火と水 5

 記録的な大熱波を引き起こした魔法大戦から一世紀余り。海面が約百年で一、五メートル上昇していることを受けて、数年前より一部の魔法闘士が先導してあるプロジェクトが立ち上げられた。

「海中移住に伴う魔法の永劫発動化」。地上と同じ環境を海中に作るという至ってシンプルかつ非現実的な計画に多方面から注目を浴びている。

 現在の魔法技術では、観測されているもので発動時間の最高が十日間、発動規模の最高は旧地図の日本を覆い隠す程度。さらに、その二つと威力を合わせた三つ——規模と威力は時として同義に扱われるが——は相対的関係にあり、何か一つを集中して向上させると、他の二つがそれに合わせてパフォーマンスを低下させることは、幾重にも及ぶ研究の末に覆しようのない絶対的事実として広く認識されている。

 永劫魔法、さらには海中移住ともなると、地図を埋め尽くす程の魔法を永続的に発動させることになる。その間を塞ぐ壁はもはや両の手で収まらない。

 鼻で笑われてきた惑星間移住なんかはかなり本格化している現状にあり、もはや冗談の域に身の置き所を持て余しているのは、その影響を鑑みるにわかりやすい指標である。

 また日常でもその影響は芳しく、場所によっては平均気温が十度も上昇していると云う。

 

 三月上旬、ちょうど暦上の春を迎えた頃、全国七箇所に鎮座する魔法闘士育成機関が毎年合同で行う入学試験が、夜の静けさの中に殆ど同時に幕を下ろした。今年は例年に比べてレベルが高く、いずれも遅くまで盛り上がっていたみたいだった。

 陽が照りつける内も比較的静かな住宅街を、二人の少女が例に倣って歩いている。桜が姿を見せていても、辺りの暗闇が相乗して、吹き込む風はやや肌寒さを残している。

 両手を口元に持ってきて吐いた温かい息を、摩擦熱と共に手の平に擦り付けたり、両腕を身体の前で交差させて必死に二の腕を摩ったり、隣の千鹿が薄手の春用コートを申し訳程度に羽織っているのに対して、撫子はこの時代において寒がりが過ぎるところがあった。

 これは千鹿が暑がり、もしくは撫子が薄着というわけでは決してない。

 学園の校門から、道中少しの間も、何人かの生徒がすぐ近くを歩いていることがあったが、大気中の魔力をエネルギー源に発熱する魔工具ルーンを懐に入れる者はいても、そこまで大げさに身体を温めるのは撫子の他にいなかった。

 しかし、千鹿がそれを目にかける様子は全くない。気づいていないわけではく、かといって変に気遣っているわけでもない。これが、彼女たちの日常だった。

 ——寒いねー、無意識に口から漏れる独り言に合わせて、まるでそれまでもが諸々の所作の一部みたいに撫子が訊ねる。

「千鹿ちゃんってさっきの受験生知ってるのー?」

 再試験時、千鹿はずっとステージ上に意味ありげな視線を送っていた。ただ、それと同時に試合に観入り興奮しているその横から、無粋な質問はかけられない。

「名前と顔だけは、いや、あとむかつく性格は知ってるけど、それ以外は何も知らないよ」

 幾ら近しい間柄でも他人の魔力情報までは知り得ない。だとすれば、出生等は抜きにして人間の概ね全てを知っておきながら、わざわざ強く否定してみせたのは千鹿の幻舞に対するただならぬ思いからだった。

「クーのおうちはここ!」

 ——じゃじゃーん、稚拙というべきかあどけないというべきか、自らの口でサウンドエフェクトを鳴らす撫子は、白塗りの家——暗さ故に、瞳には若干の灰色を帯びて映るが——の前で腕を大きく広げてみせる。それは、想像に易い王族や皇族の家とは程遠いごくごく普通の一軒家だった。

