ノネット 1
——っんー!
一人暮らしの殺風景な自室で、微かに聞こえる小鳥の囀りだけが唯一の目覚ましだった。
この日は珍しく、前日の疲労の中で目を覚ました。
カーテンの隙間から射す陽光は、とても気持ちの良いといえるものではなかった。身体を少し起こすだけでも、全身の至る所に激痛が走り、まるで魔力欠乏症のように力が入れられず重心が定まらない。実際、体内の魔力が回復しきれていないが、原因は他にある。
なんとか浴室まで辿り着いたが、普段なら昼時に浴びているシャワーも全然気持ち良くない。立っていることが出来ないので、浴槽の淵に腰掛け、朱色の髪を床まで垂らした状態で頭から水を浴びる、そこに彼らとの違いは誤差程度すらもない。
妖艶な体躯を洗い終えた頃、徐々にその痛みにも慣れ始め、ホルモン分泌のおかげもあってかろうじて歩けるようにはなった。しかし、躓くとまだまだそれを実感できる。
こんなに疲労の溜まっている日は、いつもであればまだ寝ている時間なのだが、今日ばかりは何を差し置いても行かなければならない所がある。
別に義務的なものではない。もう恨んではいないし、むしろ感謝しているくらいだ。
携帯端末が鳴った。手元になかった為、三コールほど聞き流してから手に取る。
「もしもし」
既に身支度を終え、その面影は入試で他受験生を魅了した時を彷彿とさせる。
——
いつも通りの気の抜けた声を聞くと、つい十数時間前のことが夢想世界のような、どこか非現実的な感覚を帯びて記憶の中で蘇る。
けれども、そこには幻舞に敗れたところまでしか残っていなかった。気を失ったとしても、どうやって自分の家まで帰ってきたのか。一瞬、背筋が凍った。
——千鹿ちゃーん、聞こえてるー?
「あぁ、ごめんごめん。買い物だよね。十一時に迎え行くから待ってて」
——やったー。千鹿ちゃんもおしゃれしてきてねー。じゃあねー。
電話が切れた。
千鹿は今の格好を姿見で見て、ため息を溢す。
対して千鹿は、「動きやすさ」や「機能性」を重視している。——もしかしたら、少しだけでも動くかもしれない、なんて彼女らの頭の片隅にすら未来永劫現れないようなことを考えて、スカートなんて履いたことがないし、靴はいつも多少バネのあるスニーカーである。
けれども、それがイコール「ださい」なんてことはない。「おしゃれ」かどうかは別にしても、彼女の格好は非常に似合っているし、何より「可愛い」。
なぜなら、あれだけの注目を浴びたのだから。
世間一般に見ても、彼女の容貌は、流し見の視線も一度停止されるだろう。もしくは、一度通り過ぎた視線を今一度戻し見るだろう。それだけの魅力がある。
八時十分、千鹿は少しばかり早めに家を出た。結局、「おしゃれ」はしていない。
まだ低い太陽の位置に対して、もう長袖は着ていられないくらい暑い。
牛舎の横を鼻をつまみながら歩いたり、けたたましく走る車の上を跨いだり、はたまた、高架下で涼んでみたり、三十分ほど経っただろうか。真新しい道路が横を通る墓地に着いた。
「まだ発表はされてないけど、合格の報告に来ました。おじさんがどれだけ凄い
用事を済ませた千鹿だが、腕時計に目を見やるもまだ九時を回っていない。撫子の家までの時間を考慮しても、まだ一時間以上の余裕がある。
周辺を散策していると、先ほどまで噂をしていた幻舞が歩いているのを発見した。千鹿が来た道のちょうど逆、撫子の家の方向から徐々に逸れていく道をただ一人で歩いていた。
——遠回りにそこを使えば時間の調整が簡単のため、そのついでに形式的に備考する運びとなった。
千鹿は、幻舞の後ろ数十メートルを純白を取り繕って歩いているが、そこは障害物の何一つない一本道の農道。さらに、前を歩くのは日本屈指——彼女の中で半ば確信的に予想している——の魔法闘士。気づかれるには、あまりにも条件が揃いすぎている。だからこそ、寄り道のついでという予防線を張っているのだろう。
気づかれることを前提に、あるいは、一悶着によって何かしらの情報を拾おうと、それが無理でも、時間の浪費には事欠かないと、考えているかもしれない。
墓地から二キロメートルほど歩いた。少し前から、建造物の数が明確に増している。周辺の景色は一変しているが、二人の位置関係は全く変わっていない。
途中で、車の中からじろじろと見られることがあった。
傍から見たら、喧嘩中のカップルと微笑ましく妄想しても不思議じゃない。そう錯覚されている分には問題ないが、千鹿をストーカーと間違われていたら——実際にストーカー紛いのことをしているのだが——、今こうして歩いている時間よりも生産性のない時間を過ごしていた可能性を否定できない。
