第9話 飢餓感
目の前には、さっきまで大蛇だった肉の塊が横たわっている。
体表は黒く滑らかな鱗に覆われているが、切り落とした断面から見える筋肉部分は白に近いピンク色だ。
それを見ていると、ぐうう、と腹が鳴った。
そういえば、ここに迷い込んでから何も食べていない。
地底湖から落ちてきて、どのくらい経ったんだろうか?
持ってきた行動食も落としてしまったしな。
空腹具合は、すでに飢餓感と言っていい。
そこに、この大蛇の肉だ。
よく見れば、大蛇の肉にはほどよく差しが入っていて、生でかぶり付いても美味そうな気がする。
……このままかぶりつけば、どんな味がするんだろうか。
ごくり、と唾を飲み込む。
いやまて。
おかしいだろ。
俺はその考えを、即座に否定する。
ダンジョン探索で、あるいはそれまでの道中で、小動物や中型の獣なら狩って食べたことがある。
だがさすがに、魔物の肉は食べたことがない。
魔物は魔素の塊だ。
もちろん人間の体内にも魔素は存在するが、あまり多くてもよろしくない。
人間が魔素を取り込みすぎると、身体に異常をきたし、最悪死に至ることもあるからな。
だから今までは『魔物を食べる』という概念はなかった。
この大蛇と戦うまでは。
ちらりと、二体の大蛇を見る。
明らかに普通の蛇じゃない。
漆黒の鱗とかもそうだが、いくらなんでもこのサイズはない。
建物の五階ほどの高さのある広間を支える柱の上から下までぐるぐるに巻き付いて、さらになお鎌首をもたげるほどの長さがあるんだからな。
というか、あっさり倒してしまったけど、実はものすごい強力な魔術とか能力とかを使ったりするんじゃないのかな……
二体で連携してみたり、頭もそれなりに良さそうだったし。
もしかして、名のある魔物だったりしたんだろうか。
……当然、そんなバケモノの肉だ。
それはもう、とんでもない量の魔素を含んでいるはずだ。
口に入れれば、絶対無事では済まないだろう。
いや。
食ったら、死ぬかも知れない。
けれども。
クソ。
目の前の肉塊を視界に入れているだけで、口の中にどんどんと涎が溢れてきて止まらなくなる。
周りに流れるおびただしい血のむせかえるような臭気すらも、香ばしく感じてくる。
とにかく、目の前の肉を早く貪り喰いたい。
衝動と理性がせめぎ合っているのが、自分でも分かる。
しかし、さすがに生は……なあ。
…………。
いや、ちょっとだけ味見してみてもいいんじゃないか?
うん。
もしかしたら、すごく美味い食べ方なのかも知れないし。
魔素だって、案外大丈夫かも知れない。
大丈夫、ちょっとだけ。
先っちょだけ、先っちょだけ切り取って……
包丁で、小さく肉を切り取ってみた。
「おお……」
こうして元と切り離してしまえば、ただの肉と変わりない。
見た目は、鳥の肉に似ている。
ささ身とか胸肉のような感じだな。
匂いを嗅いでみたが、多少血なまぐさいくらいだ。
まあ、これは血抜きをしていないから仕方がない。
そういえば、海に近い国では、獲れたばかりの新鮮な魚を生で食べると聞いたことがある。
それが一番美味い食べ方だそうだ。
獲れたて、という意味では、コイツも同じだな。
よし、一口だけ囓ってみよう。
そろそろ空腹感が限界だ。
美味かったらそれでよし。
マズかったら……
ええい、ままよ!
俺は意を決して、大蛇の肉にかぶり付く。
なぽ……はぷ……
もにゅ、もにゅ……
「……………!!」
衝撃が、俺の脳天を駆け巡る。
こ、これは……!!
凄まじいほどの弾力。全くかみ切れない。
噛むごとに腔内に滲み出てくる、ぬめりのある肉汁。嗅いだだけでは分からなかった独特の臭気が、腔内から鼻を蹂躙してゆく。
極めつけは、その味だ。
「……ヴォエ! 泥臭ッ!」
思わず吐き出してしまった。
ダメだ。
やっぱり死ぬほどマズい。
というか、普通腹が減った状態なら多少の味は我慢できるものだろうに、それすら無理なレベルのマズさだ。
ダメ元の挑戦だったが、コレは本当にダメだ。
だが。
「あが……」
大蛇肉のあまりのマズさに一瞬我に返るも、横たわる大蛇を視界に入れた瞬間、またさっきの空腹感……いや、猛烈な飢餓感に襲ってきた。
食いたい、食いたい、食いたい、食いたい、食いたい、喰いたい、喰いたい、貪りたい、食い尽くしたい、喰らい尽くしたい。
頭の中が、それだけで埋め尽くされる。
「な、なんだ、これ……」
頭は肉を食うことを拒絶しているはずなのに、心の奥底から、凄まじい食欲が湧き出してくる。
あまりの飢餓感に目の前がチラつき、視界が赤く歪む。
頭痛が酷い。
いや……正確には。
赤く光る文字が、目の前を乱舞している。
頭痛の元は、頭の中でけたたましく鳴る不快音だ。
《ステータス:飢餓 ただちに魔物を捕食して、力を取り込んで下さい》
《強制捕食発動まであと……159秒、158秒、157秒》
「……クソが! なんだこれは!」
意味の分からない単語と刻一刻と減っていく数字を眺めながら、俺は悪態をつくしかない。
おおよそ事態は把握できる。
やはりこの飢餓感は、さっきの力の代償のようだ。
というか、ほとんど呪いといっていい。
《ステータス:飢餓 魔物を捕食して、力を取り込んで下さい》
《ステータス:飢餓 魔物を捕食して、力を取り込んで下さい》
《ステータス:飢餓 魔物を捕食して、力を取り込んで下さい》
《強制捕食発動まであと……120秒、119秒、118秒》
「うるせえ!」
文字を視界から追い出そうと手を振ったが、空を切るだけだ。
赤い文字がまるで俺を追い立てるように視界で乱舞し、強烈な不快音が理性を削り取っていく。
まるで、この地獄のような飢餓感から解放されるには、この蛇の肉を食わなければならないとでも言わんばかりだ。
というか、実際そうなのだろう。
目の前の文字に従うのならば。
俺はこのクソマズい肉を、食わなければならない。
しかも、何となくだが、今目の前にある二体を全部食い尽くす必要がある気がしてならない。
そうしているうちにも、飢餓感はさらに強烈になる。
もう気を強く保っていなければ、今度は肉に頭を突っ込んでしまいそうだ。
それだけはイヤだ。
俺は包丁を握った。
クソ。
虚脱感が酷い。
意識が朦朧とする。
手が震える。
なんとかもう一度、肉を大蛇の身体から切り取る。
それでもなんとか意識を保ち、できるだけクセのなさそうな蛇の頬肉のあたりを切り取った。
「…………はぐっ」
意を決して、鼻を強くつまみ、なるべく噛まないようにしながら喉の奥に下で押し込んでいく。
反射的に吐き戻しそうになるが、むりやり呑み込む。
《ステータス:貪食 魔物の力を取り込み中……残り99.99%》
目の前の文字が変わった。
が、すぐにまた元に戻る。
《ステータス:飢餓 魔物を捕食して、力を取り込んで下さい》
《強制捕食発動まであと……180秒》
再び飢餓感が襲ってくる。
「ぐうっ……!」
たまらず、また手近な部位を包丁で切り取り、口に押し込み、そのまま噛まずに呑み込む。
まだだ。
まだ消えない。
もう一口。
まだだ。
もう一口。
もう一口。
…………。
……………………。
どのくらい経ったのだろうか。
赤く染まった視界が、ふいに静けさを取り戻した。
同時に、地獄のような飢餓感が、ふっと消える。
「ハア、ハア……」
地獄の責め苦から解放された俺は、たまらずその場に座り込んでしまう。
気がつくと、大蛇の一体が消えていた。
「ハア、ハア……マジ、かよ」
広間の柱と大して変わらないサイズの巨体が、まるごと視界から消え失せている。
どこをどういう方法で喰ったのか、皮どころか骨すら見あたらない。
《ステータス:貪食 魔物の力を取り込み中……残り50%》
《スキルを取得しました
熱源感知 猛毒無効
物理攻撃耐性++ 魔法攻撃耐性++
生命力増加++ 魔力増加+++》
気がつくと、目の前の文字が変化していた。
「なんだ、これ? スキルを取得した……のか?」
もしかして、大蛇を喰ったからなのか?
見たことのないスキルだ。
少なくとも、
なんだこれは。
さっきから意味が分からんことの連続だ。
それはともかく。
問題は、目の前の文字、それも数字の意味だ。
元魔術師の俺は多少の数字なら読める。
目の前の文字は、『50%』とある。
これは、半分という意味だ。
つまり……
「残りも平らげなけりゃならんのか」
正直、暗澹とした気持ちになる。
まだあのクソマズい肉を貪らなきゃならんのか。
もっとも。
今のところ、腹の具合は悪くない。
食事の途中で席を立ったような……事実そうなのだが、いまいち据わりの悪い心地ではあるが、それでも精神を削り取られるような飢餓感ではない。
ようするに、この大蛇肉をもう少しマシな食べ方をする時間があるということだ。
それがどれだけの猶予かは分からない。
が、それでも『無い』よりはずっとマシだ。
というか、何なんだこの力は。
魔物の力を取り込め、というのは分からないでもない。
魔術師ギルドに所属していたころ、そういう魔術を研究していた連中も知っているからな。
だが。
その方法が、問題だ。
問題がありすぎる。
大ありだ。
別に魔物の肉が美味いならば、話は簡単なんだが……
クソ。
上等だ。
どうにかしてこの肉塊を食わなけりゃダメというのなら、俺にだって考えがある。
冒険者たるもの、旅の空で調達した食材だけで飢えを凌ぐ機会はいくらでもあった。だから、マズい食材をどうにかする術はある程度は心得ている。
それに、俺は元魔術師だ。
試行錯誤に実験に、いくらでもやってやろうじゃない。
パレルモの言っている通り、これは挑戦だ。
だがこれは、俺に対する挑戦だ。
なんとしてでも、コイツを絶対に美味しく頂いてやる。
絶対に、だ。
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