「なによ急に」

 千鹿は、第二の実家に等しいその家にはもはや疑問は湧かず、それよりも撫子の言動に理解を示せなかったことに、悔しさと強がりを均等に配合して滲ませた。

「ねーねー、他になにが知りたいー?おとーさん?おかーさん?」

 ——あぁ、そう言うことね、心の中で相槌を打ってから続ける。

「あんたのことは嫌というほど知ってるよ」

 自分自身に強く言い聞かせるように、あるいは、この後の純粋無垢な返事も千鹿の頭の中には描かれていたのかもしれない。

「えー、千鹿ちゃんクーのこと嫌いだったのー?!」

「そんなわけないでしょ。じゃあね」

 口だけで返したくらい反射的に、そのまま別れの挨拶を確かな慈愛と憂慮を以って告げると、撫子に黙殺された。

「うーん……クーの先祖はだーれだ!」

 意地の悪い質問を、けれどもどこかで聞いた覚えがあった千鹿は、瞬間的な苛立ちに己の弟を凌駕する程の高速回転で思考を巡らせ、そして答えには辿り着かなかった。時間を惜しいんでか単に面倒臭がってか、彼らは一切そこに上がらず、あくまでも辿り着けなかったのではなく辿り着かなかった、という方針で彼女の中で討論会を終えてから我に帰った。

「……さあね。そんなことまでは知らないわよ」

「正解はね、ス——」

「いい、いい。風邪ひくからとっとと家に入んな。じゃあね」

 今度はそれを口に出した。

 しかし、撫子には微塵も届いていない。

「……じゃーね」

 普段よりも少し短めに別れを告げた撫子は、遠のく背中を哀愁の眼差しで見つめた。

 扉の開く音と閉まる音がそれぞれ一回ずつ、いつもより歩いてからそれらを小さく認めたのは、千鹿にとっても形容し難いところだった。

 徐に踵を返す。頭から。

「さてと、忘れ物を取りに戻りますか」

 撫子の姿なき門前を通り過ぎ、その爪先は先刻までいた学校へ向いている。


 校門より十分ほど歩いたところで、傘が垂れる特徴的な髪飾りが刺さっていないことを撫子に指摘された。その場で戻れば、十中八九、いや百パーセント付いていく言うに違いなかった為、——途中で外れちゃったから、着けるの面倒臭いし鞄にしまっちゃった、無邪気さと後ろめたさとの押し問答を数分間耐えた後、やっとのことで帰路につくことが出来た。

 撫子が嫌いとかではなく、単純な話で、夜も遅く冷え性の彼女を早く帰したかった、という千鹿のいやらしくも無自覚な恋人的発想ゆえの言動だった。

 ——あの間に取りに戻れたような気がする、なんて一言一句丁寧に思い返していると、その脚は門前に来ていた。

 途中からは魔力を行使せずに疲れない程度で走ったため、おそらく二キロ弱を十分といったところだろうか。そこから、忍ぶようにして同じ時間をかけてあの部屋の前までやって来た。

 取手に手を掛け、一息いてから静かに開ける。千鹿は、外気の冷たさに隠れていた熱が再起するのを感じ、一縷の躊躇いもないくらい大胆に上着を脱ぐ。

「あっつ……もうこんな時間じゃん。早く見つけて帰ろう」

 その狭間で、ふと目に映った時計の針はちょうど七時を指していた。

 すぐ近くの観戦していた座席周りを見てみてもそれはなかった。変に連れ回されたせいで、捜索範囲は展望テラスの半分に上る。

「魔法を使うわけにはいかないしな……」

 千鹿が、広い展望テラスを眺めながら呟く。

 魔力の知覚は、この学園に入学する最低条件みたいなものだ。ましてや、それを教え広める立場の人間が出来ないはずもなく、この場で魔法を行使することは侵入者の存在を気づかせるに他ならない行為だった。

 試験に合格した時点で、卒業するまでは人工的なセキュリティシステムに弾かれることはないが、如何なる機械をも凌駕する魔孔感覚——手の平に多く存在する魔孔は、魔力を体外へ排出する、いわゆる弁のような役割を果たすと共に、多種多様な状況にある魔力に触れることで、相乗的に感知と識別能力を高める——があるこの学園内において、あるいは、街中に行けばその倍はあるかもしれないが、いずれにしてもそれは時と場合を慎重に選ぶ必要がある。

 ——ん……?、何やらステージ上から声がする。言葉を読み取れるほどの声量ではなく、四つん這いの状態で顔を見ることもできないが、それが一つでないことは声質から分かった。

