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「うーん……」


 なんやかんや言いつつも、読み始めると時間は加速度的に過ぎていく。

 目の疲れを感じ、「今日はここまでかな」とアケビは〈祝福〉を終わらせる呪文を唱えた。大量に出現させていた画面は一瞬のうちに消え、部屋に時間相応の落ち着きが戻る。

 

 息を吐き、整えたベッドの上に転がって大の字になる。頭がずっしりと重かった。


(……まだ朝まで時間あるなー)


 仕方のないこととはいえ、起きた時間が時間なせいか、朝にはまだ遠い。夜型の友人たちはきっとまだ夢の中だろう。その寝姿に思いを馳せて、アケビの口元はほころんだ。


(それだけみんな頑張ってるってことですからねえ)


 起こすようなことはしないが、さりとて暇は暇。心なしか空腹な気もするが、朝食の時間まで待てができる程度には分別がついているつもりである。

 ――散歩でもするかな。

 そうと決まれば話は早い。

 アケビは起き上がってサンダルを履き、部屋を抜け出した。


 とんでもない広さを誇る豪邸は、当然のように部屋数も多い。居住スペースに数多ある空室――その中でも最高ランクである来賓用の部屋をバロンはアケビたちに自室として一人一部屋ずつ提供した。

〈選ばれし者〉という立場から考えれば当然のもてなしなのかもしれないが、アケビにとってはいきなり自分の部屋がホテルのスイートルームになったようなものである。

 とどのつまり、手に余るほど広かった。


(あたしの部屋の何倍……てかうちのリビングより広い部屋とか慣れるわけないない)

 

 部屋の中のものは自由に扱っていいと許可は出ているが、下手に触るのが怖いという庶民的な考えからアケビはほぼ寝て起きるだけの部屋として利用している。

 研究者気質の友人カイは図書館から拝借してきた書籍を堂々と持ち込んで私物化したり、工芸大好きな友人マヒロは部屋でも夜な夜な何か作っているようだが、これは例外だと思いたい。


(きょうの朝ご飯はたしか七時半から……)


 傍らに〈魔導具〉でスケジュールを表示させながら庭に向かう。

 寝間着のままは行儀が悪いかもしれないが、現在ここに暮らしているのは、ある意味家族より近い距離の仲間たちだけだ。いいのか悪いのか、ここまで来ると、今更恥じらうようなこともなくなった。


(屋敷の外に出るわけでもないし、顔は洗ったし、罪犯してるわけでもなし)


 朝の散歩なんてそんなものだろう。下ろしたままの髪を手櫛で撫でつけながら、微風が身体を通り抜けていくのを感じて頬がゆるむ。


「……やっぱり違うんだよなあ」

 

 この世界の〝朝〟が抱く静謐さは、元の世界のものとは異なっているようにアケビは思う。


〈魔法〉という概念が存在するからなのか、この世界の朝や夕方はが違う。酸素を取り込むたび、身体の中が造り変わっていくかのような――不思議なエネルギーが体の内側に蓄積されていく感覚。これが〈魔素〉を取り込むということなのだろうか。

 外の世界と隔絶された、その場特有の空気を味わっているような、そういう感覚がこの世界では常に感じられ、特に朝はそれが強かった。

 

(朝ごはん、なに出るのかな~)

 

 今日の朝食は当番ではなく、バロンが手配したものが出される予定だ。

 基本的にアケビたちのスケジュールは家の中――バロンの邸宅内でできることに限られており、週の大半は自分たちで当番を決め、一日の食事を用意している。

 召喚されて一週間ほどはバロンがすべて手配してくれていたのだが、入れたりつくせりにいたたまれなさが勝ち、気づけば全員でやれることを分担する方向で話が進んだのだ。


「まあ、なんていうか、みんな手持ち無沙汰に耐えられなかったんだよね……」


 悲しいかな、贅沢に過ごす権利を得た子どもたちはそれを享受し続けられるほどの度量を持ち合わせていなかったのである。


(そもそも、今までは学校行ったり時間潰せてたから、単純にそれがなくなったのも大きいんだけど……人間って習性を簡単に変えられない生き物だから……学生は常に動かないと死んでしまうので……)


 心のなかでつらつら言い訳を並べてみるが、単純に、暇に耐えられなかっただけだ。

 姉が知ったら「マグロじゃん!」と大笑いされそうではあるが、実際そうなのだから仕方ない。

 

 厳正な話し合いの結果、全員で家事を分担し、余った時間は自由時間に――とはいえ、コミュニケーションを取るために誰かと過ごすことが専らではあった。だが、数ヶ月も経てばある程度腹を割ってしまえるもの。

 最近は単独行動することも多くなり、ハンモックでの昼寝もその余裕から生まれたのだ。


 手入れされた植物が朝露に濡れている様を横目に、肌で感じるを頼りに足を進める。


「おっ、いたいた」

 

 朝の濃度が強くなる。鼻をくすぐる、青っぽいけれどどこか爽やかで穏やかな香り――目的地に到着したのだとすぐにわかった。


(いつ見てもきれいだなあ)


