツをコンコンと不思議そうに爪でキミは軽くたたいている。なにが楽しいのかわからないが、とにかく私の頭の感触を堪能しているようだ。
疑いようのないくらい嬉しいという気持ちでいっぱいの表情で、私との交流を楽しんでくれていた。
私も手の甲でキミの顎の辺りを撫でた。
ごろごろとした猫の鳴き声のようなものが聞こえた気がする。
お互いがお互いを壊さないように、慎重に、親愛の心を持って触れあっていた。
信用してくれているんだろう。キミは前と同じように頬を摺り寄せてきた。気持ちよさそうにしている。
私には撃てないな。
確信してしまった。どうにかしてキミをこの場から遠ざける方法はないだろうか?
今更だろうがどうしようかと考えていると、背後からかすかに空気が吹き出される音がした。
ハッとした時にはもう遅い。
キミの腕には麻酔が刺さっていた。
他のメンバーは植物の採取作業を完了させていた。
今は銀色をした寝袋みたいなやつにぐったりしたキミを入れて領域の中を進んでいる。
つい先日メンバーが襲われたというのに、私といえばさっきのキミとの交流でだいぶ緊張感と恐怖感がぬけてしまっていた。
我ながらどうかとおもうが、しかしどうにかしようと思わなかった。
「もしもの時のために保険で俺も銃を持っていたんだ。当たり前だろう……」
リーダーはそう言っていた。普通に考えればそうだった。
こんな無骨な袋に詰めてしまうなんて。キミを物扱いするみたいで嫌だなと思ったが、仕事なのだから仕方がなかった。
色々と考えてしまうが、集団で行動する輪を乱してまで運ぶ足を止めようとは勿論思わなかった。
集団の均衡を崩してはいけない。安全のためだ。皆のためだ。
しかし一歩進むごとに自分の行動に対する嫌悪感が私の足を重くしているのもまた事実だった。
もうそろそろ領域と山との境目が見えてくる頃だ。あの木を過ぎればたしか大きな杭のような形の岩があったはず……そう思って顔を上げたが、あの杭のような岩は見えなかった。
……リーダー、道を間違えていませんか。
美しい景色のなか不安感が空気を駆け巡り、他のメンバーたちも同様を隠せず少しだけざわつく。
「地図を見るに間違っていないはずなんだが…。ほら、あそこに目印もある。全員まっすぐ進め」
隊員たちは来た時と一点だけ明らかに違う光景を見て、不安に駆られたのか少しずつ前に進める足を速くしていった。
進むごとに厭な空気がメンバーの中に満ちるようだった。
そうこうしているうちに例の杭があったはずの場所を通り過ぎると、そこには代わりに底の見えない昏い穴があるだけだった。
「さっさと出よう!」
そう言ったのは誰だったのかもはや誰も気にしなかった。
全員そこを早く切り抜けようと進む足をさらに加速する。もはや小走りだ。全員動揺を隠すのをやめてしまっていた。
ただ今ここで何か変化が起きていることは明白で、それに誰も巻き込まれまいと必死だったのだ。
私以外は。
山の麓にはトラックが待機していて、そこにキミを載せた。支えたり様子を見たりするために私とリーダーも同乗する。他の隊員は別の車に乗って運ばれていった。全員、袋の中身を気味悪がって避けたともいえるだろう。
ぴくりともしない。大丈夫なのだろうか。私たち人間が作った麻酔が、本当にただの麻酔としてキミに効いたのだろうか?実はキミにとって劇薬で、いま瀕死の状態だったりしないだろうか?揺れる車内でそんなことが気になって、内心気が気でなかった。
「こいつのことがそんなに気に入ってるんだな」
唐突にリーダーに図星をつかれた。
私がずっとキミの袋を不安そうに見ていたからだろう。
リーダーの雰囲気から機嫌を窺ってみようと顔をあげると、口角はあがっているが何とも言えない微妙な表情をしていた。
普段と違う私に対する接し方に多分困っているんだろう。
気まずくなりながらも、そうですねと肯定する返事をした。
「お前のことは変わったやつだとは思ってたけどな。まさかこんな得体の知れない場所の生き物をそんなに気にいるような奴だとは思わなかったよ。こいつはもしかしたら牙を向けてくるかもしれないんだぞ?」
私は浮いている存在だというのは自覚もしているため、前者の言葉にはまた肯定しかできなかった。だがしかし、
でも襲ってくるならもっと早い段階でくると思います。
と後者の問いにはすかさず返した。なぜならその答えには確信を持っていたからだ。
フンとリーダーは呆れたように鼻で笑うと「あまり慕わない方がいいぞ」と忠告してきた。
どう言うことですかと訊いたが、車が基地に到着してしまい答えを聞き逃してしまった。
キミを入れた袋が運ばれていく。他のサンプルと同じように強化ガラス張りの部屋で色々調べられるんだろう。
研究チームのメンバーが運ばれてきたホルダーをいそいそとタブレットに色々入力しながらチェックしている。
話しかけるなら今ぐらいしかタイミングがないなと思い、
中を見学してもいいですか?