 千鹿は視覚を遮断し、片耳に意識を傾ける。

 段々とその声が明瞭化していき、やがてはっきりと聞こえるようになった。

「さすがに、少しも溢さないようにやるのは時間が掛かるわね」

 そう。これは、単に意識によるものではなく、魔力を用いた身体能力の強化である。

 基本性質を汎用した魔力制御技術の一つ、“聴覚補助”。聴覚器官に魔力を集中させることにより、工夫も何もなく、量がそのまま聴力の強化に直結する。

「私は今日、軍の人間としても来ててね。ちょっと読ませてもらうよ」

 なによりも穏やかな声からしても、学生で軍に所属している点からも、その主はかえでだとすぐに分かった。

 楓は懐より奉書紙を取り広げると、何もかもが違う言葉遣いに戸惑いながら、一音一音丁寧にカナを振るみたいに読む。

「お前のことだからもう分かっていると思うが、一応自己紹介をさせてもらう。日本闘士軍第一支部長 鳳 勇おおとり いさむだ。名目上は責任者の立場から書いてるんだが、俺とお前の間柄だ、あえて硬い言葉は避ける。

 さっきの試験はちょっとだけ細工をさせてもらったよ。広代こうだいのことをお前が勘違いするのは、俺としても思うところがあったんでな。

 ちなみに、試験内容については楓に言ってくれ。一任してたから俺も知らないんだ。

 そこで一つ、俺からちゃんとした試験を用意した。軍に戻って来るかどうかを見せてくれ。

 お前には意地でも戻ってきてほしいんだが、公平に公平にってこの実力社会で有名無実な言葉をひけらかす凡人が多くてな。とはいえ、お前の実力はもはや測るまでもないから試験内容は単純明快だ。

 楓を無傷で倒せ。

 いい返事を待ってるぞ。ゲン」

 ——パタッ、威厳を全く感じさせない奉書紙が床に落ちる。その隣に楓の姿はない。

「っ!ちょっ、離してよ」

 幻舞の顔のちょうど横で足が止まっている。

 もとより試験内容を知っていたみたいに、読み終えるとほとんど同時の虚をついた攻撃だった。しかし、それは幻舞のではなくあくまでの。

 佐官軍人ともなれば、そこには得手不得手の大別すらもない脚力強化さえ荒く拙い、まるで身に余る得物を大喜びして振り回す子供みたいに、楓本来のそれとはかけ離れた代物だった。

 その後に出た声のなんと覇気のないことか。他人ひとのことを言えたものではない。

「落ち着いてください。自分は会長と闘う気などありません」

 どれだけ身体を捻って抵抗しても、そこから先の血の気が引くくらい強く掴まれては逃れようがない。

 これで闘う意志を見せていないと云うのだから驚きである。けれども、そこに棄権やそういった類の黙示はなく、この試験が無傷で倒せるかどうかとは別のところにあることを幻舞は理解していた。

 そして、それは楓も同様であった。

 どう足掻いても、傷一つ付けられないことは分かっていた。死を易々と感じさせられたことに恐れ慄き、冷静さを欠いた自分の至らなさと、なによりも、自分が一番理解しているそれをわざわざ言われたことに、そして、後輩せんぱいの傲慢な態度が追い討ちのように相乗して、楓の憤慨はとうに理性を置き去りにしていた。

「私と闘いなさい!月島 幻舞!」

 一本、また一本と、二〇センチ四方の地柱が蜂の巣でも作るように鋭く襲い、幻舞の拘束を解く。また、悉くをすんでで躱す幻舞は、他のところに頭を置く余裕すらあった。

「さっきも言ったじゃないですか。闘う気は全くありません」

 それは白髪の先を掠めることもなく、訓練場に無慈悲な窪みだけを魔法の発動と同じ空白を残して作っていく。

 これが直接的に力量の差を測る材料にはなり得ないが、どちらが上かを見るには十分すぎた。

 一方で、細心の注意を払って発動した“聴覚補助”が水の泡になり兼ねない状況に、千鹿は静かに怒気を溢していた。

「さすがに、こんな大きな音出したら誰か来ちゃうんじゃないの?!」

 何度か対面した際の楓からは想像もつかないような怒声が徐にエスカレートしていき、それに合わせて千鹿は周囲の警戒を強めていく。とは言っっても、その際も魔力を垂れ流す訳にはいかない。とどのつまり両耳のそれと“嗅覚補助”のどれほど神経をすり減らすことか。