店先に並ぶ小集団が千鹿の視界の中で大きくなっていく。——撫子と一緒に食べようかな、構ってもらえないことに飽き飽きし始め、次に出てきたのは食欲だった。
朝食を食べずに約一時間も歩き詰めでは、さらに、近所では有名な農家が経営するスイーツカフェの前を通るとなれば、千鹿のお腹も正直な声を漏らす。
開店時間の十時まではまだ少しばかりある。列に従うことも考えたが、そこは売り切れ必至の店ではないため、また戻ってくることにした。
幻舞も幻舞で随分な距離を歩いている。これから用事なのか、墓地あるいはその周辺で済ませた帰りなのかはわからないが、定期的にこの距離を歩くのは流石に骨である。この先には、質素は住宅街くらいしかない。いつも見ている景色とほとんど同じだ。
これ以上は何も得られることがないし、それこそ、この上なく生産性に欠ける時間を既に過ごしている気がした千鹿は、風早家の人間が眠る墓がある自然が繁茂した丘を遥か正面に見て、先ほどの店まで来た道を引き返すことにした。
その大きさが彼女の好奇心を裏付けしている。
枠外まで埋まっている駐車場を抜けると、それはあった。営業中の幟が元気よく靡いているが、大した時間はかかっていない。色とりどりな菖蒲の押し花で綺麗に飾られた時計が、開店時に鳴らす可愛らしい放送の終わりが丁度聞こえた。
この店の看板でもある少し高い声の持ち主は、千鹿の知っている男性だった。
「いらっしゃいませ」
「えっ!?」
思わず声に漏れるが、千鹿の一方的な面識を理解されるはずもなかった。
「どうかなさいましたか?」
「すみません。なんでもありません」
すぐに平静を取り戻し、撫子の好きなマクワウリのプリンとカボチャの羊羹はまだその季節ではない為、この時期に人気のあるほうれん草のケーキと八朔のゼリーを注文した。
撫子の家までの足取りは思いの外軽かった。ここまで何キロと歩いた分の疲労を全て忘れたみたいに、今にも飛び跳ねそうなくらいショッピングの楽しみにしていた。
ここ数ヶ月は受験に根を詰めていた為、気晴らしという気晴らしが出来ていない。やっとのことで訪れた鬱憤を解放する機会に、千鹿は、自分がそれを待ち侘びていたのだと初めて気がついた。
日用品や食材意外の買い物は、撫子に誘われない限り行くことはない。別に嫌いというわけではないし、別に節約の鬼というわけでもない。むしろ出かけることは好きなのだが、特別欲しいものがないだけである。
眺めるだけ眺めて、一切手に取らずに帰っていけば、当然、不服な眼差しを向けられる。たとえそんなことがなかったとしても、こちらで勝手に捏造してしまうのだから同じである。
それ故に、撫子に理由付けしてもらえるのは非常にありがたい。
名に恥じぬ明朗なお嬢様然とした撫子からは、身に纏う服のせいか、普段とは違うどこか優雅な雰囲気も漂う。その実、ただただ短絡的で無鉄砲なだけの性格はうまく擬態している。
しかしながら、それはあくまで見掛け上の話に過ぎず、彼女が一言発すれば、彼らは自らの縄張りで堂々と構える。
「おはよー、千鹿ちゃーん!」
「おはようございます、
撫子と共に出迎えにきた執事と思われる初老の男性に紙袋を手渡す。その中には産地直送の野菜を使用した絶品スイーツが入っている。
「ありがとうございます。中で一緒に食べていかれますか?」
「はい。お邪魔します」
撫子の支度が終わっているかどうかに関係なく、図々しくも千鹿は元よりそのつもりだった。
その家柄も相まって大仰なことのように見えるが、彼女にとって第二の実家なのだ、そこに礼儀はあっても遠慮はない。
カウンターキッチンを挟んで、ケーキを切り分けるほんの短い時間だけ、包丁がまな板を叩く音が心地よく耳に届く。
千鹿たちが座っているところの頭上には、幼少期から撮り溜められた撫子の写真が大きな額縁に所狭しと敷き詰められている。
十年前に完全に現役を引退した蒸気機関車と並んでいる写真。
満面の笑みで苺を頬張る母子と、その奥で渋い表情を浮かべながら食べる者たちとが絶妙な対比になっている写真。
同じくらいの歳の少女二人が両脇で弓を持ち、中心で剣を構える武芸中の写真。
当然、千鹿の知らない彼女の姿も写っている。
橙よりも少しばかり黄色いゼリーを口に運びながら、そこは初めて触れたところだった。
撫子は性格的にもあまり自身のことを話したがらないし、今の執事は十年前にここへ来たため、それ以前のことについては聞けずじまいだった。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「はーい」
たかだか数時間離れるというだけで、心苦しそうに見送る執事と、それを気にも留めない様子で、声高らかに答える撫子。
「千鹿さん、お嬢様をよろしくお願いします」