と声をかけた。
「えっ。君から声かけてくるとか珍しい。しかしすごい急だね。」
気になってしまって。いま運ばれた大きな袋の中の子、私が回収したんですよ。
「残念だけど見学はできないよ。防護服の数はうちの部署のメンバーの分しかないんだ。なにか起きて危険があったら叱られるのもうちらだからさ」
せめて回収されたサンプルがどうなっているのか見る事だけでもできないですか?
「撮影した写真映像をみせるくらいならいいよ。どうせまとめて明朝に発表の予定だし」
そういってさっさとタブレットの画面を切り替えて映像や写真メディアのフォルダを開いてくれた。
ありがとうございます。
と言いながら画面を覗く。
映ったのは鮮やかな赤と黄色の多肉植物だ。細ながくタコの足みたいな形をしている。
「これはホルダーから取り出した状態の植物。葉を切りとると中から粘膜が糸を引いててさ。アロエの納豆みたいだった。ははは。わかる?」
全然わからないです。
と言いながら画面を見ていた。スライドショーで次々と写真が切り替わっていく。
「これが取り出してからしばらくした後に撮ったさっきの植物の写真。」
そういわれて出てきた写真をみてぎょっとした。
植物からは鮮やかな色彩は完全に失われ、茶色くしなびてしまっている。粘膜のべたべたした感じも失われてカラカラでまるで砂だ。
「ほかの植物も全部そんな感じなんだよね。調べたら外気に触れた途端細胞が劣化してるみたいで。もっと細かい事を今回のサンプルで調べようと思ってるよ」
外気が毒になってる?
「かもしれない。ちょうど生身であの中に入った私たちと同じ感じじゃないかな」
なるほど。
と適当に返事をしたが、内心気が気でなかった。だとしたら、キミはどうなんだ?そう不安に思っていると訊く前に返事が返ってきた。
「ちなみに君が連れてきてくれた例の動物だけど。前回、毛をいくらか毟って持ってきてくれただろ?ちょうど植物と同じような反応をしたんだ。外気に触れたとたん枯れたように生気を失っていって…」
そこまで聞けたら、もう充分だった。
夜中。基地内はひっそりと静まり帰っていた。
全員久しぶりの調査などの体力仕事に加えてたらふく社食を食べたのでぐっすり眠っている。
私は半分くらい食事を残して眠らないようにエナジードリンクを飲んで夜中の行動に備えていた。
キミを連れ出そう。
そうはっきりと決めていた。
規律を乱す行為だ。自分のためにはならないけれど、キミのためにはなる。
ベッドを抜け出してトイレへ…ではなくサンプルのある研究室に向かった。
外では鈴虫の鳴き声があたり一面に静かに響いていた。
ざわざわとした心を落ち着かせ脳を冷静にさせてくれるが、私をベッドに引き返させるほどには至らなかった。
むしろ足音を消すのに丁度いい。
研究室は短期間で用意されたこの基地の中では一番作りがしっかりしている。
入り口は二層構造になっている。鍵がかかっていないのは、中にまだ人がいるからだろう。おそらく安全管理のため二名いるはずだ。
深夜残業は健康にも他のメンバーにもよくないからやめてほしい。
躊躇せずさっさと扉を開け中に入る。
更衣室と書かれたプレートの部屋の中に入ると、ちょうど防護服を脱いでしまおうとしている研究員に出くわした。
「……何してるんですか?」
当然の疑問だ。
中にちょっと入って確認したいことがあるんですが。
とはっきり答えた。ここで答えに窮しては怪しまれる。そうなっては目的が達成しにくくなる。
「研究員じゃないでしょ?安全性を保障できないからだめですよ」
とはっきり言われてしまった。答えに窮するとかそれ以前の問題だった。
採取したサンプルの生物の安否が気になって眠れないんだ。一目会わせてほしい。
「明日の会議で資料を発表する予定だから待っててください」