 苛立ちと貪欲的な向上心とのせめぎ合いの最中、千鹿は一つの境地にたどり着いた。

 澱みのない澄み切った白塗りの空間と鏡張りの如く銀色に輝く空間とで二分されたちょうど狭間に立ち、彼女は聞いた——。

「避けるばかりで、なんで何もしてこないのよ!?」

 それは、もう一方からの声だった。

「だからさっきから言っているじゃないですか。自分はあなたと闘う気はありません」

 反撃は愚か、受ける姿勢すらも見せない幻舞は、未だ無傷である。

 勇の提示した試験の意味するところは、言っていたその通りに実力の裁量ではない。受けるか受けないかの意思を見るためのものだ。彼は未だそれに応えていない。

「じゃあなんで避けるのよ!?」

 訓練場の床に出来たクレーターはその姿を隠し、礫によって付けられた細かな傷が修繕の魔法と戦っている。

「あなたはそんなことをされて喜ぶ人間ではないと思います。直感ですけど」

「あら、そんなことないわよ。一千年に一度の天才さんに土下座でもされたら、いくら私だって手を引くよ」

 不敵に笑う彼女の奥底で見え隠れする野心が、幻舞の見立て通りの彼女を象っていた。

「わかりました。……では、本気でいかせていただきます」

 幻舞は一度展望テラスに首を向けた。それは、千鹿が隠れているほうだった。

 鍛え上げられた体躯から溢れ出す魔力はとげとげしく、先程の殺気を何倍にも圧縮したような濃密でコストパフォーマンスのとても良い威圧感を、楓は自らの死を以て脳裏に深く刻み込んだ。

「これが……最年少将校特士官月島 幻舞つきしま げんぶ

 

「ただの様子見で済むと思ったんだけど、これは想定外だね」

 突然、千鹿の背後から声がした。それは歪な温もりで紡がれた、喜怒哀楽懼欲愛怨のいずれにもいない不気味な声だった。

 半身の状態で最下段の手摺り壁に片耳を添え、実践経験のない中学生が初めてセンシティブに魔力制御していたとはいえ、周囲の警戒も出来ないほど彼女は魔法技能に劣っていない。この場合は、素直に彼らのそれを称賛すべきだろう。

 千鹿が恐る恐る振り返ると、目の前にはおそらく二回ふたまわりくらい年上の男が、それに肘をかけもたれながら顔だけを向けて立っていた。模範的なまでの死角の位置だった。

 とはいえ、もし壁に背をつけていたとしても、頭上の手摺りに腰を掛けたり、もしくはその上で仁王立ちでもされる気さえ覚えた手前、千鹿の格付けにも見栄はなかった。それは、前提として当たり前の教師と生徒の優劣関係だった。

「あ、あのっ、これは、その……すみませんでした」

 必死に言い訳を探したが、とうとう何一つとして思い浮かばなかった千鹿は、観念したようにそのまま頭を下げて謝罪する。

 予想外の反応に、男は苦笑の滲んだ顔で千鹿の思考を先に見て応える。

「違う違う。僕は教師じゃなくて、うーん……回収業者、かな……?」

 言い終える前に、その腕は千鹿を抱えていた。——なにを?、当然の疑問は吹き抜けの空中に投げ捨てられた。間もなくステージ上に降り立った男は、同時に小脇の彼女を落とす。

「おじさん、来てたんですね」

「本来ならそのまま帰るだけだったんだけどね。お金は先にもらっているし」

 幻舞の白々しい声音や表情に、初老男性は慣れたような黙殺だった。

「すみません。……それで彼女は?」

 けれども、この謝罪が実質的な意味を持っている限り、あるいは——

 ところで、彼の興味をそそるに十分すぎる程の事象がそこにはあった。幻舞は、降りてくるこの瞬間まで千鹿の存在を認識できていなかったのだ。

「あぁ、上で拾った。そうだ、拾ったっていったら……はい。こんな危ないもの着けてないほうが千鹿ちゃんは可愛らしいよ」

 少しばかり膝を曲げてその大きな手を優しく差し出す男性は、誰よりも気さくなおじさん然としている反面、幻舞との間では意味ありげな視線が交わされている。

 純白な親切心の上に乗せられた髪飾りが、正しくはその端についたキーホルダが、無邪気な音を鳴らす。——このおじさんは悪い人じゃないよ、とでも可愛らしく喋っているみたいに、それと同時に全てを見透かしたような男の眼に、千鹿は反射的に悪態をついた。存外な嫌悪感を抱いたみたいだった。

「ご忠告どうも」

 激しく奪い取る千鹿に代わって、それは何度も謝意を述べていた。

「じゃあね。お二人さん」

 男性は閉まっている最中の天井に一跳びで着地してから、そのまま春宵の静かな光に呑まれるように二人の視界から姿を消した。先ほど千鹿がいたところに今度は、楓が垂れるように抱えられていた。

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