 ありとあらゆる生命力が今、この一箇所に集まっている。濃縮された生命を、アケビは体全体に感じていた。

 蛍の光のような淡い光が

 それは雨粒が逆流していくような奇妙な光景だった。けれどなぜか、アケビはそれを当たり前のように思えてしまう。

 大気に含まれた〈魔素〉を取り込み、精霊の庇護を受け、奇跡を顕現させる力。

 おなじく〈選ばれし者〉であるアケビたちも同じことができるものの、やはり精度と規模は断トツで『彼』が突き抜けていると嫌でもわかる。

 

 淡い光の中心――そこには、少年が宙に浮いていた。



「……ああ」


 黙していた口が、閉ざされていたまぶたが開く。硝子のような瞳がこちらを射抜いた。

 色素の薄い髪、透明感のある白い肌と薄く色づいた頬、薄桃色の唇。そして、少女と見間違えるほど可憐な――中性的な顔立ちと、華奢な体躯の少年は微笑を浮かべる。


「やっぱり。アケビちゃんだった」

「おはよう、セイくん」


 朝を迎える前のぼやけた世界の中、彼が佇んでいるその場所だけがやけに輝いている。

 アケビと同じ寝間着姿の彼は、地面へ降り立つと、ゆったりとした足取りでアケビのもとへやって来た。


(本当、いつ見てもきれいな光景)

 

 何度見ても見飽きることがない、とはこのための言葉だと思うくらいだ。

 彼が一歩足を踏み出すたび、その足元にある緑がひときわ青々しく、生命力を増していく。踏みつぶされているのにまるで喜んでいるように緑は鮮度を増していく。その一挙手一投足をついつい追いかけてしまう。 

 アケビには、セイが踏みしめた『足跡』がくっきりと鮮明に映っていた。


「おはよう。『日課』、おつかれさま」


 今日もやってたんでしょう。

 その言葉にアケビは「あはは」と笑うことしかできない。


「セイくんにはお見通しかあ。気を使ってるつもりなんだけどなあ」

「〈祝福ギフト〉はね、使うと大気の〈魔素〉が少しばかり。だから、空気を伝って肌に伝わってくる」

「あー、なるほど。それならあたしにもわかるかも」

「それに僕の場合、のおかげで体調がすごく良くなってきてるから……」

「エンプティスに来て、段違いに顔色良くなったもんねえ」

「ほんとうに」

 

 セイは優しい手付きで野花を摘むと、くるくると茎の部分を回す。

 彼の手によって命を絶たれたはずの野花は、おかしなことに、彼の手の中で自生していた頃よりみずみずしく輝いていた。――生命の輝き。鮮やかなそれに、自然と目が惹かれてしまう。

 

 花と戯れるその姿に、召喚される以前の彼からにじみ出ていた病的な気配は感じ取れない。


(歩く病人って感じだったもんなあ、セイくん)


 元の世界にいた頃、彼はいつもマスクで顔の下半分を隠していた。セイの虚弱体質は有名で、学校に来ても半日で帰宅してしまうことが多く、人と話す姿もあまり見たことがなかった。

 それでもどうにかなっていたのは、アケビたちが通っていた高校が定時制だったからだろう。

 アケビが知っているのは、常に制服に着られているような状態の細い身体と、吹けば飛びそうな小さな背中だけだ。

 マスクの下の素顔をちゃんと見たのもこの世界に召喚されてからだし、バロンに掴みかかった姿を見たときは、正直、今にも倒れるのではと色んな意味でドキドキさせられた。


 フフ、とセイがいたずらに微笑む。

 

「もしかしたら、身体がずっと〈魔素〉を求めていたのかも……なんてね」

「否定できないのがこわいところだよね」


 アケビは真顔でうなずいた。

 この世界に来てからというもの、セイの体調は劇的に改善し、驚異のスピードで快調に向かっていた。今までの虚弱さが嘘のように、血が巡り、血色が良くなって、体つきも、華奢なのは変わらないが、今のセイなら制服を着ても「着られている」とまではならないだろう。


 白んでいた空はどんどん濃い青色に染まりつつある。顔に張りつく髪を耳に掛け、アケビが言う。


「今日もいい天気になりそうだねえ」

「うん。そうだね」

 

 セイはアケビの隣に立ち、じっと空を見つめる。


「――この国はずっと、いつだっていい天気だ」

「便利だよねえ、結界。天候も一定のままで安定していて、災害の心配とかしなくていいし」

「供給の安定を考えれば、必然的にそういう感じになるものね。効率的だし、元の世界と違って、茹だるような暑さもなくて、災害も土地が渇くこともほとんどない」

「農家とか生産者さんには良い環境だよね。てか、普通に住むのにも向いてるでしょこの気候。なんでこれで国がどうこうなってんだろ」

「僕らが考えるよりも政治は複雑だし、人の心もまた然りだもの。……とはいえ、〝不変の青空〟というもの不可思議なものだけれど……」

「セイくん?」


 ねえ、アケビちゃん。と、彼がつぶやいた。


「どうしてだろう。この国の空は、少しだけなようにも、僕にはみえてしまうんだ」

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