どうしてもいま会いたいんだけど。
「駄目です。何かあっても僕は責任が取れないんで。今帰ってくれたら誰にも言いませんから早く戻ってください」
その後もどうにか食い下がろうとしたがこのままでは平行線をたどり続けただ時間が過ぎてしまうだけのようだった。いつもう一人がここにくるかわからない…。
だから仕方なくこの研究員を後ろから殴りつけ防護服を奪い取り、タオルを口に詰めて猿轡をさせたのち服で縛り上げてロッカーに突っ込んだ。体力仕事の私には一介の研究員は力では当然敵わないのでこれはとても楽だった。
相手は私のことを最後まで信じられないという目で見ていた。
あんまり縛られた腕を動かそうとするとうっ血して良くないから安静にしていた方がいいと声をかけると、奪った防護服を着込んで私はなにくわぬ顔で更衣室を出た。
暗い廊下を進むとガラス張りの無彩色の部屋が見えた。また二層構造だ。
無人であることを確認してから入る。
ガラス張りの中の部屋は蛍光灯で照らされ、あの鮮やかな色彩の闇の中で怪しい色彩を放っていた植物たちがガラスケースの中でまっすぐ死に向かっていくように枯れていっていた。しゅうしゅうと妙な煙をあげて、その身をくねらせてもがき苦しんでいるようにさえ見える。
ものすごく嫌な予感がする。
綺麗に整列した白い無機質な机と棚の部屋の奥に向かうと、部屋の一番奥の分厚いガラスの向こうにキミがいるのを見つけた。
蛍光灯に照らされてやけに白くて明るい場所で、キミは弱弱しく静かにぐったり横たわっていた。明らかに具合が悪そうだ。顔は見えない。髪の影からちらりと顔が見える。艶やかだった肌は少しずつだが確かに萎れ続けていた。
蜂蜜色の瞳には白く膜が張っていたが、私の姿を確認するとちょっとだけ笑って、体を引き摺らせながらこちらに近づいてきた。
一刻の猶予もなかった。
すでに自分は自己都合で基地のメンバーを一人襲ってしばりつけてロッカーに突っ込んでいた事に関しては後先を全くもって考えていなかったとはいえ、ある程度の処分は覚悟していた。
この生物をすぐに元の場所に戻すべきだと訴えようと思ったが…しかし今このキミの状態を見る限り「ある程度の処分」にかかる時間すら待てないと判断できた。
いまキミが危ない。
叱られる時間ならキミを戻してから幾らでも作れる。
つまり優先順位の上位はキミだった。
時刻は深夜。この研究室の中には動ける人間は私を覗いてたぶん一人。つまりやるなら今しかないのだ。
私はガラスの扉を開けると、側にあった袋にキミをまたしまった。乾いて砂のように崩れていく髪。ガサガサとして水気がなくなりつつある肌、髪の隙間から垂れてくる溶けた体液。きれいなキミが空気に汚されてどんどんしぼんでいく。見ていられない……。
背後でドアの開く音がした。もう一人の他の研究員が来たんだろう。
雰囲気からして、ロッカーに閉じ込めた研究員などの異変にはまだ気づいていないようだ。
堪えてくれ、と思いながらキミを抱き上げると、驚くほど軽かった。
姿勢を低くして今部屋に入って来た者の視界に入らないように来た道を戻る。
ガラスの二層のドアをさっさと出た時には彼は部屋の奥のケースの中の異変に気付いたようだった。
白い部屋とはまったく対照的な暗い廊下を進む。
扉から出る時、壁にかけてあった車の鍵はしっかり確保した。
早く行こう。キミのために。私のために。
幸いすぐ近くに資材運搬用のトラックがあった。助手席に君を載せてシートベルトをしっかりつけると運転席に乗り込んだ。背後で騒がしい気配を感じる。
ついにロッカーの中のあいつが見つかったようだ。
しばらく現場が混乱してくれる事を祈って、念のため用意したガスマスクを着けるとさっさとトラックを出した。
チームでの移動中はだいたい外を見ていたし、山の麓へは一本道だったから迷う事なんてない。
夜の闇の中、少しずつ騒がしくなる背後を尻目に砂利道をじゃりじゃりと音を立てさせながら車体を進ませた。
袋の中のキミは身じろぎすらしない……。
速度を徐々に上げて時速60kmに速度が上がったころ、後ろから追ってくる車の存在に気づいた。
ミラーで運転手を確認する。リーダーだった。
じゃあたぶん騒動の原因が私ってこともバレバレなんだろうなと思っていた時「馬鹿なことはやめて戻ってこい!」と後ろからメガホンで拡張された音声が届いた。
嫌です、と心の中で返事した。
騒動の内容自体は結構大事なのだが、自分にしてはあまりにも突拍子もない行動をしていると自覚していたためかどこか愉快に感じていたし、そして内心とは裏腹にあまりにも冷静に行動ができていた。
きっと私の中の何かのタガが外れたのだ。
トラックは山道に突入した。大きく車体が揺れて、アドレナリンが私の体中を巡るのを感じる。
鹿とかが飛び出てこないことを祈るしかないなと思いはじめたころ、キミが呻き声をあげた。ひどく掠れて苦しそうだ。袋の中で弱々しくもがいている音が聞こえたが、すぐにやんだ。
時間がないようだ。私はさらにアクセルを思い切り踏みつけた。ちょっとした道のでこぼこにも車体がウサギのように飛び跳ねる。
後ろのトラックも負けじとついてくる。
領域に向かうため林の中に突っ込んだ。飛び出た枝が車体をガリガリと削る。枯葉や土が舞い上がり、この勢いを止めたらそのまま二度と動き出せないだろうなと思った。
このまま進めば間違いなく生存限界汚染領域だ。
進行方向をまっすぐみつめていると、ある違和感に気づいた。
霧が薄い。
領域に近づけば近づくほど、霧は濃くなる筈なのに……?
目を凝らして遠くを見る。巨大な虫の影が見えた。あの不可思議な形は間違いなく領域の生物だが、大きな杭のようなものを運んでいた。きっと例のあの岩だ。薄い霧は杭と一緒に運ばれるように領域のある方向に向かって収束していく。領域と私たちの住む世界の境界が霧の中で怪しい虹彩を放って領域の中心へと向かっていくようだ。
領域が小さくなっている?いや違う。領域への入り口が閉ざされようとしているんだ!
その事に気づいた私は、足を思い切り踏み込みアクセルを全開にした。
こんな速さのトラックに乗ったことはないし操縦したこともないがやるしかない。
キミの命が危ない。
気づけば後ろにいた車も領域の異変に気づき、とっくの昔に追うのをやめていたようだった。
「戻ってこい」「馬鹿野郎」という遠い彼方からの怒声が私の鼓膜を微かに揺らした。
虹彩が空気の中を走る。
虹の光とトラックが並走している。霧がやっと濃くなってきた。道はどんどん不確かになり、いつ木にぶち当たってもおかしくない。
収束していく虹の光の環をを飛び越えた頃、あの霧の中の世界にようやく入り込んだ。
よかった。連れ戻せた。多分、成功した。
そう思ったが緊張感で筋肉が硬直し、足はなかなかアクセルから離せられなかった。
もはやどこまで進めばいいのかもわからなかったし。
やがて木に乗り上げトラックが宙を舞った。
あ、死ぬ。
その瞬間、トラックは飛んだ先にあった湖に落っこちた。
景気よく大きな音を立てて水は跳ね上がり、そしてトラックの中に容赦なく水が入りこんできた。
空気が肌に触れただけで爛れる世界の水が私にもたらすものなんてろくでもないに決まっている。
水で満たされた車内で最後に見たのは、袋を裂いて破って外へ飛び出す美しいキミの姿だった。
悍しい森だった。恐ろしい空間だった。
霧が立ち込め、正体不明の心を掻き乱す光を周りに撒き散らす光源は遥か空の彼方にあった。しかしあれは太陽などではない。
水溜りと呼ぶには巨大すぎるが湖と呼ぶには汚染され過ぎていたその場所の端で、1人の溺れて死にかけている人間と無事に生還した濡れた人型の怪物と、その2人を囲む様々な形の怪物たちがいた。
『そんなやつほっといて遊ぼうよ』
怪物たちのうちの1匹が濡れた人型にそう言う。
『でもこの子、息してないの』
人型は人間の胸のあたりをぺたぺたしていた。人間の顔についていた殻のようなものは取ってあげられたけど。どうにかしてあげたいと思うのに、どうしたらいいかなにもわからない。
周りの怪物たちは口々に言う。
『溺れたんだ。そのうち土になるんだ』
『いいじゃないか。勝手に入ってきて、勝手にお前を連れ去った奴なんだよ』
『自分から落っこちて自分から溺れたんだ。きっと水に溶けたかったんだ』
『そんなやつとはお別れしなよ』
『それでまた僕たちと遊んでここで暮らそう』
『息を吹き返しても、その生き物はここでは生きてはいられないよ。わかってるでしょ?』
最後の怪物の言う通り。人間の肌は領域の空気に触れてどんどんと爛れていった。
『そんなの嫌だ。ここに帰って来れたのはこの子のおかげなのに。こんなの嫌だ』
悲しそうな顔をする怪物に怪物たちはやれやれどうしたものかなと悩んでいた。
『じゃあ、その生き物をキミと同じように我々の仲間にすれば良いのさ』
天から声が降り注いだ。怪物たちの遥か頭上、大きな大きな透明の怪物がそう提案したんだ。
『どうせここからはもうどこにも行けないよ。やるだけやってみて、あとはその生き物次第。我々はまたいつものようにここで過ごし続けるだけなのさ』
そうだね、それは面白いかもしれないね。
鹿の形をした怪物が前に出てくると人間の胸元を強く踏みつけた。
体の中に溜まった水を人間は勢いよく吐き出したが、新たに入ってきた空気に肺が爛れてしまい、とても苦しそうにもがき始めた。
やれやれ仲間が増えるかもね。楽しそうだね。面倒くさそうだね。
怪物たちは口々にそう言うと周りから草や繭や粘菌や泥を運んできては人間に布団をかけるように被せていった。
キミはその間ずっと人間の手を握りしめていた。
一人の男がコーヒーを片手にテントの下で涼んでいた。
夜中に面倒なことが起きて、その面倒ごとは霧の中に消えてしまって、後にはさらに面倒くさい処理が残ってしまったが、男はただのんびりと空を見ていた。
「リーダー!生存限界汚染領域が消えちゃいましたね」
不意に男は声をかけられる。
「お前まだその変な名称使ってるのか。その名称使ってるのお前だけだぞ」
リーダーと呼ばれた男は、部下の方をちらっとみると呆れた様子で返事をした。
「もう1人使ってくれる奴がいたのになぁ。あいつ領域に消えていっちゃったって本当ですか?まさに神隠しですね」
「……そうだな」
「リーダー、あいつのトラック追いかけてたんですよね。あいつのトラックってどうなったんですか」
「さぁ、最後まで追いかけられなかったからわからないな」
「あんな場所に行ってしまって、かわいそうな奴。独り身とは言えまだ若かったのに。楽に逝けたでしょうか」
「いや、どうだかな。案外、向こうで楽しくやってるんじゃないか。」
リーダーと呼ばれた男は雲一つない透き通った快晴の青い空の向こうを見上げながらそう呟いた。
霧の中、光の中。有象無象の怪物たち、透明な木、巨大な杭のような形の岩。空を飛ぶ蛇の群れ。地を這う足の生えた魚。枝から枝へ飛んで渡る殻を被ったエビのような虫。その中で人型が1人、手招きをして誰かを湖畔に誘っていた。
一緒においで。この景色を楽しもうよ。
その手を掴んだのはもう1人の人型の怪物だった。
生存限界汚染領域のキミ 枕五味 @makuragomi
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