深々と頭を下げる執事も含めて見慣れた光景を前に、千鹿はもはや声の一つも出ない。
当然ながら、侮蔑の類ではなく、そこまで心配になる同士への同情を捧げ、家を後にした。
「もー、ミツグはいつも大げさなんだよー。ねー、千鹿ちゃん」
その隣で、他人の気も露知らずお気楽かつ能天気に不満を垂れる渦中の撫子。
電動バス——乗客一人一人が大まかに施設を指定し、
休日の昼時たらしく賑わうショッピングモールの三階を歩いている。フードコートが混雑する時間を避けるため、少しばかり早めの昼食をとることにした。
とはいえ、寸前に軽食を挟んでいる二人の腹が欲するのは、学生に人気の安くて美味しいファストフードでもなく、ボリューミーな海鮮丼でも、見た目のいいパンケーキでもない。質素にサラダとジュースを口にするだけで十分だった。
ちょうど食べ終えた頃、ぞろぞろと押し寄せてきた人の波をかき分けながらそこを後にした。
アパレルショップが始めから終わりまで並ぶ二階を散策しながら、ふと目についた女性ものだけを取り扱う店に入る。
計画的に行動するはずのない撫子と、普段はそんな彼女を実質的なエスコートする立場にあるが、買い物の際に限りその責務を免れる千鹿。いつも行き当たりばったりに入店しては、即購入したり三十分も悩んだ挙句に何も購入しなかったり、しかしながら、その時間が楽しいのもまた事実である。
「千鹿ちゃーん、これとかどうかなー?」
鏡に向けていた身体を回転させて、手前で合わせているワンピースの是非を千鹿に委ねる。
「……これ、被ってみて」
壁に掛けてあった麦わら帽子を無抵抗な撫子の頭の上に置くと、それは、印象を逆転させる程だった。その奥から覗く空色のワッフル袖が本来の印象から多少歪ませて伝えているが、微かに残していた「あどけなさ」が姿を隠し、厚底のサンダルが身長を偽ると、もはや、子供が背伸びをしているようにすら見えない。
——綺麗……。砂浜とか似合いそうだよ
——えへへー、ほんとー?
——ダメダメ、もっと上品に笑わないと
二人は会話の端に笑みを溢しながら、撫子はそれら二点を、千鹿は珍しく薄手のカーディガンを手に持ち、レジへと向かった。
「こんにちは。商品をお預かりします」
一七〇センチメートルを超える長身に、線の細いモデル体型。そして何より、女性としては少し太いかっこよさの残る声質。
「うふっ……。昨日は大変お騒がせ致しました」
何かに気づいて目を丸くする千鹿を前に、女性は接客口調のまま、気持ちばかり声を柔らかくする。
「あー、月島三兄弟のお姉さん!」
撫子が一足遅く、口に出して大きく驚く。それに反応した客や店員が一斉に振り返り、
「皇さん、ここではもう少し静かにお願いします」
その後で、撫子に対しても取り繕い気味に静止した。
「あっ、ごめんなさい」
言われて、自分が騒がしかったことに気づいた撫子は、急いで謝罪した。
目の前で何の躊躇いもなく頭を下げる皇女に、自身の思い描く彼らと遠くかけ離れた姿に、居心地が悪くなり一瞬の間を置いてからそれを受諾した。
撫子は、一般人に似た価値観を植え付けられて育った為、お金の浪費癖だったり、常識を逸脱したような傲った態度だったりは持ち合わせていない。
「本日はご購入ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
世間的にも恋愛形式の幅が増えた昨今、浮き足立つ彼女とそれを鎮める彼女、二つの背中を見送る視線はとても和やかなものだった。
「次どこ行こっかなー。千鹿ちゃんはどこ行きたい?」
「じゃあ、久しぶりに——」
ゲームセンターの前を通りかかった時、——ドッゴーン、爆発音にも似たもの凄い音が施設全体を包み込んだ。その次に、立っていられない程の振動が支配する。
「撫子、私は下見てくるから、この階の人たちお願いね。何かあったら連絡する」
千鹿が、二階の吹き抜け部分から降りる前に様子を伺うと、現場は一階の正面玄関だった。左右のカフェの看板が見切れるくらい砂埃が上がり、ぞろぞろと人の群れが遠ざかっていく。
バスターミナルが真裏にある関係上、ただでさえ人気の少ないところに、さらにその人までもがいなくなった。しかしながら、数人の影だけがその奥に残っている。
その時だった。——ドドドドドンッ、銃の連射音が耳に届いた。
「…………もしもし——」
ただならない空気を察知し、ひとまず撫子と連絡を取ろうとしたが、無情な機械音と共に切られてしまった。もしかしなくても、何かあったという伝言に違いない。
平和の輪郭〜strikers〜 藤田さい @